last up date 2005.06.22

34-10
空想的な理想論はクソ食らえです

 敢えて過激な書き出しからはじめる。私は、トラブルの最良の解決法は相手を殺すことだと思っている。もちろんトラブルを起こした相手を殺したことは、幸か不幸か今まで一度もない。だが、「こいつさえぶっ殺せば安心して生活を送れるようになる」との思いを抱いたことはないこともない。殺っていないのは、リスク対効果が見合わないからだ。人殺しをしても司直に裁かれず、世間の噂にもならないとの確信を持てさえすれば、執拗に自分や家族の財産や心身を害しようとする奴に狙われた場合、私は殺るね。ましてや、今まさに私や家族に刃や銃口を向けようとする奴がいたら、イスでも消火器でもあらゆるモノで抵抗してぶち殺すね。殺さないと、いつまた何をされるかわからないから。


 ということを口にしたら、なんて邪悪で自分勝手なクズ野郎だと思われることでしょう。そして実際に、私を明日にもつまらん理由で人を殺しかねないクズだと思っている人間も実在する。このステレオタイプで注目すべき点は、「つまらん理由で」の部分だ。私はトラブル解決の為、自己防衛の為ならば、と言っているのだが。どうも人殺しを絶対否定せず肯定的に口にすると、快楽や私利私欲の為に人の生命を踏みにじるクソ野郎と一緒くたにされるらしい。とても不思議なことだ。人を殺人狂呼ばわりする人間は必ずしも人命を至高の存在と捉えているわけではなく、戦争、死刑、警察官の銃使用、妊娠中絶、尊厳死、幹細胞研究といったものに対しては部分的には賛成することもあるからますます不思議だ(私は初期の受精卵を「人間」とは見なしていないが、もし人命を尊ぶ人が受精卵を「人間」と見なすのならば、幹細胞研究に反対せねば道理に合わない)。


 私を異常者として扱いたがる人々は共通して、次の3点を見逃している。

(1)私は別に、人殺しを奨励しているわけでも愛好しているわけでも何でもない。人殺しなんて大嫌いだ。悪人だって死ぬところを見たくはない。私が今まで見た映像で一番陰鬱な気分になったものは、低い絞首台から吊されたナチの将校が、後ろ手に縛られた手を動かして藻掻く記録映像だった。私は死刑を社会的に必要だと思っているし、私の倫理はそれを許しているが、それでも人殺しは気持ちのいいものではない。
 なのに何故、私が目の前で人が死ぬのを見ても眉一つ動かさない、あるいは薄ら笑いさえ浮かべるようなクズだ、笑いながら人を殺しかねないクズだというステレオタイプが構築されるのか、とても不思議だ。私はそんなこと口にしたこと一度もないのに。殺人を絶対否定せず、場合によっては肯定するという程度の発言に対して、どうしてここまで想像の翼を広げられるのかね。


(2)私が殺人を必要と認めるのは、それ以外に有効な解決方法が考えられない場合に限られる。ちょっとムカついたから殺すとか、自分に都合の悪い奴だから殺すと言っているわけではない。私が殺人を問題解決の為の必要悪と認めるケースは、相手を殺さなければ生命・財産に深刻なダメージを受ける場合か、相手が生きている限り生活・業務を脅かされる場合に限られる。
 このことについては詳しく言い争った経験もあるのだが、どうも私を頭から人殺ししたくてたまらないクズだと決めつけたがる人々は、トラブルや危険への認識が甘い。法治国家に於いては、全ての問題は司法と警察が解決できると信じている。しかもこうした人々は、その法治国家とやらがどうやって秩序を維持しているのか、実際の問題はどう対処されているかまったく知らない。法は暴力によって担保されているのだが。しかも国によっては民間の暴力が下支えしている。日本も警備業の躍進、刑務所への民間参入、自衛用具の販売急増など、民間暴力が社会に於いて大きな役割を果たす方向にシフトしつつある。というのは国家の暴力では法秩序の維持が難しくなってきているからだ。


 抽象論ではわかりにくいのでやや具体的に説明するが、玄関から見知らぬ男が躍り込んできたら、催涙ガスでもぶっかけてイスでも灰皿でも叩きつけて排除しなければならない。捕縛は素人には難しいので、相手が尚も抵抗を示すのならば動かなくなるまでぶん殴るしかない。その結果、侵入者が死んだって構わない(未必の故意による殺人)。他人の家に躍り込んでくるような異常者は、家人を殺傷し、あるいは財産を損なう可能性が高い。だったら未然にそれを防がなければならん。その為ならば、他人の生活を踏みにじるクズの命なんかは潰しても構わない。
 実際の刑事事件では、110番なんか悠長にしているヒマはなかなかない。通報したところで警官の到着までは早くても数分かかる。場合によっては数十分になることもある。それまでの間、自分や家族に危害を加えようとする人間の刃を防ぐのは、法とやらでも国家の暴力装置たる警察でもなく、自分自身の物理的な暴力しかない。それについて何故理解されないのかとても不思議だ。法治国家ならば条文が刃の楯になるとでも言うのか。それとも誰かが悪さをし始めたら、一瞬で警察官が来るとでも思っているのだろうか。


 それでも、目の前でナイフや金属バットをもった人間が大暴れている場合は、殺してもあまり非難されないだろう。だけれども私はさらに、ストーカーやストーカー的な強請や嫌がらせを行う連中も、殺して構わないと思っている。それ以外に解決方法が乏しいからだ。
 日本の刑法は、実際にとんでもないことをしでかさない限り、なかなか罪に問えないようになっている。したがって、悪意ある人間がつきまとって嫌がらせや仕事の邪魔をしようとも、事件性が低い限りは警察が出動する法的根拠に欠けるのだ。我慢していると、被害者は仕事や生活に支障が出て金銭的にも精神的にも損害を蒙る一方だ。それに、粘着質な執拗な嫌がらせは、それに終始せずエスカレートして殺人や放火まで発展するかも知れない。こうしたストーカーや粘着質な嫌がらせ屋に対しては、新しい法律が出来つつはあるが、まだまだ未整備だ。法的拘束力は弱く、あるいは無いに等しく、警察の危機意識・問題意識も不十分。結局、法的にこうした問題に解決を図ることは不可能に近いのが現状だ。
 話し合いや法で物事が解決するのならば、世の中は平和だ。結局こういった事件性が低いようでダメージが深刻な陰湿犯罪に対して、相手が飽きるまで我慢するか、カネを払って止めて貰うか、引っ越しして姿をくらませるかして泣き寝入りしている人の何と多いことか。しかし無辜の被害者がやられ損などあってはならない。しかもこれらの方法は有効性が低い。企業へ嫌がらせを行うタカリ屋は、カネを払うと金蔓と思ってますますエスカレートする。個人レベルのストーカーは引っ越ししても、興信所を雇って移転先を見つけてしまうことがある。結局、最も簡単で確実な解決方法は暴力で対抗することである。それも半端な暴力では報復される。ぶっ殺すのが一番確実だ。


