last up date 2005.04.23

31-10
2005年度は

 4月も終わりが見えてきたところで、2005年度の目標を立ててみよう。10個ね。
・緊急回避以外で、誰も直接的には殺さない
 「直接的」と入れたのは、先進国民として嫌でも構造的暴力に荷担している自覚があるから。

・禁煙続行。
 眠さ解消の為という理由付けで吸いそうな予感がするが、デメリットが大きいので、やっぱり吸わないようにしたい。

・酒は院試終了までは、人付き合い以外で飲まない。
 要するに1人では飲まないってこと。時間がもったいない上、睡眠の質を下げる。

・毎日ロシア語・英語のリスニングを最低20分ずつ続ける。
 これはかれこれ2年近く続けているので、容易かと。

・毎日朝飯前20分のウォーキングと腹筋を続行。
 これも2年近く続けているが、ときどき滞るのでそうしないように。

・日経新聞朝刊を1日も欠かさず読む。
 これは取り始めてから1日も逃していない。旅行中でも新聞屋に取り置きしてもらっている。こからも続行。

・院試の英語論文をそこそこ読めるようにする。
 一応院試が目標なのだが、試験そのものはロシア語で受けそう。しかし英語でも出来るようにしないと選択肢が狭まる上、自分自身の可能性が小さくなってしまう。

・ロシア語の新聞をそこそこ読めるようにする。
 これはロシア語に携わっている以上、ひとつの目標。

・政治学の概念をまとめる。
 4月中旬現在、すでにやりつつあります。これをしっかりやり遂げたいものだ。

・研究対象を絞る。要するに研究計画書を書く。
 もちろん研究計画書を書かないと院試を受けることも出来ないのだが、とっととやりたいものではある。

・来年度の方向が決定されるまでは、新PC新デジカメの購入あるいは組立を控える。
 引っ越しの際、輸送中の破損やレイアウトの不都合で買い直しをするハメにもなる。だからカネは温存したいし、保有物品量も抑制したい。 


31-09
「不遇」の傲慢

 例えば、家も車も持っていない人には、家や車を維持する苦労やそれらを失うかもしれない恐怖を理解することは出来まい。私としては、そうした持てる者の苦労や恐怖に対して「家も車も持てる恵まれた奴が苦労とか恐怖とか口にするな。俺なんかはそれらを持つことも出来ない」としか言えない人にウンザリですよ。こんなことしか考えられない人間が跋扈するようでは、社会の発展も問題解決も図れなくなってしまう。諸問題に対して、持てる者はただ堪える以外の選択肢がなくなってしまうからだ。
 こんなことを言う人とて、日本で少なくとも中学高校まで学び、携帯電話とPCとネット環境を維持し、たまに好きなCDやDVDを買っているような人間は、全世界的にはまずまずの位置にいる。もっと貧乏な人間、例えば学校に行くチャンスさえ与えられず文盲の人間なんかは、いくらでもいる。人権などというコトバも虚しいほどの不衛生な環境で、苛烈な労働に長時間従事し、日当は日本のコンビニおにぎり1つにもならないカネしか与えられない。これは奴隷と言って差し支えない状態だ。こんな悲惨な人間が世の中に大勢いて、しかもそうした人間が先進国の豊かな消費生活を支えている。今、日本の貧乏人が使っている携帯電話の半導体とて、原料となるレアメタルの採掘と輸送の為に、どれだけのアフリカ人が命を落としているかわかったものではない。「恵まれた人間には苦労や恐怖というコトバを言う資格がない」のならば、こうした最貧国の奴隷労働者の生命の犠牲の上にどうでもいい消費財を買って生活している日本人には、苦労や不幸話なんかをする権利はないということになってしまう。それとも「アフリカの人間は考慮に入れる必要がない」とでも言いたいのか?


 どんな階層にいようと豊かな生活をしていようと、どの人間にも苦労も不幸もある。恐怖や理不尽にも苛まされる。当たり前のことだ。所得だけで幸福の数量を比較することなどナンセンスだ。例え階級ごとに幸福量とやらが決まっているとしたって、羨望したところで何の意味もない。だから私は、どんな人間にも不幸や苦労を嘆いてはいけないと言うことは出来ないし、誰にだって様々な危険や不条理が待ち受けていると認識することは出来る。
 こんなこともわからんで、自分が不幸だから他の人間はみんな幸福で、幸福人間は幸福な故に人格に劣り能力に劣ると本気で考えているような異常者とは、付き合いたくないね。私の身近に、そういう異常者がいるのですよ。この人物は、この人物の言によれば、親が人間のクズで、金銭的にも精神的にも非道い辛苦を受け続けている。しかも生まれながらそう健康でもないので身体的にも苦しむところが多い。確かに同情したくなる境遇ではあるが、この人物に対して同情するつもりはこれっぽっちもない。奴が傲慢だからだ。


 この人物は、自分が世界一不幸なような面をして、自分が不幸であるが故に人格的に優れ、能力も研鑽されているという思い上がりを持っている。しかも能力は決して優れていない。貧乏だから能力を伸ばす機会を与えられなかったという以前に、傲慢であるが故に自分の方法論を見直すことが出来ない。その為、成長するチャンスを自ら悉く逃している。
 さらに言えばこの人物は自分が不幸で、学ぶ機会・生活する時間を得るのに人よりも苦労しているから、何をしても許されると思い込んでいる。その結果、くだらないどうでもいいことで他者の時間と機会を奪っている。しかも他者の時間を剥奪していることや間違った方法論を邁進していることに対して注意や勧告を受けたものならば、「侮辱」としてしか受け取られない。これもまた傲慢だ。奴に言わせれば、恵まれた環境にいる人間には、自分にものを言う資格などないらしい。なぜならば奴にとっては、恵まれた人間の言うことは間違っているに決まっているし、恵まれた人間が不幸な自分の方法論や行動指針にケチつけることなど許されざる暴挙だからだ。


