last up date 2004.08.04
19-10
ボーナス8800万円。
企業が取締役や従業員に対して自社の株式を取得する権利を与えるストックオプション制度で、グーグルの社員は株を取得して売っぱらえば、平均8800万円もの所得になるとのこと。まさにアメリカンドリーム。さらにグーグルの大将2人は、100億円だそうな。まあ世界中から優秀な人材が集まり、平均睡眠時間4時間とも言われるグーグルでは、ストックオプションは人材を引きつけると同時に、とっとと株を売っぱらって何人かで独立する奴が増えそうですな。それはそれでまたよし。
成長株ならば、ストックオプション制度は魅力的な制度だとは思う。年収数百万、年食って出世しても1000万程度で、どれだけ会社に貢献し利益をもたらしてもさして待遇がかわらない、新たに制度化されつつある発明報酬もせいぜい2000万止まりの日本企業は、優秀な人材にとっては魅力的な場所ではなくなっている。グーグルは破格としても、こんなに収入を得るチャンスがあるアメリカに渡る人材が続出するのは納得できる。もっとも、マイクロソフトなんかは安定成長期に入り、株価の上昇が利益に繋がるストックオプションはあまり魅力的できなくなってきたみたいだが。
19-09
農業輸出主要5ヶ国(G5)は、アメリカ、EU、ブラジル、インド、オーストラリア。
輸入主要10ヶ国(G10)は、スイス、ノルウェー、日本、韓国、ブルガリア、モーリシャス、イスラエル、リヒテンシュタイン、アイスランド、台湾。
19-08
「合従連合」
銀行のUFJ・三菱東京から大学の阪大・大阪外大学まで、いたるところで合併統合が協議されている。新聞を開いたら、「合併」「統合」という文字を見ない日はまずない。そしてニュースから床屋談義に至るまで、合併問題が話題に上ったりもする。が、合従連衡(がっしょうれんこう)のことを妙になまって発音している人がしばしばいるような気がする。私のあまりよくない耳には、「がっしょうれんごう」と聞こえるがどうなんでしょうか。「合従連合」と言っているつもりなのだろうか。別に、適切な言い方をしろと言っているのではなく、なんと発音しているつもりなのか、非常に気になる。
19-07
燃やすな!
今日はわりと湿度が低く過ごしやすいので、クーラーをかけずに窓をあけていたら・・・いきなり白煙が部屋に入ってくるではないか。隣のジジイ(かどうかは見えないが)が、庭でゴミか何かを燃やしてやがる。しかもこの臭い・・・木や紙じゃない。ビニールやプラスティックだ。急いで窓を閉めたがもう部屋に煙は籠もってしまう。これは、怒鳴りつけるべきだったか。こんな住宅密集地で火を焚くなんて。煙の発生位置は、私の窓からせいぜい2〜3メートルだ。私はたまたま干していなかったが、アパートの中庭を見ると、洗濯物を干している奴も少なくない。きっとよからぬ臭いが染みつくことであろう。
「こんな住宅地で火なんか焚きやがって、ふざけるな!」と怒鳴りつけたかったが、どうにか押さえた。こちらがけんか腰で怒鳴ろうと、丁寧にお願いに言っても、刺されるかもしれない。私は隣の奴の顔も見たことがない。異常者かもしれん。武力闘争に至らないまでも、逆恨みされて嫌がらせをされるかもしれない。通りすがりのクズに当たるのと違って、生活範囲を知った者同士でいざこざを起こすと、何かと後を引く。だから私は窓を閉めてコンビニに出掛け、堪えた。
だが、徐々に吸った煙の害が現れてくる。頭は痛い、喉は明らかに炎症、肺までむずがゆい。これは、ちゃんと煙が出る様子を撮影して、出来ればビニール袋に煙を入れて保管し、医者に行って呼吸器の炎症を診断書で証明して貰って、法的報復をしたいところですよ。そんな面倒なことしないけど。
だが、腹が立つ。私が明確な健康被害を受けて、損をしただけだ。例え窓越しに怒鳴りつけても、隣に殴り込んでも、多少溜飲は下ろせただろうがが喉や肺の痛みは変わらない。怒鳴りつければ、今後たき火をしなくなるかもしれないが、そういう意味ではなんか言っておくべきだったか。だが、近隣トラブルのリスクは大きい。
