last up date 2004.11.02

21-10
メディアリテラシーと「魔術の園」とでも言うべきか。

・「火のないところには煙はたたない」から、世間で騒がれていることは多少は事実を含んでいるに違いない。
・これだけの人々が同じことを主張しているのだから、これは真実に違いない。
・こいつは言動が胡散臭いし、あやしげなものを所持しているというから、こいつが犯人に決まりだ。
・こいつらは顔に緊張感がないし、思想的にも胡散臭いから、きっとこの事件は狂言に違いない。
・この広大な宇宙に、知的生命体が地球にしかいないわけはない。他のどこかにもいるに決まっている。


 こういう声を聞くたびにゲロ吐きたくなる。すべてイメージや勝手にでっちあげた法則で物事を決めつけたり、当事者の人格を勝手に決めつけてそれだけを根拠に白黒判定していたりするだけだ。上記の声は、最後の1つを除けば、すべて実際の事件に際して聞かれた身近な人間の声ないしネット世論とやらである。あまりにも「魔術の園」に終始している。まるで中世だ。
 メディアリテラシーとは何かと聞かれたら答えるのは難しいが、とりあえずは実際に世の中に起こりえることと起こりえないことの区別をきちんとすることであり、くだらない法則をでっちあげないことであり、周囲の声でなんとなく物事を決めつけないことであり、イメージとステレオタイプを排することがその一端を成す。


 具体例を1つあげよう。実際に世の中に起こりえることと起こりえないことの区別をきちんとしている人間ならば、「松本サリン事件」では、第一発見者宅に存在する薬品ではサリンなぞ発生しえない、という警察の分析結果に着目しなければならない。第一発見者が家族に言った「覚悟しておけ」というコトバが「自分が逮捕されるかもしれないから覚悟しておけ」の意味に違いないとか、あいつは薬品なんか持って胡散臭いとか、自分勝手な思い込みのみに基づいて「こいつが犯人に違いない」などと安直には思わなかったはずだ(もちろん彼が犯人ではないという根拠にもならないけれども、犯人と断定することは出来ない、という程度の意味)。
 しかし当時、私は「化学的に、第一発見者宅の薬品で発生するはずがないものが、発生するはずがない」と主張したが、周囲の人間は親兄弟も友人も床屋も教師も、すべて「あいつが犯人だ」と決めつけていた。「彼の保有していた薬品ではサリンは発生しない」という問題には、「捜索していればもっと違って薬品が出て来るに違いない」とでも思っていたのか。それとも「奴が犯人だ。これで一件落着だ」と思いこむ余り、新聞の片隅の記述など重視していなかったのか。


 まあとにかく、たいした根拠もなく断定する人々にはうんざりですよ。   


21-09
偏り忌避と偏り礼賛

 外国がどうかは知らない。いつからこうなったかもわからない。だが、今の日本社会では偏りをひどく嫌う傾向にある気がしてならない。卑近なことでは偏食は忌避される。多くのものを食べることが「バランスがよい」とされ、健康のためになると信じられている。もう少し観念的な話になると、日常的な人付き合いでも仕事でも、特定の意見や人を優遇するのではなく、どの意見にもどの人間にも関心を払って見せて、どれもそれなりにいいところもあると肩を持つ態度が、「偏っていない、バランス感覚に優れた人」と思わせる。つまり頭がよくて人柄も優れていると見なされる。1つの意見を強く主張したり、枝葉を切り払って視座を固定しようとすると、頭が硬直して他の発想を出来ない、自分勝手な愚かな人間と見なされる。どんな合理性があるのかわからんが、中庸に対する信仰という偏った思想が蔓延している気がしてならない。


 余談だが、偏食ひとつとっても毎日違うものを食べても十分な栄養素を摂取できるとは限らず、考えられた献立ならば、毎日同じ食事でも健康を保っていられる。病人や要介護者、強度の食物アレルギーを持つ人、それにスポーツ選手の中には、栄養士の指導の元に同じ食事を繰り返している人もいる。彼らは良質の食事を摂取している。けれども、「栄養士が指導している」「保健施設で提供されている食事だ」などという予備知識なしに毎日同じ食事をしている人を見たら、大抵の人は「健康にわるい。もっといろんなものを食べないと」と機械的に思うことであろう。根拠がないからこそ信仰である。


 このように、偏ることが忌避され、バランスとやらがすばらしいことのように思っている人々はわりといるのではなかろうか。そうした人々にとっては、「あいつは偏ったヤツだ」と言えば相手の人格や見識を否定したことになる。「偏ったやり方だ」と言えば方法論が間違っていることになる。まあ面と向かって日本語で「偏っている」と言われて、いい気分になる人は、今の日本社会に於いてはあまりいないだろう。
 その一方でこの日本社会には偏りを賛美する面がある。一つの目標を定めて邁進すること。一つの会社や一つの技術に生涯を捧げること。一度選んだ道を途中で辞めないこと。諦めたり、心変わりしたりしないこと。こうした偏った生き様を見せる奴が「意志の強い、立派な人間だ」と賛美され、途中で方向変更をするような人間は「だらしない人間」と非難される。とても不思議だ。


 人生は博打だ。どうすれば成功するか、自分なりに納得いくか、幸福を享受できるかはわかりようもない。人生の時間も用意できるカネも有限。一度選んだ馬に、人生という全財産をすべて突っ込むのは危険すぎる。まあ競馬だってテキトーに買った馬券が当たることもある。人生の選択でもたまたま目についた学校や会社、あるいは配偶者を選んでそれなりにうまくいくこともある。けれども、人生は競馬の本命以上に「堅実」という選択肢をとることが難しい。


 しかし中庸を信仰しつつも偏った生き様を礼賛する人々は、外れれば素寒貧になる勝負で、「堅実」策に一点集中することをよしとする。素寒貧と言っても、財布にある5万や10万をなくすことではない。人生そのものを賭けた大博打だ。不可逆の大選択だ。「堅実」な選択肢を取ることは博打どころか選択でさえないと思っている節もあるが、大勝負である。
 より具体的には、進学するかしないか、就職するかしないか、進学や就職をするのならばどこへ行くか、会社や学校を辞めるかこのまま居続けるか、同じ専攻や専門畑でやっていくか転向するか、目の前の異性と結婚するか否か、配偶者と離婚するかこのまま婚姻関係を続けるか・・・人生は、選択の連続である。ここに於いて、常に「堅実」な選択をし続ければよいと考える人は少なくない。この「堅実」という選択は、変化の乏しい選択をし続けることと言ってもよい。そうしていれば、それなりに成功し、それなりに幸福を享受できると言わんばかりに。
 だが、聖人のごとく1人の妻に尽くし、職人のごとく1つの技能技術を極め、武士のごとく1つの場所に忠誠を誓い、一度選んだ道を変えない人間がどれほどいようか。多いか少ないかはわからない。だが、学校の中退や仕事の若年での中途退社、それに離婚をだらしがないことだと公言し、誰か選択に惑っている人間がいたら「堅実」と称して現状維持を繰り返してきた人間とて、自分自身がそんなに一本気な人生を送ってきたものかねえ。