 さらに言えば、奴は「恵まれている、自分以外の人間」が苦労や不幸を口にすることを極端に嫌う。不幸は自分の専売特許と思い込んでいるらしい。確かに奴にはカネがない。カネで苦労している。家庭的にも不遇と称して差し支えない。だけれども、どんな金持ちでも道を歩いていればチンピラに難癖つけられて半殺しに合うこともある。付き合っている人間にとんでもない背信をされることもある。カネを持っているが故に、それを奪おうとするクズが寄ってくることもある。カネを持っている人間は、持っているからこそ失うことを恐れなくてはならない。また、実際にカネや地位を失って没落する不幸は、最初から何もない者には理解できまい。どんな人間にも自分なりの不幸も理不尽も苦労もある。だけれども、奴にとってはカネを持っている人間には、些細な嫌なことや刑事犯罪も道を空けて通るらしい。特に私の刑事犯罪への恐れに、奴は過剰反応を示した。私が他者への恐れや被害に遭う可能性を口にしたら、奴は必ず激怒して「恵まれている何も知らない奴が、生意気なことを言うな」と口にする。理解できない。金銭的家庭的に恵まれていることと、刑事犯罪の被害に遭う確率との関係はそんなに簡単ではない。
 引っ越し前の実家の周辺では、半径30m程度の近所の中で、息子が親を殺した事件があった。別の家にパトカーが止まり、そこのボンクラ息子が手錠をはめられて連行されるのも見た。空き巣も何件も起きているし、実家に入られたこともある。しかも留守番していた幼い私が、こそ泥が窓から侵入しようとしているのに出会したこともある。親戚の中には、列車に乗っているときナタを持った狂人に襲われ、脳に障害を負った人もいる。さらに言えば、私自身道を歩いていただけで異常者に背中から殴られたこともある。とあるいざこざで背中を割ったコップで刺されたこともある。大学の友人の中には金属バットで武装したゴロツキの一団に襲われたのもいるし、押し売りに暴行を受けたとか徒党を組んだガキと乱闘になったとか、暴力沙汰はしばしば耳にした。私程度の恵まれた平凡な男でも、周囲にこれだけの刑事犯罪があった。恐れるのは当然ではないか。さらに言えば、幸福だからこそそれを土足で踏みにじる悪党を恐れるのだがね。そんなことが、なぜわからん。自分にしか不幸とやらは襲ってこないと言いたいのか。


 こんなクズを誰が好こうか。好かないまでも、誰が不快感を覚えずにいられようか。奴がいう「恵まれた人間」「金持ち」とかいうのは、豪邸に住んで高級車を運転手に走らせている大富豪のことではない。下層中流階級でさえ、奴にとっては「恵まれた境遇」らしい。まあ下層中流階級の家の子供が親から受けるようなことさえ、何一つしてもらえなかったと称する奴にとっては、下層中流階級の子弟はまあ恵まれているんだろう。ちなみに奴の親は、上層中流階級である。ただ、奴の親はクズなのでカネが自分に回らなかった。奴の話を総合するとそういうことになる。親がクズなのは子供にとっては大変な不幸である。しかしだからと言って、所得が平均以下の家の人間を無闇矢鱈と「恵まれている」と称してよいのかどうか・・・。
 そして奴は、教育費についてよく言及する。奴の親はカネがあるのに若い女に使い込み、子供には小遣いどころか高校の学費さえ自己負担を強いたそうだ。奴に言わせれば、親の援助で高校・大学へ行った人間は「親にカネを貰っているからクズに決まっている」そうだ。この定義で言えば、圧倒的大多数の日本人はクズということになる。10代20代の若者だけではない。高度経済成長を背景に所得を伸ばした世代を親に持ち、その援助の下で高校・大学への進学率を飛躍的に向上させた「団塊世代」をも、奴は「クズ」と判定していることになってしまう。「親のカネで学校へ行っている奴はクズ」と公言する人間に「その通りだ」と共感を持つ人間が、今の日本にどれだけいようか。ましてや親からの学費支援の有無が人格の良し悪しを分ける分水嶺になるという発想そのものが、意味不明だ。まあ奴にとってはこれが真実なのかもしれないが、繰り返し繰り返しこのことを口にするリスクを、奴は理解していない。日本の圧倒的大多数の人間を「クズ」と呼んでいるのだから。


 こんなことはほんの一例に過ぎないが、傲慢で、自己を省みることがなく、自分が優れていると公言し、圧倒的大多数の他者を劣っていると公言する人間に対し、人々は当然の事ながら距離をとるようになる。嫌味のひとつを言い返したくもなるだろう。だが奴は、何故自分から人々が離れていくのか、何故どこに行っても嫌味を言われるのか、理解できない。なぜならば奴は自分にとっての真実を、許されて当然のことを口にしているのだから、他者がそれに対して不快感を持つことなど想像も出来ないのだ。不快感を覚えた他者が自分に対して非友好的な態度を取るようになるなど、考えられないのだ。そして疎外や非難を受けると、またしても「不当な扱いを受けた。恵まれた奴は人格的におかしい」との怨念を深めて、また同じ事を言い続けるようになる・・・。まったく哀れな。
 しかし哀れではあるが、人格も能力も判断力も貧しい人間とは、付き合いたくないものですよ。私は奴の苦労にまみれた人生に対して、それなりに敬意を持って接してきた。奴の話には、つまらんことでも感心して見せて、単に私が奴よりも恵まれた境遇だからというだけで受けた言われなき誹謗に対しても、黙って堪えてきた。だが、それもそろそろ面倒になってきた。他の人々が奴から離れ、軽蔑を隠さなくなるにつれて、相対的に奴は私と付き合う比重を増やし、その結果私に対して奴にしか意味のない苦労話や逆差別的暴言を吐くことが増えてきた。いい加減疲れますよ。あぁ、「疲れた」とか言ったら、「俺は寝る間も惜しんで働いている。夜寝ているお前が『疲れた』とかしゃらくさい。恵まれているんだよお前は」とか言われるだろうな。まったくだから貧しい精神の持ち主は嫌い。貧乏そのものは「個人の病」ではないし、そうした「不遇」には気の毒にも思う。しかし、「非道い境遇の人間は鍛えられて立派な人間になる」という言説は漫画や映画の話でしかないと、少なくとそんな法則などないと、奴を見て私は確信したね。


