last up date 2005.01.22
26-10
規則
学校であれ職場であれ、所属している場所に規則がないということはあり得ない。ここで言う「規則」とは、法律に基づいて文書化した「契約」ではなくて、権力関係で上位に位置する人間がより下位の構成員に対して守ることを求めているもの、という意味で用いたい。
そうした規則の具体例としては、例えば小学校の「廊下は走らない」、大学の「キャンパス内での飲酒を禁ずる」といったものから、会社で「営業車の駐車時には輪留めを噛ます」といったものまで様々なものがある。こうした規則には法律と明確に一致するものもあるけれども、多くは破ったところでどうということはない。極端な話、小学校の廊下を走ったからといって逮捕されることはないし、バス会社の運転手が営業所の駐車場で輪留めをしなかったとしてもそれが理由で直接罪に問われることもない。
もし逮捕されることがあるとしたら、もうちょっと間接的な理由による。大学構内で酒を飲んでいた逮捕されたとしたら、それは飲酒行為そのものによって逮捕されたのではなく、例えば大学の運営を妨害した罪(威力業務妨害)なんかで逮捕されるだろう。バスの運転手が輪留めをかけ忘れて逮捕されるとしたら、それはバスが勝手に動き出して事故を起こした結果、業務上過失致傷なんかで送検される。
だから、学校にせよ職場にせよ、上司や教員がちょっと決めて紙に書いて掲示したような規則を破ることに、大した抵抗がない人間は少なくないだろう。実際問題として規則を破ったところで、どうということは起きないような気もする。せいぜいちょっと叱責されるか、運が悪ければ停学や始末書程度の、そう致命的でもない罰を受ける程度で済むかもしれない。そのため、規則を守るなんてことは、怒られるのが怖い気の弱い奴か、教員や上司に従うしか脳がないバカのやることだ、規則にいちいち従うなんてカッコわるい、と漠然と思っている人間は小中学生ばかりではなく、いい年の社会人にもまま見られる。
そういう人間は、例え会社の服務規程であっても、破ったところで見付からなければそれで済み、見付かってもそれほど重大事にはならないと甘く考えている。遵守しなくても、それが原因で事故や事件になったり、自分が減給や解雇のような厳罰を受けたりするような、大事になるとは想像もしていないのだ。もしこうした甘い認識の人間に、規則違反に対して「重大事になるから規則を守れ」と言ったものならば、起きるわけがないことを恐れている臆病な人間と見なすことだろう。あるいはいい格好して点数稼ぎしたい狡猾な奴、クソの役にも立たない規則を持ち出して人を責めてデカいツラしたがるムカツク奴とも思うかも知れない。
繰り返すが、正社員として給与と社会保険を得ているいい年の人間にも、こんな小学生か頭の悪い中学生みたいなことしか考えられない奴は、往々にして実在する。
服務規程違反を犯したところで、何も起こらないでそのまま帰宅できる日の方が、そうでない日よりも圧倒的に多いには違いない。昨日大丈夫だったから今日も大丈夫だろう、といった経験則ができあがり、服務規則違反は常態化する。これは「今まで死んだことがないから、これからも死なないだろう」と言っているのに等しい何の根拠もない妄想なのだが、好きなようにやりたい楽をしたいといった欲求を満たす為には、この程度の理由付けがあれば十分らしい。だが、何かが起こらないとは誰にも言えない。
その何かが上司に規則違反が見付かってクビになることならば、まだマシだ。自分が少し横着したために、大変な事件や事故が起こることだってある。輪留めをかけなかった為にトラックが勝手に動き出して歩行者を圧死させるかもしれない。重機のカギを挿しっぱなしにして帰宅したが為に、重機を盗まれるかもしれない。しかもその重機でATMや極道の事務所を破壊されるかもしれない。自分がうっかり自宅に持ち帰った営業用ノートPCが盗まれて、顧客情報や内部情報が悪用されるかもしれない。自分が甘い認識でことに当たっていたがために、本来起きるはずもなかったことが起きるかも知れない。こうした場合は刑事でも民事でも糾弾されて、破滅的なことになる。
こうした事件事故のせいで会社の評判がわるくなって、業績が落ち込むことも予想される。今の世の中、不手際や怠惰による事件事故は、企業にとって致命傷になりうる。だからこそ事件事故を防ぐために、様々な規則が設けられている。会社の不祥事というものは、必ずしも組織ぐるみで業績を上げようとして画策されたものばかりではなく、むしろ末端の個人や少数の集団が、横着や怠惰によって引き起こされることの方が圧倒的に多いのだから。
これは規則の、表向きの存在理由だ。もう1つ、規則には役割がある。こうしたことは明確に企図されていないかもしれないが、いざ事件事故が起きた際にはこちら側の機能を持つ。それは、規則をあらかじめ構成員に対して公布した事実を作っておくことによって、構成員に不手際があった際に、組織ではなく構成員個人に責任を帰結させるという機能だ。
つまり何か不注意や怠惰による事件事故があったときに、「こうしたことにならないように、従業員には常日頃から〜との規則を作り、指導を徹底していた。それにも関わらず事故が起きた。その原因は、この従業員個人がこの規則に従っていなかったからだ」とすれば、責任を組織ではなく個人に帰結されることが出来る。裁判になったときに完全に企業がイノセントとされるかどうか、大衆が企業に対してどういったイメージを持つかどうかはわからないが、少なくとも既存の規則を破った従業員が、それ故起こった事件事故の責任を免れることだけはあり得ない。組織が守ってくれるなどということもなく、むしろ積極的に切り捨てられる。だからこそ、何てことのない弱い立場の個人が自分の身を守るためには、規則を遵守しておく必要があるのだ。
もちろん規則には何の意味もないくだらないものも多い。作った人間がアホだったり古い規則で実態に合わなくなっていたりするせいで、役に立たないどころか有害な規則さえある。守らないところで、本当に何が起きるわけでもない代物だってあるだろう。
だけれども、例え法律に基づいていなくとも雇用契約書に書いていなくとも、明文化されて公布されている規則を徒に破ることには、何の得もない。何かが起きたときに責任を帰結させられ、何もなくても不利益を与えられる口実にされる危険があるだけである。しかしそんなことを少しも考えず、何かが起きること思わず、ただ「いちいちこんな手順踏むの、めんどくせー」「上司の奴、エラそうにムカツク」「主任の野郎の言うことに従うのはシャクだ」「守る奴は点数稼ぎのクズだ」としか思えない人間は、本当にどうしようもないですよ。コンプライアンスとはよく耳にするが、企業が遵法性を高めるためには、こうしたアホな構成員をクビにするか、中学校からやり直させるかする方がいいんじゃないか。
