last up date 2005.05.29

33-10
保留

 私は考える際、「保留」を重視する。どういうことかというと、情報を手にすると同時に確定情報として判定せず、ぼんやりとしたまま受け入れること、とでも言おうか。もちろん人と話すとき、それも仕事なんかで極めて明快な受け答えが必要なときは、自分の責任において断定形で述べる必要はある。しかし考えるとき、物事を見聞きする際に、不確定性を排除するのはよろしくない。


 わかりやすい例として、外国語の訳をするときを挙げよう。耳で聞く場合と文で読む場合の、どちらを想定しても構わない。こんな文章があったとする。
He usually books a room for me at a hotel.
 これは訳すまでもないが、「彼はいつも私のためにホテルの部屋を予約してくれる」というつまらない文だ。だけれども、booksが「本」という名詞の複数形か何かだと思っていては、なんのことだかさっぱりわからない。多くの人間にとって単体で「book」と聞いたら本(あるいは聖書)をイメージする。ネイティブだってそうだろう。だが非ネイティブの哀しいところは、学んで覚えたコトバの多義性に鈍感になりがちになるところだ。それでも、「このbooksはもしかしたら動詞の三人称単数形では・・・」と疑えばだいたいの意味を類推できる。しかし機械的に「book=本」のように丸暗記して、「bookは名詞であり本である」以外の解釈はないと信じて疑わない人間は、この文を訳せない。こういう人間の訳し方は決まっている。「he...は『彼』、books...は『本』!そしてa room は『部屋』!」と各個撃破しかできない。頭の中で日本語訳をせずとも、booksという語に対しては「本」の映像しか浮かばない。こうなってはどうしようもない。


 必要なことはとりあえず、「booksは十中八九名詞で『本』だろうけれども違うかも知れない」といった判断の保留をしながら最後まで文を読んでみることである。そうして文の構造を観て初めて、このbooksは動詞だと判断できる。揺るぎない確信をひとつひとつ築いて全体像を導き出すことは不毛だ。こんな簡単な文ならば、一語ずつ逐次訳しても問題ないかも知れないが、関係代名詞や関係副詞が重なり、接続詞か前置詞か迷うような語が並ぶような文になってくると、各個撃破戦法は破綻する。不確定性を保持したままなんとなーく読んでいってはじめてだいたいの構造を見抜き、その構造に於ける品詞を判断し、文脈における語句の意味を特定していける。それとて確定ではないのだけれどもね。
 ついでに余談だが、「単語1つずつに絶対的な意味を付与して、日本語と外国語とを完全に一致させて暗記している人間」なるものは学歴エリートへの批判文句ではない。なぜならば、こんなアホな読み方をしていては、大学受験のテキストさえもまともに読めないからだ。私の経験上こうした習性を持つ人は、体系的な勉強をしっかりしないで外国を放浪した人や、日本の外国人バーやなんかでネイティブと付き合っている人だ。こういう人々は簡単な意思疎通が出来るようになり、ヒアリングと発音がうまくなり、ついでにスラングをいくつか覚えただけで「自分は外国語を出来るようになった」と勘違いしている。意味や表現の揺らぎや多義性を無視してもどうにかなるようなレベルの会話しかできず、新聞も読めなければ議論も出来ず、仕事に関しては何の役にも立たない連中とも言える。こういう人々はヘタに自信を持っているから、自分の知っている単語の意味づけを疑えないんだろうかね。揺らぎや不確定性があると排除せずにいられず、一度何かを確信したら決して疑わないような人は、あらためて体系的に勉強しようとしても、なかなか身に付かないようだ。いやはや。


 わかりやすいから語学の話だけ挙げたけれども、確定を1つずつ積み上げて、不確定性があると気持ち悪くなり不安に駆られ、排除せずにはいられず、そして確固たる揺るぎない確信を求め、確信を勝手に見出したら信じて二度と疑わないような人は、母語に対してさえ誠実でいられないでしょう。ましてや、言語の共通性の高いスモールグループから一歩外に出ると、日本人同士でさえ自己と他者とがコトバに添付している意味や、コトバから覚える感覚、見出す意味がまったく違うかも知れないことを理解できない。そのため誤解や曲解のため不要なトラブルが起きてしまう。判断の保留しない人ってーのは、本当に私から観たら、付き合いにくい連中ですよ。  


33-09
倫理の低さか、法意識の問題なのか

 またしても飲酒運転のクズが大量殺人を犯した。これは酔っぱらって居眠り運転して高校生をはね飛ばした「事故」であって、「過失致死」としか称されない。もっとも危険運転致死傷とか、重過失とかいう表現も付くし、一昔前よりも罰則は強化されてはいる。だが、「事故」としてしか扱われない。しかし私はこういう事故を敢えて「殺人」と称します。アメリカならば「二級殺人」に分類される類の事故だ。こんなの未必の故意による殺人と大して変わらないでしょう。享楽や慣習の為に、人殺しの可能性を1%未満であってもそれを排除しないことに、何の正当性がある。


 私が前の会社を辞めた理由は複数で多岐に渡っていた。そして様々な偶然が重なったことによって、あの時期に辞めることとなった。だけれども、飲酒運転が恒常的かつ組織的に黙認されていたという一点の事実を鑑みても、それだけでも辞めてよかったと思うね。本当に。足腰立たない人間が記憶を途切れさせながらも飲酒運転したという「武勇譚」が、笑い話としてしか扱われない会社は異常だ。たとえそうした職場がよくありそんな人間がしばしばいようと、世間の多数派であったとしても、異常だ。数や割合の問題ではない。
 職場に於ける恒常的な飲酒運転を異常と称しているのは、必ずしもきれい事に終始しない。利益追求やコスト削減の為に人死にの可能性を容認するのならば、倫理的には許し難いことであっても、理解は出来る。しかしカネや社会的地位を得る為に集まった人々が、なぜ一銭にもならないどころか、利益や社会的立場を大きく損なう可能性しかない飲酒運転を行い、利益追求の為の結社である企業がそれを容認するのか理解に苦しむ。でも綱紀粛正は、大事故を起こして世間から叩かれない限りは行われないだろうな。


 共同体の規範や集団的問題解決が幅を利かせていた日本では、社会倫理が発達せず、法意識もあまり発達してこなかった。法に対して人々がダブルスタンダードな意識を持っていると、私は常に感じている。法は守る奴はアホで、法に訴える奴は大人げなく、法で裁かれるのは運が悪いだけだというような妙な意識が蔓延っている。けれども、法を超越したテーゼがあるわけではない。それなのに、「法よりも重要なものがあり、自分はそれを知っている」という漠然とした妄想のみがありがたがられているように思える。ただ自分の行動を縛る法規を軽視したいが為に。
 実際問題として、日本は守っても守らなくてもどうでもいい法が多い。そして破ったのを指摘されたところで穏便に済ませられてきた面もある。すべての法に従う必要はなく、従わなくても大事にはならないものも少なくはない。だからと言って、従わなかったら法によって重いペナルティを喰らわせられる規則もある。破ると、人を死なせるような重大な結果を招くかもしれない規則もある。飲酒運転なんかはまさにそれだ。


