last up date 2004.08.25

20-10
エキゾチック

 私はさしたる愛郷心もなく、北海道から出たい一心で周囲の反対を押し切って東京の予備校に飛び込んだ人間である。が、「北海道民」を珍獣か何かのように扱いたがる連中には怒り狂ったものであった。関東に出て8年間、「北海道民は、内地人(≒日本人?)とは違う生物 だ」と言いたげ奴には、しばしば出くわした。


 具体的には、
・「北海道の奴は、肌が白い」(浅黒い私を前によく言うものだ)
・「北海道の奴は、毛深い」(それはアイヌ民族へのステレオタイプか?)
・「北海道の奴は、雪ばっかりで出歩かないからデブで近眼だ」(他の豪雪地帯とはどう違うのか!?ついでに、私の郷里・釧路のように、あまり雪が積もらない地域も少なくない)
・「北海道の奴は、短足だ」(それは私だ!酪農や漁村といった泥臭いイメージから来ているのかも)
などなど。
 なんか、「北海道人」と「内地人」との間に身体的な差違があると思いたがる奴って、少なからずいる気がする。で、堪えかねて大学時代に一度、 「道民の多くはたかが100年そこら前の移民だし、転勤や進学で人間の出入りだって激しい。今日日"北海道だから"って肌だの毛だのが違うわけがないだろう」と怒鳴りつけてやったら、「そうだけれど、そう言ったら夢がない」と言われた記憶がある。


 「夢」?つまり、北海道民とは、幻想的な思いを馳せる神秘的な生物だというわけですな。北海道民は、「内地人」とは違った、摩訶不思議な存在でなければ ならんというのですな。道民は世間話のネタや興味本位の無神経な質問で、珍獣扱いを受けるのか。道民であるが故に、異端と見なされるのか。
 そう思うと、いくら北海道民としてのアイデンティティを否定したがっている私でも、北海道至上主義に回帰して、このように線引きをして他者を侮辱したがる「内地人」をこちらから規定して、殲滅したい衝動にかられたものであった。


 なんにせよ、「県民性」や「血液型判断」などといった、益体もないステレオタイプでもって他者を語りたがる輩にはうんざり。しかしまあこういうステ レオタイプって、自分が当事者でない限りは冗談のネタとしては最高なんですがね。それはよくわかる。が、ジョークや恣意的な侮辱ならばまだしも、 本気でこういうステレオタイプを真に受ける奴はどうしようもないですな。
 こういう「エキゾチック」という発想は、「自分とは根本的に異なる他者」を認定して、力関係を背景に一方的に「嫌悪」や「賛美」したりすることである。この意味では例えば「黒人を醜い」と言うのも、「黒人は躍動美を持っている」と言うのも、同じく差別である。つまり、相手を一方的に「異なる存在」と認定呼称して距離を置き、その特徴を一方的に決めつけて人格的利益を侵害することなのだから。


20-09
役に立たない同情。冷徹な改善行動。

 さる人に言われた。私は必要以上に冷酷に見られるように、自分でし向けているのではないか、と。確かに、私はそれほど善人だという自己評価はしていないが、必要以上に悪人だと思われることはしばしばある気がする。具体的に言えば、同じ場所に所属する仲間がどうなっても何にも感じない冷血漢とか、「責任」とか「合理性」とか「血に通わない空論」ばかり弄して人情を解しないとか。私がたまに、人情や情緒を大切にすることを言うと、「晴天にしては珍しい」「晴天らしくないな」と言われることもしばしば。が、それは私自身の態度の為だと、さる人物には言われた。まあそうかもね。


 私は、(怒りや軽蔑を別にすれば)感情的なコトバを滅多に吐かない。同情、憐憫、慰めといったコトバは特にだ。もし誰かが相談を持ちかけてきたときや落ち込んでいるときに、私が大仰に慰めのコトバなど吐き、まるで自分の問題であるかのように深刻ぶって、肩を叩いて酒でも飲ませてやれば、私に対する「冷酷」イメージは変わるだろう。そんなことは言われるまでもない。が、私はこんな益体もない態度はとらない。これは私にとっては、もっとも不誠実な態度だからだ。
 肩を抱いて一緒に悩み悲しんでやるのは、親兄弟や恋人、さもなければ一生に1人2人の大親友のやることだ。そうでもない人間の問題に対して、あたかも自分にとっても天下の一大事であるかのような態度を取るのは、形だけの虚構だ。第一そんなに一大事ならば、解決に向けて何かしようとするはずだ。四六時中そのことばかり考るはずだ。が、大仰な態度をとる奴はそうはしない。その場限りだ。せいぜいメシや酒をおごってやって、愚痴を聞いてやり、出来もしないことを言ったり問題そのものを笑い飛ばしたりして気休めにするだけで、やるべき全てが終わったかのよう気になる。全然一大事ではない。酒飲んだぐらいで何も変わるはずない。自分が他人に対して救いをくれてやることが出来ないのに、くだらん気休めで全て済んだことにしてしまおうとするなど、私にはできない。