26-09
自分の無知を知っていようと、自分と他者のコトバが違うことを知らないようではどうしようもない。
私はコトバの意味を叩くのが趣味だ。つまり、他人が使っているコトバがどういった意味合いで使われているのか解釈しようとし、自分が使うコトバもどういった意味合いを帯びさせるか明確化しようとすることが趣味というか習慣なわけだ。これは、コトバの意味も付随するイメージも1つではないといった前提に基づく。どれだけ私が他者のコトバの意味づけを酌み取れているかは不明だが、少なくとも「相手はどういった意味でこのコトバを使ったのか」と考えることはわるいことではあるまい。
だが、世の中にはコトバの意味は1つしかなく、自分が思っている意味づけやイメージが万人共通で、他者も自分と同じ意味を込めてコトバを使っている、と無意識に思いこんでいる人間は少なくないような気がする。こんな人間は非常にやっかいだ。
なぜならば、他者のコトバを発言者の意図とはまったく違った意味で捉えて、必要な連絡が出来なかったり、あるいは不要な怒りや不信感を持つこともありうる。自分が言ったことが、他者にも当然自分が言ったとおりに解釈されたどろうと信じて疑わない。さらに、自己と他者とのコトバの意味づけの齟齬を認識したとき、自分が正しくて相手がアホで間違っているとしか思えない。こうした人間と付き合うのは、仕事でも友人づきあいでも大変なことだ。
ただ、自分1人であまりにも奇想天外なコトバを使っているのにも関わらず、そのことに気づかない人間はあまりいないだろう。耳にする全てのコトバをあまりにも独創的に解釈し、口にするコトバも他者には理解困難な人間はたま存在はするけれども、大抵の人間は多少は付き合っている人間や見聞きしているテレビで使われるコトバに影響を受けて、ある程度の均等化が為されている。そうでなければ、日常生活で意思疎通など出来るわけもない。
問題は、自分が付き合っている狭い範囲でしか通用しない表現や、地域や階層特有の用法が、万人共通だと思っている場合だ。特に、人の出入りが少ないИНКに長く暮らし、あるいは都会であっても同じような階層の人間とばかり惰性的に付き合い、よその土地や他階層の社会で異質な人間に触れた経験に乏しい人間ほど、普遍性のないコトバを使う傾向が強く、逆にそのことへの認識は一般論としては薄いのではなかろうか。
ИНК者や、同じ階層の人間とばかり選別的に、あるいは惰性的に付き合っている人間が、多文化主義に非寛容で、自分とは異なったコトバの用法・コトバへのイメージを持っているという発想そのものが希薄。このことに対しては、それほど反対意見はないだろう。私自身、「自分と異なったコトバの用法をしたら相手をバカとしか見なせない奴」「自分は他者と同じコトバを使っていて、他者も自分と同じコトバを使っていると思いこんでいる奴」はИНКや年でも閉鎖的な生活を送っている人間に多いと考えていた。だが、最近私は例外的な事例に出くわして戸惑った。
それは精力的な様々な人間と出会い、在外経験もあり、外国人に対しても物怖じすることなく各国語で話しかける人物が、自己と他者とが同じコトバの意味づけをし、コトバに同じイメージを持っていると思いこんで疑わない事例を長期に渡って見続けてきたことだ。一般論としては、多国語を学び、自分が生活する範囲から逸脱して様々な階層や民族、それに他業種の人々と出会っていれば、多文化主義的な発想を持つに至るような気がする。だが、そうではない人間が実在したのだ。
義務教育も高校も同じ地域で、付き合う人間に代わり映えがせず、大学や会社も地元で、接するほぼすべての人間が知人や親戚と繋がっているというИНК生まれИНК育ちの人間がそうであるように、彼もまた自分のコトバの意味づけやイメージを疑うことをしない。例え外国語に対しても、1度意味を知ったら自分がその語の持つすべての意味とイメージを知ったかのような、ソリッドな認識しかしない。
つまりどういうことかというと、他者が言ったコトバを自分勝手に解釈して、しかも自分が相手のコトバをどれぐらい適格に妥当に受け取ったかなど疑いもしないということだ。彼にとっては、他者の話を聞くということは、情報の摂取に止まらず、即座に「わかる」ということなのだ。コトバによる僅かな情報から、何かの全体像を自分勝手にイメージして、しかもそれが真実だと確信しているということだ。これでは、いかに様々な人間と会ったところで見識を広めるどころか、自分勝手な滅茶苦茶な妄想を膨らませる材料を得ているだけに過ぎない。
もちろん人は誰しも、限られたわずかな経験と情報からより広いものを認識しようとしている。だけれども、他者のコトバを自分のイメージに基づいて解釈している自覚がなく、ミクロからマクロを導き出すという大変な作業をしているという認識もなく簡単に結論を出してしまうよりは、地道にコトバの意味づけを解釈しようと苦心し、常に自分のイメージや解釈を疑いつつも何かにアプローチする方が、まだ事実らしきものに近づけそうな気はする。この努力し続け疑い続ける姿勢を持たないと、折角の情報も役立てない蓋然性が高まるのではなかろうか。
結局の所、同じところで同じような人間と接している人よりも、あちこちで様々な人間と出会っている人の方が見識が広いとは、必ずしも言えないということか。もちろん人間が接することが出来る情報はとても狭いし、何かを経験すれば、他に出来たかも知れない経験を出来ない。どんな大冒険をしてきた人間も、恐ろしく狭い範囲に生活が終始している人間も、自分が触れることができるわずかな情報から、自分勝手に世界観を構築している。その意味では、すべての人間は視野狭窄性を免れることは出来ない。
だけれども、少なくとも自分が無知であることを、そして自己と他者とが違うコトバを話していることを、常に認識しておきたいものではある。どんな生活をしていようともね。
26-08
善意でもなく悪意でもなく
人間同士の対立を引き起こすのは、必ずしも悪意や善意の欠如とは限らない。私思うに、「直感・イメージ・ステレオタイプ、そして単純すぎる倫理」もまた、悪意同様にどうしようもない対立を引き起こすように思える。