 誰もが飲酒運転が違反だということを知っている。見付かれば摘発されることも知っている。飲酒運転によってしばしば事故が起きていることも知っている。なのになぜそれをするのか。自分は優れた能力を持っているから大丈夫だと思っているのか。今までやっても何事も起きなかったから、事故なんて今後も起きるわけがないと思っているのか。それとも、誰も守っていない時代錯誤な速度規制と同様、守らなくても何も起きるわけがない無意味な法だと思い込んでいるのか。
 50km/h制限の道路を60km/h強で走っていても、それが重大事故の事故の決定的な原因にはまずならない。だけれども飲酒運転を犯した場合、アルコールで反射神経から動体視力、判断力までもが鈍っていたら、致命的な事故の決定的な原因になる蓋然性がある。どんな優れた運転能力を持っている人間でも、対応能力は大幅に鈍る。咄嗟の自体には対処が難しくなる。
 さらには、飲むのが微量ならば許されるわけではない。今まで、いつも「軽く」飲んで運転しても大丈夫だったとしても、そんな経験則に意味はない。いつもの運転では発生しない突発的な出来事に際しては、アルコールの影響により判断が遅れる蓋然性が高くなる。また、体調次第では同じ酒量でもより回ることもある。さらにはより大量に飲んでいても、「今まで飲んでいて大丈夫だったから」とステアを握るかもしれない。「微量だから大丈夫」「今まではこのぐらい飲んでも大丈夫だった」という経験則は何の意味も無い。そうした経験則に慣れて普段から飲酒運転の習慣をつけていると、「このぐらいならば飲んでいても大丈夫」という発想が、「酒を飲んでいても大丈夫」という妄想に移行してしまいかねない。仕舞いには、歩けないほど酷く酔ってもハンドルを握るようになる。とかく酔っているときには、人間は自分の状態に気づかなくなりがちなものだ。だから、たとえ微量であっても飲んだら乗らないことを習慣づけておく必要がある。


 飲酒運転を自己や他者の生命を危険に晒すと理解できない人間に対しては、強力な罰を忌避する条件反射をつくるしかない。つまり、より強力な罰則と徹底した取り締まりが必要だ。「飲んだら乗らない」のような、本当に守らなければ危険な違反に対してはピンポイントで、人生計画が大幅に狂うほど高額な罰金や禁固刑などの重罰を課してもいいような気はする。事故が起きてから危険運転致死傷で厳罰を与えても、「飲んでも何も起きない」と思っている人間には効かない。事故が起きる前に、摘発段階で厳罰を喰らわせることこそが有効だ。そこまでしないとわからないクズが跋扈している以上、それに対応した法規が必要だ。現在の飲酒運転・酒気帯び運転の罰則は軽すぎる。ドライバー・同乗者・飲酒行為に関わったあらゆる人間に対し、殺人未遂・殺人教唆に匹敵する厳罰を科するよう法律の改正が必要だ。


33-08
ゲマインシャフトぶるな

 今の世の中は、大衆社会だ。
 私も、私が知る他の如何なる知人も、すべて大衆を構成する名も無き個に過ぎない。


 産業資本主義の発達に伴って、工業が農村人口を吸い上げて都市化が進み、この人口構造の変化がそれまでの伝統的社会をぶっ壊した。それまで個々人は、小さな点在する村落の中の、大血縁集団の一員として存在していた。さらに言えば、家父長権や宗教・因習の元で統一性を取れていた共同体の中では、個々人の日常生活や仕事、家庭生活は、すべて共同体を貫く価値観の中できちんと位置づけられていた。そこの共同体に適応している限りは、心地よく安定した生活が出来たはずだ。
 だが、今はそうした統一的な価値観の中に人は生きているわけではない。大都市の中の繋がりに乏しい個として生きている大衆にとっては、決まったことをすれば他者から決まった評価が与えられるわけではない。自らの行為に自ら意義を見出すことさえ簡単ではない。それどころか、産業社会は高度の分業を必要とし、個々人は産業過程のごくごく一部分を担うにすぎない。さらに言えば、そうした労働は人間性を必要とせず、いつでも他の人間に交換可能である(注1)。すなわち大衆社会に於ける個々人は、巨大社会・巨大組織の中で人間性の疎外を覚え、自信を喪失していると言える。


 こうした状況下で大衆たる個々人が取りうる選択肢は、3つある。
(1)完全な自己閉鎖化
(2)強力な存在に依存して、フラストレーションの解消を図る。
(3)主体性を維持しながら人間性確保の為、組織集団を形成ないし加入する。
 (1)は、人が何をどう思おうが関知せず、自分なりの価値観・世界観を構築して、自分の行動や労働を意味づけて生きるということだ。これは一番簡単なようで非常に難しい。何故ならば、現代社会は他者との関係無しには生存することは不可能で、他者とのせめぎ合いの連続に際しながらも他者からの扱いや評価に無関心でいることは、情緒的に不可能に近いからだ。だが、それを実現できればこれほど楽で強固なものはない。
 (2)は、強力な指導者や政党に人間性疎外の解消の希望を見出し、そうした強力な存在に社会の変革を期待するということ。自ら進んで強力な存在に従いその一部となることを望み、行動も判断も託すこととも言える。ファシズムを生み出すのもこういう人間である。この手の人間は、自ら選択して強力な輝かしい存在に期待を掛けているようで、実は何かに自分を託そう、一体化しようと希望している段階で、マスコミ・企業等の作為的情報操作の影響を受けやすいとも言える。
 (3)は、組織集団を媒介に自らの人間性と自信の回復を図ろうとする方法である。例えば宗教団体や友達グループは、自己肯定を得る為の集団と言える。宗教団体からは揺るぎない世界観念の体系を得られ、同じ観念を持つ人間と共に自分の行動や周囲を取り巻く事物に意味づけすることが出来る。あるいは共通性を持つ人々とスモールグループを形成すると、共通の基盤たる趣味や思想といった人間性に対して相互の認証を得られる。また、経済的・政治的なより実際的な欲求に対しては、政党や圧力団体、労組、協同組合への加入とその一員としての行動こそが、目標に対して現実的な圧力を加える有効な手となる。しかしそうした組織集団が有効に働くためには規模と、組織行動を行うための官僚機構が必要であり、その集団内部ではやはり個々人は部分的人間として疎外を覚えるパラドックスに陥ってしまう。