 どちらにせよ、なぜ他人の思想行動について「偏っている」を否定詞として使う人間が、同時に1つの道に生きることを礼賛するのか、不思議でならない。


21-08
情報通の穴

 この人物は、あまり信用してはいけないのではないか、という気が最近している。この人物とは誰かというと、情報通で知られる知人だ。彼は恐るべき行動力と厚かましいまでの積極性であちこちの人間にパイプを繋ぎ情報を集める、日本人としては珍しい人物だ。本来ならば知り合わない、関係しない集団同士を橋渡しして、ノウハウや情報交流による利益を独占する、「弱い絆の強さ論」の体現のような人物だ。私は橋渡し役・情報通としての彼を評価していた。だが最近、彼の情報がアテにならないと気づきはじめている。


 私は学部時代には大学院を中期目標としていたが、結局経済的事情により断念して民間企業への就職に切り替えた。だが、大学を出てからは一層、院で学びたいとの欲求が沸いてきている。そして今、来年度には院試を受けるつもりで準備めいたことを進めている。実際に受けるか、受けたところで入るかどうか、入ったところで思うようにいくかどうかはわからんが。
 で、先日この情報通に言われた。「試験どうだった?」。私が最近受けた試験は、ロシア語検定だ。まあこれは落ちただろうな、と応えたら、「それではなくて」と。私はロシア語検定以外のいかなる試験もここ最近は受けていないと言うと、「だから、大学院だよ」と。院試などろくな準備もしていない、そもそも研究テーマの選定さえしていない。そもそもどこの院の誰のところに行きたいかさえも厳密には選んでいない。受ける先も決まっていない今、何を受けるというのか。なんとなーく受けて、点数だけで合否が決まる学部入試じゃないんだから。で、「受けてない」と応えると、「なんだよ、受けてねえのかよ」と吐き捨てられた。私は今年受けるなどと一言も言っていないのだが。


 この大学院の話も、彼の情報統御能力が信用できない一例だ。私は彼と大学院の話を再三して、彼も知り合いの大学院生や大学院志望者、研究者からの情報を提供してくれた。まあそれはあまりにも断片で役には立たなかったが、それはここに於いてはどうでもいい。問題は、私と何度も話していながら、彼は私が来年の受験を目標としているのではなく、今年受けると思いこんでいたことだ。最も根本的な情報をとりこぼした上で情報収集活動をするなど何の役にも立たない。
 じっくり話しているようで相手の言うことなど聞き流しているのか、それとも一度強烈な思いこみを造り上げてしまったら、思いこみを起点に相手の言うことを勝手に解釈し直してしまうのか。情報の取り落とし、あまりにも妥当性から逸脱した解釈、的はずれな発言が目の余るようになってきた。


 さらに言えば、そもそも基礎的な知識に乏しく、得た情報も体系化されていない。彼の情報は、どこかで聞きかじったセリフの断片の集合体にすぎない。大変な行動力で様々な人と会って貴重な意見を聞いても、本人に最低限の基礎知識がなければ、ただの雑談の集積しか出来ない。彼がもたらした大学院の話が役に立たないというのも、彼が大学や大学院、研究についてまったく知識がなく、イメージも持てないからだ。だから集めた貴重な意見とやらも、一般論、その人のステレオタイプ、その人固有の経験則、冗談、隠喩、例え話などの区別がまるでついていないし、彼が私に伝えられるのは彼が自分のコトバで理解できる範囲に留まる。下手をすれば、理解できないことを勝手に言い換えているかもしれない。
 体系的な研究をせずに雑多な本を乱読しただけの雑学王の知識は、知的水準の高くない人間との世間話でしか役に立たないように、体系的な研究もなく雑多な情報を人から聞き集めただけの情報通もまた、飲み屋の談笑程度の役にしか立たない。


 悪い人ではないし、情熱的で真摯な姿勢は好感が持てる。本来ならば知り合わない人間と接触を持つ行動力、電話番号や名刺をやりとりしただけで終わらず、パイプを保持し続ける努力と才能には敬意さえ覚える。しかし肝腎の情報統御能力に難があるのは、困りものだ。言っておくが、私から彼に何かを頼んだことはただの一度もない。彼が勝手によかれと思って、人のために情報を集めてくるのだ。役に立たない情報を集めてきて助言らしきことを執拗にされても、迷惑なだけだ。
 彼の「なんだよ、受けてねえのかよ」は衝撃だった。もしかすると彼は、私が9月か10月に院試を受けると思いこんでいて、だからこそ情報を集めて提供してくれたのかもしれない。だったら「受ける」と口で言いながら実際は何もしない姿勢(に彼は見える)は腹が立つことだろう。どんな誤解があったにせよ、こんなことで不和になることは避けたいものだ。自称であれ「情報通」を敵に回していいことはない。


21-07
都市伝説をひけらかすとは・・・

 大学受験に数度失敗して、予備校に通いつつも堕落した生活を送っているボンズが知り合いにいる。彼は自分が頭のキレる知性ある人間だと思いこんでいる。まあ19、20のガキにはよくあることだ。まあプライドが高い奴は好きだ。けれどもそれは、ブライドを満たすために努力するからだ。なんの根拠もなく努力も天賦の才もなく、自分が特別すばらしい人間だと喧伝する奴は、失笑を禁じ得ない。


 彼の言う程度のことは、私は9割以上知っている。おそらく彼が説明できないであろう背景条件や因果関係も口頭で説明できる。だが彼は、恐ろしく得意げに「こんなことお前は知っているのか」言わんばかりに、くだらない情報を話す。テレビや雑誌でちょっと読んだ程度のこと、仲間内の談笑で聞きかじったようなこと、下手をすればマンガや映画、電車の吊り広告で見た程度のことを。なんて恥ずかしい奴なんだ。
 けれども私は、10回に9回ぐらいは「そうなのか」と感心してやって見せてやっている。実際に知らないことは10回に1〜2回ぐらいしかないし、その1〜2回ももしかしたら妄想や創作の類かもしれない。けれども、私は敢えてバカのふりをしている。こんなバカに私がバカだと思われても平気だし、こんなバカを相手にいちいち突っ込んだ情報を提示してやったり、出典を指摘してやっても、恨みを買うだけでなんにもならないからだ。


 しかし今回は看過できない。都市伝説を口にして、「お前はこんなこと知っているのか?俺は知っているんだぜ。俺ってインテリだろう」という態度をとるのは。直前の文脈は忘れたが、アメリカの話だったか法律の話だったか・・・いきなりボンズは「アメリカでは、乾かしてやろうとして猫を電子レンジに入れて殺して、電子レンジのメーカーが裁判に掛けられて負けたことがあるんですよ」などと得意げに抜かしやがった。
 極めて不愉快である。まず第一に、猫好きな私にとっては楽しい話であるかのように猫が残虐な方法で殺された話をされるのは不愉快。第二に、この程度の有名な都市伝説を私が知らないという前提で話されたことが不愉快。第三に、これが都市伝説ではなくて真実だとボンズが思いこんでいることが不愉快。第四に、どこから聞いたとも知れぬ都市伝説やそれに類する話で、アメリカや法律を語れる、自分が知的な話しているという気分になれる人間がこの世に存在することそのものが不愉快だ。


