last up date 2005.07.21
35-10
引っ越し手当3万円
ちなみに下のB氏の職場の引っ越し手当は、「出ない」のではなく「出ないのと同然」の値段だそうで。そしてB氏の異動前と異動先との距離は、かつてはYS-11、今は外国製のコミューター機が定期就航している距離である。
会社がアパートを借り上げず、寮も用意されてなかったら、自分で部屋を借りるしかない。どんなボロ屋でも今日日都市部で部屋を借りると、敷金礼金で20万は下らない。
引っ越しとて、軽トラ借りて友人動員して市内を引っ越すのとはわけが違う。いかに荷物が少なくとも、最低限の家財道具だけでも都市間を移動させると何万も十何万もかかる。しかも辞令を受け取ってから実際に異動するまで日がないものだ。自分で荷造りして自分で開封する格安プランでは対応できまい。いや、軽トラと友人を動員しての市内引っ越しとて、なんだかんだで2万円ぐらいはかかるだろう。
さらに言えば、前の勤務地から次の勤務地へと自分の身体を動かすだけでも、交通費がかかる。飛行機や新幹線に乗れば数万は飛ぶ。まさか各駅停車で悠長に来られまい。引っ越しの為に与えられる時間は何十時間しかないのだから。いや、例え普通列車でも長距離になると相当な金額になるのだが。
そして新しい部屋に着いてからは、細かい雑貨や消耗品を買い直さないとならない。これもまたバカにならない。
結局、引っ越しには40万50万というカネがかかる。さて、これで引っ越し手当はいくらになるかというと、3万円だそうだ。交通費にさえなるかどうか・・・。結局B氏は、人生の何十分の一かを投入して貯めた貴重な貯金を投入し、それでも足りなくてカネを借りて賄ったという。本末転倒もいいところだ。しかも異動した数ヶ月後にまた転勤を命じられるなど、これは「辞めろ」というサインか嫌がらせではなかろうか。B氏本人にはそういう認識がないらしいが。彼もまた、自分が不幸であればある程、他者に優越するものがあると考える思考回路を持っている。つまり、理不尽に堪えることが「世間の厳しさ」とやらを知っている証左になると考えている人物なので、どんな扱いを受けても「堪える」「我慢する」意外の発想を持たない。だから、事態を打開できないのである。
そもそも彼は、入社する最初の配属からして直前で変更されて、当初の配属先近くに借りたアパートを解約して、敷金・礼金・違約金をムダにし、そして新規にアパートを借りて敷金・礼金・そして引っ越し代を余計に払った。こんな会社、勤めるべきではなかったのではないのか?働いてもいい暮らしが出来ないことはよくあるが、働いたが為に借金が増えるというのは聞いたことがない。
しかし私の知っている範囲では、どんなに小さいИНК会社でも交通費や冬の暖房費は出す。地方の泥臭い中規模企業でも、別の街の支店や支社への転勤に際しては、引っ越し代と移動の交通費、敷金礼金ぐらいは出す。完全に100%賄えるとは限らないだろうけど、私の知っている範囲ではそれでも借金三昧にはならない程度は支給されている。
やっぱりB氏は、転職をした方がよかろう。それも出来るだけ早くに。いつまでも若くはないのだから、いずれ用済みになって解雇されることがほぼ確実な会社に浸かりすぎることはなかろうて。
35-09
報われない苦労
某友人Aからの話によると、某友人Bの勤める会社は劣悪な環境で有名らしい。AとBとの間に面識はまったく存在せず、Aも私の別の友人に某社の勤務者がいるとは予想していなかった模様。
それぞれが誰のことか、某社とはどこのことかを明かすわけにはいかないが、当たり障りがなく誤解を招くように書くと、某社は明治時代に官立で設置された類の代物だ。そして日本の近代化・工業化と共に、官立として拡充してきた。大正・昭和と時代が変遷するに従って、特に第二次大戦後になると事情が変わってくるが、それでも国家の庇護と許認可の元で、守られて来た。このケインズめいた国ではよくある話だ。
だが問題は、この某社−というかこの業界−が、ほとんど外圧に晒されることもなく19世紀半ばから安穏としてきたことだ。競争なんかは、ごく最近の規制緩和までほとんどなかった。だから、財務体質は不合理極まりなく、他の企業と比べると児戯にも等しい。人事は国家−というか省庁−の庇護に置かれていた為、主要ポストの半分は役人の出向で占められる。もう半分は、明治から独特の社会を築いて蠢動してきてた特定階層の人間に占められる。第二次大戦の敗戦でも、それは変わらなかった。
だから大学を出て、ただ単に就職先として某社を選び、筆記試験と面接を受けた人間には、ポストなどないのである。ポストがないだけではなく、内部に於ける貴族階級の連中にとっては、そうした一般社員は奴隷同然。許認可と庇護構造によって黙っていてもメシを食える会社なので、仕事は最低限の事務作業と決まり切った外部との接触に終始し、膨大なヒマな時間は必然的に貴族階級に対する(半ば以上私的な)雑用に費やされる。世の中、まだまだこういうアホな世界が存在しているのである。
しかしそれでも、某社が国家の庇護を受けて競争と無縁でいれば、例え出世出来なくとも、封建制の下、理不尽な扱いを受けようと、年功序列に従ってそこそこの給与を得られて、まあまあの退職金を得られたはずである。だが、このポスト産業社会に於いてそんな存在は許されない。ワシントン・コンセンサスが最も嫌う仕組みだ。日本がグローバリズムとやらに乗っている限り、許認可の緩和や庇護の廃止は当然である。
某社の財政は一気に窮乏化した。当然だ。今までお国から様々な名目で税金さえ注入されていたのだから(未だ全廃されたわけではないけど)。しかしこれからは顧客からのカネだけで食っていかねばならないが、一気に競争が激しくなってきて、今まで100年以上に渡って囲い込んでいた顧客は離れる一方である。しかし経済や経営に対して限りなく鈍感なまま年齢だけ経て、内部でしか通じない規範や慣習にだけ精通してきた人々が、時代に合わせて改革できようはずもなく。
私の友人Aは、時代に合わせて変革する(変革しなければならない)某業界を監督する仕事をしている。私の友人Bは、その某業界の中でも割と下位の某社に勤めている一般社員だ。Aの話とBの話を総合すると、Bはこんなところをとっとと辞めるべきだという気がしてきた。だってねえ、非道すぎるんだもの。
財政が窮乏化した某社が真っ先に手を付けたのは、経費削減だ。しかしそれが間違ったやり方でしか出来ない。昔の運動部みたいに、苦しめば過酷なことをすれば成果が出ると勘違いしているような手法だ。それは職員の負担を劇的に増やしている。休みはほとんど取れず、帰りは終電が帰れるかどうか。忙しい会社はそんなものだと言う人もいるかもしれないが、身体を壊すほどの労働をして、報われるのならばそれもいい。だけれども、B等一般職員は報われない。
