last up date 2005.03.15

29-10
他者性というか、それ以前の話というか

 言うまでもないことだが、世の中、自己と他者との区別がつかない人間がたくさんいる。自分の考えは他者も支持してくれると思い込んだり、自分が他者と共通の考えをしていると思い込むなどまだまだ序の口。特定の事象に対して、自分が持つ感情を他人も持っているに決まっている、あるいは自分が他人と共通の感情を抱いているに決まっていると妄想する人間もいる。あまつさえ、自分のやることはすべて他者の願いや目的に適っており、他者は自分の行動をいつでも支持してくれると妄想する人間さえいるものだ。文字にすると恐ろしく滑稽で、ごく少数の頭の悪い人間のことに聞こえるかもしれない。だが、このような、いつまでも母親の胎内にいるかのような感覚を持ち続けている人間は、往々にしてそこいらを闊歩している。


 凄くわかりやすい例として、趣味が挙げられる。自分の興味の持ち方は万人共通のものである、あるいは万人共通の興味を自分は持っていると妄想する人間は、少なくない。
 どこに於いてもそれなりに話が通用するであろう趣味の話が思いがけず通じないと困惑する類の人間は、その傾向にある。当然通じるであろうとして、例えば野球や芸能ゴシップ、それに風俗や下ネタをおっぱじめる人間はここそこにいる。個人営業のサラリーマンでさえ、顧客に対して当然盛り上げることが出来ると思い込んで買春の話をする奴もいる。けれども、そうした「通じるに決まっている話」が不発に終わった場合、通じなかった相手を「こいつは変人だ」「こいつはなんておかしい奴なんだ」として自分の話題や会話センスの貧しさを省みようとしない。まあ、よくある話だ。
 あるいは生活習慣も挙げられよう。個人的な体験を挙げるが、私は外で飲み物を買うとき、清涼飲料水やカフェイン飲料は滅多に買わない。喉が渇いたときに欲しいのは水分であって、糖分やカフェインではないからだ。私は太りやすいので糖分はあまり採りたくないし、不眠気味なのでカフェインは摂取する時間と量を制限している。そうなれば選択肢はミネラルウォーターぐらいしかなくなる。だが私が自販機で水を買うのを見ると、「水にカネを出すなんてわからない」と称して、私がカネをドブに捨てたかのように責める者がいるものだ。糖分やカフェインを忌避していることを説明したら、今度は何故か知らんが「変わってますね」と真顔で人の顔を凝視されたこともあった。水買ったぐらいで異常者扱いされたらたまらん。


 そんな奴はどうでもいい。そんなことよりも私が哀しくなるのは、割と親しく付き合っている人間にそういう態度を取られるときだ。例えば趣味の友人に。私は割とマイナーな趣味を持っている。アニメにせよ銃器にせよそれほど好事家人口が少ない趣味ではないが、世間に於いては決してマジョリティではない。だからこそ、私と似通った趣味を持った人間が私と話が通じるとわかると、それだけで意気投合することがある。私としても共通の趣味の持ち主を発見するのは、嬉しい瞬間だ。あるいは趣味の友人でなくても、軽薄な笑いや流行りコトバで話を終始させない私には、しばしば悩みや人生の諸問題を打ち明けてくる人間もいる。正直相談されても深刻な問題を吐露されても私にとっては負担なのだが、私を真摯な話をする人間と見込んでくれること自体は嬉しいことだ。
 だが、アニメにせよ特撮にせよミリタリーにせよ銃器にせよ、話が通じて興味を持つ分野が共通であったところで、各論に於いて同じ意見や感想を持つとは限らない。例えばアニメ愛好家同士でも、好きな作品も違えば興味を持つカテゴリーも違う。当たり前のことだ。趣味でなく、社会の諸問題に対してだいたい似たようなスタンスを取っているように見えても、意見や思想には必ず差違がある。それも当たり前のことだ。だがそれがわからない人がしばしばいるのだ。


 差違を当然と思わない人間は、「同志」を見つけた段階でこんな風に思うらしい。「あいつは仲間だから、同じ意見と同じ感想を持つに決まっている」と。こういう人間はフロイト的な言い方をすれば、口唇期と肛門期を合わせた権化みたいな精神構造を持っているのではあるまいか。つまり、「話が通じない他者(糞)」対「話が通じる仲間(自己)」という肛門期的な対立軸がある。そして、その「話が通じる仲間」をすべて「自己の一部」と錯覚する口唇期的な一体感がある。そうした人間にとっては、やっと見つけた同志が自分と違うと知ることは、自己の一部であるはずの存在が突然対外に排出すべき糞とわかることに他ならない。
 私の他者性と相対した人間の中には、たかが趣味や世間話の中の一点の不一致を称して、親の仇のごとく責めて来た人物もいた。神の敵や主義の敵のように、私の「異端性」と自己の「正当性」をまくし立ててきた人間もいた。信じられないことが起きたような顔をして、戸惑うばかりの奴もいた。「晴天とオレは同志だと思っていたけど、それはオレの思い上がりだったのか・・・」と1人で勝手に嘆く奴さえいた。責められる理由もなければ、悲しまれる理由もないのだが。ホント困りますよ。