 まあ所詮他人にとって他人の問題なんかは一大事ではない。頼ろうすがろうとしても、相手にされないことの方が多いだろう。その意味では、一夜限りの気休めだろうと、何か言ってくれる人間に人々が寄ってくるのもわからなくはない。そして私が本当に何もしない人間ならば、「気休め」を批判することは出来ない。が、私は行動する人間である。
 肩を抱きしめて一緒に泣くなんていうのは、家族や恋人、大親友にしてやることであって、ただの仲間に対してすることではない。キモチワルイ。まして、他人の問題に「うんうん、そうだねえ」とか言って共感したフリをして、憎んでもいない人間の悪口を言って何になる。私から言わせれば、すべて時間と労力のムダであるばかりか、不誠実極まりない。私が相手に某か思うところがあって、何かしてやりたいと思ったら、行動する。


 もちろん私が出来ることなどたかが知れている。だが、ちょっと動くだけで変えられることもまた、世の中には多い。そしてただの気休めでなくて、本当に実際的なアドバイスや情報、仲介を与えられることもある。誰もが人類開闢以来決まり切っていると思いこんで、誰もが自ら自らを縛っていたことのいくつかを変えたことがある。力を持っていない人間を飛び越えて、中枢の人間に問題の実情を具申したこともある。曖昧になっていた責任を明確化して、労力の不均衡を正したこともある。それほど難しいことでも大したことでもない。が、改善への糸口を作ること自体は、出来なくもない。
 何を恐れているのか、目立ちたくないのか、発想できる範囲がせまいのか、自分が何も出来ないと思っているのか、受け入れて堪えることが「大人の態度」だと思っているのか。とにかく日常の業務から一歩踏む出すことができない奴は多い。こういう奴が現状そのものには触れず、ただ酒を飲ませる、一緒に愚痴を言うなんてことしても、何にも変わらない。しかし私は、理不尽や労力の不均衡、日常のトラブルに悩む人間に対して、その問題を少しは変えてきた。


 が、それでも一緒に苦悩するポーズを取らなかったが為に、冷酷だと見なされることはかなり多い。入社してすぐの頃に、とんでもないミスをして首の皮一枚でなんとかなった同期がいた。この件では、私自身が動いたわけではない。出来もしない約束をしたり、わからないことをわかったように言うのもまた、不誠実だ。ただ私は、隠匿するべきどうか迷っていた同期に、即座に上司に言うべきだと強く徹底してアドバイスした。結局決めたのは彼自身だし、自分でケリをつけるしかない。そして彼は決断し、すべてを自己申告して「本来ならば首になるようなミス」にも関わらず、早期の自己申告を買われてどうにか解雇は免れた。悩み抜いていると、簡単なこともわからなくなる。彼が早期に決心したのは、私の後押しがあったからだ。
 クビが繋がったとわかった日、同期連中は彼の肩を叩いて、よかったよかったと笑った。首にならなかっただけで、別にめでたいことではない。第一、肩を組むほど親しくもない。しかし彼は私を見込んで罪を告白してくれた。そして私は可能な限り最良のアドバイスをした。それの見立ては当たった。それで十分だった。


 罪は申告するしかなく、後で発覚すれば確実に懲戒解雇だ。しかし申告したが為に即日クビになったら、後押しをした私の寝覚めが悪い。逆恨みされるかも知れない。どうせクビになるのならば、隠匿してバレるまで給料貰っておくという手もある。即日解雇されたら、それも得られなくなる。はっきり言って、アドバイスにはリスクがある。責任も沸いてくる。何も言わないのが一番楽だ。しかし、彼が職場に生き残れるもっとも正当かつ確率の高い方法として、私は即座の申告を強くアドバイスした。
 本当ならば面倒だから、「そいつは大変だな」とかテキトーなこと言うだけで、何も言わなくたってよかった。この同期はいわば二等兵。少尉である私は現場研修を終えれば、顔を合わせることさえほとんどなくなる。彼に何をしようが、別に大した得にはならない。さらに言えば、隠匿しようと本人が告白しようと、私にとっては何ら影響がない問題である。つまり、本当に冷酷ならば、私は背中を押すことさえしなかった。それをわざわざしたのは、私を見込んで罪を告白した彼に応えたかったからだ。この大不況下の札幌で何の技能も才能もない彼が会社を追い出されたら、食いっぱぐれるのではないかという憐憫もあった。つまり、私は自分の感情に基づいて彼に即座の告白を求めたのだ。