 余談だが、私の大学時代に於ける友人の中には、苦学していた人間が何人かいた。彼等は経済的あるいは家庭的に不遇(本人にこう言うと侮辱と思われるだろうけど)で、苦労して学費・生活費を捻出していたのだ。だけれども恨み言も言わず、ましてや周囲の人間を「自分よりも恵まれている」という理由で貶めなどしなかった。この中には、大学時代に於いて私が最も尊敬していた人物も含まれていたし、彼を認める者は多かった。今も彼は、仕事で栄達の階段を順調に上っている。このように、境遇にハンディキャップがあって立派にやっていける人間はいる。だけれども、私の狭い経験上このような人は少ない気がする。条件が悪い中、自分なりに立派にやっていくことは大変なことなのではある。一方で、件の「学費を親に貰っている奴はクズだ」と称する人物は、私の学友のように奨学金とバイトでやりくりする道ではなく、安易に誰でも入れる類の悪徳会社に入り、ヤクザ仕事をするようになった。


 もっともこの人物とて、親が若い女に次々のめり込まず学費を出していたら、惰性的に進学して人並みに好きな学業をやって、もうちょいマシな就職をしていただろう。そうできなかったことは気の毒だ。気の毒だが、選択があまりにもよくない。高卒で働くにしたって、少なくともヤクザまがいではないもっと穏当な仕事をまったく選択できなかったということはないだろう。
 学びたいにしたって、親から一銭ももらわずに卒業する方法をどれだけ調べたのだろうか。調べた上で断念したのか。それがどれだけ過酷なことかは私には想像するしかないが、しかし様々な制度を利用して卒業した人間を私は何人も知っている。そして奴は、そもそも大学に入る為の勉強もしなかった(本人が自白している)。もし高校時代からバイトで忙しかったとしても、授業中だけでもしっかりやっていれば、そこそこの学力は身に付いたはずだ。しかし本人が自白しているが、遊びほうけていて何もしていなかった。余談だが、私の学友の中には、親の援助無く、浪人中も過酷な肉体労働で稼いでいた人間を2人ばかり知っている。そして有名大学に入れたのだから、大したものだ。結果を出した人間の苦労譚を聞くと涙が出てくるし、敬意も払う。
 もちろん奴は、高校3年間遊びほうけていながらも安穏と予備校に通うことが出来た私よりも、遥かに条件が悪かった。私が親の庇護なく高校大学を卒業できたかというと、出来なかっただろう。結局のところ、当たり前だが、条件が良ければ結果を出しやすいし、条件がわるかったら結果を出しにくい。しかし条件が悪かったが為に結果を出せなかったとしても、自分よりの条件のよい者を貶めても人には好かれず認められず惨めになるだけだ。


 私には貧乏を笑えない。
 だけれども、人格をも含めた何もかもを条件の良し悪しに帰結させて、他者に傲慢な態度をとるような人間には、関わりたくはない。 


31-08
本当に緊急の場合ならばともかく

 「なんかあったら、いつでもまた電話してくれ」と言われて、「24時間いつでも電話をしてもいい」と解釈するのは、「鍋を見ていろ」「風呂を見てこい」と言われて、吹きこぼれていようと空焚きになっていようとただ眺めるだけに終始するのと大差ないように思えるが、如何か。


