last up date 2004.11.25
22-10
ここは御国を何百里
次に京都へ行くときは、良正院へ行って真下飛泉の碑を見に行きたい。
22-09
事前訓練と体当たり
まがりなりにも語学学習者として、訓練をもっとしなければならないと常々思う。ここで言う訓練とは、体当たりでその辺歩いている外国人に突然話しかけることではない。私はそんなはた迷惑なことをしない。それにただ体当たりだけしても、身に付くことは限られている。私がここで言う訓練とは、音読することであり、暗唱することであり、耳で聞いた文を書き取ることである。
まず音読だが、簡単な単語や挨拶文句、短文は発音して訓練する必要がある。読めるだけでは不十分だ。分かり切っている簡単なことでも、口が慣れていないと咄嗟に出てこない。簡単な表現を発音して繰り返すことこそが外国語学習法だ、とする外語教育専門家もいるが、その通りだ。
次に暗唱。クソくだらない暗記だと思われそうだが、コトバは暗記だ。例えば日本語の「1ぽん」「2ほん」「3ぼん」という数の単位とて、なぜ「ほん」「ぼん」「ぽん」と変わるかなんて、言語学者以外だれも説明できない。無意識に使っている。しかし外国人にとっては、まずは暗記するしかない。全部「1つ」「2つ」「1個」「2個」とやってもいいが、こうした単位の使い分けを出来ればcoolだ。しかしいきなり自然に口をついてこんな変化を出来るわけもない。暗記というインプットを徹底し、暗唱というアウトプット訓練を繰り返しているうちに、決まり文句や適格っぽい表現の「型」が身に付いてくる。
武道の世界では「修破離(しゅはり)」とよく言われるが、語学についてもそれが言える。「修破離」とはまず先人の「型」を修行して身につけ、次に型を破壊して、そして「型」を離れて自分なりの道を探っていくということだ。コトバとて、「型」とも言うべき基本表現を機械的に暗記暗唱して、何も見ないで発音する訓練を繰り返していれば、「無味乾燥な暗記」に血肉がついてくる。そしてやがて応用を利かせ、自分なりの表現センスを構築していく。20や30になってから外国語をはじめると、なかなか「離」にまでは至れないらしいが、それは武道も同じだろう。最低限、「型」だけは使いこなせるようにしたい。
ついて最後に聞いたことの書き取り。聞いた音を即座に文字に変換するのは、非ネイティブにはとてつもなく難しい作業。だが、これなしには瞬間的に音を意味として判断できない。読んで覚えた知識と、聞いて覚えた感覚とが、リンクしない。これは私がもっとも苦手としている領域だ。これはもっと訓練せねば・・・。上記2つが出来るというわけでもないけど。
というようなことを言ったら、必ず批判を受ける。「外国人と生でやりあうことこそが活きた習得法で、家で本やテープを使った訓練なんかはクソだ」と。こういうことを言う人間で、コトバが出来る人に出会ったためしがほとんどない。面倒で勉強や訓練をしたくない人間が、ただ他者を批判して自分が出来ないことを覆い隠したいがために語る、ごまかしだ。「理想的な方法論」「唯一絶対の方法論」を語ることによって他者の方法論を非難するが、自分は何も出来ないって奴は多い気がする。
ただ、こういうことを言う人間でも、ときどきある程度コトバが出来る人間もいる。外国滞在や街角の外国人を掴まえて話しかけることで、上達した人間だ。確かに彼らは、聞き取り能力がある程度のレベルに達している。決まり文句や挨拶、日常的な動作や日用品なんかは、口をついて出る。このレベルであれば、とりあえず外国で暮らしても死にはしない。私はせめてこのレベルにはなりたいと常々思っていたが、ふと気がついた。こういった「体当たり人間」は恐ろしく文法に弱く、語彙も狭いということだ。
文法に弱くても、通じればいいとはよく言う。文法が語学学習を堕落させる悪だと公言する人間もしばしばいる。だけれども、文法を知らない人間が話せることはたかが知れている。幼稚園児並のしゃべりをしているのとかわらない。それでも通じれば最低限の用は足りるのだが、文法をちゃんと踏まえた発言を出来るようにならないと決してまともな大人としては扱ってくれない。仕事もせいぜい肉体労働しか出来ないし、ちょっと飲んで笑う友達は出来ても、人生の諸問題を語る親友や半生を共にする配偶者はまず出来まい。人間関係を大切にするのならば、文法も大切にしなければならない。だいたいの大意は同じでも、些細な表現で人を怒らせも泣かせも喜ばせもする。だからこそ、文法を踏まえた表現をまず考えて理解し、そして考えずに感覚的に発話する訓練が必要なわけだ。
次に語彙。在外経験のある人や外国人と体当たりで接してきた人間は、日常的な食べ物や日常的な動作の表現をよく知っている。これは、見習わなければならない。しかし彼らは、少し高度な概念、例えば法制度や経済用語はまるでわからない。「暖房」を「暖房」という総称として簡単に覚えていても、「セントラルヒーティング」という具体的な語を知らなかったりもする。日常的なことを体当たりでやりとりしていても、日常的な簡単な表現しか覚えられない。まして、最初から日本語でも知らないようなことは、本でいきなり予備知識込みで単語を覚えた方が、外国人に外国語で説明されるよりも理解が早い。
結局の所、「体当たり」は物怖じせず果敢に外国人に立ち向かっているから努力している気になるし、外国語で某かのことを話せて意思疎通できているから、鍛錬している気にもなる。だが、大人になってから学んだ外国語は、いくらか単語さえわかっていれば、だいたいの意味を組み立ててしまう。相手の外国人も大人で教養のある人ならば、相手の不自由なコトバからだいたいの意味を酌み取ってしまう。