29-09
突然言われても困る

 その場で私が言ったことに挑発されるのならば、まだマシだ。主義主張は個々人の勝手だ(それに対して私が怒りや反感を持つのも私の勝手だが)。けれども、突然何も話していない事柄に対して責め立てられることがある。これはいったい何事か。
 結構前の話だが、こんなことがあった。ある映画を私はとても愛好している。それについて、突然ある人物に「あんな糞映画、所詮〜じゃないか!あんなの撮った奴は〜だ!」と口汚いコトバを使って、強い口調でまくし立てられたことがあった。あたかも彼を苛ませる悪党を、私が絶賛したかのように。彼がこの映画を嫌うのは勝手だ。だが、私が彼にこの映画について話したことは1度もない。1度もだ。私がこのサイトに書いた記事を読んだのか、私が第三者に言ったことを又聞きしたのかは知らないが、会ってフツーに話して歩いているときに、突然私がまったく触れもしていないことについてまくし立てるとは、ちとおかしいのではないか。


 趣味の話ならばまだいい。だが、私が看過できない挑発を突然展開する人間は、何を考えているのか。もちろん愚痴や嘆きを口にするのならば、あらゆる反応を覚悟しなければならない。けれどもまったく関係のない文脈で、本人に一度も言ったことがなく、サイトにも具体的には書いていない話で挑発してくる人間は、何を考えているのか。
 大まかに書くと、札幌支社では明らかな不正があって、しかも私自身がその不正に携わるよう強要されていた。他人にとっては大した事象ではない。よくあることだ。人に言ったところでCSRとしての重大性も、私のキャリア形成に於ける致命性も、社会的地位を得る為の仕事でそれを失いかねないパラドックスがもたらした私の苦悩も理解されるわけはないし、されたいとも思わない。だけれども何の前触れもなく、数秒前までは全然関係ない談笑をしているときに、突然その不正を挙げて私を挑発する必然性がまるでわからない。
 私がそんなにムカつくのか、それとも本人の人生がうまくいかなくて苛立っているだけか、どこかから又聞きした私の話を突然思い出して非難してみたくなったのか、なんだかわからん。1人に何か言ったらより多くに話が伝播するのも覚悟の上だが、彼は情報提供者の立場を悪くすることも考えないのか。不思議なこともあるものだ。敵意を持っている相手ならば断交するしかないが、相手に友好関係が破綻する覚悟がないのならばどうしたものか。こうした言動をする人間とどうやって付き合っていくべきなのか、ちと惑いますよ。


 さらにもっと戸惑うのは、突然何のことだかさっぱりわからないことを言い出す奴だ。趣味であれ仕事の話であれ、私に纏わることで何か言われたらのならば、対応には迷うが何が起きているのかは理解できる。だが、何を言われているのかさえわからないこともある。
 久しぶりに古い知人に会ったときのこと。まあ最初はちょっとした世間話や近況報告なんぞをしていた。だがそれまでの文脈とは関係なく突然、彼は自分が旧友たちに影で貶められていることに対する反論を、私に何の解説もなく述べだしおった。そもそも私は当該人物と共通の古い仲間と会うこと自体が、年に1度あるかどうかになっている。他の連中が、どれだけの頻度で会合を開いているのかなど知らない。まして、そういう会合が開かれていたところで、そこで当該人物がどう言われているかなんて知る由もない。
 私は何のことだかわからないし、そういう事態があるのかどうかも知らない。このように応えると、彼は私がとぼけているとしか思えなかったらしい。もしかすると、私も「自分を貶める企て」に荷担しているという妄想に基づいて、私に「反撃」したつもりだったのかもしれない。被害妄想に基づいて、突然何の脈絡もなく「反論」や「反撃」をされても困ります。困るどころか怖くなってくるよ。