31-07
法治国家だなんてとんでもない

 日本には法治国家とは言い切れない面がある。もちろん人を殺せば牢にぶち込まれるし、カネを奪えば賠償させられるし、外国の大使館に石を投げれば捕縛される。近年検挙率が下がっている面はあるが、それでも全世界的に見れば法の強制執行機関の暴力は隅々まで行き渡っている方だ。だけれども、法治国家とは言い切れない面がある。それは、実際には様々な問題が生じる可能性があるのに、法がそうした問題についての規定をしていない空白がある点だ。
 それは「ちょっとしたトラブル」の解決策を規定していない点にある。何故か空白になっているかと言えば、法は人殺しや掻っ払いといった重大犯罪だけ取り締まっていればよくて、家族や近所なんかの問題は共同体の倫理が解決すべきという発想が従来日本社会の根底にあったからだ。逆に言えば、共同体でのトラブルの解決を司直に依頼するのは、大人げない冷血で利己的な人間であるという意識も、人々にあったと言える。ムラ社会であるが故の法体系ともとれる。だけれども、共同体の倫理にトラブルの解決を任せるようでは、法治国家とは言えない。
 法とは、感情や利害がもつれてどうしようもない状態に、無理矢理「解決」をでっちあげる為にある。それも、原因に対して結果が類推しやすい、明確な法こそが問題予防とリスク管理には必要だ。しかしムラの寄り合いで問題の解決を図ると、どうしても特定の側に有利な結論が出されることもあるし、ムラの有力者や当事者の気持ち次第で結論がどうにでも変わってしまう。さらには、伝統的な非合理や理不尽はまず解消されない。特に人・モノ・カネ・情報の量と移動速度が高度化した現代に於いては、ムラ的な共同体意識は薄れ、問題解決能力を持たなくなっている。また、余所者や異端者をムラに同化させることを是とする共同体的問題解決能力では、現代の問題に合理的な対処は難しい。さらに言うと、社会構造も科学技術も高度化している為、個々人の単純な倫理や稚拙な判断力では、簡単に善悪や適切か否かを判定しにくくなっている。
 だから、「ちょっとしたトラブル」を規定する法と、それに基づいて司法や行政が問題解決にあたる実効性、そして法の強制執行機関が暴力を行使する体制をきちんと整えて欲しいものですよ。世の中、攻撃側が常に有利で、何かしようと思えば、容易に相手の心を不安に陥れ、財産を損なうことが出来る。その被害が少額だったり「不安」「恐怖」という形のないものであっても、「ちょっとしたこと」と片付けていいわけはない。また、「ちょっとしたこと」が積み重なって重大な犯罪に発展するケースだって珍しくない。
 安心して暮らせる社会。無辜であるのにも拘わらず、苦しめられることのない社会。「些細なトラブル」への防衛を公的機関に依存でき、防衛コスト(時間も手間もカネも精神力も含む)を最小にできる社会。こうしたものの実現のためには、「ちょっとしたトラブル」への法整備こそが大切だ。今の社会は、攻撃した者が罰せられず、情緒の欲求を満たすという利益を一方的に受けられる社会とも言える。アメリカ・ドイツ並みの法整備をしっかりして欲しいものですよ。トラブルがあってはじめて、法の改革が行われるのには苛立ちを覚える。まあ、それでも個人レベルのトラブルに対し、法で対処しようという発想が芽生えてきた段階で、一昔前よりは意識は高まってきているとは言えるのだが。


31-06
フリーズ

 敢えて挑発的な言い方から始めるが、頭の悪い人間は想定外の他者の反応に対してフリーズする。ここに於ける「頭が悪い」とは知識の量や分析能力の話でも、学歴や学位の話でもない。想定を狭く持つことしか出来ないことであり、想定外のことに対処できないことを指す。こういう人間は、会話というものをあらかじめ楽屋でやりとりを決めてから、台本をなぞるようなものと錯覚している。自分が言ったことに対して相手が返す反応を、とても狭い範囲に決めつけている。そして想定外の返事を聞くと、何を言い返すことも出来ず停止する。


 もちろん話の筋と全然関係ないことを言われたら、フリーズせざるを得ないだろう。私も、「昨日の食事会はどうでしたか」と言って、いきなり「自己批判しろ!」とか「神は偉大なり!」とか言われたら数秒間フリーズするだろう。
 だけれども世の中には、本当にどうしていいかわからないほど破綻したことを言われることなど、そう多くはない。大抵の場合人がフリーズする原因は、相手に期待した答えを返されないという程度の事象にすぎない。自分の意図から外れた受け答えをされたり、自分の知識や認識とは相違したことを言われたり、自分の提案を受け入れられなかったり、自分の考えに価値を認められなかったりするだけで、容易にフリーズする人間はいるものだ。学部時代、「自分とは違う意見を言われただけで固まる奴が多すぎる」と後輩と嘆息したことがあったが、そんなことではゼミでも会議でも何も話せませんよ。くだらない世間話でさえ事欠くでしょうに。


 例えばこんなことがある。私はロシア語に携わっているが、ロシア語に従事しているのは成り行きと職業戦略の一環にすぎず、別にロシアが好きなわけでも、ロシアへ行ったことがあるわけでもない。だけれども、「晴天はロシア語をやっている」→「晴天はロシアが好きに違いない」→「晴天はロシアへ行ったことがあるに違いない」と思い込まれることは少なくない。まあそういった想像をするのは勝手だし、それほど不自然な想像ではない。だけれども、そうした事実と異なる前提に於いて話をされたときに、「いや、ロシアへ行ったことはないんスよ」「そのことについてはよく知らないんですよ」と応えると、低からぬ蓋然性で相手はフリーズする。じっと人の顔を見たまま、薄い笑みを浮かべたまま止まる人間がなんて多いことか。
 確かに、これからロシアの話に持っていこう、ロシアの話をしてもらおうという意図が挫かれると、ちょっと困惑するのはわかる。私から拒絶されたような印象も受けるだろう。だけれども、私は相手の意図に乗って、盛り上げる為に、虚言を弄していられるほど器用ではない。この先も間違った情報を持たれ続けたら迷惑なので、それは訂正する。
 それにしても、いくらでも言うことなんてあるでしょうに。「ロシアへ行ったことがないのなら、これから行く予定はあるのか?」とか。いっそのことを、話題を少し変えてみたっていい。まあ誰もがそんなに切り返しが早くできるわけではないから、1度のフリーズぐらいはやむを得ないかもしれん。だからこちらから助け船というか、新しい話題の提示兼「ロシア語をやっているのに渡露経験のない不思議な存在」たる私自身の説明として、自分のロシアに纏わることを話しても、そのままフリーズし続ける人間もいる。どうしたものか。私は何も言うべきことが見つけられなくなるほど、気の違ったことを言ったのかと、自分で不安になってくる。あるいは相手はctrl+alt+delキーを連打しないともうダメなのかと疑いたくもなる。こういうどうでもいい話でも、自分が期待した展開に話が進まないと固まる人って、しばしばいるんですよ。