人が善意でもって何かをしようとしても、他者と目指すところが同じで同じ情熱を持っていても、他者に勘違いされて不信感や反感を持たれることがままある。本来対立する必要がない人間同士が対立することは、非常に悲しいことだし、物事を望む方向に運ぶのを妨げる。その意味に於いては、私は「直感・イメージ・ステレオタイプ、そして単純すぎる倫理」に基づいて他者の人格や倫理観を安易に「悪」と判定して疑わない態度を、徒に悪意を向けること以上の罪悪と見なしている。
誤解は話せば解消される、腹を割れば分かり合えるというのは妄想だ。例え同じような目的と利害を持った人間同士でも、些細な不信感や反感を一度持ったら、それを拭うのは難しい。互いの目的と利害を冷静に吟味すれば利益の範囲内での協調はできるかもしれないが、「直感・イメージ・ステレオタイプ、単純すぎる倫理」に依存する人間はそれらの偏光フィルターを排して、相手を見ることが出来まい。それほどまでに、直感や単純な倫理は強烈なのだ。
まあとにかく、善人と付き合いたいというよりも、物事を冷静に見ることが出来る人間と付き合いたいものですよ。善良な精神を持っていても、どうすれば物事がうまくいくか考える頭脳を持たず、なんとなーく抱いた妙な感情でもって即座に他者を悪人や罪人のように思って疑わない、はじめに結論ありきに陥るような人間は、決して善を為すことはできない。善行を望みながらもその実現を妨げる行動をとる人間は、恣意的に悪を為す悪人よりも手に負えない。
26-07
そんなに私が金持ちに見えるのかね
私はときどき冗談で自分を「貧乏人」と称することがあるが、実際に自分を貧乏だと思ったことはない。それほどすばらしい生活をしているわけではないが、欲しいものはそれなりに手に入っているし、生活にも大した不便はない。朝起きれば栓をひねるだけで熱い風呂には入られるし、用を足したらノブをひねるだけで汚物を衛生的に処理できる。寒ければエアコンを付ければそこそこ暖まり、腹が減ったら冷凍庫から冷凍米を電子レンジに放り込めば温かい米を食える。こうしてコンピュータで実速10Mbpsの回線に繋げられることも可能だ。不自由を感じたことは、あんまりない。
もちろん有り余るほどカネがあるわけでもないし、生活レベルは名門大卒27才としては決して高い部類には入らない。大学の友人達が、新車を買った、広くて小ぎれいなマンションに引っ越した、バリやエジプトへ旅行をしたという話をしばしば聞くが、私には中古軽自動車の購入・維持さえ不可能だし、アパートは少し広いだけが取り柄のボロ屋が精一杯、海外旅行なんかはしたいと思っているがとても出来やしない。
だけれども、私は語学に従事していられる今の生活に満足している。職場のどこにどの書類を置くか、どこの営業所の大将がどういう電話をかけてくるか、うちの課長の好きな酒は何かといった特定の場所・時期でしか役に立たないことではなく、広く役立ちうることを学べるのは、とても幸福なことである。
私は幸福である。生活に不自由もない。しかし「金持ち」呼ばわりされる覚えはまったくない。私を「金持ち」と思いたがる人間は幼少期からいたが、それは私の一族が起業家で、地元では少しは知られていたからだ(ちなみに親父が経営者だからと言っても、決して金持ちなわけではなかった)。だが、そんな素性を知らない東京の人間は、何故私を「金持ち」と思いたがるのか。その答えはモノである。私の持ち物だ。デジカメ、DVDビデオレコーダー、パソコンといった物品を持っている私は、「金持ち」に違いないと思いたがるのだ。
昔はこれらの機器は20万は下らなかった。だけれども今は、廉価機種ならば数万で手に入る。PCなんかはゴミパーツを買い叩き、友人から余剰パーツを譲り受けるなどすれば、タダ同然で組むことが出来る。今日日PCもHDDビデオレコーダーもデジタルスチルカメラも、すべてそんなに高いものではないし、金持ちの独占物でもない。カラーテレビや電気冷蔵庫と同じように、一家に、いや独り暮らしの若者のアパートにも、当たり前に存在するものだ。
なぜそんなもので、人を金持ち呼ばわりするのか理解に苦しむ。1人暮らしの大学生のアパートに、25インチのカラーテレビや冷凍庫付きの3ドア冷蔵庫があったところで、「金持ち」と称する奴はいないだろう。私の持っているモノもその程度の代物だ。
もちろん私の持っている機器とて、湯水のように気分で札ビラを切って買ったわけではない。大学時代に何ヶ月もの分割払いで買ったものも、今もそのまま使い続けている。PCなんかは、ときどき故障パーツを交換しているが、構成パーツは全体としてみたら結構古い。
さらに言えば、最近買い換え・買い足しをしたものとて、そのカネの捻出は簡単ではなかった。思いがけず入った報奨金でまかなったものもあるが、多くの物品は、貯金を取り崩しての購入だ。その貯金とてボーナスは1円も使わずに温存し、月々のカネもメシからシャツまで節約して無理矢理余らせたカネを積み立てたものだ。もちろん、この程度の節約・積み立てで廉価機種と言えども新型器機を買えることは幸せなことだ。安価に電子機器を買える時代だからこそ、私は今の生活に満足していられるのだ。
しかし、私が簡単に何でも購入していると思いこんでいる人が絶えないのはどうしてだ。私はそうした人々が昼飯をメシ屋で600円の定食を食っているとき、コンビニのパンを食っている。それも120円や150円のパンではなくて、105円のパンを選んでいる。家で食うメシだって、コンビニ弁当やスーパーの惣菜なんかは滅多に買わない。米に納豆、あるいは米とみそ汁、さもなくば米とぶった切った野菜だ。単価はせいぜい30円だ。100円程度の惣菜にも手が出ない。さらに、休日は人と会う約束がない限りは3食家で取る。
久々がそこいらで頻繁に酒を引っかけているときに私は真っ直ぐ家に帰るし、腹が減っても途中でメシ屋に寄らずに、家で米か食パンを食っている。友人づきあいで酒を飲むときも、出来る限りは自宅で飲んで安くあげている。しかもそれとて滅多にはない。
さらに言えば、私は博打もタバコも止めたし、酌や性的サービスにカネを払うこともない。床屋は流行の洒落た店ではなく、親父が1人でやっている古びた理容店だ。極端な単髪にするのも、趣味でもあるが、2ヶ月保たせる為でもある。服は大衆店の安物だし、長く使っているためくたびれている。
もちろん私はこうした生活で、何一つ不自由していない。望んでこうしたカネの使い方をしている。しかし昼飯は定食屋で、晩飯は頻繁に居酒屋で食らい、ときおりスナックやバーにも足を運び、ときどきソープランドなんかにも行き、日曜には競馬やパチンコにムダ金を投資し、タバコを毎日1箱も吸い、いなせなアンちゃんを集めた理容院で流行の髪型にし、季節がかわる度に新しい服を買うような人々に、たかがデジカメやHDDビデオレコーダーぐらいで「金持ち」「贅沢している」と呼ばれる筋合いはない。