 まあ実際問題としてストーカーやタカリ屋ごときに殺人犯として捕まるリスクは負えないので、暴力組織の脅威がよく用いられる。要するに極道組織に話をつけて、タカリやっているチンピラを止めさせるんだけれどもね。私の知っている企業家も、地元極道と有力なパイプを持つ人間と仲良くして「あそこは兄弟分の会社だから手を出すな」と極道に言い含めておき、そうした問題に対処しているとか。そして、ストーカー宅に押し掛けて威嚇し、脅して手を引かせる極道めいた会社も実在している。しかしこれらも確実ではなく、よい解決方法とは言えない。
 やはりロシアみたいに、チンピラに20ドルぐらい掴ませて始末させた方が簡単確実なんだけれどもね。あんまり詳しく書けないけど、私の知っている女性もストーカーのひどい被害を受け、心身傷つき、結局会社を辞め、引っ越すしかなかった。私は特殊警棒でその男を待ち伏せして殺してやろうと思ったのだけれども、結局実行出来なかった。私は法的なリスクを犯せなかった。そいつを刑法でしょっ引くことも出来たんだけれども、そんなこと、精神的にも世間体的にも被害者を傷つけるだけなので結局、何も出来ず。
 いやはや、法治国家とは被害者に厳しく、加害者に犯行した分だけ得になるように出来ているのか。そうした面があることは否めない。これがすべてを解決する魔法の文句、法治国家の現状です。その上で私は、諸問題に対して殺すしか解決方法はないと言っているのだが。なんで快楽殺人と一緒にされなければならないのか不思議でどうしようもない。


(3)そしてもっと不思議なのは、事件に対する賠償への認識である。法治国家とやらを呪文のように唱える人々は、その法律をまったく知らない。通りすがりに気分が悪くて他人の家に火をつけた異常者が逮捕されたところで、被害者は家を建て替えられるだけのカネを裁判で取れるか?遊ぶカネ欲しさに他人の家に押し入って有り金掻っ払った奴は、捕まると盗んだカネを返すか?遊び気分で非道い暴行を加えて他人を働くことも出来ない不虞者にしたクズは、被害者が一生食っていけるだけのカネを払うか?答えは全て否だ。


 まず、賠償をとるのは民事訴訟なのだが、これは原告が自ら起こさなければならない。黙っていても国家がやってくれることは、検察が刑事訴訟で犯罪人をムショに叩き込むだけである。だが、訴訟を起こすのは大変なことだ。カネと時間と精神力がかかる。失われた財産や生産力を取り戻すために莫大なカネをかけなければならないのは不毛なことだ。その上、訴訟にしても損失を十分に取り戻せるという保証もない。そもそも無資力の人間からは取れるものはない。
 また、出所した犯人に報復されるかもしれない。犯人の親兄弟が嫌がらせに来るかも知れない。相手が集団だと、残りの構成員が襲撃に来るかも知れない。この恐怖は相当なものだ。いちいち報道されないが、極道組織が関わっているわけでもない個人レベルの犯罪でさえ、被害者宅はおろか刑事の自宅にまで「捜査を止めろ」「被害届を取り下げろ」と脅迫状がよく来るという(もっとも被害届に法的拘束力はないので取り下げても何の意味もないのだが、そんなことはどうでもいい)。それに、犯罪被害者だからと言って、TVドラマのように刑事が付きっきりで警護してくれるわけではない。ましてや、お国からは犯人が出所する日取りさえ知らされない。法は、犯罪被害者を新たな暴力から守らない。だから、そもそも訴訟を起こさない被害者も相当数存在する。


 次に、裁判で言い渡される額は往々にして被害総額より少ない。賠償金の性質によっては、言い渡された額と実際に払わなければならない額との間には差違がある。それは「被害者が生きていたら、あるいは健常だったら稼いだであろう所得(逸失利益)」としての賠償金の場合だ。この差違は、被害者が就労を終える年齢になる時期まで運用して得られるであろう利得を差し引いているからだ。その際計算に使われる金利は、民法では5%とされている。この超低金利時代にもだ!これは減額以外の何者でもない。
 結局、家に火をつけられても建て直す資金も得られず、一生懸命何十年も働いて貯めた貯金を奪われても返ってくるのはごくごく一部分、勉強して修行して身につけた技能がケガを負わされて失われても、生活を保障するだけカネが得られるわけでもない。結局、法は犯罪被害者を救済しないのである。


 そして、大抵の犯罪者は金持ちではない。それどころか素寒貧も多い。高額な賠償金なんかは払う能力がないのだ。刑務所で木材加工なんかやって、出所後もどうにか働いたところで、出せる額はとても小さい。前述のように実際に命ぜられる賠償額は被害総額よりも小さいが、それでも多くの重大犯罪者は賠償金を踏み倒している。踏み倒したところで、中共の刑務所のようにバラして臓器を叩き売るわけでもないし、「カイジ」のように強制労働キャンプにぶち込むわけでもないのだから。踏み倒しても殺されるわけではない。となったら、もともと他人様の生命財産を屁とも思わず、楽して奪って遊んで暮らそうとするクズ人間どもが、賠償金を払うわけがないのだ。もっとも払おうと思ったところで、凶悪犯罪を償えるほどの大金を払う能力があろうはずもないのだが。