 私が記憶にある最古のフリーズの記憶としては、小学校3〜4年の経験があげられる。、ある同級生の女の子がうちに遊びにやってきた。呼んだわけではない。だが、当時は私の母親が死にかけていた。結果として死にはしなかったし、入院せずに自宅で療養していたので大したことがないと他人には思われるかもしれないが、私はこの人はもうダメなんだと覚悟を決めていた。家族の誰もがそう思っていた。そんな母親が寝ているのに、客に敷居を跨がせてファミコンなんかやって大騒ぎできるわけもない。狭い家だから、音なんか筒抜けだ。だから、その子にはわるいが帰ってもらおうとした。
「うちの母さんが具合悪くて寝ているから、今日は遊べない。悪いけど帰ってくれないか」
 そう私が言ったのに対して、そのガキは玄関先でフリーズした。言ったことが理解できなかったのか、滑舌のよくない私のセリフが聞き取れなかったのかと思って、何度も少し言い方を変えて同じことを告げても、奴はフリーズして笑みを浮かべたまま私の顔を見つめていた。何なんだ。そこでそのまま黙って立っていれば、私が敷居を跨がせると思ったのか。黙っていれば事態が好転すると思ったのか。私は何も意地悪で拒絶しているわけではない。ちゃんとした理由があって、帰って貰おうとしていたのだ。私が何度何を言っても奴はフリーズしたままで、結局玄関の声を聞いていた母が見かねて起きて来て、帰ってもらった。寝るときいつも「このまま目が覚めないのではないか」と恐怖し、ちょっと動いただけで心肺機能に負荷が掛かり、朝も昼も心臓が苦しくて横になっていた母が、だ。
 1回ならばともかく、こんなことが何回もあった。風邪ひいて寝ているのと違うんだから、違う日に来ればどうにかなると思ったのか。私は本当にマズい状態だと説明した筈なのに。来るたびに、いつも奴はフリーズしつまま突っ立っていた。このときの、結果として母の心身に負担をかけさせたこのガキへの怒りが、今もフリーズする人間への不快感に繋がっているのかもしれない。


 まあそれはこじつけかもしれん。何はともあれ、あたかも事前の約束事や万人共通の前提があるかのように、相手の応答をとても狭いものしか想定できない頭の悪い人間とは、ましてや想定外のことをされたら古いWin98のPCみたいに固まることしか出来ない人間とは、あまり付き合いたくないものであります。
 まったく同じようなテレビと雑誌を見てネタが共通と決まり切っている確信があるときや、誰もが顔見知りで何もかも知っているかのような狭い集落の挨拶なんかならばともかく、情報に溢れ、万人共通どころか何がマジョリティかさえもわからないこの時代に、よくもまあ相手の応答の仕方を想定できるものですな。よくもまあ、相手が自分の意図どおりの返答をすると思いこめるものですな。不思議でたまらんよ。多文化主義とか異文化コミュニケーションとか言っているどころの話じゃないですよ。


31-05
フロリダ州法

 フロリダ州は新しい州法で、「危険を感じたら相手を射殺してもいい」ことになる法案が可決されて模様。これは当然の権利。この世は常にバランス・オブ・パワー。威嚇し合っていてはじめて平和が実現できる。力の空白こそが、犯罪や侵略を呼ぶ。
 先制攻撃を禁じる法解釈は、無辜の市民に犠牲を強いる理想論だ。なぜならば、悪人はそのような法を守るわけもなく、しかも市民が先に撃ってこないと信ずる根拠にさえなるからだ。脅威に対しては事前に対応しなければ意味はない。生命や財産を奪われてから反撃の権利を付与されても遅い。
 ついでによくいわれる警察など法の強制執行機関のみが銃を持てばよい、などという寝言が通じるほど世の中簡単ではない。日本に於いてさえ、脅威を感じてから、警察に通報し、警察の到着を待つチャンスもなく殺された人間なんぞ少なくないだろう。だけれども日本は正当防衛が極めて抑制的な解釈をされているので、事実上自分の生命財産を奪おうとする犯罪人の行動を停止させることが不可能だ。地元で、自宅に押し入った賊を野球のバットでぶん殴って両足骨折させた人は、過剰防衛で逮捕された。だが、過剰でない防衛だったら怒り狂った賊に刺し殺されていたかもしれない。あるいは無抵抗でいると、何十年とかけて稼いだ財産を奪われたかも知れない。
 防衛は個々人にとって、当然の権利だ。法はしばしば、無辜の市民のみに対してそれを禁じ、他者から奪おうとする悪人のされるがままにするかのような要求をする。それを考えれば、フロリダの新法は画期的と言える。


 ただし懸念はある。2人しかいない場所で、片方の人間が射殺された場合、これが正当防衛だったか、ただの殺人か、どうやって判断するのだ?
 射殺された方が丸腰だったとしても、射殺してわるいということにはならない。銃を持つことの優位性は、相手の手が届く前に相手を無力化できることだ。「丸腰だから」と撃たなければ、素手で絞め殺されるだけだ。ついでに、足などを撃ったところで、保釈金を借りてすぐに出てきてた犯罪人に、報復で待ち伏せされて家族共々皆殺しにされるかもしれない。武力を行使する以上は、殺すのが一番安全だ。だから、一方が丸腰だったかどうかは、正当防衛かどうかを判断するにあたって問題ではない。
 結局の所、両者が顔見知りだったらどんな関係だったかが焦点になる。相手が自分を殺しても不思議ではないような関係であれば、相手を一方的に射殺しても「奴は俺を殺すつもりだった」と主張して通るかも知れない。一方、まったくの見ず知らずだったら、当事者の前科や経歴、社会的地位や収入なんかが焦点になるでしょう。富裕で名士として名を知られている人間が、何回も犯罪を繰り返して刑務所を往復した札付きのワルを射殺した場合、「あいつがカネをせびろうと詰め寄ってきたから仕方なく撃ったんだ」と名士が主張すればほぼ確実に通るだろう。だけれども、事実はそうではないかもしれない。
 この法に、恣意的な殺人を合法にするかも知れない側面は否定できない。実際、どう運用されていくのか注目したいですよ。