いやもちろん、私を「金持ち」と呼ぶ人々とて、上記のことをすべてやっているわけではない。私が他のことにカネを使わずに電子機器に投入しているように、他の人々とて何かを我慢して飲み屋をハシゴしたり、風俗店に通ったりしている。何かを節約していい服やアクセサリーを買いそろえている。限られたカネで生活をしている人間にとっては、当たり前のことだ。私もまた、カネの使いどころを考えている、ただの一市民に過ぎないだけだ。
ということをずいぶん前にもここに書いたが、またひとつアホなことがわかった。皆が誘い合って昼飯を食いに出るとき、私はコンビニのパンを食っている。私を「金持ち」という前提で話したくてしかたがない奴に言ってやった。
「あなたは私を金持ちとよく言うけど、普段あなたが定食を食っているときにパンを食っているのは何故だと思っていたんだ?」
そうしたら、相手は「い、いや、散歩のついでの買ってきたのかと・・・」と苦しい返答を返した。私は105円のパンでも満足しているし、そうすることによってカネが溜まるのだから望んでそうしている。だけれども、105円のパンは、コンビニのパンの中でも最廉価だ。さらに105円で腹に持つ大きさといったら、油脂も肉も砂糖もろくに使っていない、ただのパンだ。別に今日日のパンはそれでも不味くはないけど、そう旨いものでもない。私とて定食屋で温かくて高カロリーな、肉の揚げ物の定食を食いたくもなる。そうした些細な欲望を我慢して、些細なカネを貯めているのだ。そうして私はデジカメや新しい携帯電話を買っているのだ。毎日定食を食っている人間にデジカメやPCパーツを買ったぐらいで、金持ち呼ばわりされたくはない。
ということを言ってやった。
平凡な市民はどうしても、自分が貧乏人で他者が金持ちだと思いたがる。不自由や不満を持っている自分はひどく苦労している気がするし、人が自分よりも楽をしているという錯覚を抱きがちなものだ。そう思えば、他者よりも苦労している自分が「不幸」だとして、すべての不都合を境遇や環境のせいにできるからだ。そして、他者が自分よりも恵まれていると思えば、他者が苦労せずに何かを手に入れたクズで、苦労を知らない精神的に弱く能力もないバカだと見なすことが出来るからだ。つまり、相対的に自己と他者を優劣関係で捉えることが出来る。そして幸福や成功といったものが、最初から「持てる者」にしかやってこないという図式を作り上げることによって、自分が自助努力をしない口実にも出来るからだ。
そこまでは想像に難くなかったが、まさか素っ気ないパンをお茶で流し込んでいるだけの私を見て、「金持ち」という単語が浮かんでくるほど、この「自分は貧乏で他者は金持ち」という妄想がひどいとは思わなかった。人は他者のことなんかさして思ってもいないし、簡単なイメージやステレオタイプを持つとそれらをなぞるだけに終始するものだ。だが、朝コンビニで買ってきたパンを食う私を横目に定食屋に行く人間が、そこまでメシとカネとの相関関係に無神経だったとは予想できなかった。
だから貧乏根性は嫌い。どの程度貧乏人であろうとなかろうと僻み根性は醜い。
26-06
巡査はかく語る
巡査を拝命している友人から聞いた話を列挙する。
ちと吐き気をもよおす汚い話も含まれるます。
・震災などの大災害発生時には、もちろん警察官は他の地域からも動員される。だが自衛隊と違って警察官は、制服を着ないで行くらしい。なぜならば、制服を着ていると出会ったすべての人があらゆることを要求してくるので、対処しきれないからだそうな。
・警邏警官が死体を見る確率は結構高いようだ。事件や事故はそう多くはない。それよりも、老人の孤独死が多いそうな。任官から半年に3体ぐらいはザラという。近所から異臭がしていると通報を受けてやってきた警官が、異臭の元に踏み込んだら、そこで孤独死した老人が大変な状態になっているそうな。
最悪な状態は、(以下反転)風呂に入ったまま死んだケース。豚骨ラーメンのように油が層を成して腐敗しているという。扇風機をかけたまま死んだケースだと、風があたる面だけビーフジャーキーのように黒く乾燥して、風が当たっていない面が腐敗して溶けていたという。さらには蛆虫も大量発生する。この先進国では蛆なんぞは滅多に見ないが、腐敗した死体には大量にたかっているそうな。通報があって、異臭のするアパートの鍵を壊してドアを開けたら「床が波打っていて、思わずドアを閉めた」こともあるという。さらには口に蛆が大量に詰まっていて、「そんなに急いで大食いしないでくれよ」とつぶやいてしまったこともあるという。
さらに、駅前交番に配属されると、礫死体を片付けることにもなるそうな。頭がどうしても見付からないことがあったというか、線路から遥かに離れたところまで飛んだのか、それとも木っ端微塵になったのか。
なんにせよ、警察官にならなくてよかったと思った。警察官の皆様に、こうした地味で過酷な作業をこなしていることに関しては、ご苦労様といいたい。
・署長がかわると、細かな規則もすべて変わる。すべての生活を管理されているので、影響は結構大きい。
・機動隊員はボディービルダーのような筋肉の、つわものぞろい。滅茶苦茶に鍛えられて、それから連んで焼肉を食うような生活があたりまえ。しかし肉の食い過ぎ−というか肉しか食わなかった為に、通風になった隊員もいるという。
・警察官は外食が多い。だから非番のとき、独身寮では鍋が好まれる。しかし自分の部屋でやったら部屋が臭くなるのまで、後輩の部屋で行う。さらには買い出しも、調理も後輩に。先輩はのんびり待つだけ。ただし、これはカネは先輩が出しているし、メシも一緒に食っているから、わるいことではないらしい。こうした集まって食うメシの買い出しならともかく、個人的な買い物を後輩に強要する先輩もしばしばいるとのこと。まさに古来からの体育会的閉鎖社会。
・東京における1月の交番は、「北海道のように寒い」とのこと。
・異常者には催涙スプレーが効かないこともあるという。アルコール依存症や麻薬中毒患者にはCNガスの効きはわるいと読んだことがあるが、そうした「薬効」とは別の問題かもしれない。つまり、涙を流し、呼吸困難にさせ、皮膚や粘膜に痛みを起こしたところで、体組織に損傷を与えたわけではない。つまり痛みや苦しみを我慢すれば、動くことは出来る。一般人は催涙ガスを食らったらあまりの痛みや苦しみに動けなくなるが、苦痛を無視して暴れることが出来るということなのかもしれない。
