last up date 2004.12.18

24-10
並盛り普通盛り

 認めたくはないが生まれ故郷であることに間違いはない北海道へたまに帰ると、コトバが通じなくなっていることがしばしばある。
 函館方面を例外とすれば、北海道に方言はいくつかの単語以外はほとんどないし、訛りも少ない。全国放送のテレビで北海道が写されるとき、ひどく訛った人々にインタビューをしているのをしばしば観るが、それは明らかに東北からの出稼ぎ労働者や出稼ぎ魚民だ。そんなコトバをしゃべる奴は、私のИНКの釧路にも根室にもほとんどいなかった。小中学校の教室にごく少数いた東北の出稼ぎ者の子弟がそんなコトバをしゃべっていたが、明らかに異質な存在であった。
 だがそれでも、東京からたまに北海道へ帰ると、コトバが通じないことがある。


 方言の問題というよりは、些細な言い回しが理解されないことがあるのだが、ここでは1つ例を挙げよう。飲み屋や定食屋で米の飯を頼むとき、大盛りにしない場合何と呼ぶか。私は帰省時に旧友達と飲み屋に行って、米を頼んだ。そこで「ご飯はどうしますか」と聞かれた。まあ、茶碗にどれぐらいの量の米をよそうかと聞いているのだ。
 そこで私は「並でお願いします」と答えた。だが、飲み屋の店員は理解できなかった。サービス業の人間でなくてもそう言われたら非常に不愉快な、「はぁ?」という音声で聞き返してきた。私は滑舌がよろしくないし、居酒屋は騒がしい。だから、聞き取れなかったのかと思って、同じことを言い直した。それでも理解されないので「並」ではなく「並盛り」とも言い直した。しかしやっぱり理解されない。
 これは飲み屋のバイトのおねーちゃんだけの反応ではなかった。回りにいた地元の友人たちもまた、不思議な顔をしていた。そして「お前、『並』って何だよ。牛丼じゃねえんだ。ようするに『フツー』だろ?」と嘲笑され、「はい、『フツー』でお願いします」と私に代わって注文をされてしまった。「フツー」とは何だ。そんな白痴のような言い方を出来るか。


 米を大盛りでもなく少なくもなくよそうことを称して、「並」というコトバが使われだしたのは、いつからか。そんなことを調べるのに労力と時間を投資するつもりはないが、少なくとも関東では居酒屋でも定食屋でも弁当屋でも、「並」で通じなかったことは一度もない。「並盛り」で検索をかけると、牛丼屋以外の飲食店も相当数引っかかる。
 しかし牛丼屋で広く使われているコトバであることには違いない。釧路にはもともと「並」というコトバが使われていなかったとすれば、「吉野家」などチェーンの牛丼屋がそうしたコトバを持ち込むことになる。だが牛丼屋チェーンの進出は遅かった。進出した「吉野家」も、長らくビルのテナントの高い階に入っていた。だから釧路で牛丼屋は、ごく近年まで単身者や労働者が気軽にメシを詰め込むところではなかった。多分、牛丼屋がもっと早く一般的になっていれば、「並」がメシの盛り方の表現方法として釧路に定着していたことであろう。そしてごく最近になってようやく吉野家がそこいらに建ちはじめたからこそ、急に耳にするようになった「並」というコトバは、牛丼用語以外の何者でもないように思えるのであろうか。
 だけれども、果たして「並」は牛丼屋以外で言うのは不適切なのか?発生した経緯がわからない以上は、断定は出来ない。しかし前述の通り東京でも川崎でも、どこのチェーンの飲み屋に入っても、個人経営の定食屋に入っても、ラーメン屋でも弁当屋でも、「並」で通じなかったことはなかった。メニューや弁当の注文票にも「並」と明記されている。さらに「広辞苑」によると、「並」の項目に於いてメシの盛り方に関する記述はなかったが、「普通」と同義であると記載されていた。つまり、「フツーで」と言おうと「並で」と言おうと、同じことを意味しているのに過ぎない。例え「並」が牛丼屋の発明語と仮定したところで、定食屋や居酒屋で言ってわるいということはあるまい。


 ま、コトバの「正当性」を問うのも、特定表現を権威化するのも不毛なことだ。もし「フツー」と言わないと「多くも少なくもない飯」が出てこないのならば、「フツー」と言えば済むだけのこと。私は古典的な用法から逸脱しているからといって、新しい語法を否定しない。
 もちろん「事態が停滞して、状況が固定化されている」という意味で「煮詰まっている」と言われたらアホかと思うし、「全然」の後に肯定文を言われても違和感を覚える。だけれども、そのような表現が為されているという現状を否定はしない。「この用法は間違っている」と否定し、「正しい言い方はこうだ」と主張したところで、何の生産性もない。そもそも日常に於いては、そんな主張や「訂正」をするヒマさえない。したところでケンカになるのがオチだ。だから、あらゆる語法を「そういう言い方もあるのだ」と認識し、受け入れざるを得ない。だからメシを「フツーで」という言い方にも慣れる必要はある。


 だが、「並」という言い方が、間違った、頭のおかしい人間の言い方であるかのように扱われた屈辱は、決して看過できない。例え「並」という言い方が飲み屋では多少不適切だったとしても、釧路では普及していないコトバだったとしても、「ご飯どうしますか?」と聞かれて「並で」と応えたことを称して、「Fxxk off,pieces of shxt!!」とでも言い放ったかのような扱いを受けた屈辱は、永劫に忘れないし看過しない。
 知らないコトバや語法への寛容や理解が限りなくゼロに近いから、ИНКは好きになれない。


24-09
身なり

 今日、某駅で背広姿のサラリーマン数人と、小汚い身なりの親父が取っ組み合いを演じていた。というか、サラリーマン風の男達が、小汚い身なりの親父を取り押さえていた。痴漢かスリかと思って見物していたが、どうやらことの顛末はこうだ。


 駅で、小汚い身なりの親父が視覚障害者の老人を突き倒すか転ばすかして、そのまま立ち去ろうとした。それを見とがめたサラリーマンが呼び止めようとしたら小汚い身なりの親父が逆上して殴りかかってきた。それに対して、通りすがりの別のサラリーマン数人が加勢して親父を取り押さえた。駅員に連行されながら親父は、「俺は謝らねーぞ!」と怒鳴り散らしていた。どうしようもないクズだ。あちこちでカネ詰まりを起こしているこの社会で、もっともしわ寄せを食っている底辺に固定化され、何の余裕も希望も失うものさえないのまでは仕方の無いことかもしれない。しかし日々いきり立って障害者や老人な道を譲ることさえせず、突き飛ばしても自分が悪いとさえ思えない。第4世界の住人たることは気の毒だが、その行動には些かの同情の余地もない。
(注:第1世界:資本主義圏、第2世界:旧共産圏、第3世界:低開発諸国といった冷戦的な区分に、さらに国・地域を問わずに、「周辺」に追いやられている人々の層を指して「第4世界」と呼ぶこともある)