 結局、法的につけられる決着が犯罪被害者を金銭的に救済することもない。それどころか、逆恨みの暴力から守るようにさえ出来ていない。これが、暴力がすべからく平和的に解決されると夢想される法治国家の内実である。加害者が被害者に近づかないようヤキを入れることもなく、カネを払わないからと言って山の中に埋めることもなく、とても平和的だ。
 だが、私はこのような決着の付けられ方に我慢も納得もいかない。だから、他人の生命財産を何とも思わないようなクズが、自分や家族の人生を決定的に傷つける前に、暴力でもって対抗することをよしとする。生命はもちろんのこと、自分が限られた人生の時間を使って稼いだカネも、奪おうとする者を殺してでも守る。カネの為に人を殺すと言ったら大悪党のように言われるが、犯罪者にいちいちカネを渡していたら素寒貧だ。人生で稼げる額は限られている。この階級社会、自分でカネを貯めて老後に備えねば人生の終末で惨めなことになり、子供にもカネをかけて教育しないと低い位置に固定化される。蓄えがなければ病気も治せない。その大切なカネを奪おうとするクズ野郎を殺すことに、何を躊躇する必要があるのか理解できない。カネを甘く見るな。
 ましてや暴行されて体が不自由になったら、それを回復させることは不可能に近い。今まで苦労して身につけてきた技能も、当たり前にやっていた日常も、ちょっした娯楽も、すべて出来なくなってしまう。こんな悲劇があるか。さらには奪われてしまった命は二度と戻らない。だから私は、自分や自分の家族の生命や身体を傷つけようとする相手は、安全に確実を期すために殺す。他者を傷つけ殺そうとする者を、自己の身を守るために殺すことはまったくもって妥当なことだ。倫理的に何か問題があろうか。これもまた、未然にぶっ殺さなければ安全は期せられない。
 ということを言っても、まだ私が快楽殺人者や利益を生み出すために人を殺すような悪党としか見えない人間がいるのは、とても不思議なことだ。


 まあ何はともあれ、自分が他者を殺さなければならないような状況に追い込まれないことを願うばかりでありますよ。そして、いざというときに他者を殺さなくても問題を解決できる物理的制度が出来ることを、警察機構が間に合わないときは危険回避として他者を殺すことがもっと広く法で認められることを、そして悲劇が起きた後は被害者救済と保護がもっと徹底的に行われるよう法改正されることを祈りますよ。


34-09
私は政治学とロシア語を学んできたが

 もし私が今一度学部に入り直す機会があったら、哲学か経営学かどっちかをやるだろうね。哲学はフランス哲学。仏文専攻でモラリスト研究といった形態でも構わない。経営学はもちろん組織論ですね。政治学とある程度発想に近い面があり、非常に興味深い。と言ってもまあ、私は政治学科で学び、それからロシア語に専攻を変え、さらにまた政治学への回帰しようとしているので他のことをやっている余力はないけれども。だけれども、他の分野への興味も尽きないものです。


34-08
足し算しか出来ない人2

 34-07の(1)をもうちょいと加筆。前半2パラグラフはそのまま。


(1)集団の指導的立場にある人間は、号令や激励を「加算」するだけで自分は為すべきことをしたと思うパターン。「一生懸命やろう」「みんな、頑張ろう」みたいな抽象的なことを吐いただけでは何も動かないのは当然の帰結なのだが、足し算人間は自分は為すことをやったから、うまくいかないのは成員どものやる気や根性がないからとして、自分をイノセントだと思うことが出来る。


 抽象的なことをmassたる成員達に対して言っただけで、個々人が動く訳はない。集団に対する曖昧な指示は個々人に拘束力を持ち得ないからだ。多くの人間は「誰か別の人間がやってくれるだろう」「自分がやらなくともわかるめえ」と思う。何故ならば、個々人が指示を無視したところで、指導者は集団に対してしか責任を問えないからだ。個々人に対して責任範囲を割り振ったわけではないので、指導者は誰がどのように指示違反をしたのか判断が難しく、結局massに対して「貴様らたるんでおる!」と怒号を加算することしか出来ない。massを構成する成員個々人は、それを肌で知っている。


 さらに、もし猛烈にやる気とやらが成員個々人にあったところで、曖昧な指示に従うのは困難だ。「**を成功させよう」などと大目標を提示されたところで、個々人が出来ることは限られている。その上、その為の方法もわからない。個々人が好き勝手に自分なりの方法で仕事に取りかかったところで、仕事が重複や相殺し合って効果は著しく低くなる。結局、自分の労力が役に立っていないことほど虚しいことはなく、成員達は意欲を失ってしまう。


 そして最も恐ろしいことは労力に開きが生じることであり、しかもそれを指導者は適切に判断・評価できないところにある。曖昧な呼びかけに対しては、応える成員とサボろうと思う成員の二種類が出る。これを分かつのは、生真面目さ誠実さといった個人的な資質、あるいは指導者との個人的関係、または集団に対する忠誠心・帰属意識の差違だ。そして働く人間の中にさえ、加える労力には差違が生じる。責任範囲が決まっていないので、「これでよし」とするところは個々人の判断に依るからだ。しかも、サボる人間とそうでない人間とに分かれる以上、簡単には全体的な仕事は終わらない。生真面目な人間が自分の出来る限りのことをしようとすると、休むヒマさえなくなる。


 このようにして、フリーライドする人間、多少なりとも働く人間、献身的犠牲を払う人間とに成員が分かれるのだが、指導者はこの状況を適切に評価できない。個々人に対して責任を割り振ることなく、最初からmassに対して呼びかけることしかしない指導者には、誰がどのように何をしたのかしなかったのかを、判断する手段がない。もし少数の人間の献身的努力の為に仕事が完遂されれば、「滞りなく終わった」としか思わない。一方、仕事がうまくいかなかったら「成員どもの働きが悪くて失敗した」としか思えない。結局のところ、フリーライドした者が罰せられることも、人並み以上に働いた者が評価されることさえないのである。結果、評価されずに自分だけ過度の犠牲を払う理不尽に対し、勤勉な人間もまた意欲を失ってしまう。