・異常者にはリミッターがない。つまり人間は体組織を破壊しないように、力が一定以上出ないようになっている。「火事場のくそ力」のように、緊急時にリミッターが外れて思いがけずすごい運動能力を発揮することもあるが、通常意識的に出せる力は抑制されている。だが、異常者にはそれがないらしい。
・異常者を拘束して鎮静剤を打っても、全然効かなかったという。警察で鎮静剤を打つのはそうした医官でもいるんだろうか?それはともかく、一般人ならば一本で足腰立たなくなるような強力な鎮静剤が異常者にはまるで効かず、3本目でようやく大人しくなったという。これは興奮作用のある脳内麻薬が出まくっているから、抑制作用のある鎮静剤と相殺してしまっているのか。それとも、精神科治療の為に使っている抑制作用のある薬の常用で、抑制剤の効きがわるくなっているのか。
・異常者の中には、警官の制服を見ると襲いかかってくる奴もいるらしい。というかこの友人は、勤務中に襲われたとのこと。しかも拘束してみたら、過去に3人殺して無罪になっている奴だったという。税金で生かされている異常者が、マジメに働いて税金納めている市民を殺し、それについて罰せられることもなく、今もなお税金で保護されて生きている。そのことにこの巡査は怒り狂っていた。
26-05
エメラルド・カウボーイ
日本人・早田英志の半生を描く「エメラルド・カウボーイ」、早く観たい。
偶然テレビで氏を描いた番組を観たが、早田氏は拳銃(多分BDA)とナイフを常に帯びて防弾チョッキを身につけ、マイクロ・ウヅィやライアット・ショットガンで武装した警護に守られて生活している。まるでマフィアのドンだ。「まるで」ではないかもしれない。氏はコロンビアのエメラルドをほぼ独占的に輸出して富を築き、しかも娘と同じ年の女子高生を孕ませて再婚するなど、精力的だ。
もちろん友を殺され、家族が誘拐の危機に晒され、自身も何度も銃撃戦を繰り広げるような生き様は、とてもできないし、したくもない。しかし筑波を出て、アメリカのカレッジで学び、さらにコスタリカの医学部で学ぶという学問道楽は私にとっても理想の人生だ。政情不安な異国に単身乗りこんでエメラルドを探すなど、私には例え大企業の社員として派遣されたとしても、とても出来ない。が、銃を身に帯び、銃弾の雨ふり注ぐ中、仲間と共に応戦するなど、血湧き肉躍る展開だ。そして大富豪になってしまい、若い嫁さんもらうなど、なかなかの成功者ぶり。非常に憧れるところはある。
私としては、序盤の「学問道楽」のところと、後半の「成功者」のところだけ実現したらいいね。まあ海外留学とて出来るかどうかもわからんのだが。
26-04
被災地と支援のミスマッチ
此度のスマトラ沖地震に対しては、各国が支援をしなければ中長期的な復興も、短期的な衛生の確保・食糧供給も、ままならない。もちろん各国や各国際機関から支援の手がさしのべられてはいるが、一筋縄ではいかない。
仏放送局のF2によると、アメリカはピーナッツバターをインドネシアへ送り、ピーナッツバターを食べる習慣のないインドネシアの人々は、これを家畜の飼料にしてしまったとのこと。米ABCによると、アメリカは1991年のバングラデシュ洪水の際にも、パンもないのにピーナッツバターを送る愚を犯した。
もちろん食料がそれしかないのならば食うしかない。食えばエネルギーにはなる。だが、被災地にピーナッツバターを山ほど送る神経を疑いたくなる。さらに言えば、現地の人間が食ったことのないものを送るのは、なるべく止めた方がいい。なぜならば、精神的な衝撃を受けているときに見知らぬ食い物を与えられるのは、精神衛生によくない。さらには精神だけではなく、腹を壊す確率も高くなる。精神に衝撃を受け、水も食糧も不足して体力が衰えているときに、腹を壊すのは命取りになりかねない。下痢は脱水症状や栄養失調に繋がり、体力をますます失って伝染病にもかかりやすくなる。
さらにF2は次のようなことも報じた。ロシアからスリランカへ毛布が送られた。しかし冬の夜でも温暖なスリランカでは、毛布は不要とのこと。
また、スリランカの漁師は仕事を再開できないでいる。そのためフランスは生活支援として漁船の提供を決めた。だがスリランカの漁船はほとんどが無事で、停電の為に製氷が出来ず、魚を保存する氷を積載できないため出漁出来ないでいる。
支援のミスマッチはいかんともしがたい。
この現状に一致しない支援について聞いて、私は阪神・淡路大震災のときの、高校に於ける担任の言を思い出した。この話についてはすでにこの「走り書き」に散々記述したが、軽く繰り返す。
阪神・淡路大震災当時、私は釧路の高校生だった。クラスでは担任が被災地への支援を呼びかけた。早速生徒達はみんなで寄付金を送ろうという話になった。だが、担任は言った。「カネなんてお前らが親から貰ったものだからダメだ」と。そして「気持ちを伝えるためには、みんなが使っているモノを送るべきだ」とのことだ。意味がわからない。やりたいのは「気持ちを伝えること」ではなく、「被災者の助けになること」以外の何者でもない。
さらに言えば、新聞・テレビなどで、「モノを送られても邪魔になるし配分できないから、支援はカネだけにしてくれ」と繰り返し流されていた。クラスの生徒に支援を呼びかけたというのに、担任はこの程度のことを調べていなかったのだろうか。それ以前の奥尻島では寄付された大量の古着が廃棄処分されたし、阪神でも最も必要な医薬品でさえ、混乱する中手つかずのまま放置され、夥しい量が有効期限切れを迎えた。
被災地の必要なところへモノを届けるのは、難しい。そんな混乱の中へ、クラスの44人が毛布や古着を44人前送ったところで、被災地では困る。そもそもどこへ送りつける。窓口などない。どうやってどこへ送る?宅配便や郵便でテキトーな役場や学校に届けるのか?まず届くのか?より優先する水や食糧、医薬品を運べたかもしれない輸送資源を、優先度の低い物品で浪費してしまうことにもなりかねない。それに役所や学校に古着や毛布が44人前届いたところでどうなる?どこに保管して、どう配分する?家を失った避難民やガレキ、水・食糧、仮設トイレなどでごった返す場所で、そもそも誰がいきなり届いた毛布や服を管理する?重複や放置によって、役に立つ可能性は低い。
もし役に立ったとしても、前述のようにもっと大切なものを運べた運輸力を奪って届く。メシの配分や避難民の把握、避難所の管理といったもっと大切なことを出来た労働力を奪って、毛布や古着は受け取られ、運ばれ、分配されるなり放置されるなりする。物事は−特に非常時には−優先順位の天秤が大切だ。44人前という中途半端な毛布や古着は、そんなに大切なことなのか?