短期的には、経費削減の結果、諸手当がほとんどすべてカットされた。これが何を意味しているかというと、通勤費から出張費、さらには転勤に際する引っ越し費まで十分に支払われなくなったということだ。メシを食うための会社に通い、命令で遠方に出向き、やはり命令で(それも混乱の中、ごくごく短いスパンで)転勤を繰り返させられているうちに、借金が出来て、それが膨れあがってしまっているのだ。この通勤費、出張旅費、引っ越し費に「自己負担」を強いる発想は、おそらく違法である上、本末転倒だ。裁判になれば会社が負ける類の問題である。
そんなこともわからないぐらい某社はシャバの感覚に欠けており、社員もそれがわからない。裁判起こしたところで結局コスト(カネも時間と労力も精神力も)ばかりかかるが、何故に転職せずひたすら借金と共に勤めるのか。あたかも理不尽も何もかも全てを甘受し、苦労を厭わずただ堪えることのみが、自分の甘さと世間知らずを払拭する方法だと勘違いしているようだ。そうすることが、自分が世の中を知った立派な社会人たる証左となるかのように。そういう無意味な忍耐こそが、苦労さえしていればうまくいくと妄想する意味に於いて甘く、シャバの常識を照らし合わせて待遇を考えられない意味に於いて無知なのだが。
そして中期的には、この某社の一般社員はいずれ、ドラスティックに解雇される。これは決定基調だ。他の多くの業界と同じように、某業界でも総務・人事・経理・SEなどは外注化されよう。しかも、首を切られるのはBのような一般職員だけであって、旧来の支配階級は温存される。結局、一番弱い存在が切り捨てられて、「改革」としようとしているのだ。外圧があろうと、外部の機構に監督を依頼しようと、物事の核がそうそう変わるわけはない。
一方、切り捨てられたBら一般職員は、どうしようもない。駒のように常軌を逸した短期間に都市から都市へと移動させられ、引っ越し費用で借金が膨らみ、実質的な賃金カットの中深夜まで働かされた挙げ句、放り出される。しかも某社の極めて特殊な仕事をしていた経験は、シャバでは何の役にも立たない。Bはいずれ、限りなく弱いエスタブリッシュされていない労働者に成り下がるしかないような気がする。それを思うと、まだ若い内にとっとと辞めて、親の庇護でも何でも受けて勉強し直した方がいいんじゃないのか。あるいは縁故か何かでИНКの小さな会社でも転職した方がいい。大して待遇がよくなく、将来も不安かもしれないが、少なくとも借金は増えまい。
まあAと話して何度もお互い嘆息したことだが、このポスト産業社会では会社と心中しても、会社との一体化を企図しても報われないのである。もちろん自己投資した高度専門職でさえ全世界的な労働市場の中では弱い存在で明日をも知れないが、それでも奴隷的労働者として時給640円かそこいらで短期間だけいいように使われる身に陥らない為には、会社から放り出されても、会社が潰れても生きていけるような自己投資は欠かせまい。いやはや。
35-08
家政婦は見た、じゃないけど
私は何故かバアさんに気に入られるようで、しばしば話しかけられる。それは会社や学校の掃除婦のバアさんも含まれる。中には、出入り業者のバアさんに気に入られて、掃除を一回りして一服しているバアさんに待ちかまえられて話に付き合わされることもある。正直なところ、私は年寄りと話してもあまり面白いとは思わないし、話しかけられて無碍にできないお人好しで付き合っているだけなのではあるが、それでもときどき興味深い話を聞くことがある。
小学生の頃読んだ学研かなんかの短編推理小説で、命を狙われている金持ちが家に護衛をつけるが、心配になって金持ち宅を訪れた探偵は死体となっている男を発見する話があった。護衛は「誰も家には来ていない」と言う。しかし犯人は郵便発達人で、護衛は配達人を「来客」としてカウントしていなかったのだ。子供向け小説らしい、単純なオチだ。しかしこの物語で描かれたような景色同様の人間に対する無関心は、現実でもあきれるほど見ることが出来る。そう、出入りの掃除婦の前でも、人は「誰もいない」と思って様々なことをするのだ。
私を待ちかまえている件の掃除のバアさんの話は、だから興味が惹かれるのだ。学のないバアさんらしく、医学的には完全否定されている「ゲーム脳」についてとっておきの情報のように話したり、携帯電話の存在そのものを絶対悪として扱うような話しぶりには、正直辟易する。だが、このバアさんは出入りしている建物にいる人間のことを、全員分知っている。もちろん直接話したわけでもないので名前も肩書も知らないが、「ほら、あれ、あのいつも〜な人」とか言われればすぐに誰のことか私は理解できる。特徴をよく捉えている。
そして誰それが便所に立った隙に誰それが机の中を調べていたとか、明らかに秘密の行動、それも悪行もよく見ている。話も聞いているし、覚えている。誰それは〜だから(つまりマイノリティの異端だから)、誰それや誰それに差別されているとか、私の目からでは伺いしれない人間模様についても知っている。もちろん話好きで何の責任もないバアさんの言うことだから、100%頭から信じるわけにはいかないが、それでも恐るべき諜報能力と言わざるを得まい。
さて、話はかわるが、前の会社の研修時代には、研修所の寮に出入りしているバアさんが、若い新人たちに話しかけようとしていた。しかし若い同期たちは、誰もがバアさんのコトバに返事のひとつもせず、バアさんの方を見さえしなかった。あたかもバアさんが存在しないかのように。バアさんは若者に話しかけつつも、「ああ、おばちゃん1人で話しているね」とつぶやいていたものであった。高齢にもなって掃除のパートをやっているバアさんは、大変だ。腰を曲げてまで重いゴミを担いでいる姿は泣けてくる。それを無視するのは忍びなかった。だから私はこのときのバアさんにはこちらから話かけて、すこし立ち話をしなどしたものであった。
このときのバアさんとはあまり多くは話さなかったが、このバアさんもまた、研修寮の様々な情報を持っているはずであった。今になって考えてみると、こうしたバアさんに挨拶ひとつしなかった為に恨みを持たれて、秘密の行動について暴露されるリスクは結構恐ろしい。そして、挨拶して立ち話したぐらいで喜ばれて、自分の知らない同僚達の人間模様や会社の慣習について聞くことは、それはそれで大きな武器となる。それを考えると、研修寮の同期たちはリスクを犯し、そして得られるかもしれない情報を得る機会を逸するという、2つの損をしていた。Weak
Ties論では自分とは遠い人間のコトバがインスピレーションとなるとしたが、こうした掃除のバアさんという物理的には近いが、意識の上ではとてつもなく遠い人間と接することは、それはそれで有益なことなのかもしれない。だからと言って、ヒマなバアさんの話にいつまでも付き合っていては、人生の時間そのものがムダになってしまうのだけれども。
35-07
多重債務削減&ODAで解決か?