しかしこれに終始してしまっては、外国語学習は崩壊する。果敢な立ち向かい、苦労して意思疎通しようとするのは大変な苦労だ。だけれども、これはこれで楽をしている。どうにか通じさえしてしまえばそれでいい、という逃げ道を探している。これでは、独りよがりの幼稚な会話しか出来ない。知的な会話も相手を慮った会話もできない。外国人からも日本人からも尊敬される外国語を話すことはできない。
まあ体当たり学習には体当たりの良さがある。それに最終的には語学は体当たりで実践して使っていかないとならない。しかしだからといって、事前の訓練をおろそかにしていいというわけではない。本やテープだけで訓練していればいいと言っているわけではない。事前訓練もまた大切だと言っているのだ。さもないといざ体当たりで外国人とやりあうときに、よけいな苦労をするのは必定であろう。
22-08
謝意に代えて
私は幸福であるが故に、日々思い悩むこともある。私には今なお学ぶチャンスがあり、経済的にも恵まれている。年齢的にもまだ若い。
学部を出て就職したそのときは、他の全ての可能性を捨てて月給取りとして生きようと思ったが、今はそんなことをまったく考えていない。私はもっと別のことを出来るはずだ。某社は私が他の全ての可能性を捨てて人生の大部分を投資するには、遵法性に於いても将来性に於いても杜撰すぎた。だから私は学び直す道を選択しているわけだし、これから修士課程に入るか海外へ10ヶ月ほど留学出来ればいいと思っている。能力的にはどうか知らないが、経済的には可能である。
もっとも、本来私が望んでいた道−アカデミックな職業で身を立てる−のは、100%不可能とは言わないまでも、とても難しい。中央大という、研究者になるのにあまり有利ではない大学に入って出たことも、すでに27になってしまったこともさることながら、博士課程、オーバードクターと続けるほどの経済力はない。まして研究者として大成するのならば必須の関門と言っても過言ではない、アメリカの大学院へ進むほどのカネもない。死ぬほどの努力をしてカネを稼ぎ、奨学金を最大限借りれば可能なのかもしれないが、そこまでの犠牲を払ってももしかすると今以上の貧乏暮らしに一生涯堪えなければならないと思うと、そういう選択肢を選ぶことはとてもできない。
で、もうちょいと勉強して、もう少し違った仕事につければいいと思っているのだが、その勉強する機会と自分が持っている(かもしれない)可能性をムダにすることを、私はとても恐れている。毎日の時間をムダに過ごしたかどうか、貴重なカネをくだらないことに使ってしまったかどうか、自分がやってきた努力がムダでなかったかどうか。いつも胃が痛い思いだ。これは幸福な悩みではある。
さすがに「とにかくエンジョイすることが仕事や勉強なんかより大切だ」「学ぶことは、働いて覚えることに比べるとクソ以下だ」と公言する人間は減ってきた。「総修士時代」「本格的な資格社会」「専門性のある人間とない人間との差違が、極大化する時代」が到来するとも言われている。しかしそれでも、自分の為に投資できる人間はそう多くない。投資できる階層に位置するという意味に於いて私は、とても恵まれている。
と言っても、ベラボウに恵まれているわけでもないし、勉強していられる年限は限られている。歳も喰う。だからこそ、時間という意味に於いてもカネという意味に於いてもチャンスをムダにしたくないし、最大限の効果を上げたい。「効果」とは、カネのいい仕事につくという意味というよりは、自分が納得する(少なくとも学部を出て入った某社よりも)仕事を得たいという意味だ。だからこそ、選択にも惑うし、日々の積み重ねにも神経質になる。
そしてときどき、自分のすでにしてしまった選択がどうしようもなくアホなものだったのではないかと思ったり、今後選ぶ道筋についても、自分にとって妥当な選択など何もないのではないのかと思うこともある。所詮はすべて徒労ではないか、それどころか誰にも認められず、自分自身も納得もせずに時間とカネを浪費するだけではないのか、との思いも頭をよぎる。こんなことは、オフラインでは私は一切口にしない。したところで誰も理解しないし、聞き流しさえしないからだ。そもそも雇用に関して極めて保守的な現在の若者は、「転進」しようという発想そのものを「だらしがない」「根性がない」としか見なさず、「また勉強しよう」という発想を「遊び」「ムダ」「逃避」と(やっかみを込めて)見なしたがる傾向にある。高い蓋然性で、よけい不愉快なことになる。
私は何も言わない。そもそも友人と会う機会自体がとても少ない。大学時代のように、気軽にアニメやどうでもいいことに華を咲かせたり、ちょっと茶を飲むようなこともほとんどなくなった。で、1人家に帰って語学の教本や倫理学の専門書を開いて、夜遅くまで机に向かっていると、どうしようもなくなってくることがある。「どうしようもない」とは、身体中の神経がどうしていいかわからなくなる状態だ。「神経が高ぶっている」のとは少し違う。例えば、映画で指をぶった切るシーンを見たら指の力が抜けてくる。そうした「血の気が引く」ような感覚に近い。まあ神経がどうなろうと、勉強するなり風呂入るなり、寝るなりし続ける他ないのだが、どうにも嫌な感じだ。今日もそんな感じだった。
だけれども何故かは知らないが、そういうときにこそ、知人や友人から思いがけずメールや電話がくる。北海道の古い友人だったり、東京にいるが長いこと会っていない大学時代の友人だったり、あるいはもう少し近い人間だったり、さらには遠い外国に暮らす人からだったり。その内容は、こう言ってしまうと失礼だが、まあそう大したことではない。他愛もないことだ。あるいは他愛もない誘いだ(まあちょっとメシを喰う程度の誘いさえ、日常では少ないことだが)。そう、私は有形無形のさまざまなものをもらってきた。そして今もまた、もらっている。もらい続けている。そう思うだけで、非常にありがたいことだ。モノであれ、形のないものであれ、私から返すことの方がずっと少ないのにもかかわらず!