 結論から言うと、大衆社会の中で人は概ね(3)を指向する傾向にある。(1)の方法を取れるほど人間は強固ではなく、(2)のうねりが出来る危険性は大衆社会にはいつでも存在するが、欧米で何の取り柄もない貧乏白人を引きつけるネオナチのような運動は、日本では今のところ見られていない。結局、何か拠り所を見つけるのが一番現実的なのだ。相互に人間性を認証し、帰属することに安心と悦びをもたらす有機的結合体・ゲマインシャフトを求めているのだ。
 だから人は、家族という都市化の中で限りなく小さくなってしまった血のゲマインシャフトに拠り所を求め、仲良しグループや趣味のクラブに拠り所を求め、あるいは宗教団体に拠り所を求める。そして、本来何かの共通の利益を求める為の集まりに過ぎないゲゼルシャフトまでもが、ゲマインシャフトたろうとする。会社や役所、政治団体といった集団は本来は経済的・政治的目的の為に、交換可能な部分的人間しか必要としないはずである。それなのに構成員の結束を図り安心をもたらす為に、ゲマインシャフトたろうとするのだ。血のゲマインシャフトの擬制さえされる。


 マルクスは、アジア的原始社会に於いては、全ての生産関係は家族を模されるとした。マルクスの言う「アジア的」とは「猛烈な遅れた、野蛮な」という意味の形容詞である。そして実際に、アジア各国は現在に至るまで、あらゆる生産関係(ここでは権力関係と言い換えてもよい)を親子や兄弟に見立てている。親方と弟子。兄弟子弟弟子。大家と店子。親分と子分。などなど。かつて日本は王権神授説と家父長権的家族思想を組み合わせて、全臣民を赤子、君主を家父長としていたほどだ。
 契約関係を家族関係になぞらえる意識は、今もまだ日本に生きている。マルクスは「遅れている」としたが、本来ゲゼルシャフトのはずの集団をゲマインシャフトたらしめることには大きな利点があるからだ。それは、組織を強固に出来ること。組織の構成員が家父長たる親父に従うように全面的に長に従い、長は構成員を子供のように慮る。構成員同士は兄弟のように支え合う。擬制がうまくいっていれば、これほど心地よい場所はない。組織が揺るぎない規範と思想に貫かれていれば、そこに存在し働くことに意義と悦びを見出しやすくなる。さらには構成員同士の意思疎通は高速化し、相互に協力することも容易になる。そして構成員は組織の為、長や他の構成員の為ならば、実の家族を守るように献身と自己犠牲を厭わず、命さえ擲つことであろう。


 だから、命を危険に晒し、高速な意思決定と意思疎通を必要とする小規模な職場の多くは、極めて強固なゲマインシャフトと化す。例えば漁船(注2)、町工場、軍や警察の小隊など。実際問題として、1年や2年で会社やセクションを転々とし、互いの名前ぐらいしか知らないような関係では、危険な命がけの作業を迅速に行うことは難しいだろう。だけれども、あまりに多くの集団に於いて、ゲマインシャフトが模されているところに日本の病理がある。厚い信頼関係にある船乗りや家族同然の町工場の親方と弟子ならばゲマインシャフトたりえるが、より大規模な社会はゲゼルシャフトにしかならないのに。
 繰り返すが、ゲゼルシャフトとは何かの目的だけの為に集まった集団である。会社や役所なんかは典型的なゲゼルシャフトだ。カネや社会保険を得るという目的、社会的地位を得るという目的、労働力や技能を提供して某かの自己実現を図ろうという目的。それだけである。それが会社や役所に入る目的であって、別に擬似的な親兄弟や仲良しを欲しているわけではなかろうに。だが、会社や役所もまたゲマインシャフトたろうとする。何故か。


 その理由は2つに分けられる。(1)組織強化の為。(2)構成員個々人が拠り所を求めている為。
 (1)の組織強化はわかりやすい。前述のとおり、部下が上司に絶対服従してあらゆる犠牲を厭わず猛烈に働き、しかも意思決定と意思疎通が高速かつ密ならば、従業員としてこれほど使いやすい連中はおるまい。実際問題として日本の企業は、契約関係を「血の通った関係」に昇華することによって、会社への帰属意識を高め、職場内人間関係を密にすることによって、雇用契約書になく労働基準法にも反する労働を実現してきた。実際には大して帰属意識もなくとも、ゲマインシャフトという擬制は個人の逸脱を許さない。こうして猛烈な残業が実行された。これが日本の経済成長の一因である(注3)。
 そしてだいたい同一の職場の人間が同じようなことを考えれば−というか上司や他の実力者の考えに部下が精通するようになれば−意思決定・意思疎通も高速度化する。かくして末端レベルでは議論の余地無く上意下達の労働体制が完成する。議論は権威主義的で保守化する一方だが、そのスピードは向上する。
 (2)は拠り所の問題だが、確かに交換可能な部分的人間としてのみ存在している各従業員に対して、上司が親のように親しくし、従業員同士兄弟や親友のように交流すれば、これほど心強いことはないだろう。しかも終身雇用で、長く付き合っていくと思ったらなおさらだ。上司・先輩とて、親切にしてやって、それで部下や後輩が慕ってくればこれほど嬉しいことはない。
 産業資本主義の発展段階に於いて、伝統的農村から集団で工場や事務所にИНКの子供達が就職した時代ならば、ゲマインシャフトの擬制はそれなりに機能していたのかもしれない。あるいは、学校がそこそこの読み書き計算の出来る凡人を企業へ供給し、職場に於いて徒弟制のごとく仕事と人間関係に慣らして同化させていく産業社会が未だ終焉を迎えていないうちも、なんとか個々人は擬制を甘受できたのかもしれない。一度いい会社に入れば、終身雇用で一生給与と名誉は保証されると思われていたのだから。けれども、ポスト産業社会に於いてはゲマインシャフトの擬制は通用しない。


 技術革新によって人・モノ・カネ・情報の移動が高速化したポスト産業社会。いかなる大企業と言えども明日の保証はなく、ましてや一従業員の雇用なんかはまったく保証されない。この中で生き延びるためには、技能を語学力を専門性を鍛え続けなければならない。もちろん前述のように、いかなる高度専門職でさえ明日をも知れない。しかしそれでも何もしなければ職場での価値は下がり、労働市場での価値は下がり、何かの拍子に容易に低所得者層に陥ってしまいかねない。そのリスクをヘッジする為に学び続けなければならないが、それにもカネがかかる。だから没落すると敗者復活さえも困難。
 一生安泰だと思えばこそ、会社の慣習に慣れ、上司の考えを読み、親戚ごっこ仲良しごっこにも付き合っていられたが、こんな明日をも知れない状況に於いては、会社のゲマインシャフトめいた慣習に付き合ってはいられない。自分自身が同一の職場の中でも労働市場の中でも生き延びるため、労働環境はますますゲゼルシャフト化する。それなのに、まだゲマインシャフトごっこをしていればそれでいいと錯覚した人間が跋扈しているから困りもの。