 そして私は、事態を見極める前に思った。加勢するのならば、どっちだと。もちろん我が身大事の私は、よくわからない他人のいざこざに介入などしない。だが、どうしても見るに堪えなくなって、あるいは反射的に身体が動いて一方に加勢するとしたら、小汚いボロを纏った親父をぶん殴って、清潔なスーツを着た若いサラリーマンを助けたに決まっている。周囲の人間も、無意識に貧乏人がワルで、サラリーマンが正義漢と色分けしたことであろう。もしかしたらサラリーマンが痴漢をして、貧乏だが正義感溢れた親父が注意して、乱闘になった・・・というシチュエーションもありえるのに。
 下の職務質問の話とも関連するが、やっぱり人間は身なりである。この異質を排除しないと不安になる「清潔社会」に於いては、服装はとても大きな意味を持つ。平日は手入れの行き届いたスーツにカッターシャツ。休日も小ぎれいで整った服装を。なんか事件の際には汚くて見苦しい服装の人間は、まっさきに「不審者」として覚えられるし、事件があろうと無かろうと、警官は汚い服装の人間をマークする。カネをかけて格好のいい、いなせな服装で決める必要はない。だけれども、清潔で手入れされた服装は心がけたいものだ。自己防衛策として。
 あとは、腕時計や車と言った高価な道具、住所や住宅、そして職業・肩書といったものもまた、人間を判断する基準になる。これらを「不審ではないレベル」にまで引き上げることは今の私には不可能なので、やっぱせめて服ぐらいはきちんとしたい。今の私の身なりもまた、結構小汚いような気がしてならないが。 


24-08
警察国家化は誰のせいか

 警視庁巡査をしている友人から忠告を受けた。
「今は職務質問が厳しいから、どんな些細なものでも刃物は持ち歩かない方がいい」
 これは非常に戦慄を覚えるセリフであった。
 私自身はここ数年職務質問を受けたことはないし、その数年前のとて、自転車の登録番号チェックだけであった。だから私自身の体験ではないのだが、東京都では最近、治安対策として職務質問や街頭での強制的な身体検査が恒常化していると聞いている。
 筆箱の中のハサミ、パソコンの解体の為に必要な工具、車のトランクのゴルフクラブ。こんなものでさえ「軽犯罪法違反」と称してパトカーに詰め込んでしょっ引き、警察署に拘束することが頻発しているそうな。特に、私のように真っ昼間から背広も着ないで歩いている20代後半の男は、いいカモに違いない。
 だから私は新聞のスクラップをするのに持っていたハサミも、防災用品としてカバンに入れていたヴィクトリノックスのツールナイフも、すべて持ち歩かないことにした。災害の時に缶詰を開けられなくて困る確率よりも、拘束される確率の方が高いと判断したためだ。


 嫌な時代になってきたと肌に感じるようになってきた。警察のこのような身体検査や拘禁は、警察官職務執行法違反である。しかし弁護士でも政治家でもない私が、もし乱暴な「職務質問」を受けたときに、そんなことを言ってもどうにもなるまい。だけれども、警察をかくも強権化させているのは我々国民自身である。
 「治安の悪化」という大きな不安の前には、「警察権力の法的根拠のない拡張」「無辜の一般人の誤認逮捕」「胡散臭い奴の、根拠のない拘禁」などは「小さな問題」と人々は捉えているのかもしれない。さらには、「誤認逮捕」も「強権的な職務質問」も、自分とは関係のない胡散臭い奴がされるもので、自分は関係ないと思っている人も少なからずいることであろう。こうした話が出ると、「治安維持に命張って一生懸命な巡査さんたちに、些細なことで言いがかりをつけるな」と怒る人さえいる。いずれも危険な発想だ。


 そもそも警察の強権化は、ジュリアーニ元NY市長がNYの治安を劇的に回復させたとされることで有名な、「割れ窓理論」を日本も導入した結果である。「割れ窓理論」とは「どんな些細な犯罪も見逃さないこと」と新聞では説明されているが、具体的に何をやるかと言えば「法を濫用してでも、異質な人間を排除すること」以外の何者でもない。
 「割れ窓理論」以来NY警察は、貧しい身なりの人間、黒人、ヒスパニック、アラブ系を中心に職務質問をし、「挙動不審だ」「歩きながら菓子を食っていた」のような些細な理由で通行人を拘禁し、しばしば「警官に反抗した」などの理由をつけてリンチを加えている。さらには、職務質問に対して逃亡した人間の背中を撃つことも事実上容認されている。


 これは他人事ではなくて日本もいずれはそのレベルにまで達する、と想像するのは容易である。遠いNYの出来事は容易に受け入れられても、日本の警察が横暴になるなど、漫画やSFみたいな話と笑われるかもしれない。だが、私はかなり本気で危機感を抱いている。
 実際問題として、ここ2年間、日本の警察の拳銃使用基準は緩和される一方である。これ自体は私も賛成している。今までは武装した凶悪犯への発砲も過度に制限されすぎていた。銃で武装した殺人犯を射殺した警官が個人特定されて、殺人罪で市民団体に訴えられることもあった。市民4人をひき殺しながら暴走するドライバーを射殺した警官が免職になったこともあった。一昨年まで急増していた警視庁殉職者は、銃使用基準が緩和された昨年度にはゼロになった。これ自体は治安維持の観点からも、警官の生命を守るためにも適当である。
 だが、どこまで緩和されるかが気に掛かる。すでに逃走する犯人の背中を撃つことも警察当局は「妥当だ」と説明するようになってきた。このケースでは傷害犯であったが、そのうち職務質問に反抗したり、職務質問しようとして逃げたというだけで、背中から撃つようになるのではなかろうか。


 ここで思い出すのが、高校時代に担任と話した「銃規制」問題である。私は今でも、市民自身が武装して、市民同士が互いに牽制しあうことが、最も現実的な秩序維持策と思っている。これに対して担任は、「そんな西部劇みたいなバカなことを言うな。今は法治国家なんだから」と述べて私の発想を異常者扱いし、治安の維持の方法は「警察力と刑務所を拡張すればよい」と簡単に言い切った。
 ただ、「銃社会」を異常者じみたものと完全否定して、治安を維持するのは警察力しかあり得ないとする発想は、今も昔も日本では一般的な発想であろう。実際問題として市民が武装して自衛する方法は、日本では法的にも実務的にも感情的にも、実現が難しい。しかし警察力の手放しの拡張は危険だ。