まったくドン百姓め。こういう輩は、自分の行為がどんな結果をもたらすか想像がつかないのだ。自分の家の窓をしめて、火を焚いて、すぐ2〜3メートル側の家の窓が開いているのではないか、洗濯物があるのではないかということは想像も及ばないのだ。それに、ビニールやプラスティックを燃やしてはいけない、というコトバを、新聞か市の広報で見たことぐらいはあるかもしれないが、「廊下を走らない」のような小学校の規則のごとき、守っても守らなくてもどうでもいいお題目程度にしか捉えていないのだ。あるいは下手をすると迷信だとすら思っている。
にわかには信じがたいことだが、迷信深い人間ほど、安全・健康・衛生・環境に関する勧告を迷信と思いたがるのだ。例えば、うがい・手洗いが風邪にかかる確率を下げるという発想を、迷信だと決めつけている人間も実在する。ИНКでは、ペットボトルやビニールを燃やすことを当然の行動だと思っている人間がかなり棲息する。確信犯的に「面倒だから、不燃ゴミも燃やそう」と思っているのではなく、本当に有害ガスが出て環境破壊する、煙を吸うと健康に悪いという発想がない。あるいは聞いても迷信だと思っているのだ。
例えば私の高校時代に釧路でもゴミの分別が始まったが、そのときに「不燃ゴミ」にプラスティック製品が入れられているのを見て、「これは燃えるだろう!しっかり分別しろ」と宣った教師を知っている。物理的に、燃焼しないものはないのだが・・・。そして彼にとって「不燃ゴミ」とは空き缶や空き瓶のことらしい。新聞やニュースを読み、この現代で生活していて、どうしてここまでバカになれるのか。
そういうドン百姓が、この大都市川崎でさえもゴミは燃やせばいいとしてプラスティックを火にくべ、その煙が近隣の家々に入り込んだり、赤ん坊から年寄りまで吸い込んでむせたり、洗濯物が臭くなったり、有毒ガスが雨になって降ってきたりするということを考えもしないのだ。日本は西欧には後れを取っている面が多いが、環境法・環境制度については部分的には結構先進的な国である。が、国民の意識がこれでは、立法や行政の努力が報われぬ。
19-06
出来ない人間同士の、「宗教」共同体
すべての学問や鍛錬と同じように語学学習の方法論もまた、宗教的である。例えば、大なり小なり「この方法で勉強すれば英語を出来るようになる」と思うからこそ、その方法で勉強をするのだが、どうすれば確実に英語が上手くなるかなどわからない。どの方法が最良か決めつけることは出来るが、出来ない人間が証明することは出来ない。証明できた段階で、すでに出来る部類に人間になっている。
だからこそ、教師や研究者、その他第一線で活躍する人間の意見を参考にし、あるいは自分で方法論の良し悪しを考え想像して、「この方法ならばいいのではないか」と思ったやり方で勉強する。結局、自分の方法論が適切か否かなどわからず、「適切に違いない」「適切だろう」という信仰によって努力を進めるしかない。
だが、語学学習の救いは、到達点がわりと明確なことである。当該言語で学術活動や仕事を出来ることが1つの大きな到達点だろう(生活できるかどうかはあまりアテにならない)。そして自分がそれなりに仕事や研究をそのコトバで出来るようになれるかという、わりと明確な目標もある(実際に、これでいいという到達点などはないのだが)。
これが何を意味するかというと、少なくともそのコトバでろくに仕事も研究も出来ない奴の意見など、最初から聞く必要がないということである。そして自分が出来ない以上は、自分の方法論を常に疑えるということである。
