last up date 2005.10.09

36-10
井戸に唾を吐くな

 ロシア語の大先輩と酒の席でご一緒したのだが、そのとき言われたこと。


 外国へ留学をしても、どこにでも日本人はいる。大学の寮では日本人同士が連んで、大して勉強もしないで酒飲んで日本人同士で日本語を話すことに終始する連中がいる。正直こういう奴らは国に帰って欲しい。勉強の邪魔だ。
 だけれども、敵意を示してはならない。もちろん一緒になって遊びほうける必要はないし、誘いにいちいち乗る必要もない。だけれども、軽蔑を顔やコトバに出すな。狭いロシア関係界で、敵を作ってよいことはない。ろくに学ばずロシア人とも接しない連中が大成するとは思えないが、それでもどんな人間と繋がりを持っているかは分からない。こちらが敵意や軽蔑を示せば相手もこちらに対して敵意を持つ。それが不利益に繋がる可能性がある。特に、いざというときに、こういう人々が案外有力な在露日本人に繋がりを持っていることもあるし、何か助けてくれることもあるかもしれない。
 特に、ロシアは1人で日常生活を送るのが難しい国だ。日本や他の先進国のように、些細なことでも過ごし方やり方を誰かか事前に説明してくれるわけでもなく、説明書や案内書が配られるわけでもない。すべて口コミの世界だ。そんな中では、繋がりを保っておかなければやっていくのが難しい。日本語しかしゃべれない日本人でも、もしかすると助けになるかも知れない。
 だから敵意を示さず、軽蔑を顔に出さず、適度な距離を保っておけ。あとは、自分が一生懸命日々勉強して努力していれば、「自分達と付き合わないのは人格がおかしいからではなくて、勉強に一生懸命な人だからだ」と勝手に思ってくれる。「勉強熱心な人だ」として、くだらない会合へはあまり誘わなくなるが、一方ではある程度評価をしてくれるようになる。こうなったらしめたものだ。そう思わせておいて、いざというときに頼ると、役立ってくれるかも知れない。


 これはまさに、ロシアの諺でいうところの、Не плюй в колодец - Пригодится воды напиться.ですな。訳すれば「井戸に唾を吐くな。その水があなたの役に立つかもしれないのだから」。まあ弱い繋がり持つ人間を幅広く保持しておけば、それが思いがけず役に立つのはWeak ties論そのものだ。だけれども、ロシア界やロシア生活ではそれがさらに大切だと言うことですか。
 まあ誘いを断られただけで「侮辱された」と錯覚する人間もいるし、熱心に勉強や仕事に打ち込む人間に好感を持たない人間も少なくない。自分が出来ない努力や集中を出来る人間に敵意を覚える人間や、自分が出来ないことを出来る人間を不気味な存在として他者化する人間もいるだろう。ましてや、「出来る奴」は自分を軽蔑している嘲笑していると、漠然と根拠もなく妄想する人間だっていよう。だから私は、大先輩が言うほど「敵を作らないこと」が容易だとは思わない。けれども、自分から軽蔑や敵意を露骨に表してよいことがないことだけは確かなのかもしれない。


36-09
情緒(じょうしょ)を軽視するな

 困難に際して情緒を軽視する人間は、幼稚な人間だ。「情緒を軽視する」とは、怒りや哀しみ、不快感といった情緒を、「我慢すればそれでいいもの」として単純に片付けることだ。あるいは負の情緒の働きそのものを「細かいことをいちいち気にする心の弱い人間の所業」と見なすことだ。とんでもないことだ。


 何がとんでもないと言えば、まず第一に、怒りや哀しみの原因が例えば不正義や不条理だった場合、なぜそれに堪えることが真っ当な方法で、怒り憎み悲しむことが稚拙なことになるのか。こうした情緒は事態の改善や解決へのエネルギーとなる。結局、情緒を抑えることを美徳とする発想は、現状追認的なものに過ぎない。つまり異常な構造でも、それを維持することによって利得をえる人間の発想だ。あるいは、理不尽に堪え不正義を犯しても、事態が悪化しない、このまま利益を出し続けられるとする脳天気で甘い発想だ。


 そして第二に、情緒はもちろんコントロールせねばならないものではあるが、堪えればそれでいいというものではない。ましてや、心を動かさないように訓練することなど出来るはずもない。人間は自分で考え、自分で思いを抱いているようで、環境に情緒を依存している。そして情緒に発想、行動のパターンを依存している。小さな不快感でも、累積し、継続し、終了の見込みがないような場合、当人以外の人間にとっては些細なことでも1つ1つの事象が凶悪な刃となる。そうなると人間の情緒は掻き乱れ、発想は常軌を逸し、行動は不安定になる。企業において人間なんて所詮交換可能な部分的存在である。しかし安定して働かせる為には情緒を安定される環境が必要なのだ。そうすれば情緒に依存する発想・行動も安定する。