 言うまでもないが、レンジ猫の話はアメリカの都市伝説である。「大手ハンバーガー店ではミミズの肉を使っている」「異常者は黄色い救急車で連行される」「死体をホルマリンプールにデッキブラシで沈めるバイトがある」などという、少し考えるとありそうもないとわかるくだらない与太話と同類に過ぎない。レンジ伝説には、本土アメリカでは犬や鳥など様々なバリエーションがある。けれども何故か日本ではこれは猫に統一されて、しかも、「アメリカは狂気の訴訟社会だ」という割とマジメな文脈でも使われているから不思議だ。
 確かにレンジの注意書きには「動物を入れるな」とか書いてあったりするけれども、今日日の説明書にはありそうもないことでも何でも書く傾向にある。注意書きが、そういう事件があったという根拠にはならない。もし「猫レンジ訴訟」が実際に起きたことならば、このボンズには是非、判例を示してもらいたい。「実在した」と証明するのは資料を見つけるだけでいいんだから、「なかった」と証明するよりも簡単だ。こんなに話題の事件なんだから、アメリカの法学・訴訟サイトで検索すればすぐ見付かるでしょう。もし実在すれば、だが。


 ちなみにこのボンズは、私が中央大の法学部を出ていると知ったときは驚愕し、よくわからない声を発しながら私の顔を数十秒に渡って凝視したまま静止したものであった。それ以来私に法律に関する話はしなくなった。これまた極端な権威主義者だ。私は法律なんて知りませんよ。


21-06
情報摂取能力

 世の中、情報摂取能力が低い奴が結構多いのではないか。断っておくが「情報収集能力」でも、まして「情報分析能力」でもない。ただ目の前にある努力せずして手に入る情報を、その場に所属する人間ならば誰もが聞いて覚えていて当然のことを、まったく聞いても覚えてもいない人がなんと多いか。


 当たり障りのないところで、学校の試験情報を挙げよう。試験情報を述べることが予想される最終講義で、講師が「試験についてだが」と明言して試験情報を述べたのにもかかわらず、試験当日になって「え?辞書持ち込み可なの?誰に聞いたんだ」とか驚く奴多数だったことは、こっちが驚いたよ。
 マイナー語学の小教室で、受講している人間は10人もいない。誰も私語も居眠りもしていなかった。講師の言うことを聞いていたかのように見えた。もちろん聞いているような顔しながらもぼんやりしていて、講師の言っていることを聞いていないこともあろう。けども、「試験について」と前置きがあって、「辞書持ち込み可だ。今回の試験は和文露訳だ。語彙の暗記ではなくて、表現力を試したいから辞書を使っていい」と解説までしていたのに、もっとも重要な「辞書持ち込み可」を聞いていなかった奴が、私以外の全員だというのはどういうことか。聞き取れなかったのならば先生に講義終了後聞きに行くなり、その場で聞き返すなりできるはずだ。そういった確認もしない。
 これには困惑した。小学校の教室よりも狭い小教室で、どうしてこんな大事なことを聞き漏らすのか。皆単位は取りたいんだろう。それも楽をして取りたいのだろうに。聞いている顔しながらまったく関係ないことを考えているのか。それも、試験情報についてわりと長く話している間も、講師の方には神経を少しも割いていなかったのか。


 これはバカ学生だから・・・などとは笑えない。個人的経験から言って、この調子の人間は月給取りにも数多く存在する。その場で上司が、全員に対して行った告知をまるで聞いていなかったり、1人1人に直接伝達した連絡をまったく覚えていなかったり、さらには連絡があったことそのものを覚えていなかったり。ひどいときには、連絡をしようとしたら、「それ聞いた」と遮っておいて、後日になってみると連絡の内容を知らず、連絡を遮ったことも覚えていないなどということさえしばしばあった。
 なぜかくも情報に対して鈍感でいられるのか。仕事についてからでも、楽をしたい、上司ムカつく、サボりたい、テキトーにやればなんとかなるだろう・・・と思いたいのはわからんでもない。けれども、必要な情報に耳を傾けようと何故しない。困るのは自分だろう。もちろん情報を聞き流している奴がいると、上司も同僚も、下手すれば取引先や客も困る。が、自分のことしか考えないとしても、あまりにも情報を取り落としていると、自分がヤキ入れられたり、評価が下がったり、最悪クビになったりするのだろう。この就職難の時代に、専門知識も技能も実務経験さえない青二才が、クビになると再就職も大変だ。仕事をクビにならない程度にいい加減にしたいのならば、最低限の努力として、目の前の情報をなぜ摂取しないのか。理解に苦しむ。


 まあ、学校では授業を聞いているフリをしていれば「苦痛な時間」は過ぎ去ったし、何かしでかして教師に怒られても、しばらく聞いているフリしながら聞き流しておけば、それで済んだ。聞いていても聞いていなくても、殺されも生活基盤を奪われもしなかった。卒業がかかった単位認定試験や生活がかかった仕事で、当たり前の、目の前に提示されている情報を摂取しない奴は、聞き流すことに慣れすぎているのだろうか。テキトーに聞いているフリしていれば面倒事はすべて過ぎ去り、人のコトバなど聞かなくても何も困らない。そんな感覚を持っているのだろうか。あるいは人から情報など得なくても、自分が考えて行動すればそれで全て済むと思っているのか。
 なんでこんな人間がここそこに観られるのか。それは知らん。けれども、こういう腐れ根性のアホ野郎など、カネを払って雇う必要などまるでなかろう。日常的な仕事の大部分は、連絡を徹底し、疑問点を確認し、情報に対して堅実であれば、ある程度はうまくいく。目の前で言われていることを聞かず、聞き逃したことを確認もしないような奴は、最も基礎的な業務を放棄していることになる。こんなクズが、なんてことのない難しくもない仕事を躓かせる。もし今の日本の若者に、何らかの原因によってこういうバカが増えているのだとしたら、この国の将来はますます危ういと言えよう。 


21-05
自殺大国

 何日付だったかは失念したが、日経新聞によると、日本と韓国は世界有数の自殺大国だそうだ。2002年08月03日付の英高級紙「Independent」によると、「アジア経済危機以来急上昇した日本の人口1人当たりの自殺率は、イギリスの2倍」とも言われている。日経は日韓を、「Independent」は日本を、「ストレス大国」だと述べたが、そういう問題なのだろうか。
 日韓は確かに、「失われた10年」やアジア通貨危機、ITバブル崩壊などの影響が大きかったし、未だに経済的に好調なわけではない(人件費の圧縮や企業体質の効率化で利益率は高めているけど、国全体はまだまだ停滞している感がある)。商売や仕事がうまくいかず、債務が嵩んで自決・・・というシチュエーションを考えるのは簡単だ。しかし貧乏な国はほかにいくらでもあるし、労働者の給与が高い国が住み良い国だとも限らない。
 09月02日付の日経朝刊によれば、ILOの「経済安定性」調査で、所得が世界的に最も高いはずの日本は90位中18位、アメリカは25位だった。「経済安定性」とは労働環境や社会福祉をも含めて、安定した生活を送れるかという指標である。所得が高いだけではダメなのだ。日本は「過労死」など劣悪な労働条件、労組の弱さ、教育・訓練の弱さ、雇用保障の不安定さが大きなマイナスとなり、アメリカは労組の弱さと労働災害でマイナスとなった。
 このILO調査や人口に占める自殺者数、経済的な好況不況、そして精神的風土。これらをどう見て、どの国が他国と比べてどう違いを見出せるか。これは興味深い設問だ。ただ、単純に自殺者を「商売に失敗したアホ」「競争に敗れた敗者」「社会のストレスに耐えられない弱者」と一刀両断できるほど、簡単な問題ではなさそうだ。ちなみに「Indepedent」は、「日本では仕事の失敗を精神的な欠陥と見なされ、そのため自殺の原因は仕事がらみのものがほとんどである」と驚きを持って伝えていた。とにかくこういう統計を見るたびに、もっと勉強して日本から飛び出したくなるね。