29-08
コネの続き

 29-06でコネに対する妄想について書いたが、驚くべきことに、就職活動のハウツー本に於いてもコネに対する安っぽい妄想が書かれていた。曰く、「親が国会議員か、上場企業の社長か取締役でもない限りは、コネなど君たちには無縁な話だ」。
 なんですか、この国会議員とか上場企業とかって。すごくマンガ的な認識ですね。29-06で書いたように、もっともっと小さい繋がりでも十分コネとして機能しうる。問題は親がどれだけエライような気がする肩書かではなく、いかなるバーターが成立するかどうかだ。私は別に、親が代議士だから就職がすばらしく有利になるとは限らないと思うし(有利にならないに決まっている、とは言っていない)、上場企業と言っても今日日は東証一部でもピンキリだ。取締役だったところで力を及ぼせる範囲は限られている。その力を及ぼせる範囲で、取引として息子を就職させることが出来るかどうかは不明だ。
 逆に言えば、すごい肩書でなくても取引さえ出来ればコネは有効だし、そのぐらいのコネがあってはじめて門前払いされずに済むのが就職活動。コネに対して「エラい人に頼んで、権威や権力を傘に上から下に結果を約束させること」としか考えられない人間が就職のマニュアル本を書いているとは笑止千万。さらに、その「親が国会議員でも上場企業の取締役でもないコネ無しの人間」がどうすればいいかと言うと、「その会社の社員何百人と会って、面接で数百枚の名刺を並べるパフォーマンスをした奴がいたが、彼が受かったのは言うまでもない」とかクソくだらないことが書かれていた。そんなストーカー野郎が来たら、私は叩き帰しますよ。そもそもそんな特異な事例が事実として存在したかどうかも疑問だが、そんな特殊なことを勧めてどうする。マニュアル本ならば、もっと堅実な方法論を書け。


 この本は突っ込みどころの山で、ちょっと就職活動して少し働いた程度の私でさえおかしいとわかる点をほぼすべてのページで見出せる。なんというかね、ただ実務経験は長いかも知れないが、人事畑で長年やってきたわけでも、雇用問題の専門家でもないオッサンが、ただ若造相手に人生語って悦に入っているだけの本だ。飲み屋であることないこと言って、若いモンにデカい面したいとっつぁんそのものだ。想像や妄想を断定形で記し、簡単なイメージや自分の狭い経験で物事を決めつけ、自分の主張の内容でさえ一貫性がない。これはただの随筆であって、ハウツー本ではない。事実、この本を持っていた就職活動中の後輩とて、「こんな本、まったく具体性がなくて何の役にも立たない」と苦笑していた。
 大して根拠もなく、体系的な整理さえ為さずに、妄想や意見を連ねるだけの本を「マニュアル」「ハウツー」としてカネを取って売るとは言語道断。その手の寝言を書き連ねて「マニュアル」「ハウツー」と名乗っていいのは、誰も堅実な方法論を期待していないあからさまな俗悪本か、無料で見られる個人サイトだけだ。情報を信用させると言う意味に於いて権威ぶって、学生に役にも立たない本を売りつけるとはあきれました。 


29-07
出典

 ここで、かなり以前に、「ちょっと気の利いたことを言うと、『それ誰のセリフ?』とか聞くアホがいる」と書いた。私が自分の脳で考える能力のないクズで、ひたすら偉人が残した格言の類を必死こいて暗記するしか能のないアホと見なされることは屈辱だった。だが最近は、それよりちょいとマシだけれど、やはりあまりいい気持ちのしない受け答えをされることが多くなってきた。


 それは、私が何かを引用して話したときに、そのコトバの出典を提示するというもの。別に出典が当てられたからと言って、こちらが怯む理由にはならないし相手が得意になる必要もない。私の発言の価値や意味を損なうものでもない。しかし私の出典を当てただけで、何かの勝負で私に勝ったような気でいる奴には困りものだ。
 さらにもっと困るのが、よくある一般論を言ってだけで、たまたま似たようなことを言った人のセリフだと思われることだ。これはあまり気分がよろしくない。ごく最近ではこんなことがあった。私が「大学では何を学んだかではなく、誰と知り合ったかが大切だ」ということを言ったら、「それ、**社長のセリフだね」と言われた。あのね、これはもう誰がはじめに言い出したかわからないぐらい使い古されているコトバですよ。世の中渡っていこうとするのならば、東京の一流大へ進学して各界で活躍するOBやこれから活躍するであろう学生と知り合うのは常道。「人と知り合うために大学へ行く」なんてことは、特別なセリフでも特別な発想でも何でもないですって。


 何が困るかというと、話が続かなくなってしまうからだ。私は別にストックしている格言の知識自慢をしているわけでも、他人のコトバを自分の発明であるかのように講釈しているわけでもなく、その場でしている話の流れに於いて必要だと思ったら、よく言われる言い回しを持ち出したり、広く読まれている本から引用をしたりしている。ただそれだけのこと。引用元を見抜かれようと、たまたま誰かのコトバと私のコトバが一致していようと、そんなことはどうでもいいのだ。でも、出典を見抜いて何かに勝った気でいる相手は、私の話そのものの価値まで剥奪した気になるらしい。そして自分が「勝った」段階で話という土俵は終わっているのだ。何でも優劣意識の勝負にすり替えてしまうなんて、高校生かせいぜい大学の前半までにして欲しいものだ。