サミットに於いて、アフリカの多重債務国の債務帳消しと、ODA強化が合意された。私はこの合意を評価しない。もちろん返しようもない多重債務に苛まれ続けるよりは、債務を削減ないし帳消しした方がいいには決まっている。しかし、半端な対策はしないよりも悪い。
足し算しか出来ない類の人間には、この発想を理解できまい。足し算しかできないとは、無計画であっても多かろうと少なかろうと、よさそうなことをひたすら「加算」すれば事態が好転すると考えている脳天気な人々のことだ。だが、良さそうなことでも投下する量やタイミングによっては、よけい物事を悪くもする。逆に言えば、同量の、あるいはより少量の行為でも効果的な投下をすれば最大限の威力を発揮する。ドイツの労働力集約なんかはその典型だ。残業という概念さえ存在せず、就業時間は法と雇用契約によって拡張を抑制され、かといって就業時間内で猛烈に働いているようにも見えないドイツが世界2〜3位の経済大国へ躍進したのは、労働力を効率的に集約するシステムが優れているからだ。
では、今回のサミット合意は何が問題か。繰り返しになるが、多重債務削減そのものは間違った方法ではない。今のアフリカの多重債務・最貧国は、個人になぞらえれば生涯年収を凌ぐ借金を課せられているようなものだ。しかも、利子だけで年収を上回る。こんな状況では、労働意欲なんか湧くわけがない。働いてもムダなのだから。そして生きる希望さえ持てまい。夜逃げするか首を吊るかしかない状況だ。だが国家は逃げも死にも出来ない。例え政権が交代したところで債務は引き継がれる。だから、返済可能な金額まで大胆に減額するか、あるいは帳消しにすることそのものは、多重債務がもたらす問題の解決策ではある。
再び個人になぞらえるが、返しようもない数億の借金が帳消しにされたら、人並みの暮らしを出来るだろうか。答えは否だ。なぜならばカネを借りていたのは、もともと技能もろくになく、字も読めず、健康でさえない、稼ぐ能力のない人間だからだ。だから生きるために再びカネを借りて、またしても債務地獄に陥るのは目に見えている。しかしそもそもこの人間がカネを借りていたのは、博打でも遊びでも何でもなく、技能を身につける為だったのだから。しかしカネを借りて技能を身につけようとしても、技能は身に付かず、借金だけが残ったわけだ。
つまりアフリカの多重債務国は激烈な低開発から少しは開発しようと思って、外資を導入したのだが、うまくいかなかったわけだ。これは多重債務国の支配層が愚かだからではない。そもそも素寒貧で何も持たず、金を稼ぐ能力もない国が開発を進めるのには、外国からカネを借りる以外に資金のアテはない。
だったらカネを借りなければいいじゃないかと思われるかもしれないが、大胆にカネを借りなくてもやはり国際収支が悪く債務が増える構造になっている。植民地支配で恣意的に国境を引かれて、単品栽培や天然資源採掘に経済を特化させられた国は、国家としてやっていくだけのカネを稼ぐ能力を独立時からほとんど持っていない。だけれども外国からモノを買う必要はある。医薬品や電気機器はおろか、衣類や農具、燃料、些細な雑貨に至るまで自国で生産できないからだ。一度欧米めいた生活スタイルと文物が採り入れられた今、もはやそれ以前の採取狩猟生活や原始農業生活には戻れない。植民地を手放した欧米は、旧植民地を消費社会化して未だに支配しているのだ。さらに言えば、モノカルチャー化によって穀物生産は破壊され、一方、衛生・医療が多少なりとも導入されたことによって乳幼児死亡率が多少なりとも下ったことによって、食糧さえも輸入しなければ十分ではかったりもする。黙っていても、借金が膨れあがる仕組みになっているのだ。非道く残酷な構造である。
だから結局のところ、借金を帳消しにしたところで何の解決にもならないのである。だけれども、借金を帳消しにするのは大変なことだ。友達に貸した1万円をなかったことにするのとは違う。債権は、資本市場に於いて取り引きされている為、急激な帳消しは為替・証券・金利に影響を与える。こうした債権をひどく面倒な手順を踏んで帳消しにしたら、先進国は多大な労力を「加算」して問題解決に当たったのだから、やることはやったと思ってしまう。これが問題なのだ。根本的な解決ではないから借金が再び膨らんでも、「自分はやることをやった」からと関心を失ってしまうことにもなりかねない。さらには1度債務帳消しをしたら、2度同じことをするのは経済的にはもちろん、政治的にも精神的にも難しいことである。だから、債務帳消しだけをしても問題解決を一層複雑にするだけだと言っているのである。
根本的解決・・・などというものがどんなものかはわからないが、ありそえな解決策としては内発的発展が挙げられる。つまり最貧国の民衆を教育し、技能を身につけさせて、稼ぐ能力を高めるのである。まさか今いる人口を中性子爆弾で殲滅するわけにも、再び石器時代に戻れと言うわけにもいくまい。すでに消費社会に組み込まれている人々が借金をせずに暮らせるようにするには、稼ぐ能力を高めるしかないのである。だがそれはODAでは不可能だ。
ODAは、冷戦は遺物のようなものだ。つまり第二次大戦で傷ついた国には復興を、低開発国には開発をする援助としてのカネなのだが、その本当の目的は復興・開発ではなく、被支援国の政権を自陣営に組み込むことにある。確かに、日本の東海道新幹線や黒部ダムなんかは米国からのODAで建設され、日本の戦後経済発展の一因となった。ドイツやフランスもマーシャルプランによって復興を遂げた。が、これらの国々はもともと工業国だったから、カネを政府にくれてやれば効率的に開発に使われ、利得が国民に分配されて国が発展したのだ。
しかし工業化がほとんどまったくされておらず、官僚制の整備は未発達で、国民のほとんどは字さえ読めないような低開発国にカネを出したところで、経済発展は難しい。技能もなく、字も読めず、健康でさえないが故に貧しい人に、多少のカネを渡したところで自己投資に使えるだろうか。しかもこれは低利ではあるが借金である。これでは、ますます事態を悪化させるだけではないか。