この意味では、英語もロシア語も不自由な私の意見を聞く必要もないし、私は方法論の模索と試行錯誤をし続けなければならないということになる。その通りだ。私も他のあるゆる人間も、大して出来もしないことについて、自分の想像する方法論を疑えなくなりがちだ。これが集団になったら手に負えない。だからこそ、こいつは大して出来ない奴だから話半分に聞こう、自分はほとんど出来ないから、方法論を疑っていこうという姿勢を忘れてはならないということだ。語学は自らを省みることが比較的容易だが、出来ない人間同士の「宗教」共同体の居心地の良さに逃げ込むのはもっと容易だ。
出来ない人間同士の「宗教」共同体とは何か。それは、出来ない人間が謙虚に方法論の模索をせず、他人の方法論の批判をするだけで何もしない連中のことである。わかりやすいので、再び語学を挙げよう。語学学習に関する話を聞いていると、巷には否定的意見ばかりが跋扈している。そして肯定的意見も建設的なものは少ない。
例えば、「中学高校の英語教育はダメだ」「暗記なんて時間の無駄だ」「文法なんて無味乾燥で、役に立たない」「こんな簡単なことを繰り返して何になる」と方法論への批判はどこに行っても耳にすることはできる。批判はそれはそれで結構なことだ。で、オルタナティブはあるのか。なかったりする。批判しただけで、た、「ムダなことをするバカ」と自分は違った人間だと示し、「ムダなことを教える教師」に従う必要がないからと言いつつ、何もしない。こういう奴は実に多い。批判だけして何もしない、結局のところ楽をしたいだけの奴は、自然と集まってくる。自分と同じような意見を言う人間同士話すのは心地よいし、一緒にサボる人間がいるのも心強い。何よりも、教師・教科書・学校といった共通の敵を叩くことは、この上ない快楽だ。
そして、こういうアホは今の方法は「ムダ」だから何もしないけれども、「いい方法」は他にあると思っている。本気になってその方法でやれば、すぐに出来るようになるとさえ思っている。けれども、差し当たって今は環境がわるい、カネがない、やればすぐ出来るから焦ることはない、と様々な言い訳をでっち上げて、結局何もしない。英語に関しては、「ネイティブと当たり合う」「外国で生活する」というのが、そのすばらしい方法としてよくあげられる。それはそれで間違いではない(必ずしも正解でもないが)。そう思うのならば、その方法を試してみるべきだ。だが、出来ない人間の「宗教」共同体は、仲間内で「こんなくだらない勉強しないで、アメリカ行ってネイティブと話さないと生きた英語が身に付かないんだよ」などと話しつつ、何もしない。
英語出来るようになりたい、外国で暮らしたい、受験に受かりたい・・・という希望を持っているはずなのに、なぜこの人生の貴重な時間を無駄にしていられるか。それはやはり、出来ない人間集団の宗教性のためである。「この方法ならば出来るはずだ」と盲信して勉強するのも宗教的だが、「こんなことやる必要ない。きっともっといい方法がいる」と言いつつなにもしないのも宗教的である。
なにしろこうした連中は、本気で「こんなやり方をやっても無意味だ」と思っている。勉強している奴を見て、軽蔑し見下しさえする。なんてムダなことせっせこやりやがって、と。そしてTOIECや英検なんかで明確な結果を出しても、そんな試験に意味はないと、やはりムダと見なす。もし勉強していた奴が、目の前でアメリカ人と英語で話し、英字新聞をスマートに読みこなして見せても、「ハッタリだ」「この程度の下手な英語大したことはない」と思いたがる。あるいは「オレが本気でやればこのぐらいにはすぐに達する」と軽く考える。それが、集団でこんなことを言い合っていたら、もう思いこみや思い上がりを払拭するのは困難になってくる。これが宗教なのだ。仲間内で、外部の「勉強している奴」を貶め、「自分達はこういう風にすれば出来るようになる」と簡単に言う行為は、同じ世界観を共有・維持するための儀式と言ってさえ過言ではない。