 人間の意志力によって、情緒のコントロールをするよう求めるなんてナンセンスだ。それは、無茶な勤務環境を改善せずに、「事故を起こすな」と作業員に命令さえすれば、それで事故は起きないとする幼稚なリスク管理に似ている。リスクコントロールとは、根性と気合いと集中力でヒューマンエラーを抑止しようと試みる(そしてミスの際は全責任を作業員に帰する)ことではなく、事故を起こしにくい環境を整備することだ。そして事故が起きても対処できる、大事になりにくい環境を整えることだ。情緒の不安定によって起きる効率悪化、ミス、事故、発病、暴力、自殺等を防ぐためには、自律ではなく外因的な環境整備が有用である。


 という程度のことがなぜわからん人が跳梁跋扈しているのかね。自分がそんなに何事にも動じない程強靱な精神をしていると言いたいのかね。そんな人間と会ったことはないが。どんな人間でも環境と条件次第では仕事がおかしくなったり、病気にもなったりする。鬱病になったり自殺したりする人間が特別弱いわけでも異常なわけでもない。環境と条件次第ですよ。これを軽視する人間の、なんと幼稚なことか。そしてなんと社会の効率性を阻害し活力を削いでいることか。
 そして自分が悪徳や不条理に対しても、「ただ堪える」「黙認する」以外の選択肢しかとらないというのか。このコンプライアンスが重視され、細かい不正が急所となりうるこの時代に、何でも堪える黙認するという姿勢をとって騒がなければよいと何故言えるのか。幼稚すぎる。いや、もちろん物事を変えること、事態を改善することはとても大変なこと。最終的には、堪えるしかないことも多々あろう。しかし(行動するかどうか以前に)問題意識を持たないのは最悪だ。こういう無関心や「騒がないこと」を大人の態度だとする錯覚が、一日やそこいらで変えられる程度の無意味な慣習的な問題を、あたかも人類開闢以来の神聖な伝統であるかのように、何年も続けさせる。まったく。


 取りあえず、情緒にまつわるコトバを聞いたら「幼稚だ」としか言えないような人間は、5.45x39mm弾で蜂の巣にした方が社会の為になるような気がするが、如何か。就中、不幸比べに話をすり変える奴はどうしようもない。つまり「オレの方がもっと非道い事態を知っている」「オレなんかこんなに非道い仕打ちに遭っている」という意味不明な理由によって、他者の問題意識や義憤や改善意欲を「恵まれているくせに悲しんだり怒ったりするとは幼稚だ」と称して、問題意識を個人の人格的欠陥として片付け非問題化する人間は、火あぶりにした方が良かろう。


36-08
翻訳の難しさ

 日本語でしか表現できないものを、和露辞典なんか引いて無理矢理露訳したものに機械的に置き換えればそれでいいと思う人は、何を考えているのだろうか。翻訳がそんな簡単に済むわけがない。


 例えば「焼きそば」に関して研究社の和露辞典は「жареная вермишель по-китайски」とある。これは日本語に戻せば「中国の麺を焼いた/炒めたもの」という意味にしかならない。жареныйは「焼いた」「炒めた」両方の意味があるので、焼肉のように火で炙ったのか、フライパンに油をひいて炒めたのかもわからない。第一焼きそばは、中国の麺から着想したものかもしれないが、日本独自の食い物だ。だから「жареная вермишель по-китайски」という文字列は日本の焼きそばを知っているロシア人にとってさえ、焼きそばを連想させるには不十分なコトバ。ましてや焼きそばを知らないロシア人は、この文字列を見てもよくわからないはずだ。そして、こんな説明調のコトバに興味を持つわけもなく覚えるのも困難。だから商品名は、「炒めた麺」を連想させるようなコトバを新たに造り出すか、あるいは日本語の「ヤキソバ」という音をそのまま「якисоба」とキリルにした方がよほど訴えかけるものがある。もし説明が必要だったら、下に小さく「жареная вермишель по-китайски」とでも書いておけばよい。