最貧国には、カネを出してもなかなか身に付かないような仕組みが出来上がっている。政府間援助が来ても、権力層とその取り巻きが私腹を肥やし、国民生活はさらに悪化するのである。「私腹を肥やす」と言っても援助金をそのまま全額ポケットに入れるわけではない。一応ダムや道路を建設して開発はするのだ。だが、きちんとした経済発展プランを立てる人材もなければ、ダムや道路ひとつで経済成長が見込めるほど商工業が発達しているわけでもない。その為、どうして建設計画はテキトーになる。
何の意味もない場所に道路を引くなんてザラだ。それならばまだしも、カネが尽きたら途中で道路は終わり、それどころかダムさえも建設途中で放置されることもある。しかし建設をすれば業者が肥大化する。そして業者はさらなる利益を求めて政権にカネを出し、政権はそれに応える。先進国の汚職の比ではない。権力層とその取り巻きが相互の利益を享受するだけの為に無意味な乱開発を繰り広げる構造が固定化されてしまうのだ。だから、ODAなんかやってもヒエラルキー頂点の連中が肥えるだけで、役に立つ開発が為されることはなく、一般住民が利益を得ることもない。
しかもカネがムダになって利益を生まないだけならばまだマシだ。乱開発は害悪をもたらす。無意味なダムや道路は水質を汚染し、土壌を破壊する。自然環境に依存している一般住民の生活は極度に悪化するのだ。農業や漁業が破壊されれば、経済状態はよりわるくなる。だからこそ、政府間援助は罪深いのである。
住民の所得と生活水準を上げる為には、繰り返しになるが、教育して技能を身につけさせて、現金収入を得られるようにするしかない。「学校を作れ」と政府が政府にカネを渡してもおそらくムダになる。だから外部の人間が現地に乗りこんで、現地の底辺の人間に対して直接教育を施し、最貧層−就中、女性−から底上げしていくことこそが有効である。途上国(先進国でもだが、途上国では特に)最貧層は女性が多い。しかもそうした女性の子供達は、教育を受けるカネがないどころか、食うために幼いうちから働かなくてはならない。だから女性によりよい収入を得られるように教育をするれば子供は労働をせずに教育を受けられるようになり、教育を受けた子供はやはりいい仕事に就けるようになる。こうした発展させていくことこそが肝要だ。だから先進国には、ガルトゥングが言う中枢国の中枢が周辺国の中枢を橋頭堡とする為のODAなんかではなく、直接人民を教育することにこそカネを出した方がよいのではなかろうか。
35-06
院試
私は時間の経過が早いと感じることはあまりないのだが、今年度になってからは異様に早い時間が過ぎるような気がする。というのは、一応受ける予定の院試が迫っていることと、それに対して準備が十全に進んでいないこととが相まって、焦燥感を覚えているだけのことか。
院生になること自体は、この大学院重点化と少子化、2007年問題(団塊大量退職のことではなくて、ここでは大学全入実現のこと)に揺れる日本に於いては、そう難しくない。規模の小さな無名大学も大学院を次々と開設してはいるが、当然定員割れもいいところで開店休業状態という。それを考えれば、政治学研究科(あるいは法学研究科の政治学専攻か、国際関係研究科。どちらにせよ専攻するのは国際政治学とやらだ)などという割と数のある研究科に潜り込むこと自体は、そう難しいことではない。学士号とカネさえ持ってくれば、経営の苦しい大学院は喜んで迎えてくれることであろう。私は別に教授のようなポストにつきたいわけでなくて、もっと別の目論見を持っているのだが、最悪、そのような開店休業大学院で自分なりに研究めいたことやって、一応の修士号を取れれば、それはそれでいいのかもしれない。だが、それには大変な問題がある。
1つ目は、そうした開店休業大学院のある大学は、いわゆる無名大学であること。正直に言うが、そういう大学の学部生はレベルが高くない。高くないというか、もっと正直に言えば絶望的に低い。きれい事を抜きで言うが、前の会社ではそうした大学を出た人間がたくさんおり、私は有名大出身者としてある程度の差別意識は持っていた。
だが、現実は差別意識よりも奇なりだ。私は、22才を超えてそれなりに人生を積み上げてきてそして大企業に入職した人間は、難しい専門書を読めないまでももう少しマシだと思っていた。しかし実際は、小学校程度の漢字の読み書きも十分に出来ず、中学程度の簡単な英単語も発音できず、意味も分からず、10文字以上の接続詞を用いた会話を出来ず聞けず理解できず、業務と社会生活に重大な支障を及ぼすレベルでバカであった。この現代の義務教育が普及した日本で、想像以上にバカな人間が存在し、しかもそれが学士の給与をもらい、社会人面して闊歩していることに私は衝撃を受けたものであった。
私が前を会社を辞めた直接的な理由はもっと別なところにあるが、周囲の圧倒的大多数の人間があまりにもアホすぎることに絶望しきっていたことも確かだ。大学院生ともなれば、ゼミ等で学部生のお守りをさせられることもあろう。だが、出来ることならば、もう少しマシな連中と接したいものではある。
2つ目は、専門を何とするかという問題だ。一応ロシア政治を専門としようとしているのだが、政治学研究科は数多けれど、ロシアを専門地域とする研究者はそう多くはない。もちろんトルクメニスタンの専門家やモルドヴァの専門家に比べればロシア研究者はわりといる。だがどこの大学院でも指導教官として求めることが出来るほどは多くない。そしてロシアを専門とする研究者が存在する大学院は、けっこうレベルが高めなのである。だからこそ、私は大学院入試に相応の点数をとれるように善処せねばならない。
3つ目は、ロシア語をしゃべられる研究者の問題だ。ロシアを専門とする研究者はそこそこいても、ロシア語を使いこなせる研究者は必ずしも多くはないい。滅茶苦茶な、明らかに誤ったロシア語を講釈する研究者もいると聞く。さらに言えば、ロシア研究に必ずしもロシア語は要らない。英語が読めればある程度可能なのだ。アメリカに留学して、ロシアを学んだ研究者というものも存在する。こうした、ロシア語をあまり出来ない人々に習うよりは、やはりロシア/ソ連に留学して、ロシア語で論文を発表することもある研究者の世話になりたいものではある。