だが、こういう人間もいずれはわかる。自分が空っぽで、何もできない人間であることを。何かをしようと思ってもなかなか出来ない、大して才能もない人間であることを。こうなったとき彼らが真剣に勉強しようと思ってとる方法はなにか。それは自分達がバカにしていた「無意味な勉強」である。それも、あまりにも薄っぺらい、それこそ「無意味、無味乾燥ではないか」と言いたくなる方法である。なにしろ、方法論を構築してこなかった人間には思いつく方法論とは、自分のステレオタイプ以上のものではないのだ。それでも勉強して勉強して、やりながら方法論を模索していけば、少しは出来るようになっていくかもしれない。が、出来ない人間同士で他者を貶めつつ、自分がすばらしい天才であるかのように思いたがっていた時間の無駄は、どうしようもない。だからこそ、常に謙虚に努力を、あがき続ける覚悟だけは保持していたいものである。
19-05
「社交的な人間」と「弱い絆の強さ論」
学校でもバイト先でも会社でも、四六時中大声でここそこの人間と楽しそうに話している人間を見て、大抵の人は「社交的な人間」だと言うだろう。少なくとも、私のような、気に食わない集団に於いては必要な事務連絡と最低限の挨拶以外は一切口にしない人間よりは、随分と「社交的」に見えることだろう。ただ、こうした人間が、どこに行っても同じように、あるいは違ったスタイルを使い分けて、新しい場所でも新しい人間とうち解けられるかと言えば疑問だ。
私は、場所によっては「まったくしゃべらない、よくわからない奴」だったり、正反対に「くだらないことをよくしゃべる、やかましい奴」だったりもする。気さくに話している様子が「社交性」を表すのならば、私は「社交的」であり、「非社交的」でもある。ただし、世俗的な話題を持たず、万人共通の世界観・価値観と思われそうなものに同調することを忌避し、人の選り好みも激しい私は、この観点から言うと、概ね「非社交的」でいることの方が多い。気に食わない場所では一切口を開かない私ほど極端ではないとしても、世間の人間は多かれ少なかれ「社交的」でいられる場所と、「非社交的」でいられる場所の2種類を持っていることであろう。
まあ、相手の話す話題やコトバを概ね理解でき、自分の話すことに相手が概ね期待したような反応を返してくる場所では、「社交的」でいられるのは当たり前だ。だが、こうした親しい少数の人間とばかり付き合い、違う場所へ出ていっても自分の対人スタイルに適合した、似たような人間とばかり選んで付き合うことを称して、「人脈がある」「顔が広い」と称することはできない。なぜか。それは、生活圏や生活スタイルが自分と似通っている人間とばかり付き合っていては、得られる情報もまた、似たようなものに終始してしまうからだ。
このことに関しては、アメリカの社会学者グラノベッターがオックスフォードの院生だった1970年代に発表した、「弱い絆の強さ論」に注視したい。グラノベッターは、実際に転職で企業マネージャーとなった人々への取材を繰り返し、誰からの情報で現在のポストを手に入れたのかを調査し、「親しさの度合い」で情報提供者を区分した。その結果、人々に地位ある仕事をもたらすのは親密な友人のネットワークではなく、比較的接触の少ない「遠い知人」の「周辺的なネットワーク」の方であると結論付けた。なぜならば、親密なネットワークからは同じような情報を重複して得るばかりだが、生活圏も生活スタイルも異なる「遠い知人」からの情報は異質で豊かだから、転職のような重大事には有益であるという。
確かに、そんな気はする。自分にとって安心できる範囲からしか情報を摂取したがらない、自分の発想に対して保守的な人間というのはままいるものだ。ここで言う「安心」とは、自分にとって都合がいいという意味ではなく、既知の発想に閉じこもるという意味だ。