 つまり、個々人に自己の責任に於いて明確な範囲の仕事をするよう伝えなければ、誰も何もしなくなるのである。指導者が把握・統制出来ないほどの大集団ならば、小集団ごとに仕事範囲を割り振って、中間指揮官の責任の下に小集団個々人の責任と目標範囲を割り振らせなければならない。けれども加算人間には、相手が10人だろうと100人だろうと、大声で訓辞や感情論らしいものを怒鳴ることしか出来ず、それだけでは何故人々が意欲を失い目標が達成できないのか理解できないのである。


34-07
足し算しか出来ない人

 私は、「奴は足し算しか出来ない」という隠喩を好んで使う。もちろん初等の算術能力の話ではない。これは、諸問題に対しては何事か労力を「加算」すればそれでよいと考える、極めて単純な思考回路を指す。


 そのパターンにはいくつかある。
(1)集団の指導的立場にある人間は、号令や激励を「加算」するだけで自分は為すべきことをしたと思うパターン。「一生懸命やろう」「みんな、頑張ろう」みたいな抽象的なことを吐いただけでは何も動かないのは当然の帰結なのだが、足し算人間は自分は為すことをやったから、うまくいかないのは成員どものやる気や根性がないからとして、自分をイノセントだと思うことが出来る。
 抽象的なことをmassたる成員達に対して言っただけで、個々人が動く訳はない。集団に対する曖昧な指示は個々人に拘束力を持ち得ないからだ。多くの人間は「誰か別の人間がやってくれるだろう」「自分がやらなくともわかるめえ」と思う。何故ならば、個々人が指示を無視したところで、指導者は集団に対してしか責任を問えないからだ。個々人に対して責任範囲を割り振ったわけではないので、指導者は誰がどのように指示違反をしたのか判断が難しく、結局massに対して「貴様らたるんでおる!」と怒号を加算することしか出来ない。massを構成する成員個々人は、それを肌で知っている。


(2)個人対個人の関係に於いて、感謝や謝罪、あるいは賞賛と言ったコトバを「加算」し、メシや酒や贈り物を与えて「加算」すれば、他者は自分に対して友好的感情を持つそれを保つと思うパターン。美麗字句やモノだけで人から好感を得られるわけはないのだが、加算人間は自分が相手に対してこれだけの数量を「加算」しているのだから、相手は自分に好感を覚えて当然であり、そうしないのは相手が人格的に邪悪だからだと考えることが出来る。
 そして謝罪と感謝である。自分が相手に何をしでかしても謝罪のコトバや物品やメシを「加算」すれば許されて当然で、許されないとしたら相手の人格がいかれているからだとして自分をイノセントだと思うことが出来る。問題が一過性のものではない場合は深刻である。例えば、特定の人間の献身的犠牲でより大きなものを支えている場合、あるいは自分が恒常的に他者の時間・労力・財産を貪って場合、時たま感謝や謝罪を「加算」するのはどうしようもない。もし現状を温存するために意図的にするのは悪辣であり、感謝と謝罪を「加算」しかできない人間が他者に介入・支配している場合は悲劇である。くだらぬコトバと些細なメシやモノを「加算」すれば、他者にかけている苦労や不快感はすべて払拭出来ると思い込んでいる人間に、現状を変える能力も発想も意思もないのだから。。


(3)ただただ労力を「加算」すれば、「加算」しただけ仕事が前進すると思うパターン。確かに、タンクの水をバケツですくって違うタンクに移すような場合は、どんなに無計画であっても労力を「加算」しただけは、仕事は前進する。だが物事は、必ずしもいつまでも定量であり続けるタンクの水のようにはいかない。世の中の諸事情は常に変化し続ける流水のようなものだ。
 例えば、ダンプで4トンの砂利を一気に注ぎ込めば堰き止められる川でも、同量の砂利を「4トンぶち込めば、いつかは堰き止められるだろう」とスコップで少しずつ放り投げても、流水は砂利を下流まで運び去ってしまい、4トンぶち込み終えた時にも川はせき止められない。
 労力は、どういうタイミングで、どれだけの量をどれだけの時間内で加算するかによって、結果が違ってくるのだ。だが、「加算すれば結果が出る」としか考えられない人間はそれがわからず、無計画な加算によって労力や資源を結果としてムダにしてしまう。これは、「絶対**しなければならない」「**は存在していてはいけない」のような、アウグスティヌス的正戦論でもって仕事をする人間にしばしば観られる様態である。(1)のような曖昧な指示もまた、個々人が一生懸命に全能力を用いて全力を尽くしても、結果として無計画な為それらをムダにしてしまいかねない(3)の発想をも含んでいるという意味で、罪深い。希少資源の有効な集中ないし配分をわからない人間は、反社会的でさえある。


34-05
認証

 34-04で書いた、自分ではないことを保証された誰かを叩きたがる人々はとてもよく観られる。


 例えばわかりやすい例として「オタク」というコトバがある。「オタク」なるコトバは定義がよくわからない点があるのだが、自分が「オタク」ではないと確信している人々にとっては、「オタク」とは完全な他者である。そして完全な他者であると確信しているから、滅茶苦茶なステレオタイプを構築できる。どうしようもなく劣っていて、この世の中の問題や異常事の原因の一端を占め、世間から認められることのないクズと見なすことが出来る。
 つまり、こうした人間にとって「オタク」というコトバは否定詞である。人間は「オタク」と呼ばれただけで死刑執行されたことに等しいと感じている。だから、「オタク」として区分されうる行動言動を取る人間に対しては、即座に「オタク」と認定呼称し、自分の非「オタク」性を確認する。これはすばらしい快楽である。自分が少なくとも「オタク」なるクズとは違った人間であるとして、社会からそれなりに認められている、存在を許されているような気になれるからだ。


 これは不愉快かつ非生産的な行為であるが、何故人がこういう言動を取りたがるかは理解できる。しかしどうにも解せないのが、その「異常者」と「正常者」と線引きである。例えば、「オタク」の定義を「アニメを観る大人である」と設定している人間が、自分はある程度の年齢になってからはアニメなんか観ていないから「オタク」ではない、と判断するのならばわかりやすい。だが、「サイトを開設している」だけで「オタク」と人を呼ぶ人間が、自分もサイトを開いているのにも拘わらず、「自分」と「オタク」とを絶対的に異なるものとしている場合もある(こうした人物は私の身近に実在する)。何がどう自分と「オタク」とやらを分かつのかは、まったく説明はない。
 他者を「異常者」と見なす根拠とする行動を自分がとっていても、自分だけは違うと言いたがる人間が跋扈していることは、理解に苦しむ。もちろん、自分が社会から認証されていると思いたがるのは自然なことだ。だけれども、理論で説明を付けることさえなく「俺はフツーだ、俺はまともだ」と念仏のように思い続けつつも、他者を「異常だ」として叩きたがる人間は、病的だ。