担任はモノや何の役にも立たない「お手紙」にこだわり、「カネ以外送るなと報道されている」との生徒の言に耳を貸さず、結局クラスが行う支援案そのものが立ち消えた。44人のはした金と言えども、然るべき口座にカネが入れば、ごくごくわずかでも他の寄付金と共に何かに使われたはずなのに。
この担任は、「気持ちがこもっているかどうか」といった自分にしか意味がない発想にこもり、相手先の必要性などまるで考えなかった。よかれと思ってやったことでも、こんなにも内向的な発想で支援を行えば、役に立たない可能性が高まる。現地の要求をちゃんと検討しないで、自分勝手に「必要だろう」と判断してモノを送ると、熱帯に毛布が届いたり、パンもないところにピーナッツバターが届いたり、漁船はあって製氷能力がない中に漁船が届けられたりする。
支援の動機なんかはどうでもいい。売名行為であれ、ヒューマニズムを満たすためであれ、自己満足以外の動機はありえない。必要なのは、何がどこに必要とされているのか見定める目と、適切なものを適切な場所に送り届ける行動である。
ちなみにこれもどこかに書いたが、私の大学時代の後輩は阪神・淡路大震災当時、埼玉の中学生だった。彼は生徒会役員であり、生徒会から被災地に直接人員を派遣したのだ。神戸の中学校と連絡を取って、直接現地に乗りこみ学校の被害を見た。その上で生徒会が生徒から集めたカネを渡して、使い道まで実際に確認したという。これが被災者支援の鑑とも言うべき行動である。
まあ混乱を極め、水・食糧・輸送資源が不足している被災地に乗りこむのは難しいことだ。だけれども、せめてちゃんとした窓口を見定めて寄付金を送るぐらいのことはしてもいいはずだ。現地で必要なモノがなにかわからないし、小規模の物品を送っても現場を混乱させるだけだ。だから我々一介の市民に出来ることは、カネを送ることが最も適切なことである。それが適切に使われるかどうかまではわからないけれども。少なくとも、「カネなんかは心が籠もっていない」などという寝言は何の助けにもならない。
26-03
雪対策と聞くと思い出さざるを得ない
帰省中家族で初詣に行ったら、市長も神社に来ていた。そして市長は、父と新年の挨拶をしつつ、軽く世間話をした。市長曰く、「この冬は雪が少なくて、カネがかからなくて助かる」とのこと。地方財政にとって、除雪はかなりの負担になっていることを示している。
釧路市の雪対策費については釧路市役所のサイト上で発見できなかった。そのため、札幌市のを載せる。札幌市の雪対策費は年間150〜160億円である。一般会計歳入8000億円の中の150〜160億は大きい。より人口も財政規模も小さい釧路だと、雪対策費はかなりの負担になるのは言うまでもない。しかし除雪をしなければ、幹線道路は用を足さなくなり地方経済がマヒしてしまう。道路が雪でふさがれていると、生活物資や燃料だけではなく、メシも運べない。雪に閉ざされれば飢え死にだ。これは極論でも冗談でもない。そうならないように全力で除雪をしているから冗談に聞こえるだけだ。
そして中央政府からの地方交付金の少なからぬ額が、北国の地方政府によって雪対策費に充てられている。地方交付金というと、ИНКに誰も使わない益体もない建物を建てるカネと思いこんでいる人もいるだろうけど、雪対策にとって重要なカネでもある。雪は地方財政にとっても国家財政にとっても、大変な問題なのだ。
けれども、「雪対策費」というコトバを出しただけで、何が面白いのか笑われることがしばしばある。「雪」と「対策」と「費」の組み合わせが、温暖な地方の人間にとっては滑稽に思われるのであろう。まあ、笑うのは勝手だし、無知を責めるつもりはない。こうした人々は、「札幌の場合は160億」のように金額を出したら、笑うのをやめる。深刻さを理解するのだ。
一方で、私が非常に不快感を覚える反応を示した人間がいる。私が何かのキッカケで雪対策費について関東出身の人間に話していたら、話の輪に加わってもいなかった人間が、背後で「何が雪対策費だ」と吐き捨てた。
多くの人々は、こういう「背後での唾棄」を聞いてもいないのか、すぐに忘れるのか、寛容なのか、あまり怒らない。だが、私はこうした態度に強い不快感を覚える。ケンカを売られているのならばまだマシだ。だが、こうした態度を取る人間に、そんなつもりはないらしい。人の言動にケチをつけて悪意を示しながらも、この行為が今後の友好関係に響かないと思いこんでいる。事実、こうした悪意の表明の後にガンでも付けるか、ますます悪意の言を吐くかするのならば理解できるが、こうした人間は悪意を示しながらも、すぐに何事もなかったかのように友達づきあいをしようとするのだ。そういう甘い認識の奴はしばしばいる。
だが、このときに何が私を怒らせたかというと、彼が札幌出身ということだ。札幌の人間が、市民の雪への苦労や、雪対策費の重さ、行政の苦悩のついての言を唾棄したことだ。これに、私は怒り心頭に達した。
私は「背後での唾棄」を聞き逃さないし、すぐにその場で何を意図した発言か問いただす。他人への不満や悪意を持っているのに普段は潜ませて、ときどき悪意を本人に聞こえるように漏らして、それでも何も起こらない思っている奴よりは、その場で悪意に対峙する方が健全だし私の気も晴れる。
「何か言ったか?」と私は当該人物に詰め寄ったが、彼は何も言わなかった。背後で人の言うことにケチつける奴は、詰め寄ったら何も言わないか、「いや・・・」とかつぶやくに止まる。悪意を示すには何か理由があるのだろう。しかし私への反感や私の言への反対意見を述べた人間は、未だ存在しない。
こうした「私と第三者が話しているときに、話の輪に加わっていないのにもかかわらず、私のセリフを貶める行為」がたび重なることに怒り、その他のより実際的なトラブルも相まって、私は彼とは完全に断交した。彼は私がなぜ訣別したのか理解できないでいるのかもしれない。