例えば、安定志向で会社に入ったがすぐに辞めてしまった若者が、「会社なんてすぐ辞めても、いくらでも他に道はある」という声を「とるにたらない声」「クズの意見」として無視し、「お前は会社勤めも出来ないクズだ。新卒で3年は同じ会社に居続けないと市場価値がつかない」といった慣れ親しんだ発想を重視する場合。本来安定志向で、今まで持ってきた「*年は居続ける」「すぐ辞める奴はクズ」という発想からすれば、途中退社した自分は「どうしようもないクズ」ということになってしまうのに、慣れ親しんだ考えから踏み出して考えようとしない。今までの発想を転換するのは難しいことだが、外部要因も付き従う。
安定志向の人間の場合は、それまで親しくやってきた友人も、同じく安定・堅実志向でサラリーマンになった人間が多いだろう。友人の中には、乾坤一擲の勝負に出たり、不安定なフリーターをやっているような奴もいるかもしれない。そういう奴らとも親しくやっているつもりでも、どこかで一線を引いているはずだ。つまり「仕事に対する人生観について、腹割った話を出来る人間」とは思っていないはずだ。「そんな生き方もあるだろう。何もいわんが、オレとは無縁だ」ぐらいに思っているだけで、内心「こいつ将来不安だなぁ」ぐらいのことは思っているはずだ。だからこそ、価値観の押しつけになるのを恐れて、真剣に正面から仕事はどうあるべきか話し合ったりはしない。結局徹底的に話せる相手は、サラリーマン志向の友人しかいないことになる。
だがそういう人々と話してみると、コトバは「お前はバカだ。せめて*年いるべきだった」と言われるか「オレだって辞めたいよ。お前が羨ましい」と言われるかはわからないが、根底にある思想は「*年居続けてはじめて市場価値がつく」「正社員として長く続けていくのが安定した生き方だ」というものである。今後のアドバイスとて、究極的には「どうにかして今度こそ永く勤められる会社に、再就職しろ」というものに終始するだろう。これは本人にとっては聞くまでもない結論であって、大して役には立たない声である。しかも再就職をしたことのない人間の声なので、具体性を欠く。
が、今まであまり重視していなかった人間の声を聞くと、今まで考えられなかった発想を得ることも出来る。今後勤め人として再起するにしても、これまでとは違った角度から再就職活動をする足がかりになるかもしれない。あるいは、もっとドラスティックな方向転換をするキッカケになるかもしれない。少なくとも、聞くまでもない結論を繰り返すばかりの「親しい人間」よりは、なんらかのインスピレーションなり具体的な情報なりを得られるだろう。今まで疎遠だった人間の言動は、本気で聞いてみると、直接役に立たないとしても、新鮮で面白いものである。私自身の体験から言っても、同じような人間の意見は言われるまでもない、自分と概ね変わらない発想の繰り返しなので、まったく役に立たず、ますます気が重くなるだけだったものである。
ちなみにシカゴ大のバートは、この「弱い絆の強さ論」の構造特性に注目した。日常的な、局地的なネットワークに埋没して、多くの個人や組織は複数のネットワーク間の発展可能性を見逃しているという。つまり、つながっていないネットワークや、コンタクトが少ないが故に遠いネットワークには、「構造的な溝」があり、それを埋めれば利益を生むというわけだ。非常に抽象的な話だが、この「溝」をいち早く見出してブリッジングできれば、それぞれのネットワークに偏在していた情報やノウハウが一挙に流れはじめる。そしてそのブリッジングをした個人ないし組織こそが、この接点を独占することによって利益を挙がることが出来るとバードは説く。
