last up date 2005.01.10

25-10
638

 北海道最低賃金は、法律で638円/時間に定められている。
 そして北海道のあるコンビニで見た。
「アルバイト募集。時給638円」
 道内経済は、かなり過酷な状態のようだ。


25-09
誹謗に対する内向性

 私には、不思議でたまらないことが2つある。
 1つは、他者を誹謗しても、その相手と友好関係を維持していられると思う人間の思考回路。
 2つは、決別覚悟で他者を非難してきた相手を、「決別することを想定していない人間の軽薄な言」と思いたがる人間の思考回路だ。


 1つ目だが、もちろん、人間は自分以外の人間のことなんか大して思ってはいない。どんなに思慮深い人間でも、どんなに善良な人間でも、他者の悲しみや屈辱、怒りを感じることはできない。想像に基づいて共感らしきものを持つことはできるが、それとて自分勝手な一方的な妄想に過ぎない。他者の痛みを感じることは、人間には不可能だ。だから、他者の痛みをわからずに無神経なことを言って、相手の憤怒や失望を知らないでいれば、友好関係への影響など考えもしない。そんなことはわかっている。
 だが、他者の痛みを感じられないということをわかった上でも、なんでこんなことをして、こんなことを言って、相手と友好関係を保っていられると思うのか、と言いたくないような人間にはまま出くわす。単純に「バカ」「ハゲ」「デブ」と言うような罵りではなく、例えば他者の人格や能力、経歴や実績、果ては家族までをも貶めて、なぜ相手が自分を殴らないと思うのか。殴らないまでも、尊敬や信用を失うとなぜ思わないのか。私ならば人格や能力を不当に貶められ、家族まで誹謗をされたら決して許さないし忘れない。もちろん表層的に関係を保っていた方が得策な人間には、少なくとも敵対的姿勢はとらない。けれども心の中では憎悪を決して忘れない。必要以上にその相手と接することはないし、何かを有利にも取りはからわない。関係が必要なくなったら、即座に決別する。当たり前のことだ。
 何をしても決別されると思わない人間は、単に他者の痛みに鈍感なだけではないだろう。様々な要因が他にも考えられる。自分は何をしても許されるという、根拠のない甘え。どんな誹謗や中傷をしても、自分は「正確」なことを言っているから何を言っても当然だという、根拠のない錯覚。自分が相手を苦しめることや貶めることは「正当」なことであるという、根拠のない傲慢。こうしたものが見て取れる。他者を侮辱するのも誹謗するのも本人の勝手だが、せめてその結果に対する想像力と覚悟ぐらいは失わないでいたいものだ。


 2つ目は、1つ目ほどは多く出くわしたことはない。けれども、ヘタをすると1つ目のものよりも不愉快かもしれない。知人や友人の問題行動で不快感や不利益を受けて、それに対して業を煮やして、決別覚悟で最後通告を行うときに、相手が取りうる最も不誠実な態度なのだから。なにせ、今までの友好関係も、恩も情も、思い出も、これから出来るかもしれないことも、すべてをかなぐり捨てる覚悟で、ヘタしたら殴り合い、最悪殺し合うかもしれない悲愴な覚悟で、相手を弾劾しようとしているのだ。これに対して、「こういう言動は僕にケンカを売っているのと同じことだ。20歳を過ぎたら自分の言動に責任を持て」などと相手をいかなる覚悟もない愚かなバカ野郎呼ばわりするなど、もう絶望的な返答である。
 しかもここまで悲愴な覚悟で決闘を挑む場合は、カネを返さない、人の苦労を踏みにじる、生活をかき乱す、大切なものを返さないといった甚だしい行動に対して、何度かそれとなく、あるいは穏やかに注意や懇願をしたのにもかかわらず、何ら改善されない事態ということだ。そうした自分の行動を省みることなく、人から強くものを言われるとムカつく、非難されるとプライドが傷つくといった、自分勝手な感情のみに基づいて、自分の立つ瀬を守り、精神の快楽を得ようとする、内向的な対処法しかとれない人間にはなりたくないものである。