 その「警察力の拡張」とは、「強権的な警察国家」的色彩を強めるということだ。確かに「強権的な警察国家」の方が、「銃社会」よりも粗暴犯罪は減るかもしれない。しかし私にとっては、「銃社会」よりも「強権国家」の方が恐ろしい。悪党に撃ち殺される確率よりも、警官に因縁つけられて履歴書に前科がついてしまう確率の方が高いんだから。試したことはないが、私がモスクワやデトロイトに1年間暮らして射殺される確率よりも、秋葉原に1年通って職務質問を食らって、ハサミやアクセサリーを理由にパクられる確率の方がずっと高いだろう。
 どうも担任は、警察が治安を維持する国家を「法治国家」と呼ぶと勘違いしていたようだが、このような社会は「法治国家」とは言わない。「権威主義国家」と言う。むしろ自警団や自己防衛する市民の行動が法令通り行われているのならば、「銃社会」の方がよほど「法治国家」であろう。


 余談だが、社会学部・文学部志望だった私が中央大の法学部に進学した理由の50%は、担任との治安に対する話にあった。「市民の自衛」論を一方的に「人命軽視のふざけた発想」として異常者扱いされ、「警察力の拡張」を無批判に当たり前の選択肢として押しつけられた屈辱が、私を法学士にした。まあ、そんなことは今さらどうでもいいのだが。話が脱線した。


 私は必ずしも、かつてのアメリカやイギリスのような警察力の弱い「自警社会」が、フランスや日本のような「警察国家」よりも優れているとは思わない。「自警社会」は排他的な自警団による「余所者」や「マイノリティ」へのリンチが発生しやすい傾向にあるからだ。
 しかし「警察国家」もまた、強権的になる性質を持っている。「警察国家」と「自警社会」のどちらが優れているということはない。「警察国家」もまた危険なのだ。担任のごとき思想の持ち主には、ただ、このことについて認識して貰いたい。市民が権力の拡張に神経質になっていないと、危険なのだ。「治安の維持」「テロの撲滅」という題目に目がくらんで、市民が公権力の拡張を容認している今の時代は本当に危うい。


 合衆国連邦憲法修正2条によって市民の武装が保証され、それによって合衆国に独裁政権や専制政治が生まれなかったのはアメリカ政治に関するひとつの説である。が、その合衆国も強権色を強めている。悪名高い「愛国法」の下では、礼状無しに市民が拘束されている。また、いくつもの法律を無視した大統領令によって、一方的に「テロと関係があると思われる」と決めつけられた人々が、弁護士との接見も許さないまま無期限拘留されている。これが「自由の国」と称し、「法治国家」を謳うアメリカの現状である。
 今さら市民が鉄砲を持って、国家に対して何かを主張できる時代ではもちろんない。けれども、「市民によって権力を監視する為の武装」を信条としていた米国まで、強権によって市民を弾圧する時代になったのは哀しいことである。


 これは世界的な傾向と言える。プーチン政権下のロシア民警の横暴は、ソ連時代以下になっているとさえ言われている。私がロシア語に関わっていく限りは、ロシアに渡る日も来るでしょう。けれどもこんな話を聞く。
「お巡りに些細なことで殴られて前歯が折れた」
「パンツまで脱がされて身体検査をされた」
「書類の不備を理由に、所持していた現金全額とデジカメを没収された」
 いやーな気持ちになりますね。


 でも、こんな世の中になっていくのは政治家が極悪人だからでも、警官が小悪党だからでもない。我々市民がアホだからだ。だからこそ、ため息が出る。
 あと、私は基本的には親権力、体制寄りの思想の持ち主であり、警察が治安維持に役だって欲しいとも思っている。徒に制度的な権威や権力に反発したり蔑んだりすればいいと思っている連中と、私は違う。警官個々人は、概ね職務熱心な人々だという期待もしている。だからこそ、急に横暴になった職務質問や軽犯罪法の濫用には危機感を覚えるし、残念にも思う。
 最近急増しているこうした横暴な職務質問や強制的な身体検査は、必ずしも巡査個々人が邪悪なのではなくて、国や都の「治安強化」政策を受けて、各警察署が検挙率という数値を無理に叩き出すよう求めた結果に過ぎないはずだ。だが、人間や組織が法令違反や特例的措置に慣れるのは早い。横暴や濫用が習慣となり、何の疑問も持たずに行われていくようになったら、警察は信用を失ってしまう。それは非常に怖い。だからこそ、法令の下に適切な警察活動を協力に推進して欲しいものだ。


24-07
過大評価はやめてくれ

 過小評価されるよりも、過大評価される方が気分がいいに決まっている。大した利害もない人間同士の談笑ならば、テキトーに大風呂敷広げて悦に入っていればそれでいい。だけれどもそうでない場合は、過大評価の方が過小評価よりも有害だ。なぜならば、過大な能力を求められるハメになりかねないからだ。過小評価されているのならば、実力で示せば不当評価を覆される。が、逆立ちしても出来ないことを求められてもどうしようもない。


 私に付きまとう過大評価には、「PCに精通している」というものがある。自分の能力は私自身が一番よく知っている。私が出来ることなどたかが知れているし、トラブルの際にはほとんど対処できない。私が出来ることなど、市販のソフトや周辺機器を使って某かの作業を出来るだけである。ネットワークの構築・管理やプログラミングのようなことは、何一つできない。
 これを自動車に例れば、車庫入れやタイヤ交換が出来るだけであって、整備士のようなことは出来ない。だけれどもPCについてまったく知らない人は、私をパソコンについて「整備士」と思いたがる。いくら否定しても出来ないことを説明しても、「謙遜している」としか思われない。


 私を「PCの出来る奴」と思っている人々は、なぜそう思いたがるか。私が陰気なマニア面をしているせいとばかりは言えない。大抵は私のPC作業や持ち物について感心されて、それから過大評価されるようになる。感心された具体例を列挙してみよう。


・録音テープをPCでWAVEにして、トラックに分けて音楽CDに焼いた。
・表計算ソフトで少し複雑な図表を作った。
・画像処理ソフトで写真を加工して印刷した。
・サイトを作成できる。
・メールアドレスを用途別に10個以上持って管理している。
・デジカメを数台も持っている。
・フラットベッドスキャナー、フィルムスキャナー、MOドライブ、CD-RWドライブ、DVD-RAMドライブなどの周辺機器を持っている(あるいは、持っていた)。
・保有HDの総容量が600GBを超える。
・USB以外の方法で周辺機器を増設できる。
・デュアルディスプレイ環境を使っている。
・PCを自作している。
・PCをビデオデッキ代わりにしている。
・VHSテープをPCでMPEG1やMPEG4、あるいはDVDビデオに出来る。
・PC9801RS21の時代からPCを持っていた。