別に、メール一通、電話一本で、抱えている問題が解決するわけでも、「やる気」とやらが湧くてくるわけでもない。ムダに過ごしてしまった時間や間違った選択が戻るわけでもない。だけれども、こうした些細な接触があるだけで、非常に心強い気持ちにはなる。少なくとも、神経の異常な弛緩状態は解消されることもある。
私のような者と付き会い続け、多くのものを下さる人々は、こちらからも大切にしなければならない。それは、思う。
まあそう思うことが、自身の「選択」の枷となることもあるのだが、それはまた別問題。
22-07
ルテナン・シマ
ナンの脈略もなく「Lieutenant」という単語が目に入ったら、私は「中尉」と訳す。だが、アメリカの警察署内での会話で、「Lieutenant」を機械的に「中尉」と訳するのはおかしい。国によっては、警察に軍隊式の階級を採用しているところもあるし、軍隊の階級とは位置づけが違っていても階級名を軍隊式にしか訳せない場合もある。例えばロシアだ。私が知る狭い範囲に於いて、警察の階級は「大尉」「「少佐」などと記述されていた。だがアメリカの場合は、階級ごとの訳が決まっている。「Lieutenant」は「警部補」だ。
・・・と、他人の訳で「Lieutenant」を機械的に「中尉」としたのに疑問を持ったのだが、これって結構難しい問題。日本語にない表現や、日本語にはない制度・立場を表すにはどうすればよいか・・・。定訳が決まっていればいいのだが、勝手にコトバを作るとトラブルの原因になったりもしかねないし、なんでも辞書通りに訳したら齟齬を来すこともある。
外国語道は難しい。とりあえず、発想も制度も国や言葉によって違うということを踏まえておかないとな。
22-06
とーひ
先日、大学時代の後輩から久しぶりにCメールが来た。曰く、「今すぐテレビの何チャンネルをつけろ」とのこと。で、つけてみたら秋葉原に巣くう若者の特集をやっていた。・・・まあ、どういう演出が為されているのか、どうやって取材対象を選んでいるのか、はたまたありそうなことをでっち上げているだけなのかは知らん。が、これまた凄絶な人々が映し出された。しかも二次元趣味を持っている人間はすべて、かくも頭のおかしい人間であるとでも言いたげな。
まあ、テレビなどというものは、視聴者が思いたがっていることを見せる商売。恣意的な特集番組にいちいち目くじらたてはせんけれども、やはり気になることがあったね。なぜ、二次元趣味を持っている人間に対して、「現実から逃避している」と思いたがるのか。すごく、不思議だ。
まず、二次元的趣味は「現実と乖離した趣味」と見なされる点からしてよくわからない。「現実」とは何か、「空想」や「虚構」との線引きは何かと言われたら私には答えられない。が、とりあえずアニメの中の物語に浸ることやフィギュアに物語を見出すことが、「非現実的な趣味」だと仮定しよう。
しかし物語にふけることが「非現実的の趣味」だとしたら、ノーベル賞作家の文学に耽溺することも、人気の推理小説で興奮することも、毎週流行のドラマを楽しみに待っているのも、ハリウッド製アクション映画のDVDを買って何度も観ることもまた、「非現実的な趣味」以外の何者でもない。
さらにはフィギュアやプラモデルに物語を見出すことが「非現実的な趣味」だというのならば、もっと一般的な趣味の多くも「非現実的な趣味」と見なすことができる。例えば、自動車の改造。300km/hは出さないと意味がないエアロパーツを飾り付けて、スポーツめいたステッカーを貼るのだって、レーサーでもレーサーのような走りをするわけでもない以上は、ただ「すばらしい走りをする」という物語を見出し、それを見せつけるだけの儀式に他ならない。日本のどこで、リアウィングが必要なほどの速度を出せる場所があろうか。だいたい小市民たちは、些細な物品を買い揃えることによって、出来そうにないことや滅多にできないことに思いを馳せるものだ。
だから私は、二次元的趣味−アニメやゲーム、及びそれらに付随する商品を享受すること−が、特別「非現実的」だとは思わない。すべての趣味は、物語や空想を見出すという意味に於いて、大なり小なり「非現実性」を持っていると言えよう。
次に、「非現実性」のある趣味に没頭することが、なぜ「逃避」になるのか。空想や創作に耽ることが「非現実的」だと仮定することまではまあいいとしよう。だけれども、なぜそれが「逃避」なのか。なぜ「逃げたい現実」とやらがあって、二次元趣味の持ち主はそれから逃げていると思いたがるのか。とても不思議だ。「非現実的」な趣味を享受していることと、「現実」とやらから逃避することとのあいだに、安易に因果関係を何故見出そうとするのか。
ここではとりあえず、「現実」とは何かを定義付けなければ、「逃避」とは何かも定義付けることができない。「現実」とはまあ、「日常生活している上で突き当たる困難や艱難辛苦」としておこう。生活していれば、誰だって他人とのトラブルを持つし、悩み悲しむこともある。努力や徒労にも堪えないと社会生活は送れない。「現実」とは何かを定義するのは難しい。デカルト的懐疑にまで回帰するにせよ、創作も空想もまた現実の一部分だと見なすにせよ、とにかく収拾がつかなくなる。だからここでは「現実」とは、「逃避したくなるような嫌なこと」と簡単に解釈しておく。そんなことは、「現実」とやらのごくごく一部分なのではあるが、世間ではそういう意味で「現実」という語が使われることがしばしばあるような気がする。