 だけれども、某所の連中は日本語音のキリル化を「それではロシアの人はわからない」と一蹴し、そして競うように研究社和露辞典を引いて、次々に「жареная вермишель по-китайски」というコトバを読み上げたり、スペルをボードに書いたりする。これを読み上げ書き出してどうする気だ。店の看板やチラシに「中国風の麺類を焼いたか炒めたかしたもの」と書けば、少なくとも中国風の麺類を焼いたか炒めたかしたものが売られているとわかるだろうけど、そんなことに何の意味がある。
 こんな長い文字列、読まれるか?長くなればなるほど文字は当然小さくなる。歩きながら、目に入ったこの文字列について、どういうイメージを持つ?いちいち考えるか?そもそも考えようとさえしないのではないのか?貴様ら、街を歩いているとき「ロシア風の根菜のトマトスープ煮のサワークリーム添え」と書いている店に入るか?我々はロシア語関係者だから興味が惹かれるし何のことだか一発で分かるが、一般の日本人が何のことだかこれで分かるか?興味を惹かれるか?そもそもこんな長い看板を漫然と歩いている通行人が読んで、何だか想像しようとすると思うか?「ボルシチ」と書いて、現物を持ったロシアの若人の写真でも掲げた方がよほど訴えかけるのではないか?


 だから、焼きそばも絵や写真でもつけて「якисоба」の一言の方が訴える。必要ならば下に小さく説明でもつければいい。貴様らに、キャッチコピーのセンスはない。アニメの輸出でも日本語の必殺技はそのままの音で外国でも使われている。アニメのアメリカ版では、漢字を並べた必殺技を英語で意味が通るように長くつまらない説明に置き換えていると思っているのか?祖国のソフトパワーの強化を担う我ら語学業者が、和露辞典からそのまま持ってくればそれでよしとするとは、なんという怠惰か。
 外国語をそのまま移植するのとてうまい方法とは限らないのだが、その国に存在しない物品や概念、習慣を翻訳するのは本当に大変なこと。似たような意味のコトバに置き換えると、自国の習慣と混同されて差異性がわからなくなる。「焼きそば」を「вермишель(ロシアの麺類の一種)」と置き換えたら、麺類であることはわかっても、何がどう違うのかわからない。意味の通るコトバで最大限事物の特徴を表したところでどれだけ伝わるか。上述の「中国風の麺類を焼いたか炒めたかしたもの」のようにしたところで冗長かつ説明調で、それでいて対象物を知らない人にどれだけ近いモノを連想させられるか。「焼きそば」をそのまま「якисоба」としても確かに意味不明だ。メニューならば写真や説明文、物語ならば文脈で補助しなければまったくの意味不明だ。そしてまったく新しいコトバを造り出す手もある。現地の人間がそれらしいイメージを連想させるような語感があるコトバを。
 何にせよ、新しい事物を紹介するとき、どの方法をどう選べばどういう印象を持ってもらえるか、定着するか、定着した後どんなイメージやステレオタイプが付きまとうかは判断が難しい。存在しなかったものを紹介するコトバの導入って、すごく大変なのである。少なくとも機械的な置き換えでうまくいくわけはない。


 結局、看板作成段階で私が制作者にねじ込んだ為、このときの看板は「якисоба」の一言+絵となった。それがどれほどの効果があったのか無かったのかはわからないが、売り上げは極めて良好となった。こういう些細な事でも、人間の能力の片鱗が窺い知れるというもの。小事をうまく出来ない奴が、大事をこなせるわけはない。少なくとも模擬店の看板も機械的翻訳しかできない奴は、実戦の通訳や翻訳ではより苦労することであろう。


36-07И
多言語化しよう

 今日は無条件降伏の日ですな。日本は1945〜46年の間に、公用語に英語かフランス語かロシア語を指定していれば、大分多文化主義に寛容な国になっていたような気がしないでもない。日本語を廃止しろって言ってんじゃなくて、多言語化を進めた方が思考の幅が広がり、別の視点から物事を考える習慣が身に付くということね。一般論として。
 この、集団的引きこもりに陥りがちな民族。自分とは異なる発想が存在することそのものを理解できぬ人々の跳梁。異質な発想や意見に対してはその内容の優劣ではなく、相手発言者を「自分と同じ考えを持つに至れない」として、それのみを根拠にして相手を視野狭窄の頭に弱い人格的にも未熟なクズとし、他者の声を完全否定することしか出来ぬ人々の跋扈。こうした思考回路を強制的に正すには、やはり多言語化が効果あるのではなかろうか。