25-08
インド洋派遣艦隊の帰りがけに

 此度のスマトラ沖地震に際して、インド洋の補給任務から帰還途中の海自護衛艦隊に、災害支援任務が課せられることになりそうだ。そこに人手がいるのならば使わない手はないが、果たして燃料・物資・真水は足りているんだろうかね。補給艦にはまだそれなりの燃料は搭載しているだろうし、食糧にも余裕はあるだろう。自分達が多少寄り道することぐらいは可能だ。が、被災者に毛布・食糧・燃料・医薬品の類を配布するのは無理だ。結局、哨戒ヘリで捜索に協力するぐらいか。あとは艦内の医療施設で診察を行うのも考えられるが、どのぐらいのことが出来るかね。
 まあ、自衛隊が海外の災害に協力すること自体はよいことだ。微力にすぎなくても、やらないよりはずっとよい。経過を見守りたい。 


25-07
情報通や雑学王を名乗るのは勝手だが

 情報を「事実」として信じ込むのも、反対方向のベクトルに信じる−つまり頭ごなしに否定する−のも愚かなことだ。情報を得た瞬間に抱く安直なイメージでもってその真偽を決めつけてしまうことは、情報の摂取とは言わないからだ。それはただ、自分の出来上がったイメージやステレオタイプを確認するだけの儀式と化し、それらに沿った知識しか増えないし、非常に硬直した世界観を構築することになってしまう。
 だから私は、なるべく情報に対しては「一定の信用」しかしないことにしている。逆に言えば、まったく信用しないということは、原則ありえない。まあなかなかうまくはいかないのだが、最低限、情報の頭ごなしの否定と盲信はしないように心がけたいとは、常々思っている。


 さて、世の中には他称であれ自称であれ、「情報通」「雑学王」と言われる人がいる。私の狭い経験から言うと、こうした人間の半数以上は、情報源として信用に値しない。もちろん彼らの言や見解を完全否定はしないし、ときには彼らも有益な情報をもたらすが、基本的に疑ってかかる必要がある。それはなぜかというと、こうした人間の情報に対する姿勢は硬直しているからだ。つまり、自分の出来上がったイメージやステレオタイプに沿って自分勝手に情報をラベリングして、再構築する傾向にあるからだ。もちろんすばらしく頭のキレる「情報通」「雑学王」もいるが、私の経験では、そうした人間の方が少数派だ。
 私が狭い経験から一方的に「信用に値しない」とする人々は、抽象的な言い方をすれば「自分の無知を知らない」人々だとも言えそうだ。もし自分の無知に対して誠実に向き合えば、もっと情報の扱いが慎重になるはずだ。彼らは「森」ではなく「木」しか見られない。その「木」なる情報は、人から聞いたことであれ、自分の経験で知ったことであれ、本で読んだことであれ、雑誌の吊り広告の見出し文であれ、その段階では点に過ぎない。点がもっと広範囲な文脈でどんな意味を持つのか知るためには、「森」についての認識がなければならない。「森」とは何かと言えば知識認識の体系のことである。体系、すなわち基礎的な認識なくして点の情報ばかり仕入れても、それがガセかどうか、ガセならばどのぐらいまで事実を含んでいるか、なぜ今この情報が出てきたか、なんてことのない情報かものすごいスクープか、といった価値判断がまるで出来ない。しかしちょっと点の情報、つまり「木」を束で仕入れたぐらいで、それを判定する能力もろくにないのに、「情報通」「雑学王」ぶっている人々は結構多い気がする。


 ちょっと例を挙げよう。
「アメリカの戦闘機って、60億円もするんだってよ。俺はびっくりしたよ。だから、アメリカは戦争で軍需産業を儲けさせようとするんだな」
 ある自称「情報通」のコトバだが、意味がわからない。特に、何がどう「だから」なのかまったくわからない。


 まず、前半部はそう驚くことだろうか。「アメリカの戦闘機が60億円する」というのは、どの機種のことかは知らないが、F15ならばまあそんな値段だ。だけれども、空自用のF15だと100億円にも達する。米軍最新鋭のF/A22に至っては、200億円は下らない。フランスのラファールや欧州共同開発のユーロファイターに比べると60億円はやや高いが、戦闘機の値段として60億円はそう驚くに値する価格だろうか。この段階で、戦闘機や軍事一般への基礎的認識がないまま、点の知識を仕入れただけなのが窺い知れる。