21-04
親は明日も昨日同様とは限らない。

 私の母親は健康上に、問題を抱えている。私が小学生の頃から、「この人、このまま死ぬんじゃないだろうか」と思うようなことがしばしばあった。それでも今まで一度も死んでおらず、それなりに社会生活を送ってきたのだが、最近とみに衰えてきている。1年前に出来たことも、半年前に出来たことも、母はそのいくつかを出来なくなってきている。もう飛行機や特急列車で移動することも難しいだろう。それどころか、自動車で郊外のスーパーに行くことさえも躊躇する。だから母は、近所のスーパーまでしか行けない。
 今後調子がどうなるかはわからないし、好転するかもしれないが、もはや家族一緒で旅行をすることも難しい。誰も口には出さないが、前回行った旅行が最後の家族旅行になるのではないか。だからと言って、母が明日や来年に死ぬというわけではない。多分。今後10年20年近くは生きるとは予想している。けれども、以前できたようには身体が動かず、以前何とも思わないで出来たようなことが出来なくなってきている。老いるとはこういうことか。


 母が衰えてきたこと、出来ることが徐々に限定されてきたこと。これらを考えるにあたって、1つのことを思い出さずにはいられない。それは私の大学時代のことだ。当時東京都多摩市に住んでいた私のアパートを、母が訪ねてきたことがあった。どういった理由だったかは覚えていないが、なにかのついでではなく、おそらく私の様子を見に、わざわざ北海道の釧路から東京までやってきたのだ。
 母の東京滞在日数は少なかった。そうそう実家を空けるわけにもいかないし、ホテル住まいはカネがかかる(ゴキブリやヤモリが出る私の部屋には、泊まれないとのこと)。だから、大学のゼミを終えてとっとと帰ろうとしたとき。ゼミの連中が飲みに誘ってきた。


 私は初顔合わせや合宿など、ゼミ公式の飲み会しか行ったことがない。ゼミの連中は2〜3人の例外を除いて、私がもっとも気に食わない、付き合っても何の役にも立たない類の人間だったからだ。そのアホさと熱意のなさは、このゼミを私に紹介した先輩が「俺の代はみんな出来る奴ばっかだったけど、今回こんなのばかり入ってくるとは思わなかったんだ」と、私に詫びてきたほどだ。もちろん今回もたった数人の私的な飲みに出るわけもない。例え部の親しい先輩が誘ってきたとしても、もちろんこの日はとっとと帰った。母は翌日には釧路に戻ってしまうし、アパートで待っている親を放って飲んだくれなど出来ようはずもない。だから、ゼミの飲みは断った。
 が、断ったら理由を聞いてきた。理由が必要なのか。そんなに理由が聞きたいのか。どういう理由を期待しているのか。それとも、理由があろうとなかろうと来て欲しいのか。そもそも私は、ゼミの私的な飲みに一度も行ったことがない。必要な事務連絡と討議以外、ゼミ生とろくに口も利いたこともない。お前らだって私を誘っても面白くないだろうし、私はお前らのようなバカと飲む趣味はない。私が自分たちの仲間に入っていないから憐憫を覚えたのか、自分たちと一緒に飲むことが万人にとって幸福なことで、ゼミ員同士はそうして馴れ合うべきだと思っているのか知らないが、「仲間ごっこ」はよそでやってくれ。お前らだって月曜5限にしか会っていないのに、よくもまあそんなに親しいかのようなフリしていられるな。週一回会って、たまに酒飲めばそれで腹割った気になるんか。
 とは言わないが、私は無難かつ正直に「今日は親が来ているから」と応えた。しかし奴ら、それを理解できなかった。私がバカげたことしを言ったかのように非難してきおった。


 親が遠いИНКから飛行機代とホテル代とで10万円はかけてやってきて、息子の様子見に来ているんだ。それを捨て置いて、飲んだくれていられるか。私はそれほど親孝行な人間でもないが、何百万もの仕送りと学費を負担してもらっているんだ。年に1回くらい顔見にやってくるのを歓待するのは、当然だろう。
 が、彼らはそのほとんどが実家から大学に通っている自宅生。多分親なんて、そのへんにいて、同じ家に暮らしていながら正面から口利くことも滅多にない、どうでもいい存在なのだろう。それでいてメシや風呂、掃除、洗濯、ついでに学費や小遣い、さらには車の共用なんかで世話してくれるのが当然か。で、ことさらに「親がアパートに来ているから」と早く帰る私は、親離れ出来ていない自立心のないガキか。マザコンファザコンの類か。あるいは親に言いなりになって、親に刃向かうことも出来ない気の弱いガキか。あるいは親の言うこと聞くしかできないステレオタイプな「いい子」か。ふざけんなよクズどもが。
 親元から一度も離れたことがなく、高校からそのままの続きで大学まで来た連中だ。18で親元を離れた私と、親や家族に対する意識が違うのは当然だ。遠方から親が訪ねてくる、というシチュエーションを想像することさえ出来ないのかもしれない。だが、ちょっと幼稚すぎるんじゃないのか、この発想は。自分とは違った境遇の人間に対する想像力がなさすぎる。


 このように、大学時代は母は体調がいいときは東京までやって来られた。しかし、もし私が今この川崎の家で倒れて、あるいは交通事故で、東京・神奈川の総合病院に入院したら。多分母は駆け付けることも出来ないだろう。動揺して精神も自律神経も不安定な状態で、無理を押して飛行機に乗ったら、確実にその行為は母の寿命を縮める。もしかすると、飛行機の中で心停止に至るかもしれない。
 健康な人間にとっては、交通機関の発達によって世界は狭くなっているが、健康ではない人間にとっては世の中は未だとてつもなく広い。だから、会えるときに会わなければならないのだ。私が釧路に帰るしか会う方法がなく、母が東京にやってくることが今後まずない以上、母と会う機会は単純に考えて大学時代の1/2だ。それも、私が東京で入院したり、飛行機に乗れない特殊な病気にかかったりすると、もう会うことさえも難しくなる。もっとも会えるときに会わないと、いつが最後になるかわからないというのは、どんな健康な人間も事故や急病でいつ死ぬかわからない以上、誰にとっても同じことが言えるが。


 大学時代のゼミ生達は、ほぼ全員が私より1つ年下だから今年で25〜6歳。名簿を見たが、寮も転勤もないような東京の小さな会社にその多くは就職している(蛇足だが1つ上の代は総研、中央官庁、大学院、議員秘書が主な進路である)。今でも親元に暮らし、自分の腕でカネを稼ぎながらも、住居費・光熱費・食費・自動車維持費の大部分あるいは一部分を親に依存しながら生きていることであろう。それ自体はわるいことではない。私だって実家の近くに会社や大学院があれば、そうしていた。けれども、彼らは親がいつまでも生きていない、いつまでも足腰が立つとは限らないと、本気で考えているんだろうか。それはわからない。けれども私は、ここ2年で、特にこの数ヶ月で目に見えて衰えてきている母を見ると、いつまでも脳天気なことを言っていられない。もし親にまつわる行動を、誰かに当時のゼミ生のように嘲笑されたとしたら、私は殴るか怒鳴るかはするかもしれない。 