 他愛もないことである。しかしこんなくだらないことで、とんでもない技術を持っていると礼賛されるから困りものだ。「うまくソフトや周辺機器を使いこなしている」と見なされるのならば、まだマシだ。これでもまだ過大評価なのだが、このぐらいの過大評価ならば努力でどうにか実際との差を縮められる。だけれども、SEやネットワーク技術者のようなことが出来ると思いこまれたら大変なことになる。
 お前みたいなアホがそんな風に見られるわけがないだろう、と言われるかもしれない。だが、私は会社でそういう過大評価によって、エラい目に遭った経験がある。私は自己の能力について大言壮語したわけでもない。「PCが出来る」とさえ言ったことがない。ただ上記のようなちょっとしたことをしただけだ。しかしそのせいで一介の経理職員たる私が、突然本業でも何でもないシステムやネットワークの面倒を見るように求められ、さらには遠方の営業所にまで「システム担当」という存在しない肩書で電話をされて、相談されるようになってしまったことがある。
 システムやネットワークについて私に何が出来ようか。車に例えると、タイヤ交換しか出来ないのにATトランスミッションの分解整備を頼まれたようなものだ。努力しても出来ないことは出来ないし、そもそもまったくわからないものは努力しようもない。もし出来るようになるには、専門的な教育を受けるにせよ独学にせよ、相当な時間をかけて体系的に学ぶ必要がある。コンピューターのような専門性の高い分野に関しては、まったくわからない人間が実務に従事しながら、手探りで習熟することは不可能だ。そこも、「見よう見まね」や「創意工夫」で何とかなると思われたらたまらんのだが。


 それ以来私は、過大評価されることに神経質になっている。出来ないことを出来るように言われたらその度に訂正している。だけれども、私程度にもPCを扱えない人々にとっては、「謙遜」にしか聞こえないらしい。こういうことを思いたがる人間は40代50代の中年だけではなく、20代の若者も相当数含まれる。若者でも、信じがたいほどPCを触れない人は意外に多い。こういった人々は、彼らなりにPCを出来ない苦しみがあるのだろう。だから「出来そうな奴」に頼りたくなるのは無理からぬことだ。けども、些細なことしか出来ない私に多くを求められても何ひとつ役に立ちませんよ。カナ入力をローマ字入力に直すにはどうしたらいいとか、CD-Rはどうすれば焼けるといった質問には答えられるが、それ以上は無理だ。いや、ホントに。


24-06
最も安い権威主義

 私はデカルト的懐疑を強く持っている。つまり、自分がなんとなく確かだと言えそうなことは唯一、自分が今考えている思考作用が存在していることそのものだけであり、それ以外のことはすべて疑うことが出来るという発想だ。その意味では、自分の目も耳も記憶も、すべて疑うことができる。だけれども、自分が世の中のことをよく知っていると思いこんでいる人間もいるようだ。ああもちろんこれも、私が勝手にそう解釈しているだけだがね。


 デカルト的懐疑にまで至らなくても、世の中を知るというのは極めて難しいことだ。
 自分の村から出ることや森に入ることでさえ恐れていた中世の百姓と違って、我々には総天然色のテレビも、見ず知らずの人間の発する情報に溢れるインターネットも、大量に出版される新聞・雑誌・書籍もある。内燃機関や電磁モーターの発達によって、日常的に移動する距離もかなりのものになった。我々は、直接であれ画面越しであれ遠くのものを気軽に目にし、対話であれ一方的な受信であれ様々な声を聞くことが出来る。だから、なんとなく世の中について思い描くことは出来なくもない。遠く異国の風景から、世の中の仕組みに至るまで、想像することそのものは難しくない。
 しかしそれは想像に過ぎない。もちろんどんなに研究や調査をしたところで想像を脱することなど出来ず、自分の目や耳で確認できる範囲とて極めて限定されており、記憶や判断力とてそれほどアテになるものではない。だけれども、職業的に堅実な調査・取材をしている人間に比べると、そうでない人間の想像は実際とかなり隔たっている。想像の内容の差違もさることながら、想像できる範囲そのものとて、とても狭い。通信技術や印刷技術が発達しようと、日常暮らしている範囲から外に及ぶ想像などたかが知れている(その「日常」でさえも、わかっているようでわからないことだらけなのだが、それはまた別の話)。


 世の中のことなどよくわからないからこそ、人は自分の日常の外の出来事について語るとき、権威を頼りにする。ここで言う「権威」とは「偉いこと」でも「地位が高いこと」でもなく、情報の内容を無条件で信用させる要因、あるいはそれを持つ人やもののことだ。
 極めて身近でありながらも実際には中身を見たこともない、構造も知らない人体について、我々は医者の権威を認めるから診察を受ける。遠い地方や異国の出来事を知りたいとき、BBCやNHKといった放送局、ロイターや共同といった通信社の権威を信用するからこそ、だいたいの事実が伝えられていると思う。そしてもっと卑近な人間に対しても、例えば学生は会社員をやっている先輩をまがりなりにも権威と見て、企業や社会のことを聞かせて貰う。メディアに対しても知人に対しても、もちろん懐疑は持つし批判的にもなるが、多少は権威を見出しているからこそ情報源としようとしている。少しも権威を認めないのならば、最初から何も見聞きしない。
 そして自分が何か語るときには、権威ある情報源を明記することによって信頼性を帯びさせることも出来る。情報の内容が自分勝手な妄想ではなくて、どこぞの権威が地道に研究・取材してきた情報であると示すことは、妄想の応酬に終始しないためには大切だ。しかし、情報源の権威をあたかも水戸黄門の印籠のように持ち出すことによって情報が「真実」であると示して、懐疑を抱く相手を黙らせようとする姿勢は感心できない。権威の情報とてもちろん絶対ではない上、自分自身が権威の声をどこまで解釈できているかも疑問であるからだ。


 「権威主義」という語は本来、制度的な権威(=権力)を笠に着ることである。だがここでは、自己顕示欲の満足や自己の見識の確認のために、自分の情報の信頼性を他者にも絶対視させようとすることに限定しておく。この意味に於ける「権威主義」は、非常に滑稽である。
 ものすごく稚拙な「権威主義」を挙げると、小学校で「これは先生が言ったから正しいんだ!」と強行に主張するガキの姿を挙げられる。教諭とて世の中のことを何でも知っているわけはないし、ガキとて教員のコトバを意図するように読みとれたとは限らない。むしろ、先生があまりにも突飛な質問をされて自己の想像を述べることもあるだろうし、ガキが他者のコトバをきちんと受け止めて解釈していることなど稀だろう。だけれどもガキは、教師という権威を笠に、自分の意見の絶対性を強行に主張したりもするわけだ。このガキの姿にとても近いものを、いい年になった人間にもまま見ることがある。2つ例を挙げよう。


 自分が従事していない業界について述べるとき、それはどうしても、ちょっと聞いた知識とそこから膨らませた想像に依る。だが、少しその想像が他者(私)と食い違ったときに、「俺の親父は**業をやっていた。だから俺の意見は正しい。お前の言うようなことなどあるわけがない」と真顔で主張した奴がいた。だからどうした。
 彼の親父さんが関わった仕事は**業の中でもごくごくわずかな部分に過ぎない。親父さんをバカにしているわけではない。1人の人間が経験できる範囲はとても狭いのだ。同じ会社のことでも、自分が直接関わっていないことについてはわからないものだ。まして、親父さんが息子に自分の仕事で得た見識をすべて伝授したとは思えない。ちょっと話した程度だろう。さらに言えば、実務経験も**業についての勉強もしていない息子が、親父さんのコトバをどれだけ意図した通りに解釈し、どれだけの想像をしただろうか。
 「親父が**業者」というだけで、**業すべてを知っているからのような口振りを出来るとは笑止千万。少し私と彼とで、**業に対する見解が違ったときに、「親父が〜」と言えば、すべて通る、私が相手を認めて私は自分のアホさを認めるとでも本気で思っていたのだろうか。思っていたのだろうな。何せ彼にとっては、権威から的確な知識を得たと思いこんでいるのだから。余談だが、神学論争にしたくなかったので敢えて言わなかったけれども、私の父も伯父も姉も**業者である。