 次に、戦闘機の調達価格が高いことと軍需産業を儲けさせることの間に、どういった因果関係があるのか皆目見当が付かない。平時であっても軍隊は国家歳出のかなりを占める(2002年は約36兆円)。そして軍がカネを使うのは戦闘機のような高額商品だけではない。食数百円の兵士用のメシや1つ数円のプラスティック製食器なんかも、それらを供給する会社にかなりの額の利益をもたらす。もちろん戦争になればより多くの物資を必要とするが、戦争で大きく儲けるのは航空機メーカーよりもむしろこうした生活物資・消耗品のサプライヤーである。
 一方、開発に10年20年と時間がかかり、必要な数を揃えるのにも何年もかかる戦闘機には、戦争があろうとなかろうと膨大なカネが投資される。戦争がなくても制式装備に選ばれた段階で莫大な利益になる。戦争が起きたところで現代の米軍戦闘機はほとんど損害を受けないので、航空機メーカーにとって戦争はそれほど大きな商機というわけではない。僅かな機数の補充と摩耗部品の交換など、制式装備としての数を揃える大事業に比べれば微々たるものだ。ちなみに世界で最も訓練に時間をかける米軍では、部品や機数を平時でも消耗する。外国への売り込みとて、戦争での実績が大きくなれば売れる面はあるが、少なくても天下の米軍御用達という段階で、外交的力学も絡んで、多くの同盟国・影響下にある国が購入する。戦闘機の輸入は、整備技術や部品供給をほとんどの国が自力で賄えないので、時として軍事同盟以上の意味を持つのだ。
 ここまで踏まえた上で、戦闘機が高額なこととアメリカが戦争を起こすことの間に、どんな因果関係があるのか、私に教えて貰いたいぐらいだ。「戦闘機は60億円」という点の情報を得ただけで、「高額商品」というイメージに惑わされて、アメリカや戦争に対する彼の不信感と相まって、わけのわからん世界観が構築されてしまったのだろう。


 もう1つ例を挙げよう。私が日本の情報収集衛星2号機について話していたとき、これと同じ人物が「あれってカザフスタンから打ち上げられたんだよね」と言ってきたときは耳を疑った。今度は何をどう勘違いしたのか見当も付かない。ただ、彼は次のことを知らない。

・情報収集衛星2号機は2004年12月現在、未だ打ち上げられていない。H2ロケットの事故で打ち上げスケジュールが大幅に遅れ、気象衛星から偵察衛星まで様々な衛星が打ち上げ待ちをしている。
・日本がカザフスタンから人工衛星を打ち上げたことはない。1970年代に米国のロケットで人工衛星を上げたことはあるが、ここ27年間日本の国家プロジェクトとしての人工衛星は日本から国産ロケットでしか打ち上げていない。


 カザフスタンの発射場から日本の人工衛星を委託打ち上げする話は2004年12月27日に、宇宙開発委員会によって承諾された。彼が「カザフスタンから情報収集衛星を打ち上げた」と称したのはそれから数ヶ月前のことである。だがこれは科学調査衛星や放送衛星の話である。もちろん日本の偵察衛星を旧ソ連で、中国の隣国であるカザフから打ち上げるわけがない。しかし、もしカザフで打ち上げの動きが出ているという報道や噂話を耳にして、彼が2004年12月27日の報道から数ヶ月も前に「カザフから『日本の人工衛星』を打ち上げるかもしれない」と発言したのだとしたら、それはそれで優れた情報収集能力と言うことが出来る。情報収集衛星なわけはないけれども。
 だが、こんな杜撰な情報分析能力・判断力では情報通を名乗ることはとても出来ない。打ち上げてもいないものを「打ち上げた」と断言するなど、とんでもないことだ。さらに、最も海外委託するわけがない偵察衛星が「カザフから打ち上げられた」と称するとは、いい加減なのにも程がある。例え知らないことでハッタリ利かせるにしても、私ならばこんな最もありそうなことを胸を張って言うことはできない。
 私は自分の保持する情報や頭脳に自信がないから、すぐに調べる。それも最も「権威」あるソースから。しかし彼はそれをしていない。私は「カザフスタンから日本の人工衛星を打ち上げる」という情報を耳にしたら、とても落ち着いては居られない。だが、彼は「偵察衛星を打ち上げた」という尾ひれまでつけて、テキトーなことを言うとは・・・。私にはこんなマネはできないよ。