 こうした時代錯誤な人間には2パターンある。(1)時代が変化したことに気づかない古い人間と、(2)自分の拠り所を会社に見出そうとする人、の2パターンだ。これはそれぞれ、会社をゲマインシャフト化することの意義の(1)(2)と対応する。
 つまり、時代が変化したと気づかない人は、まだゲマインシャフトめいた擬制を行えば、会社の組織強化と団結を行えると錯覚しているわけだ。前述の通り、会社と心中するつもりがない現在の若い世代は、自分のキャリア形成と自己実現に対して役に立たない会社で、自分の人間性を会社に同化するよう求められたら、すぐに辞めてしまう。外でもやっていけると確信する有能な者や度胸のある者ほどすぐ立ち去る。
 そして会社に拠り所を求める人間は、家族のように友達のように部下や後輩と接すれば、自分自身が尊敬や信頼を勝ち取ることが出来、そして部下や後輩もありがたく思うだろうと思い込んでいる可哀想な人だ。ポスト産業社会の高速度化は、産業社会興隆期の都市化によるアトム化以上に、一気に人々の習慣や生活様式、思想信条、価値観の多様性を高めた。そんな中で、一緒に飲んで、同じような趣味を享受して、似たような話を盛り上げれば、会社でもいい付き合いを出来るだろうという錯覚は、哀しいだけである。
 だいたいこういう人間は自分自身が大衆社会の中で人間性疎外と孤独・空虚さに打ちひしがれているが、他者も自分と同じように会う人間もおらず、会社が終わってからやることもなく、孤独な生活をしていると確信している。しかし現代の若い世代は、大衆社会に於いて人が取り得る傾向の「(1)完全な自己閉鎖化」に、古い世代よりは近づいている。こうした層は、職場はゲゼルシャフトでいた方が好都合で、最低限の契約関係だけ保って責務を履行し、あとは家に帰れば自分の生活があるのである。それが趣味であれ自己啓発であれ家族や友人付き合いであれ、少なくともいつまでいるとも知れない会社で先輩・上司と馴れ合いをすることよりも、それらの人生に於ける優先度は高い。それに気づかずあるいは軽視して、親密な個人的な付き合いを権力関係に基づいて「社会人としての義務」と称して強要する暴力もまた、会社に役だったかもしれない人材の労働意欲を削ぎ、会社離れを加速する。


 何にせよこのポスト産業社会に於いて、血のゲマインシャフトめいた擬制を用いるような時代錯誤な会社は、いずれ内部から崩れて、淘汰されていくのではなかろうか。漁船とか町工場のような、小さな集団はどうか知らないが。


注1・・・現在のポスト産業社会に於いては若干産業社会とは事情が異なり、専門性を発達させた人間と、なんとなく読み書き計算が出来るような被熟練労働者との差違が拡大していく社会なのであるが、専門家でさえ代替可能であることには変わりがない(証券アナリストや情報技術者のような、所得水準でも自己実現の面でも高位と見なされていた人々でさえ、労働市場の全世界化の潮流に際しては突然容易に解雇され得る)。
注2・・・漁港釧路で育った私は漁船員を何よりも恐れている。場末のケンカで敵に回して怖いのは、そこいらのちんぴらヤクザなんかよりも漁船員だ。何故ならば鉄の団結を持って命掛けで仕事をしている船乗りは、仲間1人がぶん殴られたら絶対に引き下がらない。血のゲマインシャフトを気取っているが実際はカネの繋がりに過ぎない極道者にはマネが出来ない所業だ。しかも蛇足だが、漁船員の筋力体力はあらゆる職業の中で最高レベルにある。酒タバコに現を抜かし、楽して儲けようとし、歩くのも面倒くさがっているようなチンピラなんかとは戦闘力が違う。
 そして漁船の船頭は、政治学を心得ている。もちろん学校に行って勉強したわけではなく、肌で支配の正統性と認証について知っている。船頭は常に規範たろうとし、そして利益や快楽を決して独占しない。徹底的に希少資源の配分を公正に行おうとするのだ。だから船頭と船員は、単なる厳しい上下関係なんかではなく、本当に信頼と尊敬に基づくゲマインシャフトなのである。だから怖い。
注3・・・日本と対照を為す(西)ドイツは労働時間を極めて厳格に制限し、雇用契約と法が定める以上の労働はあり得なかった。小売店でさえ、店舗従業員の労働時間を長くしないように連邦法によって閉店時間が定められていたのは有名な話である。その程度の労働時間で世界2〜3位の経済大国となれたのは、ドイツはよほど合理的なシステムを持っているのか・・・。日本人の労働観には衝撃的な事実である。


33-07
知れば団結できるのか?

 どっかの会社で個人情報保護法施行への対応として、社内報に載せる新入社員アンケートに「記入は任意」の文字を入れたという。それに対して1人の社員が白紙で提出したら、社内報を作る部署は「仕方ない」と思った。だが、この社員の配属先は彼に精神的リンチを加えて、結局書かせたという。曰く、「仕事はお互いの全てを知っていなければできない。互いを知ってこそ息が合う。わがままは許されない」と。
 まあ、アンケートぐらい別に書いても書かなくてもいい。書かないとまずいのならば当たり障りのないことだけ書けばそれでいいような気はする。けれども、「全てを知っていれば息が合う」というコトバには欺瞞を覚える。そして「書きたくない個人情報を隠すのはわがまま」とする発想も理解不能だ。


 というのは、「互いのことを知れば息が合う」というコトバは、どんな奴が来ても受け入れる懐の深さを示しているわけではなくて、受け入れられる範囲内でのみ受け入れるという、人間への想像力・想定の狭さを示しているように思えてならない。もしこの新入社員がゲイで、アンケートの恋愛についての意見を書かせる欄にゲイだと書いたら、絶対に息が合うどころか迫害されるだろう。ゲイだと知らなければ息が合ったかもしれないが、知ったら絶対に息が合わなくなっただろう。
 セクシュアリティほどのことでなくても、例えば変わった趣味をしているとか、出自が珍しい、家庭環境が特殊、あるいはこの会社には珍しい学歴職歴だということが部署で広く知れ渡ったら、理不尽な態度をとられたかもしれない。中傷されたかもしれないし、無用な同情をされたかもしれない。同化の暴力を受けるかもしれない。あるいは、想定範囲外の人間に対して、部署の既存の人間の方がどう対応していいか分からず、ますます息が合わなくなったかもしれない。異質な存在に対してこの日本社会はとても不寛容で、「差別はいけない」とか言いながらも無自覚に差別をするような人間がとても多い。
 仕事での同僚なんて、契約関係以外の何者でもない。知る必要があるのは資格・立場・能力ぐらいなもの。なんでまあ、家族ほど思い合うつもりも受け入れる覚悟もないクセに、全てを知れば団結するみたいな気持ちわるいことを言うのかね。