 ちなみに、多言語化ってのは、飲み屋で商売している外国人のにーちゃんねーちゃんとくだらないこと話したり、ちょっと外国渡り歩いて最低限の生活用語と簡単な世間話を出来るようになることではない。こういう程度のレベルには、コトバの用法を疑えない、自分にとってのコトバの意味づけやイメージが他者にとっては違うかも知れないという発想さえ持てない人間でも、達することが出来る。意味や印象の相違が大して問題にならぬような会話しかできないということだから。ヘタすれば他者とのコトバへの意味づけや印象の相違に気付かず、トラブルがあれば一方的に相手がひどいことをしてきたと思い込むような、脳内ヒキコモリでもこの程度にはなれる。
 無知の知ではないけれども、コトバに誠実かつ謙虚になることね、多言語化ってのは。もちろん自国語に対してもだけれども。常に自己にとってのコトバと他者にとってのコトバが違うかもしれないとの疑いを持ち続けて、常に相違があるとの前提でその存在と程度を見極めようとし、意味づけを近づけようとする努力なくして、意思疎通はできませんよ。仕事でも学問でも世間話でも。ましてや日常の卑近なことであろうと何かの共同行動を行うときには、相違の存在を疑う姿勢がないとどんな支障が出ることか。


 だから多言語化は難しいけれども、試みる価値はあるのです。
 もっとも、コトバが出来ると豪語しており、実際にネイティブと意思疎通らしきことをしている人間でも、自己のコトバに添付して意味や感情が相手にそのまま伝わっていると確信し、他者のコトバから受ける自己の解釈/印象も疑わない人間は実在するのだけれども。それでも、母国言語による認識構造を他言語で揺るがしてみることは面白いわけです。


36-06
自然科学的な根拠があるときこそ問題なのに

 以前ブログでも書いたけれども、血液型で人間の人格を判定しようとする発想の罪は、それが非科学的だからではない。本人の意思や努力と関係のない、たまたま産まれ持った形質の為に、人格を判定されることこそが罪悪だ。もし自然科学的に血液型による人格の判定・分類が可能だったとしたら、事態はますます悪化する。遺伝的体質的な傾向性を強引に個々人に当てはめ、安易に人格を判定することは人格的利益の侵害である。ましてや、その判定を基に待遇や付き合いが左右されるのならば、重大な差別となる。


 米国ではすでに、健康診断に名を借りて遺伝情報の採取を行い、「癌になりやすい」「犯罪を犯す傾向にある」とされる遺伝的形質を持つ従業員を、解雇するようになりつつあると伝えられている。もしこのような判定が為されて昇給や解雇が左右されていても、そのことは当人にはわかりようもない。これはとても恐ろしいことだ。だから、血液型その他の情報から人間性や発病率、犯罪率を導き出すことは、それが「自然科学的に正しい」とされていればいるほど、恐ろしいのですよ。かつて人種に医学的な優劣があるとしていた連中が、60年も前に欧州で殺戮を繰り広げていたことも、既にその恐ろしさを示している。


 ということを言っても、何故に理解しない人が多いのですか。少なくとも私がこれを口にして理解されなかったことの方が多いような。「血液型占い批判」とはすなわち、「非科学的」か「子供が学校でいじめられる」ぐらいしか思いつかない人間が、なんて多いのだろうか。まったく恐ろしい世の中だ。この程度の意識と認識しか持たない人間には、ヒトゲノム研究の成果を利用したプロパガンダを打てば、容易に自己と他者へのステレオタイプを植え付けることが出来そうだね。


36-05
「悲劇のヒーロー」ぶっているやつは、まだ余裕がある

 自分は「不幸」だと思っている人間、ましてやそれを喧伝する人間はとても不愉快だ。何故かというと、これは、相対的に他人が「幸福」だという発想だからだ。私がこのサイトに於いて数十回は書いた文句だが、つまりこういう発想ね。
・自分がうまくいかないのは自分が「不幸」だからで、他人が成功するのは「幸福」だからだ。
・「不利な条件」の中で行われている自分の行為やその結果は尊く、「有利な条件」にものを言わせての他人の行為や結果はゴミ同然。
・「不幸」な自分は他人よりも不利だから何をやっても許され、「幸福」な人間は自分を看過し、さらには自分に奉仕して当然。
とかいう、ナメた発想なわけだ。自己特別意識の、最も非生産的な発露の仕方と言えよう。


 自己特別意識もプライドも選民思想も必ずしも悪ではなく、生産に結びつくことがある。「すばらしい自分なるもの」や「他者との差違」の実現・維持の為に、努力する原動力となり得るからだ。だけれども、「自分は不幸で、他人は幸福」というイカれた相対的関係でもって、自己特別意識やらプライドやらを満たそうとしても、決して生産的な結果はもたらされない。努力や創意へのインセンティブをもたらす発想ではないないからね。これは自分は何もしなくても許され、何も出来なくてもよく、それでいて他人の努力や成果を貶めることが出来、自分は他人に慮れ認められることを当然と見なす発想だから。