 しかし肩を組んで大騒ぎしていないというだけで、私は別の同期の1人に背中をぶっ叩かれて、「喜べこの野郎!お前は自分のことしか考えていないのか」と怒鳴られた。これは一生忘れん。貴様が奴に何をした。渦中は何もせず、事後になってからバカ騒ぎしているだけではないか。私は、ごくごく僅かであっても、奴の背中を押した。奴が会社に生き残る最良の選択肢として。奴が欲しかったのは、今肩を組んで笑うことではなく、1人で悩み抜いているときに助力を得ることだった。私がしたこと言ったことなど、極めて些細だ。だが、私が奴の問題に対して何も考えていない、彼がクビになろうがなるまいがどうでもいいという無関心では決してなかった。自分が強く告白を勧告したが、吉凶がどう出るか私は気が気ではなかった。それに、役に立ったかどうかは知らんが、奴が何よりも欲していたアドバイスを、私は必要なときにしたのだ。何を責められようか。
 他者に対して何もしない奴や、酒飲ませたり騒いだりして同調しているフリすればそれでやるべきことをすべてやったと思うような奴に限って、私にこういう態度をするんだよ。まったく。ミスをした同期は私にそれなりの信頼を示すようになったが、わかる人だけわかればいいってものではない。たかが肩組まなかったぐらいで、冷酷と見なされるのは我慢ならん。ついでに「自分のことしか考えていない」のは当たり前。私は「彼が首になったら気の毒だ」「疎遠だったが、私にすがってきた彼に何かしてやりたい」という自分の心の欲求に従って、自分の心の安息を得ただけだ。その結果彼にいい影響を与えたかも知れんが、結局私は自分のことしか考えていないし、心の安定という自分の利益のためのに行動した。当たり前だ。一緒に肩を叩くしかしないバカ野郎が、利他的な発想・行動をしていたとはとても思えんが。


 ちなみにただの仲間ならばまだしも、権限を持つ上役に物事を相談して、上役が「慰労」と称して酒を飲ませるだけだったり、本当に出来もしないことばかり口にするだけの場合、その上役は最も保守的な体制の奴隷だと思うべし。あるいは問題の構造を固定化したまま、それでも何とかなっている現状を保存し、その上であぐらをかこうとしていると思うべし。結局、どんな簡単なことも何も変えないし、責任の所在や問題の実際を検証しようとしないのだから。いるんですよ、こういう人って。とんでもない大事件や終末的な破滅が訪れない限り、どんな問題があろうと現状維持が最高の方法だと思っている人っているんですよ。


20-08
面倒だから

 大学病院職員の友人から聞いた話。ケンカによるケガでは、健保は使えない。これ自体は知っていたが、私は大学時代に歌舞伎町で背中を切りつけられて病院に運び込まれた時、何故か保険を使えた。保険証と診察券を出せばケンカだろうと何だろうと自動的に医者に診てもらえ、医者に何を言おうとそのまま受付で保険適用額を払って終わる小さな個人病院ならばともかく、大学病院では窓口でケガの事情をまず聞かれて、ケンカだったら保険が適用できないとハネつけられるという。窓口に立っている友人は実際に、何度も無保険になると告げたことがあると言う。
 確かに私も、人に刺されたと告げたら「その場合は保険は使えない。加害者から請求することになる」と言われた。言われたはずなのだが、次の瞬間にはなぜか受付が済んだことになり、医者に事情を述べて診察され、そして保険適用額を請求されて、支払って帰ってきた。やはりそれは面倒だからテキトーに済ませたのだろうとのこと。友人は面倒でもそういうことはしないそうなので、私は横着な職員に当たって運が良かったということになる。