31-04
思考停止の呪文

 私が毛嫌いしているセリフとして、「厳しい」というコトバの濫用がある。「世の中は厳しい」とか「仕事ってのは厳しいものだ」とか言う人間には、基本的にいい印象を持てない。
 まず第一に、生きていればどこに於いてもなかなか思うようにはいかないし、苦労はする。他者との闘争や摩擦は絶えない。人事を尽くしても結果が伴うとは限らない。そういった意味に於ける「厳しさ」は、言うまでもないことだ。「人生は厳しい」とか言うセリフは、「海は広い」とか「空が青い」とか「カートマンはデブだ」と言うのと同じぐらい、言う必要もないぐらい当たり前のことだ。それをいちいち言う人間は、他者をそんなこともわからないアホと見なしているのか。


 第二に、このコトバを濫用する人間は、自分の狭い経験を普遍的なものと思っている。例えば、「あまりの激務で心身が摩耗し、それなのに薄給で、昇給昇進に希望も持てず、やっても実務経験としてのハクも技能も身に付かず、それ故に離職率が高くて誰でも入れる会社」で働いた経験しかない人間が、私の周辺で近頃このコトバを連呼している。彼は仕事というものを、福利厚生ややり甲斐といったコトバと無縁の劣悪なものしかありえず、それに堪えるしか食う道はないと本気で勘違いしている。こういう人間が、不利な条件に堪え、よりよい条件を求めることを徒労だと称するために「どこに行っても厳しい」とか連呼するのは大変耳障りである。
 もちろん諦念と観念はとても大切なことだが、出来る範囲で向上心を持って努力することをせず、それどころか様々な環境の職場があることを調べもせず、知ったような口を叩いていることがとても気に入らない。気に入らないだけでなくて、若い者の職選びに際してこういう人間は間違ったアドヴァイスしかしないから有害でさえある。


 私も来年度から違った道を選ぶから考えることは多いけれども、こういうアホによけいな介入をされたくはないものである。だけれども、こういうアホに限って仕事の紹介とかいらん世話をするのですよ。大してカネにも実務経験にもならず、履歴書にも書けないようなヤクザ仕事を・・・。私の学歴と資格と技能と帰属をもってすれば、少なくともローンを組むのに困ることはなく、縁談を断られることもない程度の仕事に転身することぐらいは難しくない。「世の中は厳しいから、何でもするしかない」という段階ではない。それなのに条件に関わりなく、いきなり「何でもするしかない」という発想しかできない人間とは、あまり付き合いたくないものです。


31-03
箱庭

 昔の話。私の大学3年次のこと。私はちょっとした気まぐれでゼミの人間を部屋に上げたことがある。ゼミと部の共通の先輩・後輩は数人いたが、ゼミ以外に接点のない人間に敷居を跨がせたのはこれが最初で最後だった。
 最初彼とはゼミ合宿のことなど話していたが、彼は便所に行くと言って席を立った。そして便所からなかなか戻ってこない。いや、便所からは出ている。独り暮らしの住居としては広いと言えども、所詮アパートだ。音などどこにいても筒抜けだ。奴が便所から出た後、DKから書類ホルダーを棚を開ける音がしてきた。もちろん放置するわけがない。家捜しされて気分がいい人間などいないだろう。しかもDKの書類ホルダーには我が家に於いて最も重要な書類がいくつも入っていた。クレジットカードの明細書、保険の証書、不動産の契約書など。私はDKに行って、座って書類ホルダーを開いているそいつに「おい、何やってるんだよ」と声をかけた。すると奴は、「いや、エロ本・・・」と。


 貴様は中学生か!ある程度の年齢になってくれば、クレジットカードやパスポートなど重要なものを持つようになり、それに関する書類も部屋に置かねばならなくなる。独り暮らしならばなおさらだ。そうした書類は、ちょっと書き写されただけで大変な悪用をすることが出来る。カネを引き出すことは難しいにしても、口座やカードを止めることも出来る。悪用されないまでも、カードを切った額や口座残高を見られて気持ちがいいわけがない。もしカネがあると知られれば、後日盗みに入られるかも知れない。カネがないとわかればバカにされるかもしれない。しかもそうした情報を何気なくでも人に話されると、どこでどういった不利益が生ずるかわからない。私はゼミ合宿の運営をすべて1人で取り仕切っていたが、もし会計に問題があれば、それが単純ミスや第三者の盗みのせいであったとしても、もし私に負債があると知られていれば、真っ先に着服を疑われかねない。
 だから私は「そこには貴様が期待するようなものなどない!領収証とかあるんだから見るな!」と怒鳴りつけて居間に連れ戻した。もっとも彼は頭の悪い人間だったので、本当にエロ本か何か面白いものを探していただけなのは明らかだったが。居間に連れ戻してからも、彼は本棚、CDラック、衣装ケースなどをチェックし、二重構造になっている本棚の奥まで調べやがった。居間には何一つ有害なものはなかったけれども、それでも家捜しされて気持ちのよい筈はない。
 だけれどもこれは我慢した。萌えマンガを見て「晴天には似つかわしくない」と言われ、学術書を見ただけで「見直したよ!」と称されることは不愉快だったが、大したことではない。さすがに、突然私のAK-47を掴んで窓を開けて外を撃とうとしたのは止めたが。こういう人間は、人が自分の行動を嫌がるのは何か弱みややましいことがあるからだと判断する。その弱みを見つけることを強行して、笑いのネタにするのをコミュニケーションと思い込んでいる。ヘタに止めようとすれば「やっぱりエロ本を隠している」と判断して捜索の手を強め、私が本気で彼をぶん殴る結末になりかねない。だからテキトーに捜索させて、奴が飽きるのを待った。