 私はこういうすべてを家族に模すような、マルクスの言うところのアジア的原始社会には、入りたくないね。会社に何を出来るかよりも、どれだけ周囲とアイデンティティを同化させられるか、どれだけ一体的な行動をとるかが重視されるような職場はクソ食らえです。そんな職場は、一貫して同じ地域で生まれ育った、同じような階層の出自で、同じような思想・生活習慣を持つような人間にとっては、天国なのでしょうけれどもね。しかし平均値よりも若干高い階層の出身で、ヒエラルキーでは上位の大学を出て、ついでに受け入れられることの少ない思想を持ち、マイノリティーな趣味を享受している私にとっては、絶対的に自己批判して完全に同化する以外に共存方法が存在しないドン百姓とは付き合いたくないのですよ。
 さらに言えば、今までの人生で勉強にもスポーツにも芸術にも学生活動にも全力投球してこなかった人間にとっては、職場に同化するのは容易いことだ。何しろ今まで何も築いてこなかった人間は、何をしても得るばかりなのだから。しかしもし職場の人間が怠惰で堕落したドン百姓ばかりだったら、築いてきた人間がそうした連中に同化しなければならないのは悪夢以外の何者でもない。私程度のレベルであろうとも、今まで培った知識・教養・品格・作法、さらには運動能力・健康さえも棄てなければならないとしてら、これほど虚しく哀しいことはない。
 同化強要社会は不愉快だが、もしどうしても同化しなければならないとしたら、少なくとも自分よりも優れた人間集団に同化したいものでありますよ。今後同化させる以外に他者を持てなす方法を知らないようなクズ職場に入ることは永久にありえないのではあるが。


33-06
なんでこんなことにカネを出すの

 彼には失望した。彼が、ここまでアホだとは思わなかった。その人物は、貧乏根性・僻み根性の持ち主。不幸な生い立ちで苦労をして生きているから自分は優れていて、恵まれて楽をしてきた連中はクズだと思い込んでいる人物だ。自分に都合の悪いことや他者からの注意・勧告はすべて「学歴がないから差別されている」「貧乏だからこんな扱いを受けている」と差別にすり替え、あるいは「親のカネで大学行ってたような奴だからこんなバカなことをいう」のように逆差別にすり替え、自分が他者に迷惑をかけても気づかず省みず、自分の能力・技能をさらに伸長させるチャンスさえも逃している。だからこの人物については前々からアホで不愉快な奴だとは思っていた。


 だけれども、もう少しマシな奴かと思っていた。私は人を見る際、能力を重視する。例え善良な人格な持ち主であっても、ものの分からない人間は話にならない。だから多少人格的にイカれていても、話の理解が出来る人間はそれなりに重んじてきた。彼は前述の通り、自分の方法論を疑えない人間なので能力・判断力には限界があるが、それでも私はある面に於いては彼の能力を高く評価していた。それに、苦労しているからエライとか、苦労しているから人格・能力に優れているなどとバカげたことは言わないが、苦労して苦労して、それでも知的能力を磨いて躍進しようという姿勢には敬意を持っていた。だから私は、彼よりも私が恵まれた境遇であるというだけで様々な侮辱を受けながらも、それを看過してきたのだ。


 彼はカネに苦労している。親がクズで、進学の補助どころか実家に居ることさえ許されず、しかもアパートの保証人にさえなってもらえない中、単身東京に飛び出してきた。働きながらボロアパートに暮らすだけならばそんなに珍しいことではないが、働きながらも常に学ぶことを忘れず、学費の為に文字通り寝る時間さえないほど働き、ほとんど寝ていない中で学ぶ生活を何年も続けている。実際問題として、高校を出るときに大学の学費を親が出してくれれば、彼はもっとマシな生活を出来ただろうし、もっと能力を伸ばせて条件のいい仕事を得ることも出来たかもしれない。
 だからと言って、親の補助で大学を出たことを恥じる必要はない。今の世の中、社内研修でさえ「自己責任」の美名の下に有料研修を課す企業さえ存在する時代。家にカネがある人間とない人間との差違が極大化していく時代。親が教育にカネを出せない/出さない家の人間には非常に辛い時代なのだから、親に学費を支援されることを他者にとやかくま言われることはない。親にだけ感謝していればよい。


 それはともかく、彼はこんな時代になんとか自分1人で能力を鍛えようとしている。その苦労は凄い。繰り返すが私は苦労をしたというだけで評価なんかしないし、苦労している人間を贔屓したりはしない。だが大学でも会社でも、とにかく楽を追求し、些細な努力も忌避するクズと何人も出会してきた。愚鈍に飲みたいだけ飲み、博打に風俗に有り金浪費し、食いたいだけ食って、歩くことさえ面倒くさがって肥え太り、何の目的もなくただ日々過ごすような人間は観測するだけでつらい。そうした連中に比べれば、彼のように一生懸命勉強し、勉強するために働く人間は、多少腹が立つ面があっても、まだ付き合いやすかった。


 だが、そんなにもカネに苦労して、カネの条件の差違を根拠に「不幸の優劣関係」を濫用して、カネのある人間を罵倒して生きてきた彼が、こともあろうか何十万という大金を騙し取られているのに気づかないのは解せない。得体の知れない不法滞在の水商売の女性と仲良くなって、ある日緊急にカネがあるから助けてくれと言われ、何十万という虎の子の、血ヘド吐いて地べた這って稼いだ大金を渡した。すると女は礼も言わずに消えて、電話さえ通じなくなった。なんてバカなことを。しかも騙されたと疑いさえしない。
 当然のことながら、職場で「お前は騙されてるんだよ」と言われたそうだが、彼はそれを「自分をよけい働かせる為の、悪辣なコトバだ」として職場の人間を散々人格批判していた。彼の職場はヤクザ仕事なので、非道い労働条件でコキ使われ、上司がクズなのは事実だろう。だがそれでも「余計働かせるために、『騙されている』と言われた」という発想が理解できない。とにかく働かせたいのなら、「お前は騙されている」なんて諫言せず、カネの掛かる女につぎ込ませて置いた方が、ますます牛馬のように働くではないか。