21-03
利己を追求した副次効果としての利他

 「企業はその活動によって、社会の発展に寄与する」などというフレーズを聞いたら、こう言ってくる人は多い。「利益を追求するばかりで、全然企業は社会に還元していないではないか。そんなのはきれい事だ」と。こういう人が考える「企業の社会貢献」って、企業が会社の近くに公園を作ったり、小学生の見学を受け入れたり、福祉施設に募金するようなことしかイメージ出来ていないのではなかろうか。


 企業の社会に於ける存在意義とは、企業活動そのもののことである。例えば、損保があるから運輸会社は事故の際には天文学的な損失となる海運事業を手がけられる。個人だって、自動車保険もないと、怖くて車ひとつ運転できない。もちろん損保は事故が起きる確率を厳密に計算して、自社が儲かるようにカネをとっている。当たり前のことだ。しかしその利益追求の活動があってはじめて、他の法人も個人も輸送や運転を出来るし、イベントも開催できる
 もっと簡単に言えば、A地点で安いモノを安価に購入し、その物品が不足しているB地点で高く売るのが商業だ。この商人の活動があってはじめて、A地点の人間は商品を現金化することが出来て、B地点の人間は必要な物品を手に入れることが出来る。「安く買い叩いて高く売りつける」と聞いたらアコギなイメージがあるが、誰もタダでモノを運び提供する奴はいない。この大もうけする商人がいないと、世の中全体が貧しくなる。


 こんなことは経済学どころか、小学校の社会の教科書レベルの話だ。だけれどもこんなことも理解できない人がいるから大変だ。「企業の社会寄与」と聞いて、無償の真心とやらで公園や緑地を作ったり、大金寄付するようなことしか考えられない人は、利益を追求する企業活動を悪辣な行為としか思えないのだろうか。こんな人は、企業の社会的責任なんて概念を理解できないだろう。
 今の世の中、CSR(Corporate Social Responsibility。企業の社会的責任)やコンプライアンスなんてことがよく叫ばれる。それは、ただポーズでエコロジーとかに「タダで」取り込むことではない。エコロジーといった社会的に役に立つことに取り組んで、そのことによって日常的に利益を上げる仕組みをつくることそのものが、CSR/コンプライアンス対策だ。


 例えばCSR対策の一環としてエコロジーに取り組んでいるある印刷機器メーカーは、インクトナーの再利用やプラスティック使用量の低減を実施している。これは石油資源の節約になると共に、ゴミ排出量を減らす方策だ。それと同時に、消費資源を減らすことによってコストをも削減している。やる以上は利益にならないとならんのだ。気まぐれに公園を作るのと違って、環境対策といった重大なCSRを果たすためには、常態として出来ることでなければならない。利益にならないことなんて、やってられない。
 例え廃プラスティックを使ったプリンターだからエコロジーだ、このトナーは再利用品だからエコロジーだ、と言ったところで、それが一般の商品より高ければ誰が買うか。物好きなエコロジー志向の個人ぐらいしか買わない。それでは商売にならない。最低でも従来品と同じ値段に抑えて、従来品同様に売れなければただの技術者の遊びになる。そしてエコロジー商品を安く売ったところで、利益が上がらないようならば、それも長続きしない。長々期的な利益を見越して、短期的には売れば売るほど赤字になるプリウスを発売したトヨタのようなことは、圧倒的大多数の企業には不可能なことだ。
 まあ、大抵のエコロジー技術は在来技術よりもカネがかかるので、国家によるインセンティブも必要だ。それでも、利益にならないことは出来ないのだ。個人だって、気まぐれでコンビニの募金箱に1万円札突っ込むようなことは年に一度ぐらいは出来るかもしれない。けれども、毎日高価なエコロジー商品を購入したり、あるいは自分の労働力をカネにならない「ボランティア」活動に365日投入するようなことは出来ない。その程度のことを何故想像できないのか。日常的な利益追求活動として出来ることでなければ、環境対策も法令遵守も、社会的弱者雇用も長期的に出来るわけがない。


 こういう人間は決まって、volunteerという語を「無償奉仕」としか訳せない。つまり、無償で真心でやる行為以外は金儲けであるから「ありがたくない」「偽善」だと、真顔で言える類の人間だ。例えば、NPOが老人の世話や災害被災地の支援にやってきて、要介護者や被災者が「お車代」「お礼の気持ち」として出した幾ばくかのカネをもらっただけで、「カネをもらっているからそれは『ボランティア』ではない」としか考えられないわけだ。
 とんでもない、volunteerとは「無償労働」という意味ではない。市場原理ではなかなか労働力が回ってこないところに、自分の労働力を投入することだ。地震で焼け出された人々に食料を配布する係りだろうと、孤独な老人のお世話をすることだろうと、世の中には人間が足りないシチュエーションは必ずある。行政能力を超えた事態や法令の穴は必ずある。そんなときに我こそはと志願する人間の心意気は立派である。しかしその心意気は、完全無償でなければいけないということはない。


 もちろん高額な報酬をぶんどれと言っているのではない。被災者や要介護者がありがたいと思って差し出す少額の現金や、理解ある職場や大学が出す特別評価を貰ったからと言って、「カネもらったからこいつは汚い奴だ」「どうせお前は大学の単位が欲しいんだろ」とは非難することは筋違いだということだ。例え単位が欲しかろうと、会社の表彰や宣伝塔としての立場が欲しかろうと、それがどうだというだ。必要なのは人手であって、動機の完全無欠の純粋さではない。
 さらに言えば、「無償でなければならない」という意識が蔓延っているこの日本では、ボランティア活動の為に貴重な有給を潰して、自腹で交通費払って参加している人間だって少なくない。せめて、ボランティア参加者への評価や、交通費・食費の支給ぐらいあっても、バチはあたらないのではないか。要介護者や被災者の中には、タダだと落ち着かないと思う人も多い。しかしボランティアへの報酬が制度化している欧米なんかの例を見たって、その額は微々たるものだ。最低級のアルバイトの方がよほど儲かる。
 少なくとも、何にもしないで「見返りがあってはボランティアではない」とか文句しか言わない奴よりは、志願して労働力を提供する人間は立派であり、役に立っている。


 そういう意味では、私の高校時代の担任はとんでもない思想の持ち主だった。彼の名誉のために言っておくが、彼は私にとっては大変気に食わない人物ではあったが、基本的には仕事熱心で善良な小市民である。ただ、災害支援という発想は粗末すぎた。
 私の高校時代には阪神淡路大震災が起きた。北海道釧路市に住んでいた私にとって、関西は知人も親戚もいない、遠くて遠い場所だった。だから、あんまりシンパシーは持てなかった。もちろん気の毒だ、大変だと思ってテレビは観ていたが、そのテレビの向こう側がタシケントだろうと西安だろうと、見る目はあまり変わらなかっただろう。しかしそれでも、担任が被災地の人達のために、我がクラスでも何かしようではないかと声をあげた。ここまでは立派である。