 突然異常者に暴力を振るわれても、相手を特定できない、逮捕もされないことがほとんどだろう。そんな場合でも、一方的に暴力を振るわれた方が高額な医療費を払うのは納得できん。医者には行かなかったが、川崎に引っ越して少しの頃、突然異常者に背後からぶん殴られたことがある。
 ガンをつけたわけでも肩が当たったわけでもない。私が大声で何かの悪口を言っていたわけでもない。目立つ珍妙な服装をしていたわけでもない。異常者は突然顔も見ていない私の背中を渾身の力でぶん殴って、振り向いた私に「すいません」と謝って走り去った。なんだかさっぱりわからん。だが、これが打ち所がわるかったら。武器を使っていたら。医者に行っていただろう。そのときに「ケンカは無保険です」は泣きっ面に蜂だ。
 ここで保険制度や病院についてとやかく行ってもどうしようもない。友人からのアドバイスだが、こういう場合は死にそうな場合以外は個人病院へ行くこと。病院に行ってもあからさまな嘘をついてでも受付で「他人にやられた」と言わないことだそうだ。虚偽申告は違法性がありそうだが、何の非もないケガで100%自己負担は精神的にも経済的にも堪えられん。私が次に何かあった場合は、そうするだろう。 


20-07
幸せなのかも。

 最近旧友Aに会ったとき、彼は笑いながら携帯電話を私に見せた。そこにはかつて同じ場所に所属していたBからのメールが表示されていた。その内容は、「今度一緒にCのところへ旅行へ行こう」というものであった。Cも同時期に同じ場所にいた人間である。だがはっきり言おう。AはBもCも嫌っているし、嘲笑している。Aが、自分の腕で稼いだ貴重なカネとさらに貴重な時間を使って、わざわざCに会うなどということはあり得ない。さらに言えば、Bと二人っきりで新幹線やバスで旅行するなどということはもっとない。だからこそ、Aは笑いながらこのメールを私に見せたのだ。


 なぜ、突然Bはこんなメールを出したのか。Bが仲間内で旅行をしたという話など聞いたことがない。例え誘われてもBと旅行に行く奴など、旧友の中には1人も思いつかない。そもそもAとBとが仲良くしていた景色を見たことがない。AとCとが親しく交わっていたこともない。私と違ってAは、BやCに対する悪意を顔やコトバに出さなかったが、決して内心よく思っていない。そう、私や複数の人間達は、BやCに対して露骨な悪意を示していた。彼らはそれに値する人間だったからだ。
 だからBが職場で休暇を取れて旅に出ようと思ったときに、Cぐらいしか受け入れてくれそうな場所を思いつかなかった(BとCもそう仲がよいわけでもないはずだが・・・)。一緒に行ってくれそうな人間としては、BやCに敵対的言動をとらなかったAしか思いつかなかった。そういうことなのだろうか。


 人嫌いが激しい反面限られた友人を大切にし、連んでの旅行を何よりも楽しみにしている私としては、旅へのお誘いメールを出しても物笑いの種になるBが、気の毒ではある。私がBだったら、そんな孤独には堪えられまい。だが、Bは明らかに嫌われているのにもかかわらず、こういった誘いを平気で繰り返すのだ。昔から、今に至るまで。ちっぽけな飲み会でさえ、実現することがほとんどなかったというのに。私だったら、1度も誘いに乗らない奴に2〜3度立て続けに断られたら、もう二度と誘わない。なんという神経の太さというか他者を顧みない無神経さというか・・・。
 昔から言われていることだが、Bは幸せな人間だ。嫌われていること割けられていることになかなか気が付かない。気が付いてもあまり気にしない。何度断られても、執拗に誘いを繰り返せる。それを求めながら誰からも好かれも尊敬もされないのはやはり不幸なことだが、好かれも尊敬もされなくても平気なのは幸福なのかもしれない。
 という話を私がAとしたことなど、Bは想像もしていまい。 


20-06
BRICs

 2008年度完成をめどに、トヨタがヨーロッパ・ロシアに工場を建設することが決定した。まあこんなことは、ロシア関係者にとっては一昨年から囁かれていたことだ。三菱はどうなるかわからないが、他にもホンダがすでに現地法人を立ち上げている。物事はある日突然決まるのではない。しかし14日付け日経新聞の朝刊1面に載ったことには意義がある。これで「ロシア?そんな貧乏なとこダメダメ!これからは中国だよ」とか、本人は英語も中国語も出来ない分際で私が学んでいるロシア語の有用性を公然と否定するアホに、カウンターパンチを決めたような気分になったわい。

 今更日経新聞に1日あたり最低3回は登場するBRICsの一角たるロシアに対して、「まったく将来性もなにもない、底なしの貧乏で、混乱しまくっているゴミ溜め」程度のイメージを持たない奴って、結構いるんですよ。BRICsはもちろん、Brazil,Russia,India,Chinaのこと。この4ヶ国は人口規模が大きく、天然資源が多く、教員水準も高く、産業が急速に発達しつつある。市場としても生産拠点としても、労働力の供給源としても、将来性は極めて有望だ。ついでに4ヶ国とも軍事大国でもある。