 別に、人生の最大目標を異性関係だと思おうと、どんな条件下にあっても異性づきあいしたいと思おうと、そんなことは当人の勝手だ。だけれども、カネをつぎ込まされるような女や、まして大金持って消えるような女と付き合うのはいかがなものかと。どんな稼ぎのいい人間だろうとカネを騙し取られたと聞いたらアホだと思う。けど、カネに苦労し、カネの為に文字通り寝ない生活を何年も続けて、カネのない自分の境遇を呪い、親の支援で大学に行けた人間を中傷してきた人間が、そんなあやしげな女に簡単にカネを払うなんて!女と付き合うのは勝手だが、とにかくカネをふんだくろうとする女と付き合って大金を渡していられる状況ではないでしょう、あなたは。
 彼は決して好感の持てる人間ではなかったけれども、私はその野心と執念には一目置いていた。カネを1円たりともムダにすまいとする態度には、ときどき辟易することもあったけれども、彼の一生懸命さはそれなりに刺激になっていた。だけれどもこれかよ。過酷な人生を熱烈な歩みで踏破してきた人間が、世の中の裏と人間の欲を垣間見るやくざ仕事をしてきた人間が、どうしてだまされ、カネを払う!はーあ。ガッカリですよ。今までは彼に対して不快感と畏怖の2つの感情を持っていたのだが、どちらも萎んでしまった。本当にガッカリです。


33-05
危機意識

 「市民が自衛」と聞いたら西部劇のような時代錯誤だと述べ、「海賊が出た」と聞いたら冗談だと思い、「民間軍事会社」といったら理解さえ出来ず、説明したらSFかと勘違いする。なんでこうも、安全と危険に対して鈍感でいられるのかね。


 毎日、新聞をちゃんと読んでいるだけでも、警察力の弱い社会/あるいは警察力の隙間に於いては市民が自衛をせねばならず、それにビジネスチャンスを見出す企業が数多く存在していることはわかる。警備業は、日本で有数の成長産業のひとつだ。ついでに子供用防刃防弾着は日本でしか製造されておらず、輸入の申し込みが海外業者から相次いでいるのだが。「市民の自衛」と聞いて「西部劇」としか浮かばない人間は、「法治国家」とやらだったら犯罪は起きず、あるいは警察力で全て対応でき、司法によって全ての被害が救済保障され事態が解決するとでも言いたいのか。とんでもない。警察力には限界がある上、失ったものはどうにもならないから自衛するんですよ。


 マラッカ海峡が海賊の危険地帯で、海上保安庁が各国海軍・沿岸警備隊と協力して演習を繰り広げていることぐらい何度も報じられているだろうに。インドネシアはティモール問題等に対する人権侵害で武器輸出を制限され、インドネシア軍は海賊対策用の船舶・航空機の交換部品・弾薬にさえ事欠き、ロシアへ接近していることだって、海賊がどれだけ深刻な問題かを伺わせるのに十分なニュースだ。海賊って、「宝島」や「キャプテンハーロック」みたいなならず者じゃなく、不要な交戦避けつつも素早く船を制圧し、目的の為に人質を選別し、ハイテクタンカーを操る技術まで持つ現代的な犯罪集団なんだから!


 それに「民間軍事企業」だって、アフリカの資源開発に関する記事を注意深く追っていけば、その存在と重要性に気づくはずなんだが・・・。さらにはイラクなど紛争に関連するニュースでは、「民間警備会社」とかいう遠回しの表現が今までだって何度も出てきた。そうした会社を、特殊警棒と散弾銃だけ持った警備員だと思っていたのか?


 平和と安全について考え語るには、武力と犯罪の在り方についてよく知らなければならない。武力と犯罪について知らずして、平和と安全を語るなどと言うのはまったくもって無意味だ。妄想に過ぎない。さもなければとても抽象的な理想論に終始する。そんなものでは平和にも安全にもならん。あーもう。


33-04
間違った吝嗇

 安く辞書を買う方法にこだわるのは構わないが、辞書を買い惜しみするのはどうかと。語学やっていくのには、辞書は不可欠だ。それも一種類ではなく複数種類必要なのは言うまでもない。ロシア語のような従事者が少ない語学だと、国内で出版されている全ての露和辞典を所有する必要さえある。まあそれは専門家レベルになってからでよいが、少なくとも学習者としても中級以上になると、コンパクトな学習辞書ではなく、もっとも分厚く語彙数の多いものが最低1冊は必要だ。これは不可欠である。ないと話にならない。これをケチる奴はどうかね。


 確かに辞書は高い。語彙の多い分厚い代物は発行部数が少なく、ロシア語となるとなおさら少ない。だから高いのだ。6000円は下らない。6000円は高いよ。私の昼飯30食分だ。朝飯ならば100食分を超える。だが必要なものは必要だ。ネットオークション古本屋で探せば、少し判は古く状態がわるいかもしれないが、それでも半値ぐらいで手に入る。安くする努力をすることなしに、屁みたいな薄い辞書でどうにかしようとするのはどうかね。どうしても3000円も払えない、払うと餓死するというのならばともかく、どうにかして捻出できるのならば捻出すべきだ。こう言っちゃ悪いが、辞書も買えない人間には語学は出来ない。勉強はカネが掛かる。だが、1度買えば何年も保つのだ(何年かしか保たないとも言えるが)。そのぐらいの投資が出来ないということはないでしょう。


 考えても知らない単語は頭に思い浮かばない。いくらネイティブと渡り合っても、ちょっと聞きかじった単語は、ネイティブに説明させたところでよくわからない。だから辞書は不可欠なんだけれどもね。どうしてそれがわからん奴がいるのか・・・。どれだけカネに困っているかは知らんが、自分に投資する意思もないような奴が能力を伸長させられるわけはない。ケチなのは別に構わないが、カネの使い道を間違えないようにはしたいですね。


33-03
いいかげんよしてくれ

 いつからこの恣意的な区分が流行りだしたのかは知らない。流行そのものが恣意的に拡大されて、商売のタネにされていることもどうでもいい。ただね、私は二元論もこのコトバそのものも不愉快なのですよ。だから、私との会話に於いて「勝ち組・負け組」という寝言を濫用するのはやめてくれないか。私は二元論に固執する言動も、誰は「勝ち」だ誰は「負け」だと判定せずにはいられない脅迫観念的な発想も、聞くと吐き気を抑えられない。しかしまあ、当該人物は私が嫌がることをやれば冗談になると思うような人物。ただの嫌がらせ的冗談であってくれれば、それはそれで不愉快だが、まだ我慢できる。しかし私が長年友人として付き合ってきた人間が、もし半ば以上本気でこんなアホなことにこだわり、自己と他者を安っぽくラベリングしなければ気が済まないような愚かな脳髄をしているのならば、これほど哀しいことはない。