25-06
「ダサいИНКのダサい学校さ」

「ボーリング・フォー・コロンバイン」に出演した「サウスパーク」制作者の1人マット・ストーンのコトバ。


25-05
「一番の優等生が、ИНКに戻って保険の外交員をやっている。これが世の中だ」

 大学で宴会を仕切っていつでも人の輪の中心で笑っていた奴が、必ずしも腕利きの営業マンになれるわけでも、人脈を築けるわけでもない。むしろ、少人数で静かに話すのを好む奴の方が、車でも保険でも売るものだ。
 ガキの頃からホームステイなんかして、道ばたで白人と話しかけたがる奴が、必ずしも語学で仕事が出来るわけでもない。むしろ机にかじりついて分厚い辞書を何冊も使い潰した奴の方が、通訳や翻訳の道に進むものだ。
 中学校で一番の秀才が、必ずしも名門大へ行って中央官庁職員になるわけでもない。中学高校と遊んでいた奴が最後の数ヶ月に机にかじりついて名門大に合格することもあるし、そんな奴が大学でも人並みに遊びつつも努力続けて、高等文官試験にパスするものだ。
 大学で講義に毎回出て、ノートをしっかり取り、細かい資格取得にも励む奴が、必ずしも大企業に入社できるわけでもない。名門大の看板ぶらさげてテキトーに遊んでいた奴が、先輩のツテや教授の推薦、親戚のコネを使って職を得るものだ。


 上記の「むしろ〜するものだ」とてくだらんステレオタイプだが、その前の部分はさらに悪辣かつ単純すぎるステレオタイプだ。
 しかし実際に、単なる軽薄な宴会屋が、その調子でマンションでも家電でも売ることが出来て、仕事でも人脈を築けると妄想して疑わない奴は、とても多い。外国語は、ただ物怖じせずに体当たりしていれば出来るようになって、辞書を使った勉強など有害だと確信している奴も、枚挙に暇がない。官僚と呼ばれる人々が、自分が中学時代にクラスにいたような大人しい優等生のような連中の集団だという前提で、政治や社会を語る奴も珍しくない。堅実な努力とやらをしていれば、いい会社に入られるという幻想を抱いている奴も、ここそこにいることであろう。
 けれどもこれらはすべて、妄想である。もちろん実際にそんな事例もないわけではないだろうけど、少なくとも世の中の職業を、こんなアホらしい稚拙なステレオタイプで人格を見出してわかったつもりになるなど、狂気の沙汰である。


 だけれども、こうしたアホなステレオタイプを当然の前提として語る人々はとても多い。こういったステレオタイプを疑いもしないで話す人と接していると、げんなりしますね。
 ただげんなりするだけならばいいけど、評価や適性の判定をこんな簡単にされたらたまったものではない。私は場所によってはやかましいぐらい饒舌だし、場所によっては事務連絡以外は一切口を利かない病的に寡黙な人間だ。ちょっと口を開いて「営業向きだな」と判断されるのも困るし、ただ軽薄な談笑に参加しないことを称して「営業以外に配置した方がいいな」と判断されるのもまた困る。上の2つの判断は、実際に為されたことがある。
 まあ、自分を望む姿に見せるのも技術である。けれども、稚拙かつ自分勝手なステレオタイプで単純に判定されてしまうだけで、実際の業務内容と個々人の能力・経験を照らし合わせて考慮されない人間が上にいると、どんな滅茶苦茶なイメージでもって判定されるか想像がつかない。適切なコトバ遣いをしていても上役がアホだと「国語的な間違いを犯すアホ」と見なされかねない。スーツや靴を伝統に合致したコーディネートをしてきても、格式を理解しない上役には服装の格式ではなく、自分個人の好みでイメージが決まってしまう。「見せる」のも、難しいもんですね。