で、なぜアニメやゲームを楽しんだり、フィギュアやプラモデルで遊ぶことが「逃避」なのか。もしも、葛藤、闘争、理不尽、不条理といった人生の諸問題に対して背を向けることが「逃避」ならば、誰だって「逃避」している。目が覚めている間ずっと、困難や苦悩と真っ正面から戦いもがき続けている人間は稀だ。仕事帰りに一杯やって憂さを晴らすのも、バッティングセンターでボールをぶっ叩くのも、アクセルべた踏みして車かっ飛ばすのも、好きな音楽ヘッドホンでかき鳴らすのも、楽しみにしているドラマの留守録を会社から帰って観ることも、部下や後輩に抑圧移譲して自分がマシな人間と思いたがるのもすべて、「逃避」だ。問題そのものに立ち向かっていかず、一時的に問題を忘れ、あるいは解決とは関係のないところでストレスを発散させることが「逃避」ならば、すべて「逃避」だ。なぜアニメやゲームだけが特別か。好きなことやって嫌なことを忘れるという意味に於いては、オタクだろうとそうでない人間だろうと、誰だって「逃避」の時間を持っている。なぜことさらに二次元趣味だけが「逃避」と叩かれるのか。とても不思議だ。
結局の所、「オタクとは非現実的な趣味に没頭して、現実から逃避している人間のことだ」と簡単に両断したい人間もまた、考えること疑うことから「逃避」し、自分が思いたいイメージやステレオタイプに「逃避」しているのではなかろうか。まあそれがわるいとは言わん。エーリッヒ・フロムを引き合いに出すまでもなく、人間は確固たる世界観がなければ不安で仕方がなくなる。ウォルター・リップマンを引き合いに出すまでもなく、人間を集団単位でラベリングして優劣つけないと自己認識に惑うものだ。
だけれども当然のことのように、「オタクとは/非現実的な趣味に耽る人々のことである。/だから、オタクは逃避している」のような文言を機械的に受けいれるのは、知的貧困も極まれりだ。自分がオタクであろうとなかろうと、/の部分を素通りしてしまうようでは、あらゆる事象に対してステレオタイプをなぞることしか出来なくなる。
世の中の「だから」「なぜならば」といった因果関係は、言っている本人は繋がっているつもりで、論理立ててcoolに話しているような気でいたとしても、いちいち疑う必要がある。「AはBである。だからBはCである」などと言えば自分が知的であるかのように思いたくなるし、そういう人間に対して説得力を感じることもある。けれども、いちいちその繋がりを疑ってかからないと、重大な論点を見失ったり、イメージやステレオタイプで思いたいことを思うだけに終始してしまいがちだ。
1つ例を挙げると、小ブッシュは幹細胞研究に対する政府補助金廃止に際して、「受精卵は人間である。だから受精卵はかけがえのない守るべき大切なものである」で演説した。なんとなーく、その通りのような気になりそうだが、どこが「だから」なのかさっぱりわからない。受精卵は人間になり得る。猿にも豚にもならない。まあ人間と言ってしまっても構わないだろう。しかしそのことと、「受精卵を守らなければならない」との間に私は何一つ因果関係を見出せない。もし受精卵が全力で守るべき大切なものならば、不妊治療の為に冷凍保存されている余剰受精卵はすべて代理母に産んでもらわないとならないし、性交したところで着床せず排出される受精卵もまた着床させなければならない。そんなことはバカげている。多くのそれこそ大切な人命を救うかもしれない幹細胞研究を中止させてまで、余剰受精卵をどう守るというのか。結局半永久的に凍結させておくか、廃棄するしかなくなる。大切な受精卵は、その両親が望む数だけの子供を手に入れたら、結局は死ぬしかない。小ブッシュの幹細胞に対する見解は安いイメージと感情にしか根拠が無く、滅茶苦茶だ。
政治家の発言にまでなるとかなりの人間の運命を左右する。「だから」「なぜなら」はすべて徹底的に疑わないとならない。その訓練は常にしておく必要がある。その意味に於いても、「オタクはアニメを見る。だから現実から逃避している」などと簡単なイメージを持っているようなメディアリテラシー能力のない人間が、選挙で投票すると思うと寒気がするね。
22-05
買い換え願望リスト
現在保有している物品で、不満があって買い換えたいとしばしば思い、しかもそれは実現可能な額ではあるが、実際問題として買い換えることはまずないであろう代物のリスト。
・携帯オーディオプレイヤー
現有機:松下のSDカードプレーヤー
今使っているSDカードプレーヤーは35g程度と、小ささ軽さには文句はない。1年2ヶ月も使っていれば、もう操作なんかは見ないでもできる。だが、松下の転送・暗号化ソフトが不安定かつ使い勝手悪すぎ。あと著作権保護機能付きSDカードリーダーがUSB1.1なのも遅い。SDカードは256MB使っているが、さすがに不自由してきた。しかし512MBのSDは最低でも1万円。著作権保護機能付きかつ低速の512MB・SDを買い足すよりは、HDD搭載携帯オーディオにしたい気もする。
買い換え確率:20%
・腕時計
現有機:リコーのやつ。
腕時計は、10気圧防水で、華美すぎず、ガキっぽくなければそれでよい。デザインとしてはそれで間に合っている。だが、今のリコーの腕時計は、充電器を使用する。それはそれで、時計屋へ電池交換に持ち込まないで済むので便利だが、旅行や外国滞在時には充電器が余計な荷物になる。1年に1回ぐらいしか使わないのに、充電器は意外にかさばる。いっそのこと、ソーラー充電か自動巻にしたい。電波時計は要らない。ウラジバストークあたりにいると、日本時間に勝手に調整されるので。