 あと、近年は「ニート」というコトバも、他者を叩くことによって自分が相対的にマシな人間であると確認する為にもてはやされている。これは働いていない、職業訓練を受けていない、学校に通っていないという明確な定義を持ったコトバだ。このコトバも自分とは明確に異なる他者を、人格的に劣り、能力的に劣り、社会的価値に於いて劣り、社会の諸問題や事件の原因と見なすことによって、自分はこうした連中よりは多少なりともマシで社会に認証されているという感覚を得るのに用いられている。
 私は別に、その「ニート」なる人々を頭から否定するつもりもバカにするつもりもない。一口で「ニート」と言ってもその内実は様々であるので簡単には片付けられず、また、他人の生活をとやかく言うつもりはない。少なくとも、親が死んでから親が購入した土地や家、それに親が長年かけて蓄えた貯金を相続することをよしとする人間が、親が生きている内に細々と食費をたかる人間を、非難する正当性があるのだろうかという疑問もある。


 そして「ニート」は定義が決まっているコトバであるのにも拘わらず、意図的に拡大解釈したがる人々が跋扈しているように思える。この場合は、自分が「異常者」であるかの線引きを曖昧にすることが問題なのではなく、「異常者」として非難される側の人間の定義を曖昧にしている。つまり、例えばアルバイトをしている人間は「ニート」の定義には当てはまらない。しかし正社員にならずやっている点に「ニート」的なものを見出して、「あいつは会社も入らないで『ニート』同然だ」と言う人間は実在する。そして今の時代、会社を辞めて専門学校や大学院で学び直している人間も増えてきた。こうした人間もまた、「ニート」の定義には当てはまらない。しかし働いていない点に「ニート」的なものを見出して、「いい年して学校でブラブラしやがって、あいつは『ニート』だ」と言う人間も実在する。他者を僅かな面から無理矢理にも「異常者」と認定呼称すれば、「ニート」の定義には完全に当てはまらない自分は、自分がまだマシなような気がするから。


 私は「オタク」が「異常者」だとは思わないし、「ニート」は経済的には問題点を含んではいるが、個々人がどうやって食おうが私の知ったことではない。そんなことよりも、とかく誰かを「異常者」「劣者」という意味に於いて「ニート」「オタク」「負け犬」「負け組」云々と認定呼称して、自分がマシなような、世間からそれなりに認証されているかのような感覚を得たがっている人間がかくも跋扈していることの方が問題だと強く感じますよ。
 世間から認められたいのならば、認められていないであろう人間集団を見出してそれと自分との違いを喧伝するのではなく、多少なりとも何かを築く方が生産的。もちろんこの広い世の中で、自分が何らかの位置を得ることは難しい。顔の見える周囲の人間からでさえ、誰からも一定の評価を得ることは難しい。周囲の人々もまた、貶めるべき「異端」を探し求めているから、極めて同質性が高い社会に居ない限りは、不当評価から逃れることは出来ない。だがそれでも、契約関係の中ではそれなりに働きを見せることによって、人格や趣味、思想ではなく労働力としての評価を得ることは出来る。私的な人間関係に於いては、自分のより広い人間性を認められる機会もある。わざわざここそこでよくわからん他者を貶めて安心する必要はないし、自分ではない誰かを貶めたところで何かを得られるわけでもないのだが・・・。


 ちなみに、私は札幌時代はまったく認証を得られなかった。そこに存在することそのものを認められることさえなかったように思えた。全力であらゆる人格、思想、趣味、学歴、血統、家庭環境といったものを、(半ば以上妄想に基づいて)貶められ続けられた。と言っても、別に当時の同僚が邪悪だったとは思わない。それどころか、一般論としては善人の部類に入るはずだ。ただ、代わり映えしない狭い環境で長年生き続けてきた無学なИНК者には、あまりにも異質な私を受け入れられなかっただけである。彼等は無神経なまでに疑問を呈する以外に異質な存在に相対することが出来ず、私の持つ異質性を棄てさせて同化させること以外に受け入れる方法を知らなかっただけのこと。彼等は「貶めている」という意識さえなく、最大限受け入れよう、仲間扱いしようとしか思っていなかったはずだ。余談だが、札幌の連中は「高学歴者はマンガを読むわけはない」というステレオタイプを一方的に持っていてくれたので、「オタク」だと思った人間は最後まで1人もいなかった。
 しかし私は、かなりのストレスを覚えていた。にも関わらず、明らかに自分ではない誰かを貶めて悦に入ったり、あるいは周囲が自分に見出す「異常性」の否定にやっきになったりはしなかった。そんなことしても、周囲から景色や路傍の石レベルにまで認められるわけではなし、ましてや同胞として受け入れられるわけでもなし、かといって自分1人だけの精神の慰みとなるわけでもないのだから。誰かを叩いただけで、自分が世間から認証を受けたように思える人間は、なんとも安上がりですわい。まァ、そんな愚かな単純さを持ちたいとは思わないが。


34-04
優劣の軸

 人間はどうも、自分よりも劣った人間を観れば安心するらしい。自分が人よりも優れていたいと思うのは、わりと自然な発想だろう。他者よりも優れていれば、多くのことを出来、また評価される。しかし、実際問題として人間集団の中でトップを切るのは難しい。となれば、劣った人間を見出すのが簡単だ。例え自分に人並み以上のことを為すことが出来ずとも、自分以下の人間を見出すだけで安心してしまうのは、最も弱い個体がいればそれが肉食獣に食われ、他はその隙に逃げられるという集団的動物としての本能なのだろうか。