25-04
年賀状

 年賀状をすべて投函し終えたわけだが、今年は私的な交友関係用には4パターン作成した。
 多分受け取った人々は、例年にもまして意味がわからないことであろう。
 1998年の正月用以来、毎年最低1パターンは自分の写真を使うのだが、今年はいい写真がなかった。2パターンはそれでも自分の写真を使ったが、何をしているのかよくわからない代物だ。さらに言えば、写真を使っていない残り2パターンは、ますます何を意味しているのかわかるまい。
 ついでにロシア語で何か書いてあるものは、「新年おめでとう」とか「幸運と健康を祈る」とかその程度のことなので、あまり気にしないように。


25-03
なぜ廊下に出ない

 極端にマナーの悪いことを堂々としでかす人間を私は信用しない。ゴミを分別しないとか、タバコを道に捨てるといった社会マナーの悪さも見ていて不愉快で、「この程度の人間か」と評価は下げるが、それだけの理由で軽蔑まではしない。背広を着て汚い革靴を履いている人や、白いスポーツソックスを履いている人も、「おいおい、みっともないと思わないのかよ」と失笑するが、それだけの理由で軽蔑することはない。私がここで問題としているのか、自分の行為が他者に直接的な不利益・不快感を与えていると気づかない人間である。これは最も深刻なマナー違反である。
 もちろん世の中には、知人友人に罵詈雑言を浴びせても、あるいは暴力を振るってさえ、「自分は正当なことをした」「大したことではない」「許されるに決まっている」としか思えない、他者への神経が鈍感な人間が数多く存在する。だが私が問題にしたいのは、もうちょっと程度の軽い事象だ。


 1つ例を挙げるが、私が出入りしている語学学校には、携帯電話の着信音を決して切らず、授業中に電話がかかってきたら即座に教室で電話をとり、教室で話し続ける人がいる。これは私には許し難い暴挙である。「マナー違反だから」許し難いのではなく、これが私や同じ教室の人間へ不快感と不利益を与え、しかもそのことを悪いとも思っていないから、許し難いのである。
 彼が学費の工面に苦労していることも、様々な人脈を駆使してカネになるチャンスを探っていることも知っている。彼にとっては、授業中であっても電話を取らなくてはならない事情があるのも理解できる。マナーモードだと気づかない恐れがあるから着信音を鳴らすという彼の弁も、「そんなことはお前の事情だ」と言いたくなるが、まあ彼の過酷な生活を鑑みれば理解を示すことも出来る。だが、なぜ教室で電話に出て、最後まで教室で話すのだ。大切な電話ならば出るなとは言わん。せめて廊下に出ろ。
 彼が電話をしている間、授業は中断しているのだ。この語学学校にいる誰よりも学費に苦労している彼ならば、他者の授業を妨げることがどれほどの罪かわからないハズがあるまい。他者が自分よりも楽に学費を稼いでいたり、親やお国からカネを貰っていたところで、苦労をしている人間が楽をしている人間のチャンスを妨げていい道理がない。
 そして講師に対しても失礼だ。講師にはカネ払っているから敬う必要がないとかいう論理とは別次元の話だ。自分がどんな事情があろうと、敬意を持っていなかろうと、自分1人の都合で、講師の仕事の遂行を妨害していいという道理もない。


 こうした多くの人に不快感と不利益を与えていることに、彼はまったく気づいていないことであろう。もちろん殴られたわけでも、カネを騙し取られたわけでもない。けれども、彼の行動は不愉快だし時間と機会を奪っている。電話に出なければならない事情なんて本当ならば知ったことではないのだが、どうしても電話に出なければならないのならば、教室から出ろ。話しながらでもいいから廊下に出ろ。この程度の神経も使えない、他者の不快感や不利益に鈍感な人間を、私は決して信用しない。
 「信用しない」と言っても、同じ教室に出入りしている限りは付き合いはするし、後ろから刺されないと思っているから背中を向けられる。勉強やめずらしい話を教えてくれたら、その内容もある程度は信用する(私は情報に対して「ある程度」以上の信用をしない)。だけれども、もし儲け話を持ってきたり、一緒に事業をやろうと誘われたときは、信用しない。