29-06
コネ

 その良し悪しは別としてコネなるものに対する認識は、その人間の社会への理解能力を測るひとつの試金石となる。私のコネへの認識と、今まで出会った奇想天外なコネ認識とを比較してみたい。


 コネを行使する土壌として世間の人々は、親がもの凄い大物だったり、あるいは昵懇にしている人間がとんでもない権力者だったりする図を想像するらしい。これは、凄くマンガ的な認識だ。コネと言ったところで、それこそ親父が政界財界の大物だというような場合もあれば、便宜を図ってもらいたい人間とただの知人だというだけの繋がりまでピンキリだ。問題はその繋がりを使って、どんな利益を用いてどんな便宜を図ってもらうかということだ。コネとは圧倒的に差違のある力関係の下で何かをさせることではなく、基本的にはバーターだ。それも駆け引きである。誰が何の利益もないことで便宜を図ろうか。仕事に大して関係のない大物の影をちらつかせたり、私的に親しいぐらいでは、コストをかけて何かをする理由にはならない。
 例えば、地方の中小企業の大将が取引している大企業の地元支社長に対して、自分の息子をその会社にいれるよう働きかけることなんか、とてもわかりやすい例だ。この場合、依頼者である中小企業の大将は、地元支社長に対して契約の一本化などの利益を提供する。利害関係も明確だ。だけれども、「コネ」と聞いたら葉巻くわえたハゲの政治家にどこかと話をつけるよう頼み、政治家の威光を恐れる相手方が要求を受け入れるような意味不明な図しか想像できない人間は、この中小企業の大将と大企業の支社長との関係がコネだとは理解できないらしい。とても不思議だ。


 さらに言えば、コネは結果を確約することではない。場合によっては確約できる場合もあるが、多くの場合頼まれ事をした人は、自分の権限の範囲で出来ることをするだけだ。結果まで保証できる人間など滅多にいない。自分の一存で結果を出せるほど強大な権限を持った人間と取引するには、依頼者にも相応の対価が必要だ。世間一般のコネは、そんな大それたものではない。
 例えば大企業や中央官庁などの大組織へは、アプローチすること自体が困難だ。その窓口を開くのには内部の人間の仲介が必要だ。これがコネの一番ありそうな形だ。この場合、仲介者は取り次ぐことしか出来ない。そこから先へ進み、採用や契約にこぎ着けるかどうかはそのコネとは関係がない。もちろん大組織であればあるほど、先に進む為にはさらに高次のコネが必要だったりするのだが、それでも結果まではなかなか保証されない。より具体的な例を出すと、やはり就職活動がわかりやすいだろう。大企業にエントリーシートを出しても、大抵は門前払いである。せいぜい形だけ面接を受けさせても、最初から企業に採用する気はない。そこで取りあえずまともな面接を受けさせて貰うために、コネが要るのだ。この程度のコネには大政治家の威光も財界のトップの影も関係ない。ただし、人事部へ推薦するのにはそれなりに政治的コストがかかるので、やはり対価が必要になる。しかし見返りを与えて仲介を受けたところで、採用される保証を得たわけでもなんでもない。
 ここで、コネとは結果のことだと思い込んでいる人間は、「ИНКの中小企業の大将が大企業の支社長に頼んで、息子を本社に仲介してもらったけど採用はされなかった。だけれども仲介してもらった礼として、支社の売り上げに貢献しなければならない」という簡単なフレーズを理解できない。これは、目に見えて触れるモノや明らかな結果に対してしかカネを払う発想のない、他人の労力やリスクがタダだと思っている、心の卑しい人間の発想とも言える。こういう人間は、コストという概念を「カネ」としか理解できないのだ。
 まあ、契約書を書いたわけでないから別に利益を与える必要はない。けれども、相手にコストを払わせて、結果が思うように行かなかったから見返りも出さないようなドン百姓は、商売人としてはクズだ。いや、一方的に頼み事をしておいて、相手が努力したけど結果が出ないとそれに腹を立て、苦労に報いもしないで冷淡な態度を取るのは人間としてもクズだ。今後相手の大企業やその大企業と関係のある企業と取り引きするに当たって支障になる可能性がある。


 この2つを鑑みると、コネとは超大物の威光を笠に着て好き放題やることでも、親が金持ちだから何でも意思が通ることでもなく、ただのよくある取引にすぎないことがよくわかる。この水面下の契約なき取引が、いいとかわるいとかは言っていない。コネとはそういうものなのだと言っている。けれども、経済観念のない人間が、他人の車で送迎されることは無料で、弁護士や税理士など知的専門職に相談することも無料だとしか考えられないように、社会に対して想像力のない人間には、その程度の認識もコネに対して持てないことであろう。そして、ただいろんな人間と酒を飲み、名刺を交換し、電話番号を聞いただけで、それが何かの役に立つと思い込んでいる人間とも、無縁の技術である。