 さらにはロシアについても、稚拙な「権威主義」を行使されたことがある。もちろんロシアに行ったこともないし、職業的な研究者でもない私に、ロシアについてデカい面して語ることなど出来ない。だが、私の回りには様々な研究者やロシア滞在経験者、対露通商従事者がいる。私自身もロシア語に多少触れているし、新聞では毎日ロシア関連記事を注視し、本の10冊や20冊も読んでいる。もちろんこんなことで私は自分を権威と称することなど出来ないし、権威の情報をきちんと解釈しているとも思っていない。だが、稚拙な「権威主義」を甘受するほどアホでもない。
 ここに於いては、ロシアの国民性や世情といった抽象的なものについて争われた。言っておくが、私は人からちょっと聞いたことを根拠に、相手の言動を否定することはあまりない。「そういうこともあるのか」「まあ、そういうこともあるかもな」と言っておくに終始する。認めもしないが、否定もしない。これは私の、情報に対する基本姿勢である。こうした態度をとるのは自信がないからだ。むしろ私は、自分から何かを述べて、大抵否定されることの方が多い。で、私がロシアについて何かを雑談として述べたら、「そんなことはない」と否定されたのである。
 何故かその根拠を問うてみた。すると相手は、「最近ロシアに行ってた奴から聞いた」という。その友人とやらについても聞いてみた。相手を突き崩すためではなく、極めて狭いロシア関係界では、「知り合いの知り合い」の可能性もあるからだ。しかしその友人はロシアの研究者ではなかった。ロシアの文化や風土について情熱を燃やした好事家でもない。さらにはロシア語なんかはまったく出来ない。英語でさえ満足に出来ない。ただ、ちょっと観光旅行で行ってみただけである。まあその友人が事情通ではないとしても、私の見識が向上するわけではない。だけれども、現地の出来事や人の営みについてどれほど窺い知ることが出来るかも不明な知識・語学力の持ち主が、ちょっと見物旅行してきた土産話ひとつで、よくもまあそんなに「権威主義」的姿勢をとれるものだ。私のちょっとした知識を否定されたことなんかはどうでもいい。けれども、ここまで些細な情報源を権威のように扱い、よくもまあ、自分がものを知っているかのように振る舞って、他者の言説を堂々と否定できるものだ。感心したよ。


 こうしたことから言える教訓は1つだ。「権威主義」は格好悪い。
 まあ自分がものを知っていると示すことは快楽だ。自分の見解と他者の見解が対立したときに、自分が正しく世の中を理解していて、相手は間違っていると思いたがるのも自然なことだ。だけれども、些細な権威にしがみついて、自分が正しい、適切な見識をしていると示すのは何の生産性もない。自分自身の認識を硬直したものにしてしまうし、何よりも他者との友好的な意思疎通が困難になる。お互いの知的刺激にもならない。ただ、お互いのどちらかの見識を絶対否定するか絶対肯定するかの、ゼロサムゲームに陥ってしまう。
 どんな素晴らしい人から話を聞こうと、古典的名著や定評ある報道に目を通そうと、それだけでものを知ることなどは出来ない。得るのは、事実でも真実でもなく情報に過ぎない。まして、自分が大して信用できない目と耳で見聞きして、それほどの基礎知識も分析能力もない頭脳で判断し、無意識に忘れたり改竄してしまいがちな記憶にメモリーしようと、それだけですべてを知ったようなことなど言えるわけもない。しかし思い上がって、本気で自分が何か知っているかのように思いこむ快楽は強烈だ。そうした人間にならないためには、常にデカルト的懐疑を忘れないようにしたい。
 ハッタリ利かせるときは自信があるフリをして、バカな意見でも堂々と述べる必要があるけれどもね。だけれども、本気で事実を知っていると思いこむのは危険だし、まして些細すぎる権威を振りかざすのも失笑を買うだけだ。   


24-05
学力低下の話を聞くと、言う話はいつも決まっている

 経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した国際的な学習到達度調査とやらで、日本のレベルは大幅に下がった。まあ今さら驚かない。私は日本人の知的レベルや分析力、思考力、判断力が優れているなどとは、まるで思っていない。
 昔から勉強することそのものが罪悪であり、学びすぎると人格がおかしくなるといった発想を、万人共通の良識的意見であるかのように扱い、それを言い訳に大して努力をしてこなかった人間が溢れているこの日本。もう絶望的なレベルに達していると私は思っている。大した専門性もないちょとした仕事をするのにも、社会生活を送るのにも、支障を来すレベルで基礎知識やその他知的能力が足りない人間がここそこを闊歩している。しかも学士などという資格をぶらさげている奴も少なくない。


 これからのポスト産業社会は、学校で少しばかり勉強めいたことをして、一応読み書きとかけ算ぐらいはなんとか出来るレベルであれば会社で養われていた産業社会とは、大きく違ってくる。これからの時代に必要なのは「知」だ。読み書き計算どころか、世界各地のビジネスマンなら当然身につけているであろう教養から、英語をはじめとした外国語能力、公開されている情報にアクセスし分析するリテラシー能力、そして何か専門的な知的技能を持っている人間と、これらを持たない人間との差違が極大化していく世の中だとも言われている。
 これからの世の中は、テキトーになまけて生きてきて、学校や受験に文句を垂れながらも自分なりに研鑽する努力をせず、「勉強よりも大切なことがある」と称して誰でもやるような遊びに耽るだけで、自分がすばらしいかけがえのない個性を持っているかのような錯覚を持ってきた人間を、一人前の待遇で雇ったりはしない。専門性を持った人間をも安価かつ機動的に派遣社員として使うことができ、ロシアやインド、中共などから日本にやってきたプロフェッショナルが、月々1000ドルや1500ドル程度のカネで働く時代だ。