 自分が「不幸」であることが他者への優越の根拠となるかのような発想なので、私はこれをしばしば「不幸の優劣関係」と呼んでいる。以下、そのように呼称する。この発想は、前述の非生産性・他者の才能や努力へ唾棄・自己の無能や怠惰への甘さだけでも不愉快だ。だけれどももっと不愉快なのは、こういう連中の「不幸/幸福」の認定の仕方ね。
 こういう連中は大抵自分の「不幸」を過大に扱い、他人をほぼ無条件に「幸福」としている。そして自己と他者との間に「優劣関係」をもたらす(と錯覚される)自己の「不幸」が軽視されることをとても恐れている。だから自己の「不幸」と他者の「幸福」を喧伝するわけだ。その方法は様々であるが、興味深いことにこうした連中は、自分自身のことを他者に当てはめるような言い方をするのをしばしば耳にする。つまり、他人がちょっとした不平不満を言ったり、あるいは少し落ち込んだりしている場合に、あるいは何も言っていないのに勝手に相手が「自分は不幸だ」と思っていると妄想して、相手こそが「不幸の優劣関係」を持っているとして非難するわけだ(当然その後には自分の「不幸」とやらの宣言が続く)。つまり、「お前は自分が一番『不幸』だと思っているのか」「お前のような恵まれた奴が『不幸』なものか」などとして、相手が「自分はこの世で最大の不幸な人間である」と僭称しているかのように非難するわけだ。それはお前だろう。


 こうした「不幸の優劣関係」の麻薬中毒患者は、とにかく他人が不平や不満や嘆きや絶望に敏感なんだよね。「悲劇のヒーロー」きどりのクズほど、他人が落ち込んでいると(あるいは他人を落ち込んでいると解釈すると)、相手を「悲劇のヒーローきどりのクズ」として弾劾しなければならんようで。しかし別に、落ち込んでわるいということはないし、ましてや自分の「不幸」とやらと他者が覚えた「不幸」とやらを比べても何の意味もない。
 むしろこうしたヒステリックな反応は、他者がストレスや抑圧状態を解消することを阻害する。人間は、どうしようもない問題でも、他人に聞いてもらえば少しは楽になるものだ。しかしこうした相談や愚痴の類は、必ずしも「お前は幸福だからいいよなァ、俺なんてこんなにも不幸なんだ。だから俺に奉仕しろ」と言っているわけでもないのに。しかしそのような優劣関係でもって自分の「不幸」を語る人間ほど、他者の不満や愚痴もまた、その手の発言に聞こえるようで。不思議だ。
 さらには、不満や怒り、失望などといった負の感情は何かをするエネルギーにもなる。組織や制度の問題を提起して、解決するキッカケになるのは(他人のであれ自分のであれ)ストレス以外にありえない。不満を語ることから建設に繋げることも出来るのである。しかし「不幸の優劣関係」に閉じこもっている奴は、やはり仕事や社会に対する不満はすべて「俺がうまくいかないのは世の中悪いからだ。世の中わるいから俺は何もしなくてもよい。世の中は変えるべきだがそれをやるのは『不幸』な俺ではない。とれあえず『幸福』なお前がどうにかしろ。とっとと『不幸』な俺様が生きやすいように世の中変革しやがれ、ド畜生が」としか聞こえない。それはお前だ。
 文句や批判、不満を言うことは生きる上では必要なことだ。そして生産に繋がることもある。だけれども、「自分は『不幸』だから何もしなくてもいい」「お前は『幸福』だから俺に奉仕しろ、この畜生が」という発想しか持ち得ない人間は、どうしようもないですよ。