どうでもいい、私の人生にとっては路傍の石に過ぎない人間だ。連絡手段はもう相互に存在しないし、彼と私とが出会うことも、よほどの偶然がない限りまずあり得ない。だけれども、「雪対策」という単語を聞くと、今でも彼の「ヘッ!何が雪対策費だ!」という痰でも吐くかのような声を思い出す。いや、ただそれだけの話。
26-02
「不幸な人間」へのステレオタイプ
数奇な運命を辿った人間や不幸な境遇で苦労した人間は強靱な精神を持っていると思うのは、妄想だ。もちろん、強靱な精神とやらを身につけた人間もいることであろう。だけれども私の経験では、「自分以外の人間は皆、自分より幸福である」という妄想を無意識に持っている人間が目に付いた。こういう妄想を持っている人間は、すべての問題を自分の不幸と他人の幸福に帰結させて、冷静に他人を評価したり、自分が適切な努力を為したりしない傾向にあるように思える。
まあどんな境遇だろうと、ダメな奴はダメで、優れている奴は優れている。ただそれだけの話だ。不幸な人間が必ずしも強靱なわけでも、必ずしもひがみ根性に満ちているわけでもない。
26-01
無気力で怠惰な人々
ある経営者に話を聞いたのだが、「今の若い者には、なぜか『働けばカネが入る』ということを理解できないのがいる」と嘆いていた。働けばカネが入るのは当たり前のことだ。労働力に報われないこともよくあるが、一般論として、働きがわるければ減給・降格・解雇といった結末が待ち受けており、よく働けばカネがよくなることもある。メシを食ってそれなりの生活をしたいのならば、最低限、カネがわるくならない程度には働く必要がある。それがわからない人間に、この経営者は悩まされているという。
結論から言えば、そうした人間は中学高校の感覚そのままなのだ。「テキトーにやっていても給料が変わらないから手を抜こう」という、計算が働いているわけですらない。毎日なんということなく学校に通い、聞くでもなく授業の場に存在し、学業やスポーツに白熱することもなく、ただその場に存在して生きてきた人間は、会社でもただ存在することしかできない。
学校では、多少悪さしても勉学が出来なくても教師に従わなくても、何か取り返しのつかない結果には繋がらなかった。家では親がメシや小遣いを供給し、学校からは放り出されることもなく毎日存在することができた。だから会社に対しても、業務に一生懸命になるという発想そのものを持ち得ない。テキトーにやっていれば、昨日までの生活を明日も続けられると、漠然と思っているわけだ。
さらに言えば、勉学に励んで好成績を納めて高みの学校に進学したことも、スポーツに打ち込んで表彰を受けたこともない。テキトーにちょっと勉強して、誰でも入れそうな学校へ当たり前に進学した経験しかない。何かに努力すれば報われるという経験がないのだ。労働に対しても、ただ「与えられた重荷」程度にしか考えられない。ある程度やれば家に帰られる、酒を飲める、女と会いに行ける程度の認識しかない。仕事が、給与や生活、ましてやり甲斐に結びつくとは考えられないのである。ある程度働いてから「報われない職場だから、テキトーにやっていこう」と割り切ったのではなく、最初からこの程度の認識しか持っていないのである。
では、こうした無気力人間は、どのような世界観を持っているのか。テキトーにやっていれば、学校時代同様に会社にも存在し続けることが出来て、親の庇護のように会社の給与も当たり前に続くと思いこんでいるだけでは、なぜ無気力でいられるのかの説明としては不足だ。なぜならばそれだけでは、現状維持への盲信についてしか語ったことにならないからだ。何故彼らは高みを目指そうとしないのか。他者の躍進を、そして自分の成功をどう捉えているのか。
これも結論から言えば、中学高校に於いて優等生やスポーツ選手を横目で見ていた怠惰な生徒そのままだ。なにせ、こうした人間は中学高校で為すべきことをさしてやらず、人格の陶冶もしてこなかったのだから、この段階に留まっているのは自然なことである。
怠惰な人間の世界認識は、かなりオカルト的である。物事に対して堅実にアプローチする努力もせず、頼りの自己の経験とて「努力していい結果を出したこと」がないため、成功について妄想でしか考えられない。これは高校時代に劣等生だった私も、一時そうした妄想に取り憑かれていたから想像に難くない。
怠惰人間は、他者の成功に対して、素直に「努力して結果を出した」とは思えない。そもそも「努力によって結果が出る」という発想さえも希薄だ。思うことは多岐に渡り、そしてそれぞれが相反しながらも怠惰人間の胸中に同居している。中学高校に於ける怠惰な生徒の心中を列挙し、その延長線上にある無気力会社員について述べたい。
・成功者の人格を貶める。成功者がクズだとしてもその功績を否定したことにはならないのだが、人格がいかれていると思って相対的に自分がマシな人間だと思えば、多少は敗北感・劣等感をごまかすことが出来る。逆に言えば、「出来る奴は頭がおかしいから、正常な自分は成績を出せない」と暗に示すことにもなる。具体的な貶め例としては、「勉強ばっかりしている奴は、楽しいことを何も知らない気の毒な奴だ」「スポーツばっかやっている奴は、それしか出来ないアホだ」などなど。
職場に於いて怠惰人間は、資格を持っている人間や高学歴者を「勉強している奴はおかしい」とし、勤勉な人間を「仕事よりも大切なことがあるとわからない気の毒な人間」「言われたままに机に向かうことしか出来ない、気の弱い人間」と見なす。中高生と何も変わらない。
・業績の価値を否定する。他人が出した成果は何の役にも立たないムダなことで、評価方法がおかしいと思っていれば、実は自分と成功者が未だ同じレベルにいるような気がしてくる。それどころか、ムダなことをしているアホよりも自分の方がマシなような気にさえなる。例えば「こんなムダな試験でいい点をとっても、大学には入られない」「賞状や盾なんか貰っても何の足しにもならない」「地方のスポーツ大会で優勝しても、将来何の役にも立たない」などなど。