 これが何を意味するかというと、誰でも出来る労働をする人間と、限られた人間しか出来ない労働をする人間とに二極化され、しかも労働市場の流動化・国際化によって、失業率が高止まりになるということだ。そして貧乏人に追いやられた非専門的労働者は、自分の子供に高度な教育を受けさせられなくなって、階層がある程度固定化されるだろう。
 日本は教育費が世界的にも飛び抜けてバカ高い3大国の1ヶ国である(残りは米国・韓国)。その世界有数の教育費を、一億層中流と称される所得水準の下に、日本のお父さんお母さんはバカどものために払ったのだ。小学校レベルの漢字も書けない学士様。中学レベルの英単語もわからない学士様。政治や経済にハッタリでも何でも見解らしいものも言えない学士様。意味がわからないどころか、少し長い文章に向かうことそのものが出来ない学士様。
 覚えたものと言えばせいぜい麻雀、パチンコ、バイクに車、酒にタバコにセックス、バイトの単純労働。こんなものは、秀才だろうとバカだろうと誰でもやることなのだが、些細な経験でもって自分が「やるべきことは為した。勉強しか出来ない奴よりは豊かな人生送って人生勉強した」などと自惚れる。こんな奴が氾濫しているようでは、この国の将来は非常に暗い。そして彼らに投資した親御さんが気の毒である。


 しかし私は、とっとと階層社会が完成して欲しいという願望を持っている。自分自身が何も持たざる人間であるのにも関わらず。今の日本はまだまだ階層が未分化だ。実際問題として所得格差は広がりつつあるのだが、まだ一億総水平のごとき妄想が蔓延っている。まだ同質性という幻想を人々は持っている。「日本人」ならば同じコトバを話すと信じている。「日本人」ならばだいたい似たようなテレビ番組を観て、似たような娯楽を享受すると思っている。「日本人」ならば同じ学校で机を並べて学ぶことを疑いもしない。
 だが私は、違った階層同士が肩を並べて同胞のフリをするのもさせられるのも、もう限界だと感じている。飲み屋に入って、隣のテーブルにいるのがどんな階層か気にせずにはいならない。同じ電車に、違った階層の人間どうしが混在するなどいつ殺し合いになることか。私にいつかガキが出来たら、いい年こいて読み書きも出来ないクズ親父の息子と同じ学校なんかに通わせたくない。私はものすごく差別的かつ思い上がったことを言っているのではあるが、しかし「階層分化」とはこういうことだ。いずれ、貧乏人と高給取りとでは、住む地域も入る店も、子供の学校も、そして見るチャンネルさえも、自然と分かれていくことであろう。1年や2年でそうなるとは思えないが、20年後30年後にはどうなっていることやら。
 まあさしあたっては、私が「低い階層」に固定化してしまわないように、自己投資に励まなければならぬ。  


24-04
地震予想

 釧路で起きた震度5弱の地震は、先月の地震の余震かもしれないが、先月の地震とは関係のないとの見方が出ている。この2つの地震が、ただ偶然近いところで起きた独立した地震だとしたら、釧路で今後地震が活発になっていくと予想されている。「いつから活動期に入るか」「何日に地震がくるか」といったことはわからないまでも、気象庁の「M何クラスの地震が何年以内に来る可能性」は意外に当たる。これが今日の夜起きるか、数年後か、あるいは結局小さな地震が続くだけでプレートのストレスが是正されていくかはわからんが。


 だが、もし。もし、万が一、釧路の大規模地震が避けられないものなのであるとしたら、私が帰省していない時期であるった方がよいか否か。
 私の実家は海岸からは遠く、海抜高度も高く、津波の心配はまったくない。崖崩れ・地滑りは、一見平地のような緩やかな傾斜でも発生するので否定しきれないけれども、まあ起きたときは起きたときだ。あとは、地震がくれば間違いなく起こる被害は、家のダメージと室内の散らかること、そして短期的にはライフラインの寸断や食糧・物資の不足だ。実家は、東京のアパートのような安普請のボロ屋でもないし、新潟の伝統的家屋のように瓦や大型の柱などで重心が高くもない。家屋にダメージは受けるとしても、家が完全に倒壊して家の者を押しつぶすようなことにはなるまいと見ている。
 となれば、後かたづけや家屋の修復、食糧・飲料水・物資の調達にも、私の労働力があった方が便利ではあろうて。年老いた両親だけでは心許ない。少し落ち着けば、釧路空港もすぐに再開されるだろう。東京に戻るのが少し遅くなっても、困らないことはないが、それほど困りはしない。


 いや、別にいつ釧路で地震が起きるか起きないかなどわからんし、私自身もう6クラスの地震は体験したくはないけれども。だがまあ、釧路で地震が起きても、よほど運がわるくない限り死にはしないとは思っている。けど、東京で起きたら死ぬような気がする。今住んでいるボロアパートが倒壊しても燃えても不思議ではない上、商店や街角でも頭上からモノが降ってきていつでも死にそうだ。あるいは、もし気が狂ってウズベキスタンにでも留学や旅行へ出て、タシュケントがまたしても大地震に襲われたら、それこそまさに助かる自信はない。
 まあすべては、Что будет,то будетですよ。


24-03
自称「リアリスト」の「内向性」

 企業にとって、最も重要な存在は誰か。こういった抽象的な問いかけには、様々な理由で、様々な回答が予想される。ありそうな答えとしては、顧客、消費者が一番多いだろう。従業員という答えもありそうだ。日本語で「誰か」と言うと答えとして違う気がしないでもないが、融資する銀行、取引を行う企業、監督する官庁といった答えもありだ。そして銀行とは別に、個人であろうと機関であろうと、投資家ないし投機家といった存在もまた非常に重要である。


 上に挙げたすべての存在は企業を潰しも殺しもするし、コントロールすることもある。一番弱そうな、雑多な葦のように見える消費者や従業員もまた、巨大な力を持つことがある。商品の選択肢が非常に多く、しかも競争相手は全世界的に存在し、情報が一国内はもちろん外国にも広く伝わりやすい今日では、一般消費者の怒りを買ったり信頼を損ねただけでも、大企業が致命的なまでに売り上げを落とすこともある。従業員とてしばしば牙を剥く。企業の雇用契約違反や差別、嫌がらせを理由にして集団訴訟を行って、大企業が巨額の賠償金を命じられることもしばしば起きている。例え企業が勝訴し、告発者に報復を行ったところで、イメージの失墜によるダメージは無視できない。だが、企業の生殺与奪をもっとも容易く好きに出来るのは、機関投資家である。


 機関投資家は、常に企業の弱みを見つけようとしている。不祥事、スキャンダル、安易な増資などの隙を見せれば、あらゆる法技術を駆使して株価を暴落させられ、安く買い叩かれて支配権を奪われる。そしてさらにバラ売りされるか、あるいは他社の傘下として過酷な報われない業務を強いられる。獰猛な投機筋は、企業にとって時には強力な支援にもなるが、今まで築いたものを踏みにじられる危険性もある。だから、その隙を見せないことが企業にとっては重要になってくる。
 従業員にとっても職場が、何の思い入れも成長させる意図も乏しい短期投資家に支配されると、あまりいいことはない。欧米の会社の傘下だから公正で、実力勝負の職場になるかといったらとんでもない間違だ。雇用契約ではなく、周囲の雰囲気や上下関係で過剰労働をさせる「日本的な理不尽」を推奨する外国人投資家だっている。上司部下ではなく、水平の関係の従業員同士を監視させて、首切り・人員整理を従業員自身の手で相互にさせようとする手口もアメリカの企業ではよくある。上を憎ませず、同僚同士を憎ませるうまい手だ。「乗っ取られる」ということを、カルロス・ゴーンのような秀才が旧弊を破壊して、長期的視野をもってすばらしい会社に脱皮させることだなんて思わない方がいい。