 彼は「弱い絆の強さ」論の体現者のような男で、カネを稼ぐ能力、人脈を築いて維持する能力は高い。多くの点で見習うべきものを持っているし、その能力・行動力は尊敬に値する。でも、彼は上記の携帯電話だけでなく、他の多くのことでもマナーがよくなく、それに気づいていない。そのために他者に不快感や不信感を与え、チャンスを逃したこともあるのではなかろうか。
 だから私は、そのようなツメの甘い人間と仕事で関わろうと思わないし、マナーの悪さが許される人間同士のネットワークに飛び込もうとも思わない。カネを儲けようと思えば様々な道がある。楽な道はないまでも、格式や社会的評価には違いがある。彼にとって、些細なことに気を遣うという発想がないというのは、非常にもったいないことだ。ちょっとした気遣いやマナーを自らに課せば、もっとチャンスや人脈が広がるかも知れないのに。


 こうした無神経を、私は決して看過しない。「規範やルールに違反しているから」ではなく、他者に不快感や損害を与えているから看過できない。そして他者に不快感や損害を与えているのにも関わらず、そのことに気づいていないことも許し難い。自分がやっていることが相手や周囲の人間にどう影響を与えているかを自覚せず、自分と他者が友好関係、あるいは中立関係を維持していられると思いこんでいる甘い発想など、言語道断。
 私にとっては、自覚的に相手との決裂を前提に嫌がらせをする人間よりも、自分の行為が相手にどう受け取られるか無自覚な人間の方が信用できないし、不愉快だ。自分がマナー違反な行為をしても、他者に何の影響も損害も与えていないと思う人間は始末に負えない。悪いと思っていないから改善が見込めないし、怒った相手が悪意を示すと、「一方的に理不尽な悪意を受けた」と思いこむからだ。もっとも、相手が嫌がるとわかっていながら悪意を示し、「この程度許される」「これぐらいしてもいいだろう」との自分勝手な妄想の下、それでもなお相手と友好関係が維持できると思いこんでいる奴よりはいくらかマシだが。
 しかしどちらにせよ、他者に対して無神経な人間・鈍感な人間・自分の行動に神経が及ばない人間とは、あまり親密には付き合わないことにしている。まあ例外はいますがね。


25-02
「なければならない」

 下の25-01のように、今の日本社会にはストレスが満ちあふれているように思える。「今」と書いた以上、過去はどうだったのか、今とは違うのかと聞かれそうだが、そんなことは知らん。少なくとも、冷戦下の産業社会の方が、ポスト冷戦後のポスト産業社会よりは、働くのに生き甲斐を覚えやすいような気はする。ジェンダー・セクシュアリティ差別や多文化主義の非寛容さに関しては、昔になるほど非道くなっているとは思うけれども。ただ、所得が向上していく期待はあった。
 余談はさておき、膨大なストレスを抱えているからこそ、他者を貶めたくてたまらない人間をここそこで目にする。「貶める」と言っても、当人にとっては「正当な評価」のつもりなのだからタチがわるい。私の知人の中にも、そうした人間が少なからず存在する。


 彼らが好んで口にするのが、「なければならない」というmustの言い回しだ。しかもその内容までもが似通っている。世間で多く語られているから、「真理」や「常識」として捉えているのかもしれん。その内容は次のようなものである。

・24歳までに大学を卒業しなければならない
・大学出たら可能な限り早く定職につかなければならない。
・定職についたら最低3年は同じ職場にいなければならない。
・30才までには職歴が5年はなければならない。
・友人がいなければならない。
・関係を持つ異性がいなければならない。
・男性は30代半ば、女性は30前後までに結婚しなければならない。
・結婚したら子供を持たなければならない。