 この事象に於いて、私が一番不愉快だったことは何か。それは重要書類を見られたことではない。アニメめいた品々について見当違いなことを言われたことでもない。ゼミでは「ファミスタ」のキャラクターみたいな野球選手の絵を机に落書きするだけで、自分がレジュメを切ってもゴミみたいなことしか書けないこのアホに、たかが学術書が何十冊か本棚にあるだけで「見直した」と称されたこと−つまりこの程度の本も読まないぐらいのアホと見なされていたことでもない。彼が、他人の部屋を家捜ししても、自分の狭い想定の範囲内の物品しか出てこないと思い込んでいたことが不快だっだ。
 彼にとっては領収書も契約書も、ただの「つまらない紙」としてしか認識されていなかっただろう。彼が見つけたいのはあくまで「エロ本とか面白いもの」なのだから。そう、見つけだして笑って盛り上がれるものを探していたのだ。だから、コンビニで売られているようなエロ本ならば、「お前、なんだよこれー」とか言って笑って満足しただろう。だけれども、想定外のものが出てきたらどうしたんだ?


 想定外なものの例としては、こんなものがある。例えば同性愛者向けのエロ雑誌。あるいは当時まだ辛うじて合法だったペド写真集が出てきたら?さらにはあまりにも凄惨なグロ映画のDVDでも出てきたらどうする?あるいはどこかの新宗教の経典や創始者の写真でも出てきたら?私がもし他人の家でそのようなものを目にしても、反応しない。だが、自分が能動的に見せつけるように家捜ししているときに想定外のものが出てきたら、見なかったことには出来ない。
 もし私の部屋から「想定外の種類のアダルト雑誌」が出てきて、これを手に取ってしまったらどうするんだ?これまで通りの友好関係を維持できるか?それとも異常者として私を軽蔑し、恐れるようになるのか?そしてゼミで晴天は異常者だとでも吹聴するのか?私のセクシュアリティはヘテロだが、もしそうでなかったらセクシュアリティで人を差別するのか?そういうことを鑑みれば、「エロ本の家捜し」という行為はとても暴力的だ。自己と他者とはだいたい同一の性的嗜好であろうという何の根拠もない発想は、暴力を産む。
 ついでに言えば、当時の部では誕生日に望まれないものをプレゼントし合う奇習があり、しかも一定期間の保管が義務づけられていた。口に出すのも憚られる類のエロ雑誌を送られた者もいたが、もし私がそうした雑誌をプレゼントされていて、このとき彼に発見されていたら。どうなったか恐ろしい。


 あるいは宗教の経典が出てきたらどうする?あいつは宗教マニアだオ****教だとか、テロでも起こすのかなどと、信仰と信仰をする他者を貶めるのか?自分が盆もクリスマスも正月も法事もやる無信心な人間だとしても、他人も同じような見解とは限らない。「あいつは**教なんだってよー」と囁いたら、その場の人間に「俺も**教だ。それがどうかしたのか!」と言われる事象はここそこで目にする。こういう瞬間は気まずいし、何の根拠もなく「ここには**教はいないだろう」という前提で話す人間の無神経さは不愉快だ。日本における、宗教に対する無神経と無自覚な暴力はとても哀しいことだ。
 ちなみに私は、正月には神社へ行くし、祖父母の供養に寺へも行くし、クリスマスに行事めいたこともする凡人だ。ついでに我が家は葬式のときのみ寺に行く程度の浄土真宗宗徒である。だから宗教に関して影で、あるいは正面から何か侮辱を受けることはまずないだろう。だけれどもこの翌年の大学4年次には、私の本棚にある宗教の経典が加わった。アメリカに留学していたとき、仲良くなった宣教師に「どうしても持っていて欲しい」と渡されたものだ。私はその宗教を信仰していないけれども、無碍にもできなかった。だけれどもこのゼミ生がこの経典を発見したら、何を思われて何を言われたか想像もつかない。


 まあとにかく、私にとっては部屋を家捜しされたことよりも、他者と自己とはそう違っていないという寝ぼけた認識でもって、私の家から出てくるものを狭く想定されたことが不愉快だったわけです。自己と他者が違うことをわからない人間がこの世で何よりも不愉快だし、暴力的です。もし彼が私に「甚だしい相違点」を見出したら、どんな妄想を抱かれ、どんな不愉快なことを言われたかわかったものではない。
 だけれども、世の中には他者について狭い想定しか出来ない人間はとても多い。しかもそうした人間の中には、31-02のような「明確な答えを出さずにはいられない人」もしばしばいる。というか「無難」なものしか想定できないのだから、他者のことを知るのに躊躇する理由などないのだ。そして詮索の結果、相手の異質性に驚き、戸惑い、そして滅茶苦茶なステレオタイプを持って不当な扱いをするようになったりすることが、この「同質」妄想がはびこる日本では多々あるような気がする。自分のことを話せば異端者として迫害され、言わなければ「自分のことを隠す頭のおかしい、非友好的人間」として非難される場合、人はどういった選択肢をとればよいのか。
 この、グローバリゼーションと称する人・モノ・カネ・情報の高速度移動時代に際して、「清潔主義」とでも言うべき異質排除傾向が主に先進国でますます強まっている。特に日本がひどい。他者の受容どころか、他者性という概念そのものが乏しいんだから。これでは商売も外交も治安維持も行政サービスも何もかもうまくやっていけませんぜ。今世紀半ばまでに、1000万〜2000万の移民を受け入れるしかないと言われているこの日本。どんな闘争と不条理と暴力が渦巻くのか、とても怖いですよ。  