買い換え確率:5%(海外長期留学が決定したら100%)
・DVDビデオレコーダー
現有機:DIGAのHDなし。
やはりHD欲しい気はする。4.7GBのDVD-RAMだけでは長期留守にすると毎週録画にセットしてあるアニメがあふれ出す。けれども、PCでMTV-1000使って録画しているのでまあいいか。
買い換え確率:0%
・プリンター
現有機:HP Deskjet815C
特に文句はないのだけれども、インクをカラー・黒両方買ったら、7000円にもなる。9000円出したらエプソンの最廉価機を買える。インク切れになったら、遥かに高性能な現行のエントリー機を買った方がいいような気がする。
あと、コンセントの数や置き場所を考えると、スキャナー一体型にした方がいいような気もする。スキャナーもプリンターも、そんなに大した性能要らないし、1997年当時保有していたプリンター・スキャナーのスペックを考えれば十二分だ。一体型機も15000円程度で買える。
まあ一体型かどうかは別にして、買い換え確率は一番現実的かと。
買い換え確率:80%
22-04
ハン級と中期防
中共の原潜・ハン級が日本近海を跳梁しているそうで。ハン級と言ったら、「大戦略III'90」以来久々に聞いたような気もする。あれ原潜だったのか。私は軍事趣味を持っているが、人に「マニア」「オタク」と名乗れない程知識に欠ける人間だ。その中でも特に海軍に関しての知識に乏しい。ロシア・中共・インド・ブラジルあたりの海軍について、なんか概説的な本の一冊でも読んでみたいところだ。
ところで今回の件について、「中国の潜水艦なんだからとっとと沈めちめぇ」というラディカルな声をここそこで聞く。もしこれがロシア原潜だったら、「沈めろ」という声は少なかったことであろうて。日本は嫌露家が多いが、ロシアの領空侵犯・領海侵犯は今に始まったことではない。それにロシア軍はなんだかんだ言っても、今なお強大だ。だからこそ、ロシア機やロシア艦船が挑発的な侵犯をしても、「コン畜生め」とは言っても「沈めろ」と言う声はあまり聞かないのではなかろうか。が、中共だと「沈めろ」と何故言うか。
中共軍は、陸・海・空・核すべてに於いて旧式装備がほとんどだ。「大戦略」のごときゲームでは、簡単に一部隊を殲滅できたものだ。「たかが中国なんてひねり潰してしまえ」と思っているから、「沈めろ」とか吐き捨てるのか?ロシアは怖いが、中共なんぞは怖くないということか?
だが中共軍はあまりにも規模が大きい。ヘタをすると自衛隊が保有する対空ミサイルの数よりも軍用機の数の方が多いかもしれないと、本気で疑いたくなる。まあ航空機の航続距離から上陸用舟艇の数まで全てを含めて、中共の海外侵攻能力は低い。せいぜい対台湾戦を想定した程度の揚陸能力しかないはずだ。日本にとっては本土を脅かされるほどの脅威ではない。しかし核保有国である上、我が国のシーレーンを脅かせる海軍力を整備しつつある中共は、結構怖い存在ではある。ま、日・中・米の3ヶ国の経済の相互依存性かつてないほど高まっているので、戦争などには間違ってもならないけども。
あるいは、国民国家の再強化プロセスに於いて、日本のコリア・中共への差別意識と、中共の反日感情が相互に高まっているせいか?中共でも日本人学生をリンチにし、サッカーで嫌がらせをし、外交官を襲撃するようなことをし、北京語サイトでの反日行動も活発だ。日本でも、随分と中共への差別的言動を耳にするようになってきた。いや、昔から耳にしてはいたが、随分と公然と発言されるようになってきた気がする。だからこそ、中共原潜が日本近海をうろついていると、他の国よりもよけい腹が立つのか。
ついでにロシアには、日本がどこにあるのか知らない、関心もない人間が少なからずいる。もちろんSONYやトヨタは誰もが知っている。が、日本がどこかと聞かれたらグルジアの南やウズベキスタンの近辺と思いこんでいるような人間はそれほど例外的な存在でもない。それに実際に国境を侵食している中共と比べれば、日本はただの「遠方」でしかない。だからこそロシア人は、わりと親日的だ。一方多くの日本人にとっても、「島を奪われた」などと本気で心底憎んでいるのはごくごく僅かで、「なーんか嫌な国だなぁ」とは思っていても、やはり「遠い国」だと思っているのではなかろうか。だから遠いロシアなんかよりも、街角で中共出身者が強盗をし、中共本土では日本人がリンチに遭う・・・などというニュースをしきりに耳にしている中共の方がロシアよりもよほど身近な敵なのであろう。
どちらにせよ、「中国だから」沈めろという発想はあまり健全ではない。交戦状態にあるわけでもなく、国交がないわけでもなく、それどころか資本移動が活発で、身近な多くの商品を輸出入している相手を、「気に食わねえ」ぐらいの理由で攻撃しろ、というのはあまりにも幼稚な発想だ。
もっとも「潜行して領海侵犯している潜水艦」は沈められても文句の言えるスジではないとは思っている。潜水艦は洋上艦艇よりも質が悪い。隠れて商船を沈めたり、国土にミサイルぶち込んだりするかもしれない重大な脅威だ。下手な比喩を使えば、覆面をした男が、庭の植木の影に潜んでいるようなものだ。そんな奴は撃ち殺しても構わないだろう。背広を着て素顔を晒した男が、堂々と門から入ってくるのとは違うのだ。だが今これを言うと、私も「中国だから」沈めても構わない、と抜かしているアホな人々と一緒にされかねない。だから黙っていよう。