 さて、人は何に於いて優劣を見出すか。まずはアルビン・トフラーが言うところの、人が人を支配しうる3つの力が挙げられる。つまり武力、富、情報。
 武力はわかりやすい。相手をぶん殴って蹂躙させることが出来るというのは、この上なくわかりやすい優劣関係だ。これは体力・身体能力に置き換えてもよい。
 富もわかりやすい。他者よりもカネやモノ、食糧を持っていることは他者よりも欲望を満たせるということだ。これは社会的地位に置き換えてもよい。
 そして情報。他者よりも多くのことを知っていて、判断することが出来るというのは、素晴らしいことだ。しかも武力や富と違って目に見えないので、自分が優れていると思い込むだけでよい。だからこれはとても多用される優劣の根拠である。これは、必ずしも知識や知性だけではなく、経験も含まれる。


 優劣の根拠はこの3つに留まらない。この3つは他者に行使できる「力」である。しかしより消極的な観点からも人は優劣を見出せる。
 それは、正統と異端。自分が集団に於いて崇め奉られるほどすばらしくというわけではなく、ただ単にその集団に於いて存在を認められる程度の位置にあるが、目の前の他者は集団に於いて存在を認められない、排斥すべきクズである、と見なすことは心地よい。自分が集団からそれなりに認められているが、相手は認められないのだから。だから人は、確実に自分ではないことが保証された誰かを異常視したがり、異常者としてある人々を特定のコトバで同定し、そのコトバをレトリック的により広くの人間に適用したがるわけだ。 


 人間として、優劣関係を確認したがることそのものは至極自然なことなのかもしれん。
 だけれども、他者の自分よりも劣った点をとかく見出したがり、そのことを繰り返し繰り返し執拗に確認して強調したがる人間は不愉快です。そして、自分ではないと保証された誰かを叩きたがり、そして少しばかりその異常者と似たような点を持つ他者をも異常者の一員であるとして叩きたがる人間は、不愉快を通り越して滑稽でさえある。
 そんなに自分が相対的に優れていると思いたいのか、そんなに自分が相対的に社会から認証されていると思いたいのか。こういう優越の亡者、認証の亡者を観ていると、ため息しか出ません。


34-03
苦労している人間が恵まれている人間よりも優れているとは限らない

 過酷な状況下にある人間は人格を鍛えられているとか、多少のことには動じない精神力を涵養しているなどという発想は、妄想だ。もちろん不遇な中、抑圧の中で、立派に生きる人もいるだろう。けど、そんな人は少数派ではなかろうか。


 なんというかね。人間誰しも自己肯定が欲しい。高度の抑圧状態にあるときや人間性疎外にあるときほど、拠り所を欲するものだ。だけれども、自己肯定を求めるあまりに、身近な他者に横暴な態度をとる奴はどうかと。私の周囲にはこんなアホな奴がいるのですよ。他者を貶めれば相対的に優越を得られると思っているのか、四六時中、階級逆差別や学歴逆差別で他者を貶める。他者を貶めていながらも「真実を言っているから許される」とでも思っているか、それでいて他者からの評価や信頼を期待する。さらには自分が不幸だから他者が自分に奉仕するには当然と思い上がる。ついでに、自分は苦労しているから何をしても許されると思い込んでいるのか、それとも本当に気づいていないのか、他者の時間やチャンスを奪う行動や、失礼な行動を繰り返す。そして自分の行動言動が少しでも認められないと、あるいは自分の行動言動に注意を受けると、猛烈に怒り狂いあるいは拗ねる。こんなアホ野郎が、私の周囲を跳梁跋扈していて困っているのですよ。ここまで人間は幼稚になれるのかと感心します。こいつが白人だったら、間違いなくネオナチ運動に参加していただろうね。


 当たり前のことだけれども、日常的に他人を貶める人間が尊敬や信頼を得られるわけもない。ちょっとした好感さえ得られない。この人物は、それなりに優秀な面もあるのだけれども、傍若無人な態度と言動の為に、誰もそれについて評価しようとしない。
 さらに言えば、「自分は優秀だ」と喧伝したところで、そう簡単に認めてもらえるわけもない。時には生意気なぐらいの自己宣伝は必要だが、彼の場合は「自分が何を出来るか」「何を為してきたか」を述べるのではなく、「自分はいかに苦労しているか」「自分はいかに不幸で不遇か」しか述べない。まあ不幸だと言われれば同情ぐらいする人もいるだろう。けれどもそれだけである。だが彼にとって、「自分は不幸だ」と述べることは「自分は優秀だ」と言っていることと同義らしいのである。
 つまり、不幸な境遇でなんとかやっている自分の行動は尊く素晴らしく、恵まれた他人のやることは劣っているとして、結局は「幸福の度合い」を基準にした他者との相対的関係に基づいて自己肯定を得たいのである。要するに、彼は逆差別をしているわけだ。彼に比べたら大抵の人間は「恵まれている」ということになるので、彼の弁は「俺は不幸だから優れており、お前は恵まれているから劣っている」としか聞こえない。やはり、このような言われようをして、いい気持ちになる人などいない。


 そして、相手が不幸だろうと優秀だろうと、不利益をもたらす人間や無礼な人間に対して好感を持つ人間はいない。ホント、いちいち書くのもバカらしいけど、携帯電話をいつでも切らず着信音を鳴らす、いつでもどこでも携帯で話す、他人の大切な話をその場で思いついたくだらない話で遮る、組織や人について妄想に基づく予断をバラまく、人の話を何も聞いていなくて他者の貴重な時間と作業を妨害して情報を執拗に求めるなど、あまりにも稚拙な行動が多すぎる。上記の行動は1度や2度ではない。書くと大したことではないかもしれないが、行為そのものに対してではなく、何でもしたい放題するその根性そのものに多くの人間が腹を立てている。


 これらの結果として、彼はいい感情を持たれない。もちろん不幸自慢なんかされても不愉快なので聞きたくないし、逆差別的言動で人格や能力を貶められると不愉快だ。人の話を重要度の低いバカ話で割り込んでくると迷惑だ。携帯電話の着信音は慣らすだけで不愉快。これらのことに対して、人は注意したり、あるいは露骨に不快感を示す。こうした自分の行動言動に肯定的反応が得られず、そればかりか否定までされることは、自己肯定と優越意識の亡者たる彼には堪えがたいことらしい。
 だから、彼は何か言われると怒り、あるいは拗ねる。それもまたしても、「不幸の優劣関係」を持ちだして。ちょっと迷惑なことを注意されただけで、「お前は恵まれているのに何も出来ないのか」「俺はこんなにも苦労しているから、皆と同じレベルのことを求めるな」「学術経験もないから差別している」などと、問題とまったく関係ないことを持ち出して言い返すことしか出来ない。こんな人物、どう考えても人格的に優れているとも、些細なことには微動だにしない精神を持っているとも思えない。自己肯定を得たいのならば、もっとマシな方策はいくらでもあるだろうに。