 中国に対しては「経済成長」、インドに対しては「IT技術者の輩出」程度のことは誰もが言うが、ロシア・ブラジルも相当な潜在力を持っている。ロシアの理工学者やコンピュータ技術者はすでに日本にも結構やって来ている。それも月10万15万というはした金でだ。さらにブラジルはアマゾンの監視のために、人工衛星から各種センサーまでをもリンクした巨大ネットワークを自国開発しており、そのハード・ソフト開発、ネットワークの維持・管理の課程で、国全体の情報通信産業の規模とレベルを発達させている。

 この地球上で、圧倒的大多数の人民が絶対的に貧乏で藁みたいな家で毒虫と一緒に暮らし、電話やテレビなんかはほとんど存在せず、字も書けないガキが腹空かせているような国は、かなり減ってきている。事実上政府が存在しないソマリアでさえ、モガディシオに携帯電話会社は3社もある。まして、BRICsのような大国を40年前の途上国のようなイメージで見るのは大変な間違いだ。
 まあ、国民の過半数が日本並の所得も物品も持っていないのは確かだが、それでも大学に通って英語やコンピューターに触れ、死ぬ気で学び、そして1000ドルや2000ドルのカネで働くのだ。それも単純労働などではなく、オフショアリングで、あるいは単身渡航して、先進国のホワイトカラーの仕事を奪っている。「え?ロシア?どうせアイツら、ウォッカ飲んでトカレフ撃ってるようなクズだ」としか言えないようなアホが学士をやっているような日本も、今後ますます労働市場を食われていくことであろう。


20-05
些細なものか

 今となっては言ってもいいだろう。私は一昨年初夏から1年間、私的な人間関係で大変なトラブルを抱えていた。大学時代に培ってきた交友関係が根本から破滅しかねない大問題だった。まあ無事に・・・かどうかは知らないが、それなりに解決したのではあるが。
 問題の渦中にあるときは、様々な人間に愚痴や相談を持ちかけた。まあ、誰の手も借りずに私は自分の問題を自分で解決したのだが、黙って私のコトバを聞いてくれた人、あるいは何らかの意見をくれた人には多大なる感謝をしている。彼らがいなかったら私はもっと精神の均衡を崩し、本当に破滅的な決着を導き出していたかもしれない。が、「些細な問題だ」と笑って、問題そのものを軽く扱おうとした奴がいたこともよく覚えている。


 彼が何と比較して「些細」と称したのか。それは仕事であろう。確かに私はその当時、仕事でも刑事事件に発達しかねない大変なトラブルを抱えていた。さらには劣悪な職場環境には失望しきっていた。だが、仕事の問題が私的な人間関係の問題よりも重いとは思わない。何を勘違いしているんだろうね。
 家族や友人といった私的な生活のための仕事でしょう。もし仕事が順調で、カネが面白いくらい入ってきても、自分の回りに人間がいなかったらそれほど虚しいことはない。高価なデジカメを買っても、景色と部屋のコレクションしか写すものがないのならば、私はデジカメを高所から投げ捨てるだろう。念願だったcoolなセダンを買っても自分1人以外は空気しか運ばないのならば、私はガソリンタンクに新聞ねじ込んで火をつける。さらにもっと根本的なことを言えば、食うため生きるために仕事はあるが、家族や友人といった人間関係は生きる目的そのものである。その大きな目的が削がれるかどうかというときに、何が「些細な問題」か。
 逆に言えば、仕事に問題や艱難辛苦があっても、たまに家族や友人らと一息付けるのならば、なんとかやっていけるかもしれない(仕事そのものの将来性や、転職するか否かといった問題はまた別)。仕事と私生活とで、どっちが些細ということはない。だが、どっちがより大切かといえば、私生活に決まっている。仕事は変えられるが、友人はそうはいかないからだ。特に働いていると、新たに友人を開拓することはとても難しい。私的な人間関係の問題を「些細」と称する奴は、ただ1人で365日過ごしてまでも仕事のみに全時間・全人生を投入できるというのか。だとしたらそれはそれで幸福なことだ。