31-02
oxymoron

 私は撞着語法めいた表現をとても好んでいる。使うのも使われるのも。何故かというと、相反するように思われる表現を並べることは、書くこと話すことによる視野狭窄性を緩和してくれるような気になれるからだ。何かを言うと、それ以外のことを何も考えられない、それ以外の側面を知らない想定できないアホみたいな気になるが、相反するような事象を並べれば、ひとつのことを盲信しているわけではないような感じが出てくる。いや、撞着語法とは必ずしもそういうものではないのだが。


 そして私は傲慢にも、他者の知的レベルを図る試金石として撞着語法をしばしば使う。
 そこに於いて、「何だよお前、矛盾してるじゃないかよケケケケケ」のように、「矛盾」というコトバを出せば私をアホ野郎として認めることが出来、「私のアホさ」を指摘する自分が相対的に優れた人間になったかのような満足感に浸る人間を、私は決して対等に付き合える人間とは見なさない。「矛盾」というコトバをさも嬉しそうに出す奴は、他者が間違っているかどうかよりも、他者が劣っていて自己が優れていることの方を重視しているからだ。


 あるいは、「どっちよ!?」と驚愕の表情で叫ぶような人間はもっとタチが悪い。こうした人間は、突然私が路上で服を脱いで奇声を発して踊り出したかのような顔をする。つまり提示されたコトバの撞着に対して、「矛盾しているぞバカめ」と笑うことさえ出来ない。撞着を含んだコトバなるものがこの宇宙に本来発生しえないものであって、そんなことを口にする私は異常者にしか見えないらしい。
 さらに言えばこうした人間は、揺るぎない決まり切った世界でしか生きられない。撞着とか不確定性とか分類不能とかいったものがこの世にあるわけがないと見なしている。だからハッキリと決めつけられないものと出会すとエラく動揺する。WWII中の日本で開かれたイタリア民族音楽の演奏会に際して、「これはファシスト政権の歌か、それとも連合国側の歌か」と詰め寄った憲兵に対して演奏家が「どちらでもない古い歌だ」と応えると、激高して「どっちだ!はっきりしろ!」と怒鳴った憲兵がいたという。それを彷彿させる。もしこの音楽家が、「これはイタリア古来の歌だから、ファシスト側の歌でもありパルチザン側の歌でもある」などと撞着めいたことを言えば、憲兵は混乱のあまり音楽家をぶん殴ったかも。


 世の中既成の方法では分類できないことが多い。分類出来ていると思っていることでも、相反するような事象が同時に起きることもある。自然科学に於いてさえ、「矛盾」と言いたくなるような現象など満ちている。いや、「矛盾」などという語を使うアホな人間には「あり得ないこと」が起きているように思えるだけであって、実際には何も不思議なことはないのだが。しかしいちいちくだらん撞着めいた話法に対して「どちらか!?」と分類に惑い、分類しない他者を異常者としてしか見られないようなアホとは、決して付き合いたくないものです。
 だいたいに於いて、他者のセリフのちょっとした響きや印象でもって嘲笑したり惑ったりしかせず、内容について検証しない人間はバカです。学歴があろうとなかろうとバカです。こうした人間は、他者の言に撞着が内包されていなくとも、自分の狭い経験と言語能力に於いてありえなかったコトバの組み合わせを聞くと、その珍奇さに笑うか惑うかしか出来ない。こういう人間と長期間過ごし、さらにはこうした人間としか付き合うことがなくなったら。私の今まで人生がすべてムダになり、これからの人生が壊死したような気分なりますよ。付き合う人間は大切です。


31-01
今まで大丈夫だからこれからも大丈夫と見た

 親父の知人が交通事故に遭った。完全な十勝型事故。十勝型事故とは、何事もないと思い込んで信号機のない交差点や枝道から飛び出した車に、別の車が衝突する事故のことだ。今回は、小さな枝道からウィンカーさえあげずにいきなり飛び出してきたババァの車に、本線を走っていた親父の知人の車が衝突した。これはババァの完全な過失である。衝突したがそうスピードを出していなかったこととブレーキのおかげで、車が壊れるだけで両者ともに大したケガはしなかった。だけれども事故車の撤去・修理ないし廃車処分に伴う費用はかかる。親父の知人には何の落ち度もなかったのに突然発生した損失。ババァに賠償してもらうしかない。


 だけれどもババァは言った。
「今まで25年こうやって運転してきて、大丈夫だったんだけれどもねえ」
 なんつー発想か。自分に過失がないと主張するのは勝手だが、これはあまりにもひどすぎる。こんな発想に基づいて運転されてたまるか。これは、自分が今まで一度も死んだことがないから、これからも死ぬことはないと言っているのに等しい愚かな発想である。経験のみを根拠にした安全観念。私は経験至上主義者のこういうところが大嫌いだし、これは経験のみを根拠に行動されることの最も有害な面だ。今まで問題が起きたことがないから、これからも何も起きないなどという道理があるか!だけれども、こういう発想しか出来ない人って結構いるんですよ、これが。


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