 私には、判官贔屓などという逆差別的発想は存在しない。けれどもこのクズと出会うまでは、私はまだ「苦労している人間は、私なんかよりも立派だ」という判官贔屓めいた幻想を持っていたかもしれない。だけれどもここ1年ちょいの経験で、その妄想は完全に吹っ飛びましたな。このしみったれた精神の持ち主どもの中にいるのもあと1年。あと1年でもうちょいとマシな社会へとブレークスルーしたいものっす。


34-02
正戦論と家族主義のリスク管理

 近年の鉄道事故や航空会社の安全管理の問題で、ヒューマンエラー研究が脚光を浴びるようになってきた。何故今までこれが注目されてこなかったのやら。人間は誰でもミスを犯す。それも個人の人格や資質でけではなく、環境や条件が大きな影響を持つ。だから、ミスを犯しにくい環境作りと、ヒューマンエラーひとつで致命的な結果にならないようすることは、とても有益なのだが。


 だけれどもこの日本の世の中には、個々人にすべての帳尻を合わせさせ、個々人にすべてを帰結させる傾向にあるような気がする。 ここで「日本」と限定したのは、明らかに他国−特に欧米−は違うからだ。欧米は契約社会であるのに対して、日本は非合理的な正戦論と家族主義の社会だ。
 正戦論とは、本来はアウグスティヌスが説いた宗教正義の為の戦争には、一切の妥協も譲歩も融和もあり得ないとした発想のことだ。「いかにして敵を倒すか」「異教徒をどうするか」ではなく「敵は倒さなければならない」「異教徒は存在してはならない」という、方法ではなく目的を絶対視する非合理的な発想とも言える。この正戦論めいた言動は、しばしば現代企業でも聞かれる。例えば、「ミスをどう防ぐか」ではなく「ミスは起きてはならない」と。凄く不毛だ。不毛だけれども、この発想は安全対策やリスク管理にコストをかけずに済み、指導者は具体的な事前対策や事後の対応について余計なことを考えずに済み、事前には抽象的な訓辞のみ垂れ、事後には責任追及だけすればよいので楽なのだ。だからこの正戦論的な安全思想はわりと普及している。
 この発想で仕事を行っていては、危険の芽を摘むという発想が出来ない。例え、職場がどれだけ滅茶苦茶な環境にあっても、どれだけ破綻寸前の状態で無理矢理仕事が回っているに過ぎなくても、特定個人の献身的犠牲がすべてを支えていても、それでもどうにかなっているうちは、正戦論に基づいて物事を考えている人間にとっては「うまくいっている」ようにしか見えないのだ。それが一番簡単な認識であり、しかも現状維持は一番簡単な対応だからだ。だが、個々人の献身的犠牲でもってすべてを支えるような会社は異常だ。カネをかけて教育した人材が流出するリスクがあり、あるいは過労死や自殺で訴訟リスクをも生じさせ、さらには無理をしていた歪みが一気に大問題として噴出して大損害を蒙る可能性だってある。


 どんな歪みがあっても何事もないかのように、単に個々人に無理をさせればそれでいいというような経営者は何を考えてるのやら。短期的なコスト計算は出来ても中長期的なコスト計算が出来ないのか。あるいは日常の仕事が片づいているうちは、どんなイカれた構造になっていても問題視する目さえないのか。「個々人にすべてを帰結させるな」と言ったら、青臭いきれい事のように聞こえるかも知れない。だが私は、単純な経営リスクについて述べているに過ぎない。リスク管理の面から見れば、正戦論や精神論を振りかざして個々人に無理をさせればそれでいいとする経営者など、幼稚もいいところだ。
 そもそも企業にとって従業員なんて機械部品に過ぎない。労働契約によって明確に目的を定め、疲弊によって問題を起こさないように注意を払い、いかに巡航状態を保つかを追求する。これが経営者にとっての人の使い方だ。凄い冷たく、非人間的に聞こえるかも知れないが、私はこれが理想的な労使関係だと思いますよ。


 日本企業は唯物史観的に言えば、アジア的原始共同体そのものだ。契約関係は肉親のように擬制され、命令は契約に依らず、くだらない情緒の体裁でもって実施される。曰く、労働契約などという「血の通わないもの」ではなく、会社という「家」の為、「親兄弟同然」の同僚の為に働くとか。上司が部下に頭を下げ、上司自身が献身的犠牲を払って血ヘド吐いているから、部下も「一肌脱いで」やはり自分の時間と精神力と健康を犠牲にして、無茶な条件で契約書にない労働をするとか。
 このように、従業員を半端に人間扱いするところに、日本の病理があるのでは無かろうか。まあ、家族ほど思い合ってもいないのに家族が擬されるのは、契約を超越した献身をよしとすることによって生産性を上げる為なのだろうけど。しかし世の中がまだまだ単純だった産業社会期ならばともかく、すべての人・モノ・カネ・情報の移動が高速度化・全世界化しているポスト産業社会の時代では、このようなキモチワルイ体制が生産性を発揮するとは思えない。
 何故ならば、労働市場の全世界化によってこのような家族的労働観は個々人にとって価値を為さなくなってきているからだ。何故ならば、個々人にとって、一つの会社に忠誠をつくすことが生涯の安泰をまったく保証しなくなってきているからだ。何故ならば、需要拠点と供給拠点の猛烈な移動に際して、一場所で家族主義的な集団組織を保持し続けるコストが高くつくようになってきているからだ。何故ならば、凡庸な教育を受けただけのガキが職場の中に全生活を組み込まれて熟練者と発達させていくキャリア形成方法は、非熟練労働力も熟練労働力も、さらには高度専門職さえもが安価で流入してくるこの時代に於いては、悠長すぎるからだ。