 新米サラリーマンや就職活動中の大学生に多いんですよ。仕事を頂点とした揺るぎない優先順位を持ち、何事も堪えて我慢するのが「大人になる方法」で、そうできない奴はクズ、仕事以外のことを捨てられない奴は青二才などと決めつけることしか出来ない奴は。堪えることが唯一の処世術ってか。こういう単純な思考回路の奴こそ、青二才と呼びたい。
 もちろん世の中堪えることの連続だし、日本社会では食うために仕事のために私生活を犠牲にすることが当然とされる。だけれども、なんでも堪えればいい、犠牲にすればいい、というのはあまりにも貧しい発想だ。だいたいそんなことで仕事がうまくいくのならば、誰も苦労しないって。


 ついでに、問題に対して笑うのは必ずしも悪意の現れではない。それはよくわかっている。笑って問題を軽く扱えばその場が明るくなる、問題に悩み込む気持ちを吹き飛ばせるとでも思っているのだろう。だが、こうした態度は不誠実にしか見えない。ナメられ、貶められたような気さえする。問題を抱えた人間を相手するのが面倒ならば、深刻そうな顔作って黙って聞き流して、相づちだけ打っているだけでも随分と気が楽になるというもの。あるいは、最初からオレはそういう重い話はしたくないと明言したっていい。少なくとも、気を楽にしてやるつもりで問題を笑い飛ばそうとするよりはマシだ。
 この態度は私の父親がよくとる態度だ。仕事に忙しくて私が高校卒業するまでろくに口とを利くこともなく、話すコトバさえお互い満足に持たない中で、父が私に対してとれた安易なコミュニケーションが、この「問題を軽く扱う笑い」だった。この(私から見て)不誠実な笑いは、私と父との長年に渡った溝の象徴と言っても過言ではない。父に悪意がないことも、他に言うべきコトバを思いつかないのもわかってはいるが、それでも決して受け入れることは出来なかったし、今同じことをやられても一緒に笑うつもりはない。だからというわけではないが、この「安易に問題を笑い飛ばす態度」は、私には決して受け入れがたい態度なのである。 


20-04
「木っ端役人」

 私がしばしば出入りする語学学校での、若人との会話。彼は若い。彼には正社員・正職員としての実務経験はないが、無目的に大学へ行くことを嫌ってバイトしながら語学学校に通っている。それはそれで結構なことだ。語学学校では、学校を出てどうするか、在学中にどこかへ飛び出すかがしばしば話題に上る。そこで誰かが彼に言った。「コトバやっているのならば、外務省職員なんかはどうだ」と。
 すると彼は吐き捨てた。「そんな木っ端役人っ・・・」。外務省専門職員・II種職員は一流大学出の人間が何年も挑戦し続け、若年離職者もしのぎを削る激戦区だし、III種の事務官も相当な高倍率だ。試験に挑むのには相当な覚悟で対策する必要がある。入ってからも、公務員であるがための苦労や理不尽は必ずあるだろう。まあ、入りたくない、対策の勉強なんかしたくないというのならば、それはそれで結構。だが、彼に何が出来るのか。何を目指しているのか。


 何も目指していない。何も出来ない。やっていれば何か開けると思って語学学校に通ってはいるが、何かに活かそうと真剣に探してもおらず、勉強自体もそう熱心ではない。ただ無気力に、惰性的に日々を過ごしているだけだ。それが実際の所だ。何か別の目標があって邁進している奴が「木っ端役人なんかなりたくない」と吐き捨てるのは応援したくなるが、何もしていない、何の指針さえ持っていない奴が、人様の商売を貶めるのはちょっと気に食わない。
 まあ若い奴は生意気なぐらい自己有能感とプライドを持って、でっかい目標を抱いているぐらいでちょうどいい。しかしプライドと自己有能感だけで、何の努力も情報収集もせず、ただ妄想だけで世の中に唾棄し、自分が「ただ」有能だと思いこむ奴は失笑を禁じ得ない。そして自分にプライドを持たず、何かを出来るとも思わず、何かをしようともしない人間はもっと不愉快だ。「木っ端役人」って、君はその「木っ端役人」にも現状ではなれないし、彼ら程度の給与・社会的地位を持つ仕事への足がかりも作っていないだろう。さらには仕事を出来る程度の語学力も持っていない。


 この若者は、イメージだけでものを言っている。なんとなーく、生活していて耳目にする噂やステレオタイプでもってしか、仕事なるものを想像できていないのだ。「木っ端役人」なるコトバは、どこに言っても当然のように否定的に語られるコトバだ。けれども、彼は役人の何を知っている。仕事の何を、待遇の何を知っている。調べてみれば、意外に魅力ややり甲斐を覚えるかもしれない。けれども情報収集をしていない。どんな仕事に対しても、情報収集なしには薄っぺらい憧れか蔑視しか持てない。くだらないネット巡回やテレビ番組だけでイメージを膨らまさずに、もっと物事に肉薄して仕事を調べてみる心構えはないものか。人といきなりパイプを繋げるのが出来ないなら、例え新聞や業界誌を通読するだけでもずいぶんと持つイメージが違ってくるのだが。大学に入らずに人とは違う道を選んだのならば、それぐらいの気概は持って欲しい。