・・・となると、特に3つ目の条件を満たす大学院はかなり少ない。そしてレベルも相当なものである。だからこそ、もっときちんと院試に備えなければならんですな。
35-05
他人を幸福と呼ぶのは、とても勇気の要ることだ
他人を幸福と決めつける人間は、ろくな人間ではない。自分が掛け値なしに幸福で、他人も同じくらい幸福だろうと思っての発言ならば問題はない。だけれども執拗に他人を幸福だと決めつけたがる人間は、自分が不幸という自己認識を持つ人間だ。自分は不幸で、他人は幸福だという関係性を強調したくてたまらないのだ。
もしも相手が、どこからどう見ても何不自由なく、満たされているように見えるのならば、「誰それは幸福だ」などと述べる必要はない。それを敢えて言う奴は、「自分はあいつと違って不幸である」と言いたいわけである。もっと言えば、「どうせあいつの成功なんかは条件に依存したものに過ぎず、あれだけ恵まれていれば成功するのは当然だから大した価値はない。自分があいつほどの条件を持っていれば少なくともあいつ程は、いや、あいつ以上にはうまくやったし、自分がうまくいっていないのは自分の条件が恵まれていないからだ。ああなんて世の中は不条理で理不尽か」と言いたいわけだ。
もしも相手が、それなりに恵まれてはいるが、満たされていないように見えるのならば、それは少なくとも本人は自分を幸福だとは思っていない。だがそれを敢えて幸福だと言いたがる奴は、「自分はあいつよりもずっと不幸である」と言いたいのである。もっと言えば、「あいつは自分が恵まれているクセに文句を言うとは、なんてクズだ。これだけの条件でうまくやっていけないのは本人がどうしようもないクズだからだ。だからあいつの苦労や悩みなんかは、クソ同然だ。それに比べて俺はなんて苦労しているんだ。あいつよりも苦労しても報われない。ああなんて世の中は不条理で理不尽か」と言いたいわけだ。
確かに、恵まれている人間が成功するのは恵まれているからだ(恵まれているから成功するとも限らないけれども)。そして、貧乏などのハンディキャップある人間が成功するのはとても難しい。だけれども、自分の不幸を喧伝したがり、他者の成功を汚し、他者の問題を非問題化したがるような輩は、とても不愉快ではある。
そして、不愉快なだけではない。自分が不幸で他人は幸福と称する人間が、実際にひどく条件に不遇であろうと、周囲の人間と大して変わらない条件にあろうと、そんなことはどうでもいい。ただ少なくとも、こうした不幸と幸福の関係性でしか自己と他者とを捉えられぬ発想は、決して自分や周囲に対して建設的な影響を及ばさない。生まれた条件に一生を左右され、努力しても報われるとは限らず、成果を残してもすぐに吹き飛びかねないのが世の中と言えども、不幸とやらに安住する態度は社会を停滞させる。そして個々人が向き合っている問題を個人の人格の問題に矮小化させることは、決して世の中をよくはしない。
だから、自分は不幸で他人は幸福という関係性を人類開闢以来の既定の事実のように扱い、喧伝するような奴は、ときどきバールかなんかで撲殺したくなる。そんなに不幸ならば生へ執着する理由など無かろう。むしろ殺してやった方が本人の為だ。
ま、自分は不幸だとそこいらで喧伝している奴は、決して自分で首を括ったりはすまい。そういう人種は、自分は不幸だから優れていて、他人は幸福だから劣っているという僻みに満ちた優劣関係でもって、精神の安定を保っているからだ。
私は死んだことがないし、本当に身近な人間では自決した者がいないため推測でしかないが、恐らく首を吊る人間は、他者が幸福かどうかということなど問題にはすまい。他者への羨望など、所詮生への執着を持つ人間の発想だ。それどころか積極的に死を望む人間は、この世に幸福なるものが存在するという発想も持ち合わせていないかもしれない。
だから、他人は幸福で自分は不幸だと執拗に執拗に喧伝する輩は、屈折した優劣関係がもたらす快楽に浸っているだけであって、死ぬことはまずあるまい。むしろ死ぬのは、こうした連中に幸福だと言われている方かも知れない。自分は自分を幸福と思っていないのに幸福と執拗に決めつけられ、自分の問題に理解を示すどころか矮小化され非問題化されて問題を抱えているということそのものさえも認められず、成功しても恵まれた条件にせいにされ、失敗すれば恵まれた条件があるのにと強烈に非難され、いかなる行動に対しても何の認証も得られない。これは大変な人間疎外状態だ。
他人の神経を逆撫でし、あらゆる行動や情緒を貶めるという意味に於いても、自分は不幸だとし他人は幸福だと喧伝する輩は、ほんとうにどうしようもないですよ。
35-04
自殺大国への内側の視線
日本は自殺大国である。
WHOによると人口に占める自殺者数はワースト10。
ワースト1〜9位がロシアやウクライナなどの旧ソ連、そしてハンガリーなどの旧ソ連衛星国である。
体制が根本から変わってしまい、これまで積み上げてきたものが全て失われ、そして人生の目標さえ剥奪された旧社会主義国で自殺者が多いことはうなずける。一生懸命何十年間働いてきても、当然支払われるべきだった年金さえ払われなくなることは、老人にとっては絶望的なことである。人生最期の華どころか、惨めな末期を迎えることになる。働き盛りの年代にとっても、これまで築いてきた技術や技能が一夜にしてゴミ同然になり、一生懸命積み上げてきた経歴も経験もムダになって、ただの無能者として放り出されることは、どれほど過酷なことだろうか。若者にしたところで、「勉強して学校を出て、いい会社に入ればそこそこの暮らしが出来る」という程度の、それなりの暮らしを送るモデルが社会に存在しないことは絶望的なことだ。
自殺はそんなことをする個々人が精神的に弱いとか、人格が劣っているとか、能力がないとか、そんな簡単な問題ではない。自殺は個人の病ではなく、社会の病である。人生の大半を犠牲にしてきた努力がすべてムダになり、再び何かをしようにしても方向性さえ見出せず、何かしたところでそよ風が吹けば再びムダになるような世の中で、いったい個々人の努力や根性がどれほどの意味を持とうか。人間は自分で考えて情念を抱いているようで、結局は環境に左右される生物だ。こんな環境において、意欲や生き甲斐を持つことは不可能だ。
だが、日本は何が問題なのか?