29-05
レアアースと聞いたら、「ブラックラグーン」を思い出す

 現代の産業にはレアメタル・レアアースは必須原料で、レアであるが故に価格は高騰し、アフリカに於いてはその争奪の為に軍事力の私化(privatization)が促進された。青色LEDの原料であるガリウムやインジウムもまたレアメタルだ。インジウムの価格は2年間で7倍に高騰した。これもまた、コンゴ民主共和国とかで採れるんだろうと思っていたのだが、札幌近郊に世界屈指のインジウム鉱山があるそうな。日本は量は少ないが、多くの種類の鉱産資源が眠っている。レアメタル・レアアースも、案外日本にも埋まっているのかもね。


29-04
世の理不尽を帰結させるのに便利なもの

 少し古い話だが、■■自動車クレーム隠し問題が世間を賑わせていたときの話。次々と杜撰な製作や秘密処理が明らかになる中、あちこちの地方自治体が■■車を今後公用車として使用しないことを宣言した。これに対してある人物が言った。
「■■にだって頑張っている人もいるのに、それはないだろう。また■■への偏見が増すばかりだ。これだから役所の奴らはダメだ」
 このセリフの背景には、私が最も憎む思考様式が見え隠れする。


 まず、役所が■■車の使用中止を宣言したのは、騒ぎへの対応としては妥当なことだ。問題があると騒がれている製品を役所が新規購入して、その製品の為に事故が発生したら責任問題になる。だから■■車新規購入停止は、問題を事前に防ぐ為には有効な防衛策だ。■■車が実際にダメかどうかはここに於いては問題ではない。
 次に、■■車の製造工程は本当にダメだった。「ダメだった」と過去形で語ってよいのかどうかはわからないが、ダメだそうだ。自動車技術を学び、30年近く自動車業界で働いてきた人が知人にいるが、その人物の話によると、現代日本の工業水準ではあり得ないレベルの手抜きが為されているとのこと。事故に繋がる手抜きをするなど、事故が人命に直結する自動車会社に許されることではない。ならば、危険な製品に対して警鐘を鳴らす意味に於いても、手抜き製品を出荷する悪徳企業に制裁を加える意味に於いても、役所の■■車購入停止宣言は妥当だ。これは「偏見の助長」でも何でもない。
 そして、「頑張っている人もいる」のは当たり前。■■自動車の従業員の大多数は、自分の仕事に日々邁進する平凡な人々だろう。こうした大企業の不正で許し難いのは、その悪事によって顧客に与える一次的な被害だけではなく、業界の平凡な人々−それも最も弱い部分−に二次的な被害を与えることにもある。不正を指示したわけでも指示に従って悪事を為したわけでもない従業員が、自分の属する会社の悪事の為に世間から叩かれ、さらに業績悪化によって職をも失ってしまう。また、大企業が不正を行って真っ先に潰れるのは外部の中小企業だ。■■自動車の件で言えば、■■車を販売しているディーラー、■■自に部品を納めている中小の部品メーカーだ。もう少し前の●●食品偽装表示の際には、●●食品製品を専売する個人経営の販売店の半数以上が廃業に追い込まれた程だ。この理不尽に際して憎むべきは、不正を行った人間であり、不正を起こさせた会社の体質そのものである。■■自の不正に対して警鐘とペナルティと危険回避を行う役所を恨むのは、筋違いも甚だしい。


 この3点を踏まえた上で、「■■にだって頑張っている人もいるのに、それはないだろう。また■■への偏見が増すばかりだ。これだから役所の奴らはダメだ」なる発言をした人間の思考回路を検証したい。
 簡単に言ってしまうとこうだ。彼にはまず、役所へ漠然とした不信感がある。そして自分と同じ、個々人の努力を尊いものだと思っている。そしてそうした努力が、自分に罪がないのにも拘わらず、ムダにされる理不尽を憎んでいる。そして、そうした理不尽を、役所が解消すべきだという期待がある。「頑張っている個々人」を救済する為ならば、本当に■■車がマズいかどうか検証する必要性さえ考えもしない。
 役所に不信を覚えるのも、個々人を礼賛するのも本人の勝手。何の罪もないのに罰せられる理不尽を憎むのも、至極当然の発想だ。だが、役所が救済をすべきだと思うのはどういうことかね。彼はドラスティックな救済立法をしろとは言わなかった。ただ、役所が■■車の採用中止を宣言すべきではなく、世間へ■■車についての警鐘を鳴らすべきでもなく、■■自へ制裁を科すことをすべきではないと言っている。さらには、世間の人々が■■車や■■自へ悪印象−彼の言うところによると「偏見」−を持つのを役所は食い止め、世間の人々に「■■車は安全だから買え」と宣言しろとでも言いだけだ。貝割れ大根を食った閣僚のように。
 だが、「疑わしきは警鐘を鳴らす」の発想の元、病原菌の温床になっているかも知れないと行政府が公表した貝割れ大根と、社内の経済的時間的コスト削減のため手抜きを行った■■自動車とではまったく問題が異なる。中央政府にも地方自治体にも、■■自を庇う必要性などまったくなく、それどころか実際に事故が次々と発生し、本当に製造工程と安全性に問題がないいう確証もない段階で■■車を擁護することは、とんでもない無責任で有害な行為だ。