 ちなみに、「職業選択をしている若者」としてではなく納税者や市民という立場ならば、官庁についての批判はまた違った話になる。まあ、自分の都合良く取りはからってくれなければ「クソ役人めが」、世の中になんとなく不満があれば「役人のせいだ」、としか言えない奴はどうかと思うけど。いるんですよ、ゴミを収集日ではない日に出して、「ゴミ持っていってないぞ、木っ端役人めが。今すぐ回収に来い!」とか本気で電話するような人って。官への批判は当然の権利だとしても、そこまでバカにはなりたくないものですな。


20-03
デジタル信仰とアナログ感覚

 コンピューターのファイルも、VHSテープのように、コピーすればするほど徐々に劣化していくと思いこんでいる人としばしば出くわす。特にJPEG画像ファイルがファイルコピーで劣化すると思っているが多い。
 コンピューターでファイルをコピーするということは、完全に同一の文字列をもう一つ作成するということである。何らかのエラーによってその文字列に欠けや変質が生じたら、その段階でもはやアプリケーションで読み込むことが不可能になる。つまり、デジタル画像が劣化してコピーされたとしたら、決して徐々に画像がぼやけていくわけではなく、もっと致命的なことが起きる。


 何故JPEGファイルをコピーすれば、VHSのダビングのように徐々に劣化していくと思われがちなのか。それは間違いなく、JPEGを画像加工ソフトで開いてまた「上書き」することと単純なファイルコピーとを混同しているからだ。HD上でのファイルコピーやメディアへの記録、メディアからHDへの読み込みといった行為と、JPEGの上書き保存、つまり再圧縮とは異なる。
 JPEGは、1つのドットの周囲に似たような色のドットがあったら、その辺り一体のドットを同じ色としてまとめてしまい、詳細な色情報をカットして圧縮する方式だ。つまり人間の眼で知覚しにくい色の変化を、段階的にまとめてしまうのである。そしてこの変化は(今普及している方式では)不可逆である。だから、例え画像を加工しなくても、ただ閲覧ソフト代わりに画像加工機能のあるアプリケーションでJPEGを開いて、そして閉じる際に上書き−再圧縮−してしまうと、(最初の元画像に比べると)大ざっぱな段階でまとめられていた色の変化が、さらに大きな段階に統合されてしまう。こんなことを繰り返していると結果、目で見ても明らかにボケた画像になってしまう。だから何度もJPEG圧縮を繰り返してはいかんのだ。
 というようなことを雑誌で読んだり誰かから聞きかじったりした人が、単なるファイルコピーと混同してしまっているのであろう。こんな混同が起きるというのは、まだアナログ時代の感覚が抜けていないのか。というか、デジタルとアナログの違いを、あんまりよくわかっていないのではなかろうか。


 あと、画像にかけたモザイクの類を、「パソコンの画像ならば外せるに決まっている」「秋葉原あたりにモザイクを外すソフトが売られている」とか何の根拠もなく盲信している人もいるけど、これはデジタル信仰の行き過ぎというか。デジタルならばなんでも出来ると思っている人にもまた、しばしば出くわす。
 デジタルデータはすべて数列処理で表現・加工されているから、変化を戻す方法も必ずあると思われるのか。これは半分は正しいけど、半分は間違っている。つまり、モザイクにせよ画像編集にせよ、可逆な方式と不可逆な方式とがある。変化は逆の順序を辿れば戻せるが、それは変化の軌跡についての情報および、変化前の情報が脱落していないときの話だ。失われた情報はどうにもならん。
 そして、ネットで出回っているポルノや個人情報保護のためのモザイクは、不可逆変化である。中には意図的に、あるいは作成者の無知故に、可逆変化のマスクをかけただけの画像もある。が、この種類の処理で局部や個人情報を隠した画像をアップするのは違法である。