 だから従業員にとっても、メシを食っていく場所を守るため、少なくとも今の職場環境をさらに悪くしないためには、会社が乗っ取られる隙を作らないようにするのに協力する必要がある。もちろん出来ることなどたかが知れているし、会社の風土や習慣がヤバいと思ったところで対処できることなど、まずなかろうけれども。実際問題としては、選択肢は少ない。
 けれども、遵法性に多大なる問題のある会社、会計にひどい不透明性がある会社、環境破壊や顧客情報の漏洩など世間の反感を買うことを組織的に行う会社、差別や社内暴力といった問題が根付いている会社は、いつ「隙」としてこじ開けられるかわかったものではない。少なくとも「隙」づくりに荷担してはならないし、促進してもならない。いざというときに、自分にすべてを押しつけられて自分だけ切られることもある。特に、若い奴がいきなり帳簿をまかされたときは、危険信号だ。


 だけれども、上司の命令に従うこと、職場環境の劣悪さに堪えること、あらゆる理不尽や不正を甘受することのみを「唯一の生存手段で大人のとる道」のように言う奴は、なんでこんなにも多いのかね。新卒の若者から30代の中堅社員ぐらいまでの年齢に、すべてを甘受する自分を「リアリスト」と称し、甘受しない人間を「青臭い、何にも堪えない根性のないガキ」と称する傾向が強いのはどうしてかね。若い奴ほど物事を変えたくない、長いものに巻かれるしかないと思うという意味に於いて、保守的な思想を持っている。雇用難の時代だからこそ、見つけた職場にしがみつこうと必死であり、そうしようとしない人間を「だらしのない劣った人間」とでも決めつけないと、やっていられないのだろうけど。
 こういう人は非常に「内向的」ですね。「我慢すればいい」「甘受すればいい」「従えばいい」と、念仏のように唱えていれば、それでうまくいく、そこそこ食っていけると思い込むことに、何の妥当性があろうか。自分が「そうすればまあ食っていける。そうしないとダメだ」と思い込んでいるだけである。これは自分が勝手に作り上げた法則である。自分が勝手に思い描いている世界観である。ここに閉じこもっている。
 こういう人間がすべてを甘受した結果会社に切り捨てられようと、不正の責任を押しつけられようと、私の知ったことではない。けれども、こうした「内向的」人間に自分の法則を強要されることは我慢ならない。こうした自分勝手な発想に基づいて、「堪える大人」か「青臭いガキ」かに判定されるのも不愉快だ。さらに言えば、こういう奴隷根性の持ち主のせいで、自分まで一緒の船で沈むのは御免だ。


 だから私は、船に乗り込んだらそこで出来ることだけに慣れ親しむようなことも、船員同士の馴れ合いや内部価値だけに従うようなことも、もうやめた。もし乗った船がどうしようもなくても、船に見切りをつけても生きていける技能こそを身につけたいと常々思っている。その技能の1つが外国語である。今後転進する道として、いくつか声はすでにかかっており、とりあえず食うのに困ることはなさそうだ。
 だけれども、オフラインで会う古くからの知人友人のほとんどが、私の選択や目標に対して否定的な意見しか言わない。どうせ他人事なんだから、相づちだけ打って聞き流せばいいものの、聞き流しさえもしない。必ず私を批判する。私がだらしのない、バカで根性のない人間と扱いたがる人間も多い。同年代の人間ほどその傾向は強い。だから私は、いかなることであれ具体的に近況を話すのをやめた。
 一方で、私の選択や目標に一定の理解を示す(あるいはそのフリをする)のは、年輩の人間や、高度の専門性の下高給を取ったり起業したりしているような人々だ。少なくとも、「ただ堪えるだけでは、うまくいかない」と知っている人間である。私には彼らのように、うまく立ち回って腕を振るうようになる自信などはない。けれども、自らが自らを拘束して、とにかく安易に何事も甘受すればいいと思うばかりで、それ以上のことをさしてしない人間にはなりたくないものである。いや、一場所で「堪えない」で行動を起こすことがうまくいく道だとも思わないが。


 しかし、雇用形態が劇的に変動しつつある今の状況に於いて、「正社員」としての労働についてしか想定していない私も、古くて保守的な人間なのかもしれん。そして「自力で売り込める能力」に活路を見出そうとする発想も、専門性ある職域にまで派遣会社が進出して、自己投資した人間でも福利厚生も給与も不利で、まして契約更新のためには命令に従うしかない位置に追いやられている今の時勢に於いては、虚しい「内向的」な発想なのかもしれない。  


24-02
けん銃のようなものを発射して、現金のようなものを要求した

 12月06日午前、埼玉県で信金強盗があった。同じ支店で10月にも強盗があり、そのときには「けん銃のようなものを天井に発射した」らしい。だが、「けん銃のようなもの」とはいったい何か。その問いに答えるためには、日本に於ける法律上あるいは社会通念上の、「拳銃」の定義を明確化しなければならない。手元に数百冊ある資料のどこかに正確な記述があったはずだが、「拳銃」というカテゴリーがまず存在する。だが、それとは別に「短銃」というカテゴリーも存在する。
 「拳銃」の「拳」の字が常用漢字ではないとして、避けようとするマスコミは、しばしばマヌケな「けん銃」という表記の変わりに「短銃」という表記を代用する。だけれども、「短銃」は必ずしも「拳銃」のことではない。短銃とは、猟銃・競技銃として認められるライフル・散弾銃の最短銃身長・最短全長規定を下回る全ての銃を指す。銃身の短いカービン銃や戦闘用散弾銃もこの定義では「短銃」だ。サブマシンガンも、フォールディング・ストック付きのアサルトライフルも「短銃」だ。もちろん「拳銃」も短銃だ。そして、銃刀法改正前のモデルガンを改造して作った「改造拳銃」や、鉄パイプを細工して作った手製銃もまた「短銃」である。「短銃」とは広義では、法律上定められた長さに達しない銃器全てを指す。だから、「短銃のようなもの」という表現はちょっとおかしい。いや、実弾を発射できる「銃」のようで、それが短い銃身長のものに見えるが、実は実弾発射機能を持たない「モデルガン」かもしれない。そういう場合には「短銃」のようなものと言えるだろう。