 日本は階級社会に近づきつつある。貧乏人はその地位から抜け出しにくく、貧乏人の子供はやはり貧乏になってしまう構造が固定化されていく。この認識自体はそう間違っていないだろう。ただね、今そこいらで聞く「勝ち組・負け組」って区分は、階級・階層区分を表すコトバではない。あまりにも表層的すぎる。
 所得が高い仕事をしているという意味に於ける「勝ち組」とやらも、いつ凋落するかわからないのがポスト産業社会だ。アメリカの大学院で情報技術や金融工学の学位を取得した専門家だって、よりコストの安い外国人に仕事を奪われることがある。大企業に入社して大事業や先端技術開発に携わったところで、10年後15年後に何らかの事情で計画が頓挫すれば、社会に出てからの実務経験すべての価値が大幅に減退してしまう。つまり、必勝策がないのがポスト産業社会だ。
 今の世の中、人・モノ・カネ・情報の移動があまりにも高速度化し膨大化し、個人には予想さえほぼ不可能などうしようもない力学が渦巻いている。ちょっと名の知れた会社に入った、難易度の高い資格を取得した、という程度でこれからの人生が半永久的に順風満帆であるかのごとき妄想をするなんて、発想が20年古い。だから「**社は『勝ち組』、**資格取得者は『勝ち組』」とかいうコトバはアホすぎて、私の友人に吐いて欲しくないのですよ。私が「友人」と呼ぶ人間は例外なく、その見識を認めている人間だ。そういう人間には例え冗談でも、バカな二元論を言って欲しくない。傲慢な希望かもしれないが、マジで願う。


 さらに言えば、個人の幸福と所得・肩書とは必ずしも一致しない。そりゃあ、生きるためにはある程度の収入は必要だ。だけれども、ある程度の生活を出来るラインさえ割っていなければ、個人の適性や人生観に依ってこそ、幸福を判断すべきだ。ここに於いても、所得と安定性を基準に幸福を判定するがごとき「勝ち組・負け組」という区分けはナンセンスだ。
 これはきれい事でもなんでもない。私の知人の中にもまあまあの仕事についたけど、適性が合わないのか労働環境が劣悪なのか、明らかに精神を病みつつある人間を知っている。彼が明日ホームから飛び降りても、上司を鈍器で殴り倒しても、突然どこかへ失踪しても、私は不思議に思わない。彼が自分の死や世界の終焉を願うような文言を吐きながらも会社を辞めていないのは、とても不幸なことだ。こんな人生が『勝ち組』なのか?会社の「格」と「給与」で言えば、世間では「勝ち組」と呼ばれる仕事なのだが。


 彼には一生は続けられまい。生きるだけならば仕事も、仕事以外の方法(一時的なものだが失業保険とか)もいくらでもある。それなのに彼は辞めようとしない。彼の技能と資格を持ってすれば、会社の格は下がるとは思うが再就職自体は容易な筈である。いや、例え転職が難しくても、数ヶ月も自らの死を願い続けるよりは、転職活動をした方がマシなのではないのか?失業保険を申請できる期間働いたにも拘わらず、「死ぬほど」嫌な仕事を彼が辞めていないのは、「辞めたら『負け組』に成り下がる」「今以上の『勝ち組』会社には入られない」という意識のせいもある。
 だけれども、辞めてしまえばそんな区分に何の意味もないことはよくわかる。かつて「負け組」と見なしたような会社に再就職してみれば、よくはないにせよ、それほどわるくもなかったりもするものだ。新卒で入った会社を辞した転職者を何人も知っているが、次の会社の方が格では劣るが長く続けられると言う人間は多い。新卒時に会社を選んだときの自分と、会社選びに失敗した経験を持つ自分とでは、後になる方がすぐれた見識を持っているのだからこれは当然の結果だ(もちろん次の会社でも迫害や不正などに遭い、何度も転職を余儀なくされた不運な人間も知っているが)。自分自身の経験や転職者の話、そして二元論の狭間での苦しみを持っている人間を鑑みると、罪深いですよ。「勝ち組・負け組」という二元論は。


 だからね、聞きたくないんだよ。二元論そのものも不愉快だが、「勝ち組・負け組」というコトバもまた不愉快だ。そんな区分が当たり前に存在するかのような前提の発言は、あまりにもアホらしい。ちなみに、こういうことを書くと「お前がその『負け組』だから、このコトバを批判するのだろう」と言われそうだ。だが、私にはあんまり関係のない区分なのですよ。オフラインの知人が意外に見ている(らしい)このサイトで、あんまり長期計画をバラせないが・・・。


33-02
選び選ばれ

 私が他者と付き合うに当たって重視することは、知性と出身階層だ。


 もちろん、何よりもいい人間と付き合いたいのは言うまでもない。しかし、善良な人間が的確に物事を判断するかどうかは別問題だ。冷徹に見える人間が他者の利益を擁護していたり、親身に他者と当たっている人間が全体の利益を損なっていることなんかは、よくあること。他者の利益になることをやっているのにも関わらず、他者を蔑ろにしている邪悪な人間のように言われるのは哀しい。また、問題構造を保存しようとしている人間が、ただ酒飲んで楽観論を言っているだけで、皆のことを考えて物事をよくしようとしていると錯覚されるのも快くない。自分の行為や態度を不当に批判し、あるいは不要な賞賛をする人間とは、付き合うのが困難だ。だから、表層的なイメージだけで簡単に物事を決めつけず、物事がどういった力学で行われているか、どういった事象が何を引き起こしているかを見る能力のある人間とこそ、付き合いたいものです。
 蛇足だが、ここでいう知性とは「学歴」のことを意味しないので悪しからず。大学時代にも表層的なイメージでしか物事を考えられない人間は多かった。もちろん優れた人もいたけど。一方、卒業後に出会った他学歴の人々にも扁平なイメージで人の善悪を判定する連中は少なくなかったが、素晴らしい判断力を持つ人もいた。ここで言う知性は学歴には関係ない。


 さらに言えば、出身階層も重要なポイントだ。日本は階級社会の完成に近づきつつある。所得格差は広がることはあれ、縮まることはない。生活習慣さえ階級ごとに分化しつつある。だけれども、それがわからない人間は多い。他者と会えば、相手が自分と同程度の生活をしていると思い込む人間のなんと多いことか。こうした人間は、他階級を金持ちあるいは貧乏人として誹謗中傷すれば、盛り上がれると確信している。他階級の人間がこの世の悪の原因であり、他階級の人間は人格的にテリブルに決まっているという前提で話をすれば、話が説得力や面白みを帯びると思い込んでいる。こうした人間が批判する「金持ち」は底なしの金持ちではなく私程度の階層のことだったりしたら、どう対応していいか。さらに言えば、成功者を貶め、金持ちを嫉む精神は不愉快だ。 
 何にせよ世の中には、自己と他者とが違うことを認識できない人間や僻み根性の持ち主が跋扈している。その中から付き合う人間を選ぶときは、同階級、さらにはその中でも概ね同じ階層の人間を選べば、不当に貶められる危険や絶望的な認識の齟齬をある程度避けることが出来る。もちろん自己と他者との差違を当然の前提と見なし、差違を許容ないし看過する人間と出会えればそれに越したことはない。だが、そうした人間はとても貴重だ。だから知人友人を得る為には、同階層の人間を捜すのが簡単なのだ。そのため私の友人の出自はある程度傾向を見出せる。