 ここに於いて注目したいのは、彼が「■■車に問題がありうるかどうか」について一切検証をしなかったことだ。「多少」の問題や事故があったとしても、それはごくごく一部の問題であって、あるいは自動車にはしばしば起きる問題であって、■■車は他のメーカー車と比して安全性には大差ないとでも思っていそうな(出荷された製品の殆どは安全性に瑕疵はないかもしれないが、製造工程に問題が発覚してそれにより起きるはずのない事故が起きている以上、検証無くして問題ないと断じることは早計である)。あるいは「一生懸命頑張っている人」が作っているから、「ごく一部の悪人」の所業とは関係なく、ちゃんとした製品が出荷されているとでも言いたいのか。どちらにせよ、彼にとっては■■自バッシングは「どこにでもあるちょっとした問題」を大げさに騒ぎ立てているだけにすぎないらしい。だからこそ「偏見」という語を使ったのだ。
 私は自動車の専門家でも何でもない。だけれども、街を走っている■■車の全てが欠陥車とは思わないし、全ての■■車が出火や走行中の部品脱落を起こすとは考えていない。■■車の事故率・故障率自体は、他のメーカー車と比べてもそれほど大きくはないだろう。でなければ、世の中の■■車ユーザーは死人だらけだ。ただ、前述の知人や新聞・書籍の専門家の話から鑑みるに、事故率・故障率は他メーカー車より多少は高いような気はする。
 いずれにせよ実際の事故率・故障率がどうあれ、安全に纏わる不正・手抜きが次々と明るみになり、実際に手抜きに帰因する事故が起きて死人まで出ている以上、消費者も法人も役所も■■自を心理的にも責任問題回避の為にも避けたくなるのは当たり前。疑わしきを避けるのは、安全確保の基本だ。ここに至って必要なのは、■■自自身が安全性を確立し、外部機関の立ち会いの元に安全性を証明すること以外にありえない。少なくとも現段階では、役所が■■車を「安全だ」と称して積極的に購入して乗り回し、消費者の不安を払拭させようとすることが必要なわけではないはずだ。


 頑張っている人もいるのに自分が■■自の社員だというだけで世間から白眼視され、客に怒鳴られ、挙げ句の果てに売り上げが激減して給与が減り、しまいには工場や直営店が閉鎖されてクビになるなど、とんでもない不運だ。だけれども、この不幸と理不尽をすべて役所に帰結させて、役所を悪いと言えば何か言ったつもりになるなど、ひどい根性だ。「お上」がすべてを取り仕切っていて、その「お上」はとんでもないクズどもで、だから世の中の問題はすべて「お上」のせいなんだけれども、「お上」に俺たち下々が何を言ってもどうにもならない。こういう発想、私、大嫌いでしてね。もし世の中が悪いのならば、世の中を悪くしているのは役人ではなくこういう根性ですよ。


 自分以外の大きな存在がをすべてうまくやってくれることを望む甘え。
 大きな存在が、そのようにうまくやらないことを憎む甘え。
 問題を分析して責任の所在を明らかにしようともせず、簡単に思考停止する怠惰。
 ごくごく些細であっても、自分が出来ることをやろうともしない怠惰。
 自分は無力だから何も出来ない、何もしなくていいという無気力。
 そしてその大きな存在を悪と称し、それを叩けば自分が世の中に提言したような気になる愚鈍さ。


 こういう「お上」思想まったくもって生産的ではない。奴隷の思想であって市民の思想ではない。別に、市民として思考したからといって一朝一夕に世の中がどうにかなるわけではない。行動できることなどたかが知れている。提言だって容易ではない。けれども、奴隷根性の人間ばかりで適切な方法で提言や行動をしないでいると、役所は本当に「お上」に成り果てる。企業内部でも、誰も提言しないと外部の規範と内部の発想が乖離することを止められず、奴隷根性の持ち主はとんでもない不正命令にも何の疑問も抱かず、「仕方がない」「こういうものだ」と納得して悪事に勤しむようになる。だからこういう発想の人は嫌。
 何もせず、自分には何も出来ないと思い、自分以外の大きな存在がなにかしてくれるだろうと期待するだけでなく、問題そのものを見ることもしない存在は、ただの家畜ですよ。   