 いくら他人事だと言っても、我々は小遣いからいくらか払うことぐらいは躊躇しなかった。だからすぐに、生徒同士で1人いくらかずつ集めて送金しようという話になった。新聞やテレビに連日義援金の口座番号が載り、邪魔になるから物品は要らないという報道もされていた。奥尻島が壊滅した北海道南西沖地震の経験から、衣類や食品を個々人が送っても邪魔になるだけで行き渡らせる方法もなく、結局廃棄されたことを、行政もボランティア団体も知っていた。だからこそ、個人に対してはカネのみを求めていたのだ。実際、阪神大震災では流通・供給・分配がぶっ壊れていて、ボランティア団体、企業、官庁同士の連携もうまくいかず、何よりも不足していた医薬品でさえ相当数が使われないまま放置されて、使用期限が切れて廃棄された。
 よし、クラスで1人1000円も出せば、44000円にはなる。2000円ならば88000円だ。微々たるカネだが、役に立ってくれるだろう。生徒同士で、こういう結論に達した。が、担任は言った。
「カネはダメだ」


 なぜだ。はした金でも、いくらか払えば何かの役には立つんだ。何人かの水代・食事代にはなるかもしれない。毛布の一枚二枚帰るかもしれない。仮設住宅の一部分になるかもしれない。しかし担任の論理はこうである。
「カネなんて、お前らが親から貰ったものだろう。そんなもの送ってもお前らの気持ちが伝わらないだろう」
 ではどうすればいいと言うのか。
「モノを送るんだ。服とか毛布とか」
 もちろんクラス中から反論が巻き起こった。カネが「親から貰った」という理由でダメならば、モノだって「親からもらったカネ」で買ったものだ。何が違う。そもそも、「親から貰ったものかどうか」などということに、何の意味がある。さらに言えば、衣類や毛布、食品、飲料水は邪魔だから送るな、と新聞にも明記されているし、ニュースでも繰り返し言っていただろうに。あなたは朝ニュースも見ないのか。何か支援したいと思うのならば、それに関連する新聞記事ぐらい読んでもいいんじゃないか。結局、送金案には担任は絶対に首をタテに振らず、物品案は「ものを送るな」という記事を知っている生徒側によって却下された。じゃあ、何をする?


 先生が言ったことには驚愕を禁じ得なかった。
「みんなでお手紙を書きましょう」
 先生。もし私が被災者で、心にもない同情を書きつづった紙切れが届いたら、燃やしますよ。クソの役にも立たない。被災者はクソ忙しいのに。もちろん手紙案も生徒側によって、却下された。親の稼ぎがダメで、尚かつ役に立つものを送るとしたら、あとは献血しかない。ということで私は献血案を提示した。それに対して担任は。
「釧路で献血して、神戸までみんなの血がいくのか?」
 いかないかもしれませんね。しかし震災のために全国的に輸血用血液が不足していた。不足しているところに血液を提供するのは、大変な社会貢献ではないか。釧路の血液センターのストックに余裕が出れば、釧路のストックから阪神へ血液の融通もしやすくなる。だから、例え今私が提供した血液が、結果として釧路でバイクで事故ったガキに注がれようとも、血液を提供したことは震災への支援になるのだ。と言ったのだが、担任は理解しなかった。


 結局、我がクラスは被災者への支援を何もしなかった。担任が横やりを入れなければ、委員長のT君を中心にしていくらか集め、送金をしていた。T君は責任感と正義感の強い男だから、必ずや任務を完遂していたはずだ。そしてそのカネは、某かの役に立っただろう。そう、送れば何かの役に立つのだ。どんな気持ちでカネを送ろうと、そのカネが親からもらった小遣いだろうと新聞配達して稼いだカネだろうと、なにが違うというのだ。
 確かに送金する側にとっては、募金をする行為は自己満足以外の何者でもない。安全で快適な暮らしの中で、労働力を提供するわけでも一財産寄付するわけでもなく、ただちょっと小銭を払うだけで、「ただの傍観者ではない」「自分は何かをした」「俺は無関心ではない」という気持ちになることが出来る。でも、送れば役に立つんだ。被災者が求めていたのは、物憂げ無い教室で書かれた軽薄な手紙でもなければ、送られてきたカネが送金者の親の稼ぎか否かということでもない。要るのは、水であり食料であり医薬品であり、人手なんだ。気持ちではない。気持ちを示したいのならば、相手にとって何が役に立つかを考えろ。赤十字が「モノはいらん。カネを送れ」と言っている以上、カネを送るしか選択肢はなかったはずだ。受け入れ先がないのに、モノをどこに送るというのか。同じ自己満足にしても、相手にとって役に立たないばかりか迷惑な自己満足は、クズの所業だ。


 ちなみに大学の後輩は、1995年当時、震災に対して全く違った対応を見せていた。彼はそのとき埼玉の中学生だったが、我々のような不毛な論争に終始しなかった。行動した。彼は生徒会役員だったが、生徒会でカネを集めただけではなく、会長自ら被災地に乗り込んで現地の中学校と連絡をとり、直接カネを手渡して、使い道まで実際に確認したという。その学校はテレビを買ったそうだ。以来、中学校同士の交流は続いているという。
 神戸の中学生も校長も、「そのカネはお前らの親のカネだろう」とは言わなかったはずだ。まして、「カネなんて汚いものでなく、真心のこもったモノを贈れ」とも思わなかったはずだ。カネの提供は些細でも役に立った。これが事実だ。心を伝えたいのならば、カネや労働力といった役に立つものを提供してからはじめて、手紙を書いたり、訪問したりできる。ただ書き終えたら忘れるような手紙に、何の「心」を見出そうか。
 中学生だった後輩と、高校生にもなって何もしなかった我々。違いすぎる。情けなさ過ぎる。担任を説得できなかったこと、担任を無視して募金を強行しなかったこと、さらには大学の後輩のように現地に乗り込むことなど思いつきもしなかったこと。これらは我々生徒のふがいなさだ。けれども、カネを送る方向にまとまっていた生徒に横やり入れたのは、いい大人の担任である。この担任のような、物事を判断する能力も、他者を慮る能力さえ欠ける人間には、volunteerや企業責任といったものを理解することはできないであろう。


21-02
無知は人類に対する罪悪

 大学時代の後輩と先日会って聞いた話。「帰省して弟と話していたら、奴は創価学会と公明党が関係あることそのものを知らなかった。大学行っててそんなことも知らんのかと叱責したら、理不尽なことを言われたと思いやがった。弟でなかったら殺している」とのこと。いるんですよ。特別な勉強をしなくても専門書を読まなくても、ただ生活しているだけでも耳目にするような知識−いわば基礎知識としての常識−を知らない人って。どういう人生送ってきたら、こんなに無知でいられるのか聞きたくなる奴には、しばしば出くわす。


 友人の弟さんについて貶めるのは気が進まないので、私の札幌時代の同僚たちを例にして話を進めよう。彼らもまたバカだった。いや、同列に扱っては弟さんに申し訳ない。彼らは底なしのバカだった。それも知的な会話を出来ない、高度な用語や概念を知らないといったレベルではない。生活していればなんとなく知る程度のことをあまり知らなかった。何度も書いているが、代表例をいくつか書く。


・violenceという語を「ヴァイオレンス」と読むことも、「暴力」という意味もしらなかった。
・「昨日」「明日」「第一」程度の漢字を書けなかった。
・「誓う」「啓蒙」「誇張」程度の漢字を読めなかった。読んだところで意味がわからなかった。
・「環境に適応する」というフレーズを理解できなかった。
・「澤田」と「沢田」が実質的に同じ姓であることを知らなかった。
・Yシャツがいわば下着に過ぎず、Yシャツだけで人に会うのが失礼だと知らなかった。
・Yシャツ・パンツ姿を「背広」と思っていた。
・スーツ・革靴で、白いスポーツソックスを履くのが異常だと微塵も思っていなかった。
などなど。