日本もまた、労働市場と資本の全世界化と高速化が進展することによって、先の予想の付かない社会になっている。従来の産業社会では、テキトーに学校を出て、会社に入り、徒弟制のごとく会社に自分の人生を一体化させて技能を伸ばしていけば、それなりの生活を送ることが出来た。だけれどもこれからのポスト産業社会は、努力が報われるとは限らない社会なのだ。
もちろんどんな時代でも努力すれば必ず何かに繋がるわけではないが、ポスト産業社会は不確定性がかつてないほど高い。どんなに努力と犠牲を払って技能を身につけたところで、もっと安価な労働力を求める経営側によっていきなりクビになるかもしれない。エスタブリッシュされていない労働者(非熟練で特別な技能や経験もなく、労組などの組織も持たない、限りなく弱い存在としての労働者)を好きなときだけ好きなように使うのがポスト産業社会だ。
今の日本には、奴隷さながらに不景気の底辺にあるИНКから連れてこられて、飯場みたいな寮に押し込まれ、その土地の最低賃金でこき使われ、必要なくなったらすぐに解雇される労働者がたくさんいる。こうなっては、自己投資をして専門性を高める金銭的・時間的余力などなく、貧困層に固定化されてしまう。それどころかこんな生活では精神さえ病んでしまう。こうした若者の多くは、結婚さえ出来ないだろう。いや、こうした「フリーター」労働者は若者ばかりだというイメージがあるかもしれないが、実際はИНКの小さな会社が潰れてどこにも行き場が無くなった中高年も少なくない。若者には希望などなく、中高年にも絶望しかない。死にたくなるのもわからないでもない。
家がそれなりに裕福で、専門教育を受けて専門職になったところで、それとて安泰ではない。「勝ち組」とかいうコトバで分類される高度専門職の人々でさえ、ある日突然、解雇されることがあるのがポスト産業社会なのだ。アメリカの大学院で情報と金融工学の学位を取ったコンピュータと金融のプロでも、インドやロシアのより安い専門家に職を奪われてしまう。こんな世の中で、「勝ち組」などというコトバが如何に無意味か。自己投資と苦労の挙げ句に、突然クビになって再就職もままならず、ずっと低い賃金で専門性を活かす余地さえない単純労働を強いられると、死にたくなるのもわからなくもない。
だけれども、こうした動き自体は全世界的なものだ。特に先進国では顕著だ。なぜ日本がポスト産業社会の荒波に揉まれている先進国の中で随一、自殺率が高いのか。ついでに韓国も日本に次ぐ。これはとても不愉快なテーマではあるが、研究対象としては意義深いだろう。
ただ私が何よりも不愉快に思っていることは、周囲の日本人の多くは、同胞の自殺に対して人格論で簡単に切り捨てる傾向にあることだ。人格的に弱い、精神的に弱い、能力が低い云々・・・。挙げ句の果てには、「最貧国では生きるのがやっとで、多くの人間が飢え死にし、多くの子供が成長できない。それに比べて豊かな日本で生まれて自殺する奴はクズだ」などと、無意味な比較でもって片付ける。
「俺は世界一不幸な人間だ」とか抜かしているアホがいたら、下には下がいることを述べてもよいが、「日本は豊かだから不幸なわけがない」とするのは乱暴すぎる。人はパンのみで生くるに非ず。3食と水道電気とトイレットペーパーがある暮らしができればそれで十分ならば、時給640円で寮と工場とを往復するだけで使い棄てられる生活に固定化された人々もそれだけで幸福ということになるだろう。とんでもない話だ。
メシを食えない人間よりは、メシを食える人間の方が不幸ではないかもしれない。だがメシを食えることが幸福とイコールなわけはない。しかし「メシを食えない人間もいるのだから、メシを食える奴は幸福だ」で話を終わらせてしまうと、社会の病・構造的な問題を分析し、改善させることを阻害する。問題を問題でなくしてしまうのだ。これはとても罪深いことである。
そもそもメシを食えずに死んでいく人々が暮らす重債務国から取り立てる国で暮らし、貧困を固定化・深化させている企業で働き、あるいはそうした企業が調達してきたレアメタルを組み込んだ電気製品を使った上で、「世の中にはメシも食えない可哀想な人達がいる。それに比べれば自分達は餓えていないから幸福だ」と抜かしたところで何の説得力もない。人殺しは我々なんだよ。現地の独裁者や先進国の支配層や多国籍企業の重役や投機的資本家ばかりが悪いわけではない。この経済構造の上で利益を得ている人間すべてが罪人だ。それを差し置いて何を言っても虚しい。
一方、私は自分が屍の上に文明的で豊かな生活を送っていることを自覚している。そして、この生活が失われるのならば国際的従属関係の解消を望まない。エゴイストの悪党の人殺しですよ。だけれども私は、自分の身近な同胞たちが、取りあえず3食メシを食えている同胞たちが、疎外や人間性剥奪に苦しむことは看過できない。なぜならば、遠い遠いアフリカの民よりも、近所で暮らしている労働者の方が自分の明日として共感と危機意識を持ちやすいからだ。そして、自分が現在多くの同胞が苛まれているような疎外や剥奪に苦しみたくないからだ。身近な問題だからだ。そのため私は、日本人を自殺させるような問題が改善されることを希求している。だから同胞の自殺の多さを、人格の問題や能力の欠如、あるいは不運で片付けたくはない。
少なくとも重債務国に関心を向けない人間が、他人の不幸を重債務国を持ち出して相対化することに、何の生産性も公益性も存在しないことだけは確かだ。その上で他人を幸福と呼ぶことは、とても罪深いことだ。社会の問題を非問題化して個人の人格へ矮小化し、現状肯定と現状維持をする言説なのだから。
35-03
シュレッダー
今年度一杯で引っ越すか、それともこのまま居続けるかはまだわからない。だが、引っ越しの可能性を含んだ人生の転機を迎えつつあるのは確かだ。だから、PCにせよ周辺機器にせよ本棚にせよ、しばらく新しいものは買い控えるつもりだ。恒久的とは言わないまでも、長い年月動かないという確証を得るに至ったら、大型の本棚や新鋭PCなんかを買いたいところだ。