 そしてさらに思うのは、絶望に対する「不幸の優劣関係」患者の姿勢ですよ。こうした連中は絶望なんかしていない。自分は「条件が悪い」と言っているだけで、条件が整えばうまくいくと思い込んでいる。自分は「不幸」と称しているが、他人は相対的に「幸福」だと思い込んでいる。こんな世界観の持ち主は、決して絶望なんかはしていない。絶望している人間は、この世に「幸福」や「うまくいく方策」があるなんて思わない。ましてや他人が誰しも自分よりも「恵まれている」とも、自分「だけ」がうまくいっていないとも思わない。だけれども「不幸の優劣関係」に基づいて精神を安定させ、非生産的な快楽を貪る連中は、絶望を抱いている人間に対しても、自動的に自分と同じような発想をしているとしか思えないようだから、どうしようもない。本当にどうしようもない。
 ま、何でも自分の「不幸」とやらのせいにして、他人を無条件に「幸福」と決めつけて成功も努力も貶め、自分に便宜を図らず自分を評価せず自分の「不幸」をも認めない人間を人格的に劣っていると思い込めば、これ以上楽なことはない。こんなにも安楽で心地よいものはない。こうした人間は日常的に抑圧を解消し続けているので、とても精神状態が安定しているはずだ。絶望に至ることはないだろう。ましてや自分で首を吊ったりするようなこととは無縁かもしれん。だけれども、こんな頭の悪く、他者を貶めることを前提にした不愉快な習性を持つ人間になるぐらいならば、絶望に苛まれている方がマシ・・・とは思います。


 絶望ってのは本当にどうしようもない状態。もちろん境遇や他者との相対的関係に物事を転嫁することなど出来ず、この世に幸福や成功なるものがあるとも思わない。抑圧の解消方法も成功プランを(他人事としても)見出せない状態。ほんとうにどうしようもない状態。決してなりたくもない状態。だけれども、自己の「不幸」と他者の「幸福」を既定の絶対的真実として捉える思考をするよりは、マシかと思われます。なんというか、ここでの対比は、ディオに強引にキスされた後、清水が流れているのにわざわざ泥水で唇を拭ったエリナみたいなもんです。はい。


36-04
社交辞令でなくて

 私には未だに不思議でたまらないことがある。
「また今度、遊びに来てくれ」
「近くにお越しの際は、是非お寄り下さい」
「今度飲みに行きましょう」
といったコトバは、社交辞令と判断することもできる。もちろん、本当に誘っているのかもしれないが、社交辞令かもしれない。というのは、時期が「今度」など具体性がないからだ。私には、来て欲しくもない、あるいは本当に来るわけがないと思っている人間に対しては、こんなことは言わないのだが(駆け引きで必要なときは言う場合もあるけど)、世の中には定型句としてこのような文句を言う習慣があるらしい。まあここまでは大したことではない。


 問題は、「いつ」「どこへ」行くか明確に指定しておきながらも、言った本人にとっては社交辞令か挨拶でしかないつもりの場合だ。私は2度こういう事態に出会したが、今もって不思議で仕方がない。具体性のない曖昧なコトバならば、社交辞令や挨拶の定型句と判断することも出来る。しかし、「いつ、どこそこに一緒に行こう」と言われて、私も「そのようにしよう」と返事をした場合、これは「約束」と違うか?それとも私の感覚の方がいかれているのか?
 具体例を挙げよう。2つしかないので2つとも挙げる。


 1度目は予備校時代。予備校は全寮制の寮で、外出を含めた生活のあらゆる場面を厳しく管理されていた。そんな中、日曜日だけ2時間自由時間が与えられており、これが何よりも楽しみだった。私は2時間という限られた時間の中で、デジタル時計で移動時間・滞在時間を計算して池袋のアニメショップや同人誌専門店へよく行ったものだった。もちろん戦利品は寮では禁制品なので、その隠し方なんかも気を付けたのだが、それは割愛する。
 そしてある日の夕食時、A氏に「次の日曜、晴天、一緒に出掛けようか」と言われた。ちなみにテーブルの座席は決められており、1年間変わらない。だから同じテーブルのA氏とも、しばしば話すことはあったし、予備校への登下校一緒になることもあった。休日にどこぞに行こうと言われても不思議ではない。本当は、目一杯東京の二次元的な空気に浸かろうと思っていた私としては、単独行動できないだけで休日の価値がゼロに等しくなる。それに私は、いつでもストーカーのように私の登下校に合わて追い掛けてくるA氏を内心では嫌悪していた。だが私は、寮に於ける平和と安全の為に、誘いに乗った。四六時中顔を合わせる寮では、敵を作るといつどこでどんな不利益を受けるか分からない。