 しかしこういう人間って、自分が無知なことそのものを知らない。自分の無知を指摘されたら、どうでもいいことを理不尽に責め立てられたように思うらしい。あるいは、無味乾燥な受験知識で役に立たないだろう、という態度をとる奴もいる。そんな馬鹿な。いい年こいて大学まで出で、アメリカの首都も知らない奴もいるが、別に世の中の人間は「アメリカの首都はワシントン」と紙に100回も書いて覚えたわけじゃないだろう。スポーツ新聞でもマンガでも、電車の釣り広告でも、いくらでも目にする機会はある程度のことだ。それがわからない奴は、自分が知らないことはすべて「無味乾燥なクソ勉強」「マニアックな重箱つついたクソ知識」としか思えないらしい。


 それにしても、なぜかくも無知でいられるのか。この日本でテレビのある家に住み、くだらん娯楽番組を垂れ流して、マンガやクソ雑誌をながめていても耳目にする程度のことを、なぜわからんのか。私はひとつのヒステリックかつ差別的な仮説を立てた。それは、バカは人格的に劣るが故にバカだ、ということだ。


 どういうことか。まず第一に、バカは努力しない、できない怠惰な人間だ、ということだ。この物質的に優れた日本で、教育を受ける機会に恵まれ、情報も豊富な中で、バカは自分を高めるちょっとした心がけも持っていない。情報を摂取し判断する能力は、いかなる仕事をする上でも大切なことである。しかしバカは情報を摂取しようという意思そのものを放棄している。さらに言えばバカでも、いや、バカだからこそ、勉強して「いい大学」とやらに入れば人生うまくいく、というステレオタイプは持っているだろう。自分の人生にとって有利そうな道である。しかしそれがわかっていながら、別の目標があるわけでもないのに、ろくに学ばない。


 漢字の読み書きもろくに出来ないまま義務教育を終え、惰性的に高校に進み、働きたくないし目標もないから大学まで行く。経営難の大学が溢れている為、無試験同然の大学はいくらでもある。そして大学でもバイトや享楽のみに終始し、卒業させないとイメージが下がって入学者が減ることを恐れる大学によって、論文どころか字もろくに書けないまま卒業させられてしまう。こんな人生は怠惰以外の何者でもない。しかしやろうと思えば、22年間こんな生活ができる。それに埋没してしまえば、義務教育程度の知識も知らないまま大人になることは可能である。こんな人間は結構多い。
 少しでも時間を有意義に過ごしたいのならば。少しでも親のカネに報いたいのならば。多少なりとも就職が気になるのならば。少しは学ぶはずだ。1日18時間学んで、研究者やビジネスリーダーになれと言っているのではない。生活する上で最低限恥をかかない程度の知識を身につけてもいいはずだ、と言っているのである。それ程度の些細な努力も知識の摂取もしない人間は、ЖНРЙとは言い難い。СЙЗН自体が罪悪である。
 こういうバカに限って、学歴論・受験論に便乗して「ペーパーテストで人格はわからない」「勉強するのがエラいのではない」とほざく。が、親の期待と資金に対してまったく報いず、自分のための研鑽もせず、享楽と休養しかしない怠惰な人間が、「人格的に優れている」はずもない。「試験では計れないすばらしい能力」を持っているとも思えない。第一、小中学レベルの読み書きも出来ないようでは、業務に支障が出る。また、怠惰を極めて恵まれたチャンスを少しも活用しない人生が「かけがえのない個性」だとも思えない。怠惰はダメです。


 第二に、バカに謙虚さはないと言える。謙虚と言っても、親や教師、上司なんかにへりくだる、という意味ではない。情報に対する謙虚さが問題なのだ。自分の考えに籠もることは快楽だ。自分のイメージだけで物事わかったつもりになりたいものだ。自分勝手にテキトーに物事を思い描いてさえいれば、何事もわかっているという安心と、自分はわかっているという有能感を得られる。が、これがかなり危険な感覚なのである。自分がものをわかっているという傲慢さを持つと、情報に対して向き合う姿勢がなくなるのである。


 例えば、「アメリカの首都は?」と聞かれて、「ニューヨーク」「あ゛!?シュト?」と応える奴でも、「アメリカの首都ワシントン」というフレーズを聞いたり読んだりしたことは必ずあるはずだ。しかし傲慢な人間は、そうした情報を耳目に入れていながら関心を払わない。「小難しいこと」と判断した瞬間に、「くそくだらねー」と判定し、情報を捨ててしまう。あるいは話者が教師や親父だったら「従ったフリをすればいい」「気に喰わねえ」と、話者との相対的関係のみに思考が終始してしまったりもする。この場合も情報そのものは「役に立たないくだらないこと」と判断している。あるいは、「俺は優秀だから後で勉強すればわかるに決まっていること」「俺は物事をわかっているから、聞くまでもないこと」と思っている場合もある。いずれにせよ目の前の些細な情報をスルーして、自分勝手に構築した妄想みたいな稚拙な世界観をいつまでも保持していることにかわりはない。
 また、業務上必要な連絡をして、「わかってる。聞いた」と言う奴が、内容を知らないこともよくある。私もこういう奴には手を焼いた。伝達しないと仕事にならないのでしつこく聞かせてやったら、「わかったわかった」と言うが、後になってみると連絡したことそのものをも忘れていることもザラであった。つまり最初から聞いていない。そのときは理解したつもりになっているのか、あるいは聞くまでもなくすべて自分はわかっているつもりなので、本気で聞いていない。しかし聞いていないことを出来るわけもないのだ。バカにはこの意味に於いても業務遂行能力はない。小中学校程度の些細な勉強を少しもやらず、親や教師、部活のコーチの諫言を聞き流してしたがったフリだけしていれば、それで学生時代は済んだかもしれん。しかしその結果は、いい大人になってもガキでも知っているようなことを知らず、仕事をする上での伝達情報にさえ関心を払えないバカが出来上がる。ついでに私が手を焼いたバカは、クビになった。


 学ぶということは、独りよがりな世界観を疑ってみることである。場合によっては、誤りを認めることである。そしてより適切そうな情報を求め続けることである。これを放棄して、「自分はものをわかっている」「教師や上司の言うことなんかくだらねえ、役に立たないことだ」と20年も25年も思い続けていると、とんでもないバカが出来あがる。何にも知らないのに世の中わかったつもりであるというのはすなわち、妄想に満ちていて、しかも迷信深いということだ。こういう人間だってものは考えている。時には必死で考える。しかしそれは、出来上がっている同じ短絡回路を、いつまでも巡っているだけの非生産的な行為である。いつでも同じ決まり切った解答しか出ないし、しかもそれは自分にしか通用しない。なぜならば、他人の情報に真剣に耳を貸さない人間は、自分にとって気に喰うか喰わないかといった情念と、客観との区別もつかないからだ。様々な人間から情報や意見を聞かないで世の中を判断しようと思ったら、あらゆる自然現象や社会現象に「人格」を見出すしかないからだ。かくして謙虚さのない人間は、バカになるのである。