29-03
影響

 親兄弟や親戚を除いて、私の人生に最も影響を与えている人間は誰か。そう問われれば私は高校時代の担任を挙げる。「影響」とは何かと言えば、仕事を紹介した、叩き割ったコップで背中を刺した、という事象ではなく、その人間の行動言動が常に私の脳裏にあって、私が自らの行動言動の規範や様式を形作るエネルギーとなり得ること、とする。


 高校時代の担任の言動は、今でも私の胸に留まっている。今でも思い出すだけで腹が立つ。27年も生きていれば、物理的な暴力を振るわれたり、自分ではどうしようもないことで差別されたり、非道い目に遭うことはしばしばあった。だが、この担任ほど私の全人格を根本から、公然と貶めた人間は他に存在しない。彼は私を、人格に劣るが故に家族も友人も出来ないクズだと、執拗に何度も何度も言い放ったわけだ。大日本帝国やナチスドイツの蛮行を賛美し、オウム真理教のシンパで、明日にでも人を殺しかねない異常者と言い放ったわけだ。一言で書いてしまうと大したことはないが、2年間に渡って、執拗に執拗に「指導」の体裁をとって「啓蒙」をされ続けると、さすがにどうしようもなく腹が立ちますよ。何の根拠もないただの思いこみでもって、人格的利益をここまで侵害されたことは後にも先にも他にないですよ。


 だから私は担任に対して報復を続けている。それなりに品行方正な市民として、それなりに公序良俗を守り、誰も殺さず、ファッショや狂信宗教を徒に賛美することもなく、それなりに友人づきあいをして、いずれ家族を持って、それなりに幸福な人生を全うすること。これこそが私にとっての、担任への最大の報復である。だから私は、小学〜高校までの教員では彼にだけ年賀状を出し、しばしばEメールも出して、私が人並みに社会生活をしていることを今に至るまで示し続けている。年賀状には、必ず私がその年で一番楽しかった時の写真をプリントして送っている。モリブデン鋼のナイフよりもマカロフの真鍮の弾丸よりも、この一枚のハガキが私にとって最も鋭利な報復の刃となる。
 

 そして担任のニヤケ面を思い出すことは、私が何らかの凶行を犯すことへの最大の抑止力となる。ありもしない自分勝手な妄想に基づいて、私の人格を徹底的に貶めてようとする担任に対し、「私はそんなことは考えていない」「私はそんなことは思っていない」と何度否定しても、「そんなこと言ってもごまかしても俺はわかっているんだぞ」と言いたげな嘲笑を返すばかりのあのニヤケ面を。
 27年も生きていれば、残虐な方法で殺したい奴の1人や2人とは出会すし、日々の闘争に於いても、顔面に催涙ガスぶっかけて特殊警棒で乱打したくなる事象にはしばしば出会す。だけれども、一度もそうしていないのは法に反するからではない。立件されず表沙汰にならない確信が心底あれば、私は法など気にしない。粗暴犯罪の検挙率が30%を切っているこの時代、人の少ない裏道で誰かぶん殴ったぐらいで逮捕されることの方が少ない。それにも関わらず私が暴力を振るわないのは、私は、物理的暴力によって気分爽快になるほど単純な情緒の人間ではないし、そうしても何の利益にもならない場面で殴ったり殺したりするほど賎しい倫理の人間ではないからだ。それにつきる(まあ後者に関して言えば、必要ならば殺すこともあるとを意味しているのだが、それは日常レベルではありえないことである)。


 私は少なくとも担任が思ったようなクズではない。それを行動によって、何十年とかけて証明しなければならない。もう担任は私の記憶も薄れているだろうし、私に何を言ったかさえ忘れている(これは本人とのやりとりで明らかだ)。順当に行けば、担任は私より20年は早く死ぬだろう。だけれども、私はあのときのニヤケ面といわれなき誹謗を覚えている。そして自分が何らかの凶行に及んだら、私の脳裏に浮かぶニヤケ面の担任が「やはりお前は俺の言うとおりのクズだった」と言いそうな気がする。これは私と担任との問題ではなくて、私個人の情緒の問題でしかない。だけれども、私が自らを拘束する最も強い原動力の1つであり続けている。


 まあこの担任は、妄想と言っても過言ではない程思いこみがどうしようもないだけであって、人間としてそれほど悪い人ではなかった。根本的に善良な人間だから、的はずれではあったが彼にとっての真実に基づいて、「頭のおかしい生徒」をなんとか「更正」させようと労力を投じていたのだ。私は怒りを持ってはいるが、その真摯さや善良さにはそれなりに好感を持ってはいる。でなければ、年賀状・メールさえ送らない。まあ、善良な心を持つことよりも、それを発揮する為の認識能力の方がより大切だという見本ですな。