 だが、肝心の日曜。自由時間になるとすぐに、「仕方ねえ、約束したもんな」と思いつつとA氏の部屋まで行ってノックした。すると、ドアを開けたA氏は明らかに動揺していた。本当に来るとは思っていなかったという。ふざけるなお前、先週のメシのときにお前の方から「一緒に行こう」と言っただろうと私は怒り狂ったが、それでもA氏はただ不思議そうな顔をしつつ、「いや・・・だから・・・単に言っただけだ」などと口にし、ますます私を怒らせた。不思議なのはこっちだ。
 もし私が寮一番のクズで、私に話しているような体裁をとって、実は第三者に対して「行くわけねーけど、晴天の奴と今度出掛けてやるぜー」のごとく冗談を言っているのならば理解できる。だが、私はあの寮でそんな位置づけにはいなかったし、A氏こそ孤立気味だった(だから、モンロー主義政策をとっていた私を同類と勘違いして、私まとわりついて来ていたのだ)。私に馴れ馴れしく接したがっていた奴が、何故、履行するつもりのない「約束」を口にしたのか不思議だ。いや、そもそも正確に日時を指定して「〜しよう」と誘っておいて、「約束」という認識がない、ただの挨拶文句のつもりでいることこそが不思議だ。


 2つ目の例は、会社である。
 会社で事務作業に従事していたら、突然上司に肩を叩かれて「今日の夜、一緒にメシ食いに行くか」と言われた。肩を叩かれたというのは比喩でも何でもなく、物理的事実だ。本当は、とっとと帰って近所の弁当屋の弁当でも食いながらアニメのDVDでも見たかったのだが、つい弾みで「ええ、いいですねえ。是非お供させてください」のようなことを言ってしまった。別に断ったところで何事も起きない。このヒマ人ぞろいの企業で上司先輩の誘いにいちいち応えていては、せっかくの時間も給料もすべからく無くなってしまう。だからいちいち取り合う必要はないのだが、思わず乗ってしまったわけだ。
 そして夜になって。こちらから上司に「そろそろ行きますか」などど催促するのもどうかと思って、上司の仕事が一段落するのを待っていたら、突然思い出したように言われた。「もしかしてお前、朝メシ食いに行こうって言ったから待っているのか?」と。そして別の役職者に「あいつはマジメだから」みたいなことを言い合っている。不思議だ。


 私は「今日の夜」という具体的な時間を指定されて「メシを食いに行こう」と誘われて、私も肯定の返事をしたから、上司のお供をしなければならないと解釈したのだ。これは私にとっては「約束」である。別に私は、ナンボか払ってもらって、すこしばかりいいメシを食わせてもらうことを、少しもありがたいとは思わない。メシなんて腹が膨れて、栄養価があればいいんだ。そんなことよりも自分の時間の方が大切だ。しかし「約束」してしまった以上、その履行は義務だ。しかもこれはただの遊び仲間との約束ではなく、上司から持ちかけられて、私が応えてしまった約束だ。履行以外の選択肢があろうか。履行しない場合は、丁寧にもっともらしい事情をでっち上げて説明しなければならない。
 それなのに、当の本人は声を掛けたことそのものは覚えていても、それを「約束」だったとは少しも思っておらず、それどころか履行しようとしている私を、「くそマジメだから」などと人格が異質だとして、他者化して片付けようとする有様。私はそんなにおかしなことをしたのか?向こうから「今日の夜、晩飯を食おう」と持ちかけられて「お供します」と応えたから、当然今晩は晩飯をご一緒することになると思うことが、そんなに常軌を逸した発想か?


 この2つの事例は、私にとって未だに大きな謎であり続けている。
 そして思う。
「言いたいことははっきり言え」
「したくもないことを口にするな」
そしてなによりも、
「コトバに対して誠実であれ」


 コトバを安易に吐き散らして粗末にする人間は、イボ付き鉄球のエスカリボルグで撲殺してもいいと思うが、如何か?


36-03
お前が殺したんだろう

 私は「火垂るの墓」が好きになれない。幼い子供が衰弱して死ぬ様は、いかに喜劇よりも悲劇を好む私といえども、観るのが辛い。幼子が栄養失調になって手足が骨のようになり、意識が混濁して正気を逸し、死に至る様を描くとは、これは人間の感情としての悲哀を描いた悲劇というよりは、死とそれに至る過程そのものを描くのは露悪的だ。さらに言えば、死んだ後も夏場にしばらく放置されて悲惨なことになり、さらには炭で長時間かけて火葬にする様を描くなどグロテスクだ。そしてグロさへの嫌悪感を、戦争への嫌悪感に直結させようしているのが、どうにも安直な手法に思えてならない。
 だけれども私が「火垂るの墓」の評価を好まない理由は別にある。それは、兄が妹を殺す話だからだ。