職場に於いては、点数や表彰で成績が広く表されることがあまりなく、一介の兵卒には個々の仕事の役割はなかなかわかりにくい。そのため個々の仕事はますますどうでもいい、やってもやらなくても、会社にも同僚にも自分にも大した影響を与えないような気がしてくる。そのため怠惰人間には、必死に働く人間が滑稽に見えることであろう。
・成功した方法を不公正として貶める。つまり努力によって成功したのではなく、本人の行動とは関係のない外因によって成功したと妄想すれば、成功者を狡猾な卑怯者として貶めることが出来る上に、「正攻法では成功できない」として努力そのものをしない言い訳にも出来る。どんなものが外因として妄想されるかというと、優等生は教師に取り入って贔屓で過大に評価されている、金持ちや名士の子供は親の力でもっていい評価を付けさせている、など。
職場に於いては、学校よりも広くこの妄想が怠惰人間によって為されている。点数のような評価がなく、例え数値評価が付けられていたとしても一般社員が目にすることは殆どない。そのため昇進昇級の基準を判断するのは難しい。会社に於ける各セクションや各業務の役割もよくわからない人間には、誰が何故昇進したのかは、妄想するしかない。その妄想に対する一番簡単な答えは、「あいつは上司に気に入られた」「奴は偉いさんに取り入ってゴマをすったに違いない」「あいつの親が何かしたに違いない」といったものである。
・学外での自助努力をも不公正な手段として貶める。つまり、例えば塾やジムに通って努力することでさえ、「同じスタートラインから不当に逸脱する狡猾な行為」と見なし、成功者を「不当に評価を得ている」と貶めることが出来る。
もっとも、学習塾やスポーツジムに通うカネがないほどに貧富の格差が大きければ、「塾に通える奴が進学できる。塾に入られない自分は進学できない」として条件の不平等を訴えることは出来るかも知れない。が、それでも個人の努力やその成果を否定することは出来ない。さらには言えば、私が職場で相対した怠惰人間たちは、カネのかかる私立大学まで行かせてもらって読み書きも不自由でそれを正当化するなど金銭的に不遇ではなかった。その気になれば塾なども含めて教育を受けるチャンスがあり、学校にも長く通うチャンスに恵まれながらも条件を活用せず、まして自分なりの方法を模索しているわけでもない、つまり何にもしていない人間ばかりである。
職場に於いて怠惰人間は、就職前から身につけていた知識や技能、それに退社後の学校通いを、「不当なこと」と見なす。あたかも、すべての従業員は入社時にまったく均等に知識や技能に乏しくなければならず、業務に関する能力は会社でのみ発達させなければならない、とでも思っているかのように。
・成功者は自分とは違う人種だと決めつける。つまり、成功者は生まれながらにして天賦の才を得ており、自分にはそれがないと言えば、「才能のない自分が努力してもムダ」として努力を放棄できる。これは学校に於いても職場に於いても、まったく変わらない。
・幸福の不均衡や社会的理不尽、運命の類にすべてを帰結させる。「自分以外の人間はすべて幸福で、自分は不幸だ」「今の世の中は自分には適していない」というような妄想にすべてを帰結させてしまえば、何をする気にもならないし、成功する人間はたまたまツイていたということになる。学校であろうと職場であろうと、ここに於いて努力が出る幕はない。
このように、「自分がそれなりに成功すること」と「自分が努力すること」との間に因果関係を見出せず、他人の成功にも「努力の結果」という想像をすることが少しも出来ない人間は、それほど少なくないような気はする。こんなバカなこと思っている奴は実在するわけがないと思いたいが、世の中には往々にしてバカな人間は存在する。そして上記のような言動は、私の狭い経験に於いて、しばしば聞かれたものである。
別に「成功」とは、最高峰の大学に入るとか、スポーツでプロに入団するとか、まして会社の同期で一番の出世頭になることでもない。自分の能力に応じた範囲で、ちょっとした成果を収めることを言っている。この程度のことへの意欲もなく、まして自分が昨日までのように会社に通って、同じ給料もらい続けることに大した不安を持たず、テキトーにやっている人間。こうした人間は、産業社会に於いてこそそれなりに生きていられたが、ポスト産業社会に於いてはいつまでも会社に席があるとはとても思えない。もちろん適切に社員の評価がなされて、ダメと判定された奴がすぐさまクビになるとも限らず、案外怠惰人間が最低限の仕事をしながらメシを食っていくのもよくあることだ。
が、こうした無気力人間が増えると、同僚の意欲を削ぎ、会社の生産性を停滞させ、ひいては日本社会そのものにダルい空気をもたらす。生き馬の目を抜くような過酷な競争社会になると言われるポスト産業社会こそが、こうした怠惰人間を却って増やすかもしれない。
まず第一に、親や大人が苛烈な競争に敗れ意欲を失う姿を見て育った子供は、ますます「何をやってもダメ」「何をやってもムダ」という世界観を刻み込んで、努力と成果との間に因果関係を見出さなくなるからだ。
次に、今の世の中は、大学までは校名を選ばなければ何をしなくても進学できる。さらには就職活動は、必ずしも資格や試験の成績によって適切に評価されるとは限らず、むしろ高度専門職から非専門職が低待遇で完全に分離されて、一般職の採用に於いては人事担当者との相性や、親や教官、就職部のパイプで決まってしまう実態に変化は起きない。そうして大して苦労もせず、努力して結果を出した経験にも乏しい人間が、なんとなく会社へと入ってしまうことは、今後も起こる。
さらには、本当に高等教育を受けられる人間と受けられない人間との格差が極大化し、オフショアリングや外国人労働力の流入によって単純労働者ばかりか専門職の労働市場までもが脅かされ、派遣社員・パートタイムがある程度の専門的職分まで侵しはじめる社会の趨勢が、ますます人々の意欲を失わせることであろう。
雇用情勢がシビアな状態に於いては、焦って藻掻く人間ばかりではない。無気力人間もまた増やすような気がする。