 まあ変化前の状態を推測して復元することは不可能ではない。が、それは非常に難しい上に、復元されたものは決してオリジナルと同一ではない。画像のパターンをいくつも保持した上で、似たようなパターンを当てはめて、復元というそりは創作されているに過ぎない。つまり、文字列を分からないように荒いモザイクを不可逆処理をしてデータを脱落させた画像から、元の数字を読みとることは不可能。
 さらにそうした復元めいた処理をするソフトは極めて高価な上に、発展途上に過ぎない。ソフトのクセや扱う人間の設定の仕方によって、結果が大きく変わってくるという代物だ。復元できなく、事実上創作である所以である。つまりこうしたソフトは、現状ではCG芸術家の絵筆程度の意味しか持たない。さらに言えば、復元ではなく似たようなモノをでっちあげるにせよ、1万回やって1万回とも同じ結果が出ないようならば、それは実用的なものとは言えない。


 いずれは少量のサンプルから、まるで本物のような情報を造り出すことが可能になるかもしれない。例えば、人間の写真を何枚か撮っただけでその人間のあらゆる角度から見た、様々な姿勢を造り上げる。録音を元に、様々な内容や抑揚でその人物の声を造り上げる。情報脱落型の圧縮をした画像から、もとのクリアな画像に近いものを造り上げる。これらのことはいずれ出来るようになるだろうし、部分的には実現している。しかし今の技術では、録音された声から本人がしゃべっているかのような自然な音声をどうにか造り出すレベルだ。いかに感情をつけるかが現段階の課題である。そしてこれらは、本物ではなく本物に近いものに過ぎない。人間が観て本物と区別が付かなかろうとも、サンプルにないものは造り上げられない。つまり、前述のように、完全に判別できなくなった文字列なんかは復元不可能だ。


 再現技術はまだ研究がはじまったばかりの分野である上、一度完全にぶっ壊れたものをゼロから作り直せるわけもない。大量のサンプルデータを持っていてはじめて、似たようなものを造り上げるだけに過ぎない。だが、デジタル信仰を持つ人には、錬金術のごとく、無からすべてを作り出せると思っている人が少なくないような気がする。ここそこに徘徊するマニアックな方々ならば何でも出来るだろうという妄想まで持っていたりも。が、家庭用のコンピューターで、5万や10万程度のカネで買えるソフトでもって出来ることなどはたかが知れている。復元ではなく、創作にしたところで、個人レベルで出来ることは限られている。人々がデジタルに期待するのは結構なことだが、ちょっと多くを期待しすぎではないかという気がしないでもない。


20-02
中共株式

 中共のPC最大手の聯想集団が、IT関連サービス部門をソフト設計会社・亜信科技に3億人民元で売却した。で、亜信科技は現ナマではなく、転換社債によって支払った。いつでも株式に転換できる変わりに利率の低いという転換社債だ。しかも今回亜信科技が発行した転換社債は無利子とのこと。つまり、それだけこの株式が値上がりするという確信があるということだ。で、事実上聯想集団は亜信科技の株式を15%保有することになる。
 共産党が一党支配し、株式取引の歴史は浅く、民法もまだまだよくわからない中共だが、企業同士の合従連衡や買収なんかで転換社債を代金に使うとはね。ちょっと意外な感じがする。というのは中共経済をナメすぎか。


20-01
眠っている権利は失効する。

 多くの人は様々な不満を持っているだろうけど、この日本はかなり法制度が整備されている現代国家だ。司法・行政は概ね健全に機能し、政治家や官僚は次々と法案を策定している。欧米に比べると著しく劣っているようなイメージがあり、実際にかなり遅れている部分や非合理な部分もあれど、日本の法典もなかなかのものだ。が、それでもこの国はあまり法治国家という気がしない。
 もちろん、兵士や警官に給料が満足に支払われず、軍・警察は私兵化して略奪や小競り合いを繰り返し、山賊や反政府勢力も跋扈するような国に比べてたら、すばらしい法治国家だ。原子力発電所と有人ロケットを保有する大国ロシアとて、警官や公務員の気分や人情によって手続きの便利や支払う経費が違ってくるという人治国家だ。これと比べても、まだ日本は制度や慣習に基づいて手続きされる分、法治国家と言える。
 が、法廷闘争にまだまだカネがかかり、法廷にもめ事を持ち出すことを非人間的な所業と見なされがちな日本では、権利を主張して闘うことがあまり日常的ではない。腹が立つこと、困ったこと、実際的な損害を蒙ることは多々あれども、結局堪えたり文句を言ってケンカになったりするだけで、法による解決をしようとする人は少ないのではなかろうか。しかも理不尽や問題に対して、我慢するのが大人の姿勢だ、堪えていればいつかは嵐が去る、ここで大騒ぎすると軽く見られる・・・という風潮もある。法学の世界でよく言われる「眠っている権利は失効する」というコトバが、この社会では結構当てはまるのではなかろうか。


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