 私に倫理を意識させ続けているという意味に於いて、この担任は教育者として凄い影響を私に与えたのかもしれない。そう思うとなかなかの恩師である。


29-02
3月の短期目標

 この一ヶ月で行うべきことを。
語学
・ロシア語のテクストを再読。
・「Time」を1記事であっても毎日読む。
語学以外の学業
・ロシア政治史の基本書を通読。
・政治学の基本書を通読。
趣味
・「Gun誌」を毎日1冊読む。
生活
・1人では酒を飲まない。
・腹筋・ウォーキング等の朝食前の軽い運動を継続。

 3月はたるみやすいので、明文化せねば。 


29-01
2004年度の10大目標は

・高校卒業以来ろくに読んでいない「月刊Gun」バックナンバーを再通読する。
・PCパーツ、デジカメは故障など差し迫って必要ない時以外、買い足さない。ただしプレゼントは別。さらには間違っても、使いもしない4台目のPCを買ったり組んだりしない。預金残高を増やそう。
・ロシア語検定3級取得する。出来れば2級。
・英語もやり直す。具体的な検定・点数・等級はまだ検討中。
・政治学の基本書を再通読。
・ロシアに対するエリアスタディを進める。
・故意に自分の所有物を破壊しない。特に携帯電話。
・緊急回避以外で、誰も直接的には殺さない(「直接的」と入れたのは、先進国民として嫌でも構造的暴力に荷担している自覚があるから)。
・翌日が平日の場合、ウォッカを飲まない。
・禁煙続行。

 という目標を、1年前にここで書いた。
 まだ1ヶ月残っているが、11ヶ月でどのぐらい実現出来たか検証したい。

▼「月刊Gun」バックナンバーを再通読する。

 まったく読まなかったわけでもないが、ここ1年間ほとんど読まなかった。川崎に引っ越してからここ2年間で読んだのは、保有「Gun誌」の1/8に止まる。雑誌の通読なんぞは今のうちにやっておかねばますます困難になるので、ガンマニアを名乗るためには二十数年分を通読しなおしたい。


×PCパーツ、デジカメは故障など差し迫って必要ない時以外、買い足さない。

 今年度購入したPCパーツ・デジカメ類は、
・Canon PowerShot A400(MOE) デジカメ
・LG GSA4120B DVD-MULTIドライブ 
・HP PSC2355 オールインワン・プリンター
・Quixun GA580I 液晶ディスプレイ
・MSI KT880 Delta-FSR(VIA KT880) M/B
・Maxtor 7Y250M0 250GB*2 HD
・Seasonic 380W 電源
・AD-FY200-512 携帯オーディオプレーヤー
・NAS
・FD

 随分と買ったものである。もちろんそれまで使っていたものが壊れてやむなく買い換えた品も多い。だが、衝動買いも少なくない。


○使いもしない4台目のPCを買ったり組んだりしない。

 NASはPCに入らないとし、PC1台組めるぐらいのパーツを買ったがあくまで3台目の組み直しと勘定するので、これは達成。


×預金残高を増やそう。

 これだけPCパーツ類を買ったのだから、当然激減。


◎ロシア語検定3級取得する。出来れば2級。

 合格通知を貰うまで信じられなかったが2級合格。
 これは今年度最大の快挙かも。


▲英語もやり直す。具体的な検定・点数・等級はまだ検討中。

 資格試験は受けなかったし、本格的な勉強はしなかった。
 だけれども、アメリカ人のたまり場へ行ったり、「Time」の訳読をはじめたので、何もしなかったわけではない。さらには毎日20分の英語リスニングを欠かさず行った。だから▲ぐらいはつけてもいいだろう。

×政治学の基本書を再通読。

 まったくやらなかった。


▼ロシアに対するエリアスタディを進める。

 ロシアに関する本はほんの少ししか読んでいない。だが、新聞でロシア関係記事を追い、集積して通読するなどしているので×ではない。


×故意に自分の所有物を破壊しない。特に携帯電話。

 携帯電話を壊した。


◎緊急回避以外で、誰も直接的には殺さない。

 当たり前だ。


△翌日が平日の場合、ウォッカを飲まない。

 今年度は表を作って飲酒量を調整したので、昨年度のようにウォッカで泥酔するようなことは少なくなった。ただし、年末には「朝霧の巫女」で平日酔っていたことはあった。けど、ウォッカよりはマシ。


○禁煙続行。

 旅行や宴会で数度吸った。けれどもタバコとライターを持ち歩いて常用はしなかった。


 それほどムリな目標ではないので、まったく達成できなかったわけではない。特に露検2級合格は実質1年半の勉強で受かったのは快挙だ。けれども10大目標全体で見れば、良好な結果ではない。ただあと1ヶ月あるので、「Gun通読」と「政治学書」、それと「英語学習」については最大限やってみたいね。


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