 私は全然上記のようなことを「しなければならない」とは思わない。年輩の人やビジネスで活躍している人間ほど、こんなバカなことはないと言う。けれども、こんなことを本気で考えている人は少なくないような気がする。まあ、自分に対してこうした戒律を課すのは勝手だが、万人がこうすべきだと妄想するのは不愉快だ。なぜならば、このmustから逸脱した人間はクズと見なされるからだ。それも、ただこの規範から外れたというだけで、人格や能力に劣るという妄想まで添付されてしまうから迷惑極まりない。
 具体的に述べると、「会社をすぐに辞めた」「職歴に乏しい」とかいうだけで、クズして見られるということだ。どうクズと見られるかというと、社会性がなくて他人とコミュニケーションとれない、忍耐力がなくて何もできない、世の中知らないガキだ、いつまでも「夢」とやらを捨てきれないなどなど。いわゆる「ひきこもり」や「ニート」から、フリーター、「夢追い人」に至るまで、滅茶苦茶にないまぜにされたクズ人間の権化として見られる。
 断っておくが、私が上記4種の人々を「クズ人間」と言っているわけではない。上記4種の人間を「クズ人間」を表す名詞として使いたがる人々が多いということだ。


 しかし他者を社会性も生産力もない、何にも堪えないクズと見なしたところで、自分が立派な人間と認められるわけではない。非常に不毛な思考方法だ。それにも関わらず他者を貶めたがる人々は、自分が「真っ当な正論」「真理」「社会常識」を述べて、「改心」や「啓蒙」を促していると思いこんでいたりするから困りものだ。
 語学学習者の私もまた、様々なことを言われている。まあちょっと知り合っただけの親しくもない人々に言われたのならば、腹は立つがそれだけで済む。だけれども、5年10年の付き合いの人間に言われたものならば、腹が立つばかりか哀しくもなる。「お前もっとちゃんとしろ」と言われるのならばまだマシだ。私は私なりに計画と戦略をもって「ちゃんと」やっているのだが、悪意を感じられない分マシだ。だけれども、私を苦労をしていない、好き勝手なことをやっている「お気楽な自由人」として、やっかみを込めて悪意あるコトバを吐き捨てる奴には困りものだ。こういう奴は、好んで人を「ひきこもり」呼ばわりしたがるし、人を社会性や忍耐力のない人間だと思いたがる。
 前頁の24-10も、なぜそんなに腹が立ったかというと、僅かなコトバの齟齬で意思疎通ができなかったことを称して、社会性に欠ける人間として扱われたからだ。お前みたいなクズは、やっぱり飲み屋の注文も満足に出来ない、コミュニケーション能力障害者みたいなことを言われたわけだ。そんな言い方をして私が友好関係を保ち続けると思っているのだろうか。それとも、自分が「正当」なことを言っているから、どんな侮辱をしようと許されて当然だとでも?


 2人の例外を残して、私はそういう輩の全員と断交した。知人のほとんどは某かのコミュニティに所属しているので、そうした会合で会えば挨拶ぐらいするし、近くにいたら世間話ぐらい当たり障りない程度にはする。けれども、決して私から何かを呼びかけないし、誘われても応えない。2人の例外は、こうした侮辱を差し引いても付き合う価値があると認めたから付き合い続けてはいるが、侮辱そのものは生涯忘れまい。
 ま、上に出したmustを全て達成していれば、それなりの社会的地位と収入と社会保険を得られるというわけではない。何が当人にとって幸福かどうかも、わかったものではない。当たり前のことだ。だけれども、そんなこともわからず、軽い一般論を万人共通・人類普遍の「真理」であるかのように捉えて、自分がそれを墨守するのではなく逸脱している他者を貶め、相対的な優越感を得ようとしているアホとは、付き合っていられませんよ。
 そんな人とは会って話すことに何の生産性もない。不愉快にさせられる。愉快に気持ちになるのも、間接的には生産性に繋がることだ。世間話でも、何かの啓発を受けることはない。他業種に従事する人間の声は何かの役に立つことが多いが、こうした人間の声は僻み感情と悪意に満ちているので何の参考にもならない。趣味の話でも下世話な話でも、悪辣かつ堅牢なステレオタイプの下、意味不明な「勝ち負け」判定を述べたり、何かを罵倒したがるので聞くに堪えない。結局、会うことに何の価値もない人間とは付き合わないに限る。