まあ私として気になるのは、中共の原潜が近海を跋扈していることではない。潜水艦、特に原潜とはそういうものだ。そんなことよりも、何故今このタイミングで中共らしき原潜の領海侵犯を声高に公表し、自衛隊に海上警備活動を発令したか、だ。
中期防の予算折衝で財務省と防衛庁の攻防が激化していることと関係を見出すのは、近視眼的な発想だろうか。ミサイル防衛で防衛予算が大きく食われようとしているが、財務省はさらに4万人もの陸自人員の削減、戦車の半減、護衛艦の3割削減、戦闘機・輸送機の1/3削減を求めている。さらには災害派遣でさえ自衛隊ではなく自治体の役割だとも述べている。この財務省の要求に対して防衛庁は、新潟県中越地震や台風災害での活躍をアピールすると同時に、「中共の脅威」を理由に沖縄など島嶼部防衛のためにそこまでの装備・人員の削減は出来ないと抵抗しているわけだ。「中共の原潜がかくも近海を跳梁している」とこれだけハデにニュースで取り上げられれば、もうちょいと防衛力は必要だと思う国民も増えるかもしれん。実際に「中国原潜なんざしずめちまえ」とか言っている人々がここそこにいるわけだし、それなりに成功したのではなかろうか。
ま、中期防整備計画がどうなるか、楽しみですよ。
22-03
雌伏10年かムダ10年か
何でも堪えればいい、我慢すればいい、私心を犠牲にして働くしかない・・・という古代のサラリーマン根性を持った現代の若者って、意外に多い。どうにかならんかね。もちろん世の中、我慢しなければならないことの連続だし、思い通りにはなかなかいかないし、嫌な目にも遭う。けれども「我慢するのが仕事だ」「夢とか目標とか持たない方がいい」「嫌な目にあってカネを貰うことが仕事だ」なーんて本末転倒なこと思う奴は、家畜ですな。忠誠心あるサラリーマンという意味に於ける「社畜」などという高等なものではなくて、動物だ。
自分が人生の貴重な時間を費やしてやることに、戦略と中長期目標なくして働くこともできない。例えば何年も関わっていたプロジェクトが頓挫すれば、自分が22や23で勤めてから30までやっていた実務経験が、ほとんど評価されなくなる。もちろんそのときはそのときで経験を生かすことはできるだろうけど、プロジェクトがうまくいったときに受ける社内社外の評価の比ではない。
また、誰でも出来ること、いくらやっても大した経験にならないこと、関わっても先細りの技術や技能iに従事することに自分の貴重な人生を投資していいのか、という疑問は大変な問題だ。さらには会社の違法脱法活動が目に余り、いずれ自分の汚点になるかもしれないと危惧することもある。あくどい業務に良心の呵責を覚えることもある。あまりにも従業員の扱いが杜撰だったり、社内で暴力や差別が横行していれば、身体や精神に余計な負担を背負ってしまうことにもなりかねない。
・・・こういったあらゆる問題に対して、「堪え続ければうまくいく」としか言わない奴はバカ野郎か現状の構造を固定化したがっている奴のどっちかだ。ただ転進しない、辞めない、弱音吐かない、上の言うことには何でも従う・・・などといううことをやっていればそこそこの給与と社会保険を得られるという発想は、何の根拠もない、愚かで幼稚なエセ法則だ。
まあ「プロジェクトX」じゃないが、日の当たらない基礎研究がやがて大当たりすることもある。新日鉄化学が開発した回路基盤材料・エスパネックスなんかはいい例だろう。今でこそ折り畳み携帯電話に不可欠の素材として注文が殺到しているが、10年以上もの間何度も撤退論が浮上し、新日鉄から見捨てられかけた。中には「こんなことやっていてもダメだ」と見切りを付けた人間もいることだろう。まあやり続けていれば実になるか、それともならないかの判断は難しい。
けれども、「とにかく堪えればうまくいく」というほど簡単ではない。転職するか否かというときに、残るメリット転進するデメリットを説くのではなく、「仕事ってのは辛いものだ」とか「プラス思考しようぜ」とか意味不明なことで引き留めようとする奴など言語同断。しかしまあ人生の選択は難しいものです。
22-02
よくあることだが、日本人同士だからマシなのかも
自分が他人に触れることには鈍感で、他人が自分に触れることには敏感。当たり前のことだ。そして他人が触れたりぶつかったりすると、他人が自分に「悪意」を向けていると感じがちなのも言うまでもない。だけれども混雑した駅やラッシュ時の電車など、東京では接触の機会が多い。つまり他人から不快を覚えることが多い。
まあよくあることだが、今日もそうした接触で一触即発になりかけた。朝、電車で私が運転席の壁によしかかっていると、途中の駅から載ってきた恰幅のいいサラリーマンが壁の狭い隙間に無理矢理分け入って、よしかかった。そのとき、奴は私のヒジと腕を背中で押しつぶした。で、私は自分の左肘と左腕を奴の背中から引っ張りだした。
私にとってはただ、「背中に敷かれた腕を引っ張り出した」だけである。が、件のデブは「私に肘で背中を押しのけられた」あるいは「肘打ちをくらった」と感じたのだろう。奴は私にしばらくガンをつけ、さらには私の胸に肘打ちを数発喰らわせてくた。
別に痛くなんともないのだが、恣意的に肘で胸を何度も打たれて気分がいいはずもない。「手前ぇ、次の駅で降りろ!」との声がノドまで出かかっていたが、そんなこと怒鳴っても何にもならん。それどころか私はガンも返さず、奥歯を噛みしめ、ツメが掌に食い込むほど握りしめて怒りを堪えていた。