 もう今の日本は、「ゆとり教育」だの言っていられる段階ではない。大学を出て学士の給料を貰う奴が、世の中のことをまるでわからず、読み書きも出来ず、それでいて自分が優秀でものをわかった人間だと思いこんで、他者のコトバに耳を傾ける習慣そのものがなかったりする。長い時間とカネを使って、22や23まで学生やっていて字も書けないのならば、そればムダ以外の何者でもない。学生時代に覚えたことは、酒と煙草とセックスと運転ぐらいだろう。誇らしげに「自分はやるべきことをやった。これは勉強よりも尊いことだ」と称する奴も多い。彼らにとっては、「勉強している奴やマジメな奴は、自分たちのような楽しいことを何もしていない、経験のないクズだ」という妄想が、自らの自尊心を支える拠り所なのだ。が、そんなことは誰でもどんな生活をしていてもやることだ。
 義務教育程度の知識も識字能力もない人間に大卒の給料払うぐらいならば、最初から中卒の人間を雇った方がよほどいいのではないか。会社にとっても、社会にとっても。大卒バカに結局会社が勉強させるのならば、15歳の段階から雇用者が教育した方がまだ成果が上がるかもしれん。


 日本の教育の問題や、若者の無気力・無教養には、様々なことが言われる。あらゆる格付け機関の報告で日本の大学のレベルは下位を記録し、日本社会の潜在力も低く見積もられている。私が書いた「人格」に問題があるという発想も、よく言われる「テキトーにやってられる豊かで甘い社会だから、ガキが甘える」という論とそう違わないだろう。こんな簡単なことで世の中わかった気にはなれないけども。少なくとも、私はそんなバカとは一線画したいし、バカに埋没して周囲のレベルに合わせる気もない。かといって、バカ連中の辞書代わり事典代わりをして人生の貴重な時間を費やすのもごめんだ。
 あと20年もすれば日本も移民を大幅に受け入れざるを得なくなり、海外の専門技能者が労働市場にもっとくいこみ、さらにはアメリカ的な資格社会が到来することと予想される。それが何を意味するかというと、今まで一億総中産みたいな妄想を保ってこられた社会が崩壊し、所得格差が大きくなるということだ。早くそうならないかと願う。いつまでもエセ平等や家族の擬制によって、バカが一人前面してここそこを跋扈するのではなく、その能力と人格にふさわしい地位と収入に留まり、自分がバカであるがゆえに他の人々とは違うと自覚できるような社会こそが理想だ。まあ私自身も、底辺にふり落とされないようにしなければならんのだが。


 以下は蛇足だが、謙虚さについてもう少し。
 人にものを言われるのは、腹立たしいことだ。誰だって、自分の行動言動が正しいと思いたいし、自分の判断や思考がそれなりに適切だと思いたい。それを他者に否定され、しかも今まさにやろうとしていることにストップをかけられたら気分がいいはずはない。そこで腹立たしいという感覚に終始し、腹が立つから相手が間違っている劣っている、としか思いたがらない奴はバカだ。しかしいるんですよ。他者がなにを言っても、自分の発想や行動こそが絶対正しいと思っている奴って。あるいは自分が正しいと思っているが故に、他者の話をまったくもって聞いていない奴って。従った方がうまくいくこと、自分のやり方ではまずいことになることに、耳を貸そうとしない奴はバカである。
 こういう奴にアドバイスをしたばっかりに悪し様に罵られたこともあるし、しかも私のアドバイスによって危険の回避や物事の成功がもたらされたはずなのに責められたこともある。例えばわりと当たり障りのないことを挙げると、本社から人事課長が来ているパーティーにYシャツ1つで参加しようとしたバカに、ジャケットの着用を勧めたとき。飛行機も乗ったことのないバカが、空港で荷物をコインロッカーに入れようとしていたから、搭乗手続きして預ければいいと勧めたとき。電車も乗ったことのないИНК者に、駅の便所の場所を教えてやったとき。なぜ責められるのか、奴らの脳髄のメカニズムは理解は出来る(結局は、他者にものを言われたくない。自分の案を否定されたくないだけ)。が、理不尽この上ない。まったくもって、謙虚さがない奴はどうしようもない。これは腹の虫が治まらないので、いつか必ずや、より具体的に記述することであろう。


 さらに言えば、謙虚さが無い人間は、他者の心情や事情を慮る想像力も乏しい。すべて、自分の妄想でしか判断できない。「俺がこんなによくしてやっているから、相手も俺をよく思って感謝してくれるだろう」「こいつはこのすばらしくも優秀な俺にものを言ってくる。きっと自分が世界一優れていて間違いのない人間だと思いこんでいる傲慢な奴なんだろう」みたいなことを本気で思っている人間には、何人も出くわした。しかもこんなことを真顔で宣う奴も複数人数実在する。まったくもっておそろしい世の中である。 


21-01
新聞

 多少なりとも自分の世界観から妄想性を払拭したいのならば、新聞を確実に毎日読んだ方がいい。先月から新聞を再び取り始めたが、これがまた、なかなか面白い。午前5時に起きて、2時間かけて熟読している。
 まあ新聞などタバコ代1箱にも満たない安価な代物。それに中学校を出ている程度の識字能力があれば、字の音とだいたいの意味を酌み取ることも容易だ。しかしただ字面を追うだけではバカでも出来る。少しでもバカでいたくないのならば、どうするべきか。この1ヶ月試行錯誤しているが、なかなか難しい問題だ。難解な金融用語は少しずつ調べるようにはしているし、テーマ別に読み分けて過去の記事との関連を見出そうとしたりしてはいる。まあ誰もが読める紙切れをいかに活用するか。これは死ぬまで永遠の課題となろう。


 もちろん新聞には、事実が書いてあるとは限らない。まあ概ね事実を扱ってはいると思うが、それを記者がどういった視座からどう解釈しているかは、厳重に気を付けなければならない。「日本のサラリーマンは、判で押したように日経新聞と同じ意見しか言わない」とかある研究者に皮肉を言われたことがある。必ずしも自分独自の意見と視座を維持でもひねり出すこともないが、ただ書いてあることを流すだけではダメだ。硬派な全国紙と言えどもステレオタイプの拡大再生産に終始する記事もある。新聞が提供するwhyとbecauseだけで物事をわかった気になるなど、新聞代と読む時間の半分はドブに突っ込むようなものだ。
 しかしそれでも、ある程度の事実と、世の多くの人々に影響を与えている見解を定期的に触れることは、世の中を思い浮かべ考える上でのいい材料となる。情報の絶え間ない摂取なくして、「**問題の実態はこうに決まっている」「社会はこうなればいいんだ」「日本はアホばっかでダメだ」などと思うのは妄想に過ぎない。どこかで聞きかじった出典・調査方法不明の情報、床屋談義や世間話でなんとなく同意を得たかのようなステレオタイプ、たまにちょっとだけ読む新聞や目にするニュースの断片・・・こういったものを元に世界認識を構築するのは危うい。もちろん新聞を精読しようと、一流のジャーナリストや研究者にお近づきになろうが、それで世の中を「わかる」ことなど出来ない。デカルト的懐疑など出すまでもなく、それは新聞やパイプを元に新たに自分が造り出した妄想に過ぎない。そんなことはわかっているが、1人で何も調べずにわかった気になったり、他愛ない人付き合いや三文メディアのもたらすイメージとステレオタイプに終始するよりは、マシである。やはり新聞は積極的に、攻撃的に読もう。 


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