つまり、本来なにげなく暮らしていたら接点が出来るわけがない人間(集団)同士が接触を持つと、相互に刺激を受け、有益な情報交換が出来るというのだ。そしてその仲介者が、仲介するがために両サイドの人々からアテにされるというわけだ。もちろん、どこであれ余所とパイプを持てれば、何かと役に立つということ自体は疑問の余地はないだろう。だが、その方法がなかなかわからないわけだ。最初に書いた宴会屋的意味に於ける「社交的人間」ならば、自分のノリが通じる人間を余所の組織に見出して、同じような趣味芸風の人間と酒でも飲んで仲良くなって、パイプをつなげようとするだろう。これでうまくいくこともあろうけれども、そんな簡単な手段でネットワークの拡大なんかはそうそうできない。だからこそブリッジングする人間に価値が生まれるのだ。たまたま物理的に通信を取り得る人間がいたら、とりあえずコミュニケーションをとろうと試み、相手がいかなる人間が自分(ないし自分の所属する集団)とどういう差違があるか見極め、自分の数ある話題や話術を駆使して、そして実際に交流を持ってしまう人間こそが、より「社交的な人間」というものだ。
私は「真の〜」「かりそめの〜」という言い方は好きではない。だからここでも「真の社交的な人間とは何か」という言い方はしない。だが少なくとも、こうは言える。酒飲んで芸かまして女の話でもすれば、仲良くなった、腹割ったと思いこむ奴。自分の、限定された狭い話題と通り一辺な話術が通じる相手以外とは、意思疎通努力を放棄する奴。「あの人はチンピラっぽいから」「あいつはオタクっぽいから」「あんなに年離れてるから」と、自分と差違がある人間との接触を嫌がる人間。少なくとも、こういう人間はいかに限られた空間で我が物顔で盛り上がったしても、「社交的な人間」とは呼べまい。
19-04
「中国の水責めの拷問」
IBMを立て直したガースナー前会長によれば、「リストラは一回限りで、大胆に」とのこと。某商社がやっていたようないつまでも続く小規模なリストラを、ガースナー氏は「中国の水責めの拷問」と批判したそうな。
そりゃそうだわな。企業を建て直して利益率を上げるためには、人員や部門の整理は不可欠だ。だが、ただ闇雲にやればいいというものではない。徐々にでも人や不採算部門が減っていけば、数値上はなんとなくムダがなくなって行くような気にはなる。そして何よりも「過酷なことをやっている」という意識は、経営者にやることをやっているという自負を持たせる。他者を苦しめれば、あるいは自分も苦しめば、何かが開ける。こうした妄想がはびこるこの社会ではありそうな話だ。
だが、緩慢でいつまでどこまでやるかわからないリストラは、士気を下げ、不安を増長し、さらには具体的な業務の中長期計画も立てにくくする。あたりまえだ。「次はオレの番か」と怯え、再就職のことを考えるようになっては、社員は本業に身が入らない。首を切るのとて、社長や会長といった雲の上の人間がやるのではない。社員が社員を切るのだ。これは切られかねない方にとっては言うまでもないが、切る方にとっても多大なるストレスとなる。さらには疑心暗鬼や足の引っ張り合いといった、あからさまな不和をも産む。こうなっては、本業の目標に向かって部門全体で邁進するなどということはできない。リストラというのは瞬間的な非常手段であって、状態でも習慣でもない。非常手段だからこそドラスティックに一回切り行う。もう終わった、自分は残れた。ムダは省いたから、これから前進していくのみだ。そう思えばこそ、残った社員の士気も上がるというものだ。少しずつ人が減っていき、いつ自分の番かと怯え、人が減るのに伴って仕事量が増え続けていく。こんな状態では、誰もが長くこの会社で働くことなど考えられなくなる。
この程度のことをわからない、考えられないで、リストラという過酷なことをやっているから上向くはずだ、などと、大した戦略もないで考えるような経営者は、実在しそうでイヤ。
19-03
公的資金完済行・◆◆と、返済する道筋もよくわからない□□と
お国が債権が焦げ付いた銀行に公的資金を注入する際、銀行に株を発行させてそれを買い取る形をとった。この株は配当は高いが総会での議決権のない優先株なのだが、もちろん議決権のある普通株に転換できる。2004.07.26現在、公的資金注入行発行の優先株を、政府が普通株に転換した例はない。もし転換すれば、全役員の退任、ドラスティックなリストラ、組織や業務の見直しを求めることになる。