相手にしてみたら、私から「悪意の肘打ち」を喰らわせてきたと感じているのだろう。私にしてみたら、相手が私の腕を背中で押しつぶしたので、腕を引っ張り出しただけだ。しかしそんなこと主張しようと、どっちが先に何をしようと、騒ぎにして得るもものは何一つない。
ガンをつけられていたのは視界の隅に入っていたが、ここでガンを付け返したら今度は無言で小突き合うか、怒鳴り合いの口論に発展しかねない。私とて、相手がエスカレートすればいつまでも我慢していられるほど気長ではない。
だから最初のガンと肘打ちの段階で堪えた。電車に乗る目的は、時間までに然るべき駅まで移動することであって、暴力に対して報復することでも、怒りを発散することでも、まして勘違いした相手の悪意をくじくことでもなければ、「俺をナメた野郎」をぶちのめすことでも「俺は人も殴れない腰抜けではない」と証明することでもない。私がやり返してこないのを相手が「気が弱いクズめ」と嘲笑していようと、知ったことか。騒ぎにして、殴り合いのケンカにでも発展すれば、いいことはひとつもない。
もし騒動になれば遅刻になるのは確実だし、それどころかしばらく朝電車に乗らなくてもいいことになるかもしれん。衆人環視の中では、騒ぎを起こすこと自体愚かなことだ。相手がドブネズミ色の背広に白いカッターシャツのサラリーマン風で、どす黒いチノパンにチンピラみたいなジャンバーの私とでは、怒鳴り合いや取っ組み合いになったら、私の方が悪と見なされる。それに殴り倒されてケガをしても、相手を殴り倒してケガをさせても、大変な大損だ。さらにはホームに躍り出て殴り合って、ホームから線路に落ちたり落とされたり、電車の車体に身体を押しつけ合ったりして電車の運行に影響を与えてしまったら、天文学的な賠償金を取られかねない。まあとにかく、騒ぎにするとどんな結末になるかわからない。
だから、乗換駅で降りぎわに、奴に思いっきりガンくれてやるだけにした。もしかすると奴が怒り狂って追い掛けてきて、向かいにホームに突き落とされるかもと思ったが、奴は賢明にも電車から降りなかった。奴もまた、朝っぱらに上り電車に乗る、ただの小市民なわけだ。
余談だが、歯が欠けるほど噛みしめ、怒りに震えて拳を握りしめた私は、多分頭から湯気が上がりそうな形相をしていたことであろう。乗り換え電車に乗ろうとしたら、ドア近くにいた人が逃げた。ドア近くの手すりによしかかっていると、電車に乗ろうとした人が一端足を止めて、別のドアに向かっていった。頭の不自由な人に見えたのかもしれん。
それから1時間ぐらいの間私はこのザマだったのだが、もう奴の顔さえ覚えていない。道を歩いていたり電車に乗ったりしていると、突然見ず知らずの奴に殴られることもしばしばある。今回のようなちょっとした肘打ちでなくて、渾身の力でいきなり背後から殴られたこともある。腹立たしい体験なのだが、それでも相手の顔を覚えていない。思い出そうとすれば、思い出すたびに全然違う顔になる。顔を覚えるのは苦手だ。だからもし今後同じ電車に乗っても、私から相手に気づくことはないだろう。人気のまったくない路地で見かけたらビール瓶でも鉄パイプでも拾ってぶちのめしてやろう、という思いもあるが、顔をまったく思い出せない以上無理だろう。顔をすぐ忘れるというのは、いいことなのかもしれん。
それにしても、今回はただの小市民同士の、ちょっとした嫌がらせ合戦で済んだ(私からは、背中に敷かれた腕を引っこ抜いたことと、降りるときにガンくれてやっただけだが)。しかしこれが、怒りを抑制することを恥と思い、高ぶった感情を抑制する社会的風土に乏しい民族だったら?あるいは、仕事もなく学もなく、失うものの1つもなく、しかも自分の貧乏や不遇は誰か他人のせいだと思いこんでいるクズだったら?少しぶつかったり足踏んだという程度で、いきなり暴力に訴えてくるかもしれん。それを思うと、混雑した鉄道というのは前線だ。
東京やその近郊は、先進国の首都としてはすでに治安がいい部類には入らない。粗暴犯罪の検挙率は下がる一方。くだらなーいことでぶん殴られたり、ぶん殴ったりしないような生きたいものではある。拳銃一丁持っていたら、こいつのタマ取ってやれるのに!とか、こんな青瓢箪、叩きのめしてやる!とか未だに思うことはあるけどね。いやはや。
22-01
「生きている」からどうしたのか。
ふとした雑談で、自宅に誰か知らない人が訪ねてきたらどうするか、という話になった。
「インターホン(あるいはドアごしに)で用を聞いて、宅急便とかじゃなければドアを開けない」
「インターホンの画面で誰だか見て、知らない奴ならオートロックを開けない」
まあその場にいただいたいの人間がこう答えた。
だが、1人は顔をしかめてこう言った。
「みんなそんなことしているのか。私はドアを開けて話しを最後まで聞く。それが当たり前のことだ。そしてもちろん売る物や勧誘は断る。これが当たり前の対応だ。当たり前のことだ。みんな生きているんですよ。生きてるんですよ」
だからどうしたとは言わなかったが、ノドから声が出かかっていた。
まず第一に、不用意にドアを開けたら強盗や強姦魔や酔っぱらいや異常者がいきなり部屋に躍り込んで、暴力を振るうかもしれない。宅配便や集金など相手をする必要のある人間以外にドアを開けるのは、危険を伴う。呼び鈴が1万回鳴っても、その主が強盗であることは1回に満たないだろう。けれどもそういう事件が現実にありうる限りは、警戒してわるいということはない。私の大学時代の先輩が住んでいたマンションには、強盗が入ったこともある。厳重に警戒することが、必ずしも杞憂や神経症とは思えない。