あともう一つ欲しいのは、シュレッダー。こんなものゴミ箱に刃がついた程度の代物ならば2000円程度で買えるのだが、問題は置き場がすでにないということ。置き場だけでなく、コンセントまでない。空いているコンセントがこの家にはひとつもないのだ。もちろんアイロンや掃除機をかけるときは無理矢理コンセントを空けて使っているが、常時開いているコンセントがある家じゃないとあまり電機製品を増やしたくないわけだ。
まあ個人情報だのプライバシーだのとしゃらくさいことを言うつもりはないが、やはり住所氏名や電話番号が入った紙切れは裁断しないとゴミに出せないですよ。もちろん私の出したゴミ袋を掻っ払って、腐敗した生ゴミの中から領収書や宅配便の伝票を盗んで、その情報を悪用する人間が出るとは考えにくい。金持ちや魅力的な女性ならば詐欺師やストーカーが情報収集するかもしれないが、私のようなむさ苦しくで貧乏な男から得られるものは少ない。けれども、ゼロとは言い切れない。私に恨みを抱いている人間が、ゴミを掻っ払って情報を嫌がらせに活用する可能性を絶対否定できるほど私は楽天家ではない。
それにもっとありそうな問題としては、近所のトラブルがある。私が適切にゴミを出しても、ゴミ収集人の怠慢で私のゴミが残り、近所のじいさんが1つ残された私のゴミを開封して出した主を調べ、不法投棄者として弾劾されることなんかは容易に考えられる。それに、テレビの音や足音がうるさいとか、あるいはそうした注意への逆恨みといった日常トラブルでも、ゴミが悪用される可能性はある。「大したことがない」「共同体で解決するべき」とされるが故に近所トラブルは法整備がされておらず、司法や警察もほんど介入できないのだが、司直の介入も罰則も予想されないからこそ近所トラブルは際限なくエスカレートして戦争になることがしばしばある。そのときのゴミは最高の武器になる。情報の悪用はもちろんのこと、わざとゴミ出し規則に違反したゴミをでっちあげて、そこに盗んだ領収証をまぜて他の近隣住民にターゲットを迷惑な人間だと認識させようとか、回りくどくて信じがたいほどアホなことが近所トラブルでは行われうるのだ。
そう考えると、ゴミに情報を残していいことはひとつもないのである。やはりシュレッダーは欲しくなるのではある。今はハサミや手で裁断しているのだが。
35-02
「営業向き」と称される人間が、必ずしも営業成績がよいわけではないし
陽気で饒舌なことや、テレビなんかで広く頒布されている話題を次々提供して話を途切れさせないこと、滑稽なことや下ネタを次々思いついて他人を笑わせることを称して、「コミュニケーション能力が高い」と思い込んでいる人がとても多いが、不思議なことだ。それは接触し続ける能力ではあるかもしれないが、意思を疎通することとは必ずしもイコールではない。ましてや、調子よくアホな話を際限なく続ける宴会屋を、「営業向きだ」と称する人は何をどう考えたらそう思うに至れるのか。
私の知人に、自動車のディーラーを長年やっている人がいるが、その人物曰く、「調子の良い宴会屋が一番役に立たない」そうだ。役に立たないとは、車を売れず、他の事務作業も誠実に出来ず、カネにならないということだ。ここではセールスの話に限定するが、1つ200円程度の少額商品ならば威勢良く声を張り上げて安さ品質を簡単な文句で連呼し、客の外見や連れの家族に対して調子の良いことを言うだけでも、そこそこ売れるかもしれない。だが、車のような生活必需品ではあるがとても高額な品の場合にこそ、営業マンの腕が問われる。そして件の知人曰く、一番売るのは「寡黙かつ誠実な人間で、他業種からセールスへと転進した人間」らしい。一方、学校を出て、「自分は酒飲めて饒舌で友人が多く陽気だから何でも売れるだろう」とセールスに飛び込んできた連中ほど役に立たないとか。
そりゃそうだ。100万200万というカネを稼ぐのは大変なことだ。人生の時間の相当な部分を注ぎ込んで、やっと手に入れられる金額だ。しかもそのカネで買おうとしているモノは、自分や家族の日常生活を左右し、さらには命にも関わる商品だ。車を買うときは、誰だって慎重かつ真剣になる。
車が欲しいときに、ちょっと酒飲んで面白かっただけの友人のノルマの為に、車を選びを決める人はそうそういないだろう。もちろん車の購入は販売側との付き合いが大きな意味を持つ。しかし、それは仕事上付き合いのある人間に利益を与える為に買う場合が多い。純然たる個人的な付き合いの場合だって、単なる楽しいだけの宴会屋ではなく、助けてやりたくなるような生真面目で誠実な人間や、あるいは自分に親身になってくれた善良な人間に利益を与えたくなるというもの。
商業的にも個人的にもディーラーやセールスマンと繋がりがない場合は、流行の文句を次々に口にして、面白いことを言って笑わせる軽薄っぽい人間よりも、コトバはそう巧みでなくても必要な要求を引き出し、的確に情報を提示するマジメに仕事をこなす印象のある人間の方が信頼できるというもの。今の自動車営業は、客がネット等で十分に情報を下調べした上で来店しているので調子のいい口八丁手八丁は通用しない。そして今の時代のセールスマンに求められている能力は、必要な情報をその場で的確に提示するリテラシー能力+その情報を信用させる態度・雰囲気だ。だから軽薄っぽい印象のある人間は、営業には向かないのだ。本当は真摯な人間でも、軽佻浮薄っぽいと思われるような話ぶりをする人間は信用の面でどうしても不利だ。