で、□□は前期決済で利益が目標値の3割以上下回った。これで2期連続である。そのために金融庁から処分を受けた。で、今期も利益が改善されないと、政府は保有している優先株を普通株に転換すると脅しをかけている。だが、□□は◆◆と統合するため、今期で利益があがらずしも、普通株に転換するようなことはまず出来ないのではなかろうか。□□としては、統合の混乱に乗じて、金融庁から求められている経営改善指導をうやむやにする意図もあるかもしれん。
◆◆は、経営統合から1〜2年でUFJの抱える公的資金をお国に返済したいとのことだが、どうなることか。4大金融グループの中で、◆◆は唯一公的資金を完済している。そのため金融庁からの介入も小さい。経営を常に監督されてきたUFJとはまったく違う。金融庁はこの対称的な2行の統合に対し、どう監督・指導していくつもりか。興味深い。
19-02
多少高くてもいいモノが売れる。
07月26日付け日経新聞掲載の主要商品シェア調査では、廉価極まりない品を提供するメーカーではなく、価格の高い高機能・高付加価値商品を提供するメーカーが躍進した。白物家電のことはわからんが、私が最も詳しく、そして常に買い換えを目論んでいる分野たるデジカメにも、その傾向は顕著に現れている。それはキャノンの躍進だ。
キャノンのデジカメは、いい画像撮りたければとりあえずキャノンにしとけば間違いないと勧められるメーカーの1つだ。ただの画素数やCCDのサイズだけでなく、フルオートで撮った時に的確な色彩・露光・コントラストを選択するアルゴリズムは秀逸。これは廉価機からコンパクト最上位機まですべてに当てはまる。そして廉価機のAシリーズはともかく、中堅コンパクトのIXY400あたりは、持つことにステータスを感じる重厚な仕上げが施されている。私の後輩・美津濃氏(仮名)も、デジカメ選びに際してIXY400の質感が決め手になった。
このように、ただ格安を追求するのではなく、いいものが売れるようになった背景は何か。景気は上向きになっていると言われている。それを体感している人は、財布の口もゆるむだろう。さらに、いつまで今程度の所得水準が維持されるかわからないとくれば、長く使えるいい物を買いたくなるのもわかる。が、景気回復というのも曲者で、人件費の大幅削減の上に成り立っている。つまり、企業自体の業績は回復しても、従業員の給与はカットされたまま低止まりだったり、給与水準の低い派遣やパート、バイトに依存していたりもする。仕事に対する人手はかなり減っており、仕事そのものはキツくなっている場合もある。なんとなく、景気が回復してきたらしいぞ、と聞いても、そう楽観的にはなれないのが現状ではなかろうか。しかしそれでも、デジカメのような流行ものや、酷暑の続く中ではエアコンなんかも欲しい。買いたいモノは我慢せず、買える余力が少しでもあれば無理してでも買うという心理がここでも働くかもしれない。いつ、いまの給与水準が保つか、わからないからだ。そして、先行きがわからないからこそ、無理をするからこそ、いいものを買いたい。今、市場は精神的な余裕がない故に、いいものを求める様態にシフトしているのかもしれないね。
19-01
AirH"はあってもいいかも。
大学時代の後輩が、水害の調査を命ぜられて急遽福井に派遣された。が、現地に付いてからネットにアクセスしようとしても、ネットカフェのひとつもないそうな。安旅館なので、部屋の電話線からのダイヤルアップも不可能。やはりこういう時に備えて、無線電話でノートPCからネット接続する装備が必要かもしれん。仕事でも研究でも、今日日はネットがないと何かと困るからね。
AirH"を衝動買いしてネット25プランに申し込んだが、突然どこかに飛んでも、出先から自分のPCで気軽にネット活動をできるのは、いざというときには使えるかもしれん。まあ普段は使わないけれども。帰りの電車でネット巡回とかはさすがにやりたくないし。