 もちろん日本にも、私のようなドン百姓の想像も及ばないような先進的で冷徹な企業はたくさんあろう。しかし私程度の人間にさえ、なんてアホな会社なんだと思えて仕方がないような幼稚な経営をしている会社もまた、ここそこに見受けられる。鉄道会社の、ミスをした従業員にはヤキを入れればそれでよしとする発想なんかも、個々人にすべてを帰結させて、合理的な対策や原因究明といったリスク管理をしない稚拙さそのものだ。個々人がすべて誠実に良心的に仕事に邁進しても、事故や不合理は起きる。問題なのは、構造でありシステムなのだ。個々人の人格にすべてを帰結させるなんて、どうしようもないアホ野郎に出来る唯一の認識方法だ。ゼークトの言う「頭の悪い怠け者」が、こうしたいかれた認識方法を持っていてもそれは仕方がないかもしれんが、経営者や中堅以上の人間が個人の人格・能力でしか物事を図れないとしたら、そんな会社は絶望的だ。


34-01
妥協点

 高校時代、とんでもない悪辣なステレオタイプに基づいて、私の思想や人格を徹底的に貶めてくれた担任がいた。担任本人にとっては、「ステレオタイプ」でも「貶めている」わけでも何でもなく、「事実」として何らかの説諭でもしたかったのかもしれんのだが。
 私は侮辱されて引き下がる人間ではない。高校を卒業し、1年の予備校生活を終えて、担任が腰を抜かすほど(注:現役時代私の偏差値は40程度だった)の合格を引っさげて高校の職員室に乗りこんだ時のこと。先生は在学時、これこれこのようなことを繰り返し繰り返し執拗に言っていたが、それらはまったくの誤解と妄想と思い込みに基づいているものだ、という主旨のことを、私は礼節を損なわない程度に述べた。


 これに対する担任の言は、こうだった。私の友人の名を1つ1つ挙げて、「**が知っている晴天がいる。◇◇が知っている晴天がいる。××が知っている晴天がいる。俺が知っている晴天がいる。こうした他人が見ている目の中に、妥協点があるんだ」と言い放った。つまりはこういうことだ。他人が自分に対して持つステレオタイプは様々だから、看過しなければならない。いろんな他者が持つステレオタイプの中間点に、妥協すべき「自分に対するステレオタイプ」がある。そんな事を言いたいのだろう。
 この言の意味はわかるが、ここで持ち出された意図は看過できん。担任の意図を一言で言えば、「俺がお前に対して持ったステレオタイプを、看過しろ」ということだ。他の様々な人間の名前を持ち出して、担任が私に持ったステレオタイプもそうした「他者に持たれるステレオタイプの1つ」として我慢し、受け入れろ、と言っているわけだ。 


 だが、他者のステレオタイプの平均値の中に妥協点がある、だから担任の言を受け入れろ、という言には2つの点で賛同できない。


 まず、他階級や他階層の中に飛び込んだら、周囲の人間は私に対してとんでもないステレオタイプを持つだろう。曰く、「いい大学を出ている奴はマンガもテレビも観ない。酒もタバコも博打もやったことがないだろう」とか、「金持ちの家の出の奴なんか、運動もしたことのないもやし野郎だろう」とか、「こういうメガネなんかかけて弱そうな奴は、他人が強く出れば引き下がる腰抜けで、押し売りや新聞拡張員に抵抗できないだろう」とか。これらはすべて、札幌時代の現場作業員の連中に持たれたステレオタイプである。これらの言動・妄想の平均値を、私は妥協点には決して出来ない。なぜならば、これらはすべて事実と著しく反するからだ。さらには、このステレオタイプは不愉快なだけではなく、人格や能力を低く見積もるものだからだ。不利益をもたらすステレオタイプだからだ。だから、弁舌であれ行動であれ、抵抗して潰す必要こそあれ、妥協するものではない。もし打破できなかったら、打破できるまで抵抗すべきものだ。


 次に、この担任の言動は、私の他のいかなる知人友人の言と比べても、あまりにもかけ離れた言動だった。もし他者が私に対して抱くステレオタイプの中に「妥協できる点」が存在するとしても、それは担任のステレオタイプとはかなり遠いものである。だからいくら他者を持ち出し、ステレオタイプの甘受なんてことを述べたところで、担任が私を侮辱したことは決して消えることではない。
 軍国主義者、ファッショ、ウルトラナショナリスト、ナチの崇拝者、オウムの潜在的信者、麻原のシンパ、人命をどうとも思わない殺人者予備軍、お前のようなクズには今後永久に家族も友人も出来ない・・・ここまで思想や人格をひどく言われたことは、高校時代からさらに10年生きても、未だかつてない。大学時代のゼミでは「極右」の役柄を引き受けてそのような弁舌をぶって以来、いつでもどこでもそのような思想をした人間と勘違いされたが、それでもここまで悪辣なことは言われなかった。少し軍事マニアめいた趣味を持って、55年体制下の社会党みたいな空想的平和論に疑問を呈して、国際政治ではバランス・オブ・パワーを謳い、日常レベルの治安や安全には武力による自衛こそ必要としていたというだけで、何故ここまで言われなければならんのか。ついでに、どこからオウムとか麻原とかいう単語が出てきた。1994〜5年当時、これはかなりの問題発言だったはずだ。「執拗に担任から『お前はオウムだ』と言われた」と告発すれば、うまくやれば結構な問題に出来たはずである。ここまでのことを言い放っておいて、「他人が自分を見る目と、自分が自分を見る目は違うから、他人の目について受け入れろ」などと「エヴァンゲリオン」みたいなことをよく言えるね。すべて受け手の許容能力や寛容に帰結させようとするとは、無責任にも程がある。まったく。 


 いや、なぜこれを突然思い出したかと言うと、自分が滅茶苦茶な主張をしても、大胆な主張をすればするほど妥協点という落としどころを自分の方へ誘導できると企んでいる、中共の外交政策に既視感があったからだ。ま、言った者勝ち、無茶を通せば有利になる、といったようなことは、国家間の駆け引きでも、個々人のくだらないやりとりでも、看過したくはないものです。


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