第二に、押し売りや勧誘の話を最後まで話を聞くのは時間のムダ。押し売りや勧誘は、もちろん買ったり契約してもらうことが目的だ。契約書にサインをしない限りはいずれは諦めて帰るだろうけど、「聞く姿勢」をしていたら買わせようと長時間にわたった話をされる。だから私は、もし不用意にドアを開けてしまっても、勧誘や販売員だとわかったら話も聞かないし相づちも打たないし、ドアに足を挟んできたら突き飛ばしてドアを閉める。自分の時間を1分1秒たりとしもムダにはしたくない。大学を出てからは特にその思いが強烈になっている。押し売りの話を聞くなど時間のムダ。
ついでに言えば、話を長々聞いて友好的なような態度をとって、買ってくれるなという期待を持たせておきながら最後に断るのは、いきなり突き飛ばすのよりも質が悪い。販売員・勧誘員にとっては他の家を回れたはずの時間を浪費し、しかも期待させられて断られた方が腹が立つ。場合によっては、話を聞いてから断った方が、暴力沙汰になる蓋然性が高いかもしれない。
第三に、「生きている」から何だ。生きているから人を騙すし、暴力は振るうし、脅しもする。
勧誘員にも販売員にもそれなりに人生があるし、ちっぽけでも悦びはあるし、悲しみや怒りもあろう。ガキの頃は親の手を掛けて育てられ、それなりに目標や夢とやらも持っていただろう。些細でも少しは何かに努力したこともあるだろう。だからどうした。そんなこと知ったことか。私には私の生活がある。1日1日の時間は1分1秒がとてつもなく貴重だ。望まぬ客を丁重に扱うことに時間などかけていられない。毎日そんなことやっていてら、帰宅してからの時間は接客で終わってしまう。特に人間同士の接触頻度が高い都市では、他者にいちいち関心を払っていてはおかしくなる。必要のない人間との接触は最小限にとどめないと、とても時間も神経も持たない。無碍に追い返された人間がどう思おうと知ったことか。
ここからは余談だが、この「生きているんだ」発言には、とてつもない欺瞞を覚える。我々先進国民は大量虐殺者だ。最下層の貧乏国から商品作物や希少金属を買い上げ、大衆が餓えている土地から穀物を買い取り、貧乏人を安価に労働力としている。構造的な暴力の上に我々は、搾取者として生きている。
突撃銃で2〜3人殺した人間よりも、餓えている1万の人民の畑から収奪された穀物を喰らう人間の方が善良と言えるのか。街角で20ドルくすねたスリよりも、乳児に粉ミルクも満足に当たらない国から債務を取り立てる会社で働く人間の方が善良なのか。別に、貧乏国の独裁者や権威主義者の腐敗小役人、大国の大物政治家や大企業家だけが邪悪な構造を維持しているわけではない。自分達が搾取構造に安寧していること、自分の労働が遠い国の搾取や紛争に間接的に荷担していること、自分が貧乏人の非人道的な労働に依存していることに無自覚な、平凡な一市民もまた、大量虐殺者である。
私はその自覚を常に持っている。ときどき貧乏国の映像を見たら「気の毒だ」とは思うが、自分のごくごく些細であっても今の生活という既得権益の方がよほど大切だ。だから何もしない。私は貧乏人の犠牲によって快適で豊かな生活をしている悪人だし、悪人という自覚を持っている。だけれども、こんな働かなくても飢え死にしない世界有数の豊かな国で、押し売り相手に多少紳士的な態度をとって相手の気持ちを慮ったぐらいで、何を言いたい。相手が「生きている」からどうした。突き飛ばそうと死ぬ訳じゃない。紳士的に話したところで何の足しにもならないし、誰かを非業の死から救うわけでもない。
自分が搾取者であり、構造的暴力の中の「センター国」の住人であることを自覚しない人間に、「他者も生きている」と言われたところで何の説得力もない。革命を起こせとか、市民運動をしろなどとは言わない。我々はとてつもなく無力な個人に過ぎない。だが、10円送っただけで貧乏国の乳児に粉ミルクが当たり、300円送っただけでポリオの予防接種を打てるんだ。「人間が生きていること」がそんなに大切ならば、可処分所得はたいて募金ぐらいしたらどうか。
あまり人に言うことではないが、私はポリオワクチンの募金にしばしばいくらか寄付している。自己満足でやっていることだし、私の可処分所得のごくごく僅かしか送ってはいない。自分の贅沢な娯楽や嗜好品の方が貧乏人の生き死によりも大切だし、自分が貧乏になるのならばこの搾取構造が崩れることは望まない。所詮気まぐれの安い行為だ。けれども、私の寄付したカネが適切に使われたら、何人かのガキが助かる「かもしれない」。はした金などどこかに消えてしまう可能性もあるが、役立つ可能性も否定できない。
腹が立つのは、「みんな生きている」とか「生きていることはすばらしい」とかきれい事ばかり言って、自分の良心が痛まないような言動をし、他人を慮るかのような発言をするだけで、自分が搾取者の側にいることを自覚しない人間である。心を痛めながらも、出来る範囲でさえ実際的な行動をとらない人間である。自分を悪人と認識しない人間である。そして私のような冷淡な人間を「悪人だ」と叩くことによって、相対的に自分が「いくらか善良な人間だ」と思うことに終始する人間である。「欺瞞」とは、邪悪な動機でカネを払うことではない。きれい事だけ言って身近な誰かやテレビに映る権力者の非難だけして、それだけで自分を「いい人間」だと思うことこそが「欺瞞」である。