 ということを口頭で言ったら、大抵は「なんてひどい奴だ」と言われそうだ。知性と階級で人を選ぶとは、なんと悪辣な行為か。思い上がった凄まじい差別だ、と。けれどもこうしたことを口にする人間で、出自や所得、さらには学歴の分け隔て無く、多くの人間と付き合っている人間を私は1人も見たことがない。そこいらに様々な人がいるのに、やはり似たような人間同士で固まるばかりだ。他者が学歴や出自で大きく違うと知った瞬間に、態度を豹変させる人間も少なくない。所得が高い・高学歴だと知った瞬間に、殴りたくなるようないやらしい声で何の脈絡もなく嫌味や侮辱を浴びせる人間もいる。
 他者を差別し選んでいる点では私もこうした連中もそう変わらないだろう。もっとも私は、正面から学歴や所得を根拠に相手を貶めるようなことなどしない。いや、私よりもアホな人が存在したところで、私が優れているという根拠にはならんが。
 まあ、こういうよくわからん人々が世の中に多い以上、数少ないすばらしい見識を持った人間を選ぶよりも、同階層の人を選んだ方がつきあいやすいのは確かだ。


※後日記

 今回はちょっと書きすぎた。大学卒業後に私の周囲に跋扈する人間の中には、中学卒業以来身近にいたことのないような種類の人々が少なくないのですよ。こうした連中から言われなき不当な扱いを明けることがしばしばあるので、数年に渡って怒り狂ってるわけで。そして大学の卒業式以来、「同階級」の人間が身近にはごくごく僅かしかいないのです。それが私にとっては、3年以上に渡って忸怩たるものを生み出す最大の温床となっているわけでして。
 私が言う「同階級」に、高校時代・大学時代の知人友人は全員含まれているので、この時期に私と交友のあった人々はここの文言を気にしないでくだされ。上の方で学歴差別的な色彩を抑える為に「学歴と知性は関係ないこと」は念を押したが、実は「階級」の視点に於いては「学歴」は「階級」に含まれます。だからここでの記述は、高校・大学時代程度の共通性がある人々と一緒に働くなり学ぶなりしたいということです。


33-01
労使のどちらがいいとかわるいとかいう話ではない

 私の身の回りに会社員も公務員もいなかった。だから私は、サラリーマンの人生についてよくわからんで育った。ここに於いて、「金持ちの坊ちゃんだったのか、そりゃ世間知らずで苦労なんか知らんだろう」とは言って欲しくはない。サラリーマンでないことは金持ちを意味しない。さらに言えば、私は確かに「サラリーマンの苦労」はさほど知らないが、幼少期から別の苦労は垣間見てきた。サラリーマンは会社が潰れても再就職活動をすればやり直せる(かも知れない)が、個人保証をしている債務者は、いざというときには便所のスリッパからガキの玩具まで何もかも差し押さえられる。これは誇張でも何でもない。
 だから私は幼少期から、深夜に帰ってくる父の雰囲気に神経質だった。もし何かあれば破滅だとわかっていたからだ。扱っている商品に問題があったときには、私は夜逃げさえ覚悟した(まあ実際にはよくある程度の瑕疵だったのだが)。10歳やそこいらのガキがですよ。もちろん逃げてどうなるものではないし、逃げられるものでもない。本当に追い詰められたときに実際にできることは夜逃げではなく自殺なのだ。地元の知っている経営者の中には、死に追い込まれた者が何人かいる。生命保険の自殺だと支払いをしない期間が過ぎるのを待ってから、自決した人間もいる。この人とは挨拶ぐらいしたことはあった。息子も知っていた。だがこの人は、負債を返済し従業員に給与を払う為に、命を張ったのだ。


 サラリーマンの家庭に育った子は、父が理不尽な目にあったとかクビになりそうだと言えば、神経質になったかもしれない。もちろんサラリーマンにはサラリーマンの将来への不安と過酷さがある。けど、何もかも奪われる恐怖を、家中のあらゆるモノから場合によっては命まで取られる恐怖を、サラリーマン家庭の子は現実的なものとして抱いくのだろうか?そもそも、経営者が何もかも失う可能性を常に秘めていることを認識しているのか?子供時代のことはともかく、ある程度の年齢になってさえこうしたことに想像が及ばない人間とはしばしば出会す。私は経営者の息子だというだけで、「苦労を知らん」などとと幼少期から現在にいたるまでしばしば言われるが、他者に苦労がないと決めつける発想にはうんざりですよ。ましてや、「経営者」と聞けば「安楽で、高い収入を得て、豪邸に住んでベンツ乗っている人」のような貧しい、子供向け漫画の金持ちみたいなイメージしか持てない人間に、「経営者の子弟だから世間知らずだろう」などと言われたくない。
 もちろんサラリーマンにはサラリーマンの苦労がある。それは大変過酷なものだ。私自身がサラリーマンになり、知人友人の圧倒的大多数もサラリーマンとなって、嫌でもわかるようになってきた。だが、その苦労は経営者のものとは種類が違う。種類が違うと言っているだけで、どっちが甚だしいと言っているわけではない。だけれども、どうにも子供時代はもちろん長じてからも、「種類の違う他者の苦労」について、あたかも存在しないかのように捉える発想が蔓延っているように思える。所詮、労使は対立するものであり、対立するもの同士のは相手方について慮ることが難しいのだろうか。


 さらに言えば、なんらかの業界や企業の話を切り出しただけで、文脈に関わりなく「あの業界はキツい」「あの会社は給与がよくない」「あの業界/会社は、負け組/勝ち組」と勤め人にとっての条件や艱難辛苦の程度を真っ先に提示されるのもどうかな。自分がそこに就職活動をしようとしているのならばともかく、ただの経済情勢への世間話をしているときにそんなことばかり言われては、労働条件の話に終始してしまう。
 今の世の中、多くの人間はサラリーマンであるので、自分がそこで働いていなくても、どうしても労働条件が気になるのは無理からぬことではある。けれども、その視点だけで企業や業界を語り切った気になるのはどうだろうか。ましてやそこに勤めることが「勝ち組」だの「負け組」だのといって、勤め人の条件としても安易な二分論を持ち出すに終始するのは。


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