ついでに人のコトバの引用ばかりでは説得力がないから、自分の話を。私は前職で短期間、比較的低額の商品の個人営業を行ったことがある。営業課以外の人間が、短期間だけ営業に投入される制度があったのだ。正社員ならば避けることが出来ない賦役であり、ノルマもある。一方私は、無口な堅物だから営業向きではないだろうと上司や先輩に言われていた。が、結果として北海道全体で2位の売り上げを出した。札幌支社ではなく、北海道総支社でだ。
別に、ごく短期間の動員時に瞬間的な好成績を出すことぐらいは、別に大したことではない。ただ、相対評価でトップクラスに出たということはそれなりに意味のあることだ。この成績は私が優秀なわけではなくて、周囲がアホだということを示している。あまりにも軽薄な感じのしゃべりしか出来ない人間や、応対マニュアルを一字一句棒読みするだけの人間ばかりだった結果かと。私はマニュアルの体裁や構成を無視して自分なりの段取りを考え(もちろん契約に関わることは変えるわけはない)、商品や契約について勉強し直し、相手にとって利益をもたらすであろう点を強調して話しただけなのだが、フタを明けてみれば後から契約書とカネを送ってくる人々が多かった。
私は自分のコミュニケーション能力が高いとは決して思わない。むしろ低いだろう。ただ、必要なことが何か聞き取って、必要なことを応えようとする意思はあり、その為の努力は惜しまないし常に伝わっていない酌み取っていないという感覚に怯えている。自分の言うことは相手に伝わっているに決まっていて、相手の言っていることを自分は完璧に聞き取っていると疑いもなく思っている人間よりは、自信がないだけミスは少ない。だけれども、基本的にはコミュニケーション能力が低い私の生兵法でさえ、本職の営業課の先輩方を抜いてしまったというのは、どういうことかね。もう辞めちまったけれどもあの企業は、営業部門を梃子入れすればもっと伸びるのではないだろうか。技術者ばかりではなく、営業マンも余所から引き抜くなどしてもわるくないだろうに。
まあ何はともあれ、陽気に調子のいいことを饒舌にしゃべる人間はコミュニケーション能力が高く、営業向きだろうという言説を、脱構築したくてたまらんのであります。
35-01
人間ならばそこいらにいる
日本の少子化は言うまでもなく決定的な流れだ。最近NHKでは少子化対策の特集が組まれているが、だからどうしたと言いたい。子供をつくるもつくらないも、個々人の自由。生物として不自然だの命を受け継いできた者の義務だの、クソくだらない発想は吐き気がする。そんな論理がまかり通れば、子供を作らないという選択をする者は反倫理的な罪人となり、オーディナリーなセクシュアリティを持たぬ者は異常者としてしか見なされず、生殖能力に問題を抱える人間はクズゴミということになり、生殖能力が衰えた中高年もとっとと墓場に行くべきということとなる。「自然」の名を傘に来た暴力ほど横暴で不愉快で他者を蹂躙する発想はない。
そもそも少子化問題を、最近の若い者はおかしい、根性がない、自分勝手だなどと、個人の人格に帰結させるなんてあまりにもくだらない。個々人の人格にすべてを見出そうとするのは安易にすぎる上、まったくもって非生産的だ。人間などというものは、自分で考えているようで周囲の環境に影響される。ガキをつくらせたいのならば、ガキをつくれと訴えるのではなく、そのように仕向ける環境・条件作りが大切だ。そしてガキを作って育てるには、日本の環境はあまりにも後進的だ。先進国の中ではこれほどまでに旧態依然とした社会は他にはあるまい。今の日本は、ガキを作って育てるのが経済的にも社会的にも大変なのだ。育児・出産・児童福祉に関する制度も設備も足りない上に、十全に機能さえしていないのだから。こんな中で、子供をつくりたがらない若者はおかしい、自分勝手だ、生物として云々と言ったところで虚しいだけだ。
一方私は、少子化上等だと思っている。生みたくなければ生まなければいい。それで国が滅ぼうと、地球人類がいなくなろうと、知ったことか。今生きている人間がそれなりに幸福を享受して、自らの思想信条と価値観念を蹂躙されずに生きることが出来れば、それでいい。そうしたものを踏みにじってまでも、生めよ増やせよなどと叫ぶ必要はない。自分の家が自分の代で終わろうと、それを選ぶのは個々人の勝手だ。家も民族も国家も種も、いつかは終わりが来る。恒星も惑星も、宇宙でさえもいずれ終焉を迎える。永続するものなんかはない。命を受け継ぐとかいう倫理観に、それほどの説得力はないように思える。
それに今の日本人があまりガキをつくらなくても、日本国は滅びない。国連試算によれば、日本は2050年までに1700万人の移民を受け入れないと社会を維持できないという。これは逆に言えば、移民によって社会が成り立つということだ。結構なことではないか。医学の進歩と普及によって、出生率が爆発的に増えて過剰人口に苦しむ地域もある。そうした土地の人々が入ってくれば、需要と供給が一致する。
さらに言えばね、私は民族的純潔に極めて保守的な性向と、タコツボ的世界観が大嫌いなものでしてね。たかが1700万人程度の移民が導入されても、そうそう簡単に混血が進むとは思えないし、国内にエスニックグループがそれぞれ固まって存在するようになるだろう。だけれども、いずれ想像の共同体が変質してやがてはぶっ壊れることを期待しますよ。少なくとも、多文化主義に絶望的に非寛容な社会が変わることを願うよ。自己と他者の違いを受容するどころか、他者性というものがこの世に存在するという発想さえ理解できないような連中には、様々な土地からの出身者とせめぎ合う暮らしの洗礼を。
ついでに移民=犯罪の増加=脅威とかいうわけのわからん言説による表象に終始しないように。移民制度をきちんと整備し、社会に労働・教育・生活環境の受け皿を作れば、そうそうぶっそうなことにはなるまい。少なくとも、今の不法入国・不法就労なんかの連中と一緒に考えてはならない。それよりも私としては、日本人失業者によるウルトラナショナリズムの方が心配ですよ。