25-01
些細な暴力沙汰

 今週は暴力沙汰やいざこざを見るのが多い週だ。最終レース後の競馬場近辺や夜の飲屋街、客層の悪い格安量販店の駐車場なんかならばともかく、平日の昼間の駅や土曜日正午の家電量販店で暴力沙汰を立て続けにみるとはね。当事者も、見るからのごろつきやヤンチキではない。人並みに勤めているであろう、平凡な男ばかりだ。
 私の幼少期だって暴力沙汰はしばしばあったし、上京してからもいざこざはたまに目にした。けれども、近年その頻度が上がっている気がする。さらに言えば見るからに「失うものもなさそうな奴」ではなく、平凡な男がいきり立って何かしてしまうのを見るようになってきた。学部5年次−つまり2001年次からその傾向が出てきたような気が、私の狭い経験からは感じられる。


 まず、本当に街頭での掴み合いのような粗暴犯罪が増えているのか。次に、増えているとしたらどんな人間によって為されているのか。それはわからない。統計とて慎重に見なければならないが、私は統計さえもろくに見ないで、感覚的に「平凡な人間による粗暴犯罪が増えたのではないか」と言っている。所詮これは私の妄想にすぎないのだが、もし平凡な人間による粗暴犯罪が増えているのならば、どういった理由が考えられるであろうか。
 第一に考えられることは、「失われた10年間」によって失業者が増え、企業の体質変革や効率化の追求によって、雇用が一向に増えないこと。つまり失業率の高止まり。
 第二に、勤めていても昇給や雇用保障が見込めず、先行きが不安なこと。つまり雇用条件の不安定。
 第三は、それでいて企業の人員削減・効率化によって1人当たりの負担が増大したこと。つまりストレスの増加。
 ついでに第四に、生活スタイルや価値観が多様化しつつあるような気がするのに、異質であることを理由に差別・迫害される傾向が依然として根強いこと。これは1〜3の条件でストレスが苛烈な人間が増えていると、それを発散するためにより強烈になる。


 つまり、1〜4の結果こういうことになる。どう勤めていたって昇給も昇進もないし、カネもらっても大して好きなものも買えないし、それどころかカネを使う時間もほとんどない。上司や先輩からは、「結婚しても子供が出来ない」とか「酒を飲ま(め)ない」とかくだらないことで侮辱され、ときには「飲み屋に付き合わない」「風俗に付き合わない」といった理由で反感を買って、意図的に不利な仕事を強いられる。こんな理不尽や屈辱に堪え、自分の時間や健康を極限まで犠牲にしているのにもかかわらず、給与はわずか。この先の将来性もまったく見えない。
 人間が理不尽に堪えるのも時間や健康を犠牲にするのも、給与と社会保険と肩書を維持し続けるために他ならない。だけれどもその目的が危うかったら、どうしようもない。それでも差し当たって食っていくためには働き続けるしかないのだが、雇用が不安定ということはすべての不安・不満・怒りといったストレスに堪える理由が弱いということだ。これはストレスをますます強める要因にもなる。「堪えればいい」「堪えるしかない」と思う理由さえ見出せないということは、非常に苦しい。こんな状態に陥った人間は、将来性のない仕事を選んだバカでもなければ、能力一本で食っていけない能無しでもないし、まして転進もできない臆病者でもない。どんな努力をしようと、こうした境遇に陥ってしまうことはある。
 それでも、家族や友人に八つ当たりしたり家のものをぶっ壊したりしながらも、多くの人は、それなりに見ず知らずの通行人をぶん殴ったり怒鳴ったりせずに生きている。けれども、なんかの拍子でつい、肩が当たった、目があった、足を踏まれた、足を踏んで文句を言われた、舌打ちが聞こえた、という程度のキッカケで、行動に出てしまうことがある。こうした行動に出るか出ないかを、100%忍耐力や道徳心に帰結させることは、私にはできない。ちょっとしたタイミングや精神状態にも依るだろう。けれども、だからといって些細なことで他人を威嚇し、ぶん殴っていいわけがない。


 こうした些細な暴力沙汰にも、日本の世間にひしめく余裕のなさと緊張感を感じますな。まあこの程度のいざこざでビビったり怒ったりしていたら、モスクワやペテルブルグにはとても行けないのだけれども。  


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