 では、「拳銃」のようなものとは何か。「拳銃」の範疇は結構狭い。素人目にも「拳銃」に見えるものは、「拳銃」と判断して差し支えない。だが、「ようなもの」とつける場合として一番考えられるのは、「実銃」か否かという観点に於いて、「モデルガン」の疑いを否定できないとき。あるいは実弾発射機能を持っているが、「真性拳銃」か「改造拳銃」か判断がつかないとき。この2つ以外には考えにくい。
 だけれども、今日日「改造拳銃」など作るのは極めて困難になっている上、「真性拳銃」が手に入りやすくなっているご時世。極道やマフィアのような犯罪集団に関わるのある人間にとっては、「真性拳銃」を手に入れるのは、何十万か用意できればそう難しいことではないだろう。昭和47/52年規制以前のモデルガンを入手し、実弾が発射できるように加工し、さらにはその「改造拳銃」に適合した実弾を入手することの方が、よほど難しいし、面倒だ。「改造拳銃」などというものが巷で出回り、犯罪に使われるなど今さら考えにくい。それを考えたら、「けん銃のようなものを発射した」というのは少しおかしくないかね。「発射」した以上は、実弾発射機能も持っているんだから。少なくともモデルガンではないのだから。考えられる可能性として一番高いのは「真性拳銃」、つまりただの「拳銃」と断定してほぼ間違いないだろう。ニュースで、「けん銃のようなもの」と表現する必要がどこにあるんであろうか。


24-01
「モーレツに遅れた国」


 マルクスはその著書の中で、しばしば「アジア的」というコトバを使う。これは蔑視的な響きを持ち、「モーレツに遅れた社会」という意味を帯びたコトバだ。そして「アジア的」な未開社会では、全ての社会的関係が「家族」に擬される、と述べている。それを踏まえたであろう発言をちょっと目にした。


 ドイツの週刊誌「シュピーゲル」1998年6月22日号の日本特集に於いて、特派員ヴィーランド・ヴァグナー氏は、「すもうと自殺のはざまで」という記事に於いて次のように記述している。
「日本は近代になるまで産業革命が起きなかった。そのために労働力の『売り方』を知らない。マルクスは京都にまでやって来なかった。多くの農民は劣悪な封建的な社会の中で、いくら搾取されても自分達を『半奴隷』と認識するどころか、『家族の一員』と考えていたのである」


 そういう側面は否定できない。つまり、日本には契約関係や民法・労働法といったものが、さほど浸透していない気がしてならない。日本のここそこで人々は、いちいち家族を模したがり、契約関係を家族関係に擬したコトバが氾濫している。親方と弟子、大家と店子などなど。近代的な知的所作の上に成り立っているはずの企業に於いてさえ、「家族意識」は蔓延っている。会社で上役や先輩は、家族であるかのように馴れ馴れしく私生活や思想習慣の全ての介入し、仕事以外のあらゆることをも指導することをよしとし、しかもそれが「温かい」と思いこんでいる。まったくもって原始社会だ。
 会社を休む、早引けするといったとき、「カミさんが倒れて家が大変だ」と言えば、上司が理解を示して「そうか。ここは皆に任せて、安心して休め」などと言う社会は、不公正だ。これは逆に言うと、上役が理解できない事情や個人的習慣には、何の配慮も敬意も払われないということだ。個々人にどんな事情があろうとなかろうと、雇用契約以上の労働をする必要などなく、雇用契約にある休暇はとらなければならない。また、契約になければどんな事情を申告しようと認められない。どうしてもという場合は、ペナルティを覚悟しなければならない。どう働くかが周囲の「休みにくい、帰りにくい雰囲気」に左右され、休めるかどうかが上司の「人情」に依存するようでは原始社会とかわらない。


 そもそも日本に於いては、雇用契約がないがしろにされる。場合によっては契約書がかわされないこともザラだ。契約や規定どおりの待遇や福利を求めたら、「やる気がない」「甘ったれいてる」「世の中を知らないガキだ」「自分勝手だ」とありとあらゆる人格非難を為される始末。このような企業に、労働市場の垣根がなくなっていくこれからの時代を生き抜くことが出来るのだろうか。法や規約を守るのはキレイごとでも従業員に楽をさせることでもなく、会社が生き残り、社員に行動指針をはっきりさせてその行動を管理しやすくするための方策だ。
 なんとなく、「職場の雰囲気」や「その場の家族的な意識」を見抜いて、それに従って休んだり働いたり働いているフリをしたりするのは、同質性が高い人間同士でしか成り立たない。法を超越した皮膚感覚は、皮膚感覚を共有できる人間にしか通用しないと言い換えてもよい。万人共通めいた指針を与えてくれるのは、法であり契約である。それしかない。その基準を無視し、少しだけ人情らしきものを示して、実際には上司や先輩の気分次第であらゆる無理や理不尽の甘受を強要され、結局として「温かい家族」を擬するが家族ほど思っても気遣いもしないような、「アジア的共同体」会社は、もう時代遅れだ。
 日本人とて価値観の多様化が広がり、あるいは習慣や発想の違いを口に出して抗議するようになっている。次々に流入してきている正規の知的レベルの高い外国人労働者にとっては、法のみが唯一の基準となのは当然だ。日本人集団の、マルクスの言うところの「アジア的」側面は、これからも決してなくなりはしないだろうし、場合によっては強固な共同体を生む。けど、これからはその精神的風土が、多大なる摩擦を産みそうだ。


 まあ、「アジア的」共同体にもよさはある。自分が心底そこの一員になりきってしまえば、これ以上心強いことはない。けれども、私にとっては、努力しても集団の思想や習慣に同化することは不可能だ。とにかく私は、同質性が高い集団や、他者と自己とが違うということに鈍感な人々の集団で過ごすのは御免だ。自分が、その場に存在することに対する最低限の承認を得られるかどうか、習慣や発想の同化を強要されないかどうかも、恐ろしいことだが、「内向的」な発想をコトバを聞くだけでもゲロを吐きそうになる。ここでいう「内向性」とは、人と話さないことや、家に閉じこもることではなく、自分の感覚や思想・発想を疑うことを知らず、すべて自己のイメージとステレオタイプで判断していまう自己完結性のことである。多文化主義に不寛容なことと言い換えてもよい。


 だから私は、異文化同士の衝突する場である外国語に自己の時間と労力を投資している。自己と他者との「違い」を意識するには、コトバを学ぶのが一番だ。外国語を知っている人間は、少なくとも自己と他者が違うということそのものは知っているということだ。だから、日本語でさえ自分の用法や意味づけが万人共通と信じて疑わない極度に「内向的」な人間よりは、外国語話者の方が付き合いやすい。
 カナダでは、英語とフランス語の徹底した同格化の結果、多文化主義の風土が芽生えた。日本も複数カ国語を公用語にした方がいいかもしれない。つまり、すべての公的な標識・資料・声明を複数カ国語に徹底して訳し、日本語以外のコトバを使えるスタッフを役所に配置することを制度化するわけだ。企業にもそうした多言語化をインセンティブをつけて促進させる。そうすれば、日本はもうちょい住み良い国になるかもしれない。ま、国家がそうした政策を取らなくても、いずれは自然とそうせざるを得なくなってくるだろうけど。
 とにかく、同質性と同化を前提にした社会に、発展はあり得ない。 


戻る