 これは結局、自分のドロップアウトに妹を付き合わせて、妹が衰弱しているのに帰ろうとせず、みすみす殺してしまう話である。戦争が殺したのではなく兄が妹を殺した。確かに戦争がなければ、彼等は死ななかっただろう。父が出征し、母が空襲死したから、兄妹は親戚の家に身を寄せた。総力戦の中シーレーンと鉄道網を破壊されて物不足だったから、兄妹の食事は差別された。
 だけれども家を飛び出さなかったのならば、彼等は物資不足の中である程度の栄養失調になったかもしれないが、あそこまで悲惨な死に方はしなかったのではなかろうか。彼等の直接的な死の理由は、家を飛び出したこと以外に存在しない。それなのに、「戦争に幼い兄妹が殺された」「戦争の悲劇」としてしか扱われないところがどうかと思うわけでして。


 正直なところ、この話は戦時下に舞台設定する必要さえない。平成のこの世の中に設定したところで成り立つ話だ。
平成の日本に、貧しい家庭があった。
親父は遠方に出稼ぎに行ってまま音信不通、
母親は火事で死んだ。
親も家も失った兄妹は親戚の家に身を寄せたけれども、
親戚の家も苦しかった。
扶養家族が増えて圧迫される家計。貧しさへの苛立ち。
こうした親類の思いは一番弱い、居候の兄妹に向けられる。
兄妹は食事の差別などで迫害される。
迫害に堪えかねた兄は、妹を連れて河川敷で暮らすようになる。
泥棒などをして暮らすが、十分な食糧を確保できず、
幼い妹は衰弱する。
しかしそれでも兄は妹を連れて帰らない。
社会生活に戻らない。
そして妹は死んでしまう。
 時代を変えても、十分成立するではないか。


 むしろ現代劇にした方が、物語の完成度が高まるのではなかろうか。社会の中で寄る辺なき孤児の兄妹の、弱者としての悲劇をよく描ける。構造的暴力の終末点として迫害され、それに対して逃げるしか出来ない。そして妹が(そして兄も)衰弱して死にゆくのにどうしても戻れない。先進国の内なる貧困とセフティネットの隙間を描いた、ひどい話だ。誰もが忘れている、あるいは敢えて考えない、中枢国に於ける周辺を描いた物語。物語としてのテーマはすっきりする。


 けれどもこれをヘタに戦争物にして、兄妹を殺したのは戦争であるかのように扱うから、欺瞞を覚えるんですよ。戦争の恐怖は人が死ぬことではないですよ。人ならば、平時でも搾取と収奪によって夥しく死んでいる。これは無意識の加害者というやつ。我々が暮らす経済構造は軍事力の私化を促して、そうしたもたらされた紛争地のレアメタルを組み込んだ携帯電話を使っているけど、加害者という意識はないでしょう?だけれども戦争の恐怖は、誰もが明確に自分が加害者とわかる形で、人を殺しかねない状況に陥る蓋然性が高くなること。
 これは別に、銃で敵兵を殺すことに留まらない。総力戦の物資不足の中で、「兄が妹を殺さざるを得なかった状況としての戦争」として、殺人者としての兄をきちんと描けば、戦争の悲劇を描く傑作になっただろう。映画「1984」の回想シーンなど短いのに、原罪としての食糧盗の罪深さがよく描かれている。しかし「火垂るの墓」に於いては、あくまで「戦争に幼い兄妹が殺される」という構図を採らなければならないという強迫観念でもあったんだろうか。これが惜しまれる。


36-02Х
くだらん二項対立は延々と

 大学1年次の基礎ゼミの担当教官は、平和に関する記念碑のところで「祈っても平和は来ねえ!」と怒号を上げて、近辺の人間に恐ろしい形相で睨み付けられたという。勘違いして欲しくないが、彼は軍国主義者の類ではない。学生運動の闘士として、反ヴェトナム、反核、反安保を旗印に活動してきたこの教授は、戦争に関するあらゆるものを憎んでいる。そして同時に、権威化するばかりで何の実効性もなく繰り返される極めて内向的な「平和運動」をも嫌悪している。


 私もカギカッコ付きの「平和主義者」は好きではないですよ。念仏のように「平和」を唱えて、「軍国主義者」として身近な人間を叩けば、それで為す事を為したかのような気になっているから。自己流の「平和」を唱えることは勝手。問題なのは、自分の思想や発想に何の実効性もないことに気づかずに、それに適合しない意見をすべて「軍国主義的」として切り捨てる怠惰と傲慢さだ。
 彼等はseinを分析しようとせず、決まりきった簡単なsollenしか言わない。答えは出ているのだから、考えること疑うことそのものが罪らしい。かつて社会党など「戦争の研究は戦争につながる」とさえ称していた。私自身も高校に於いては、「実現可能な安全と平和」について稚拙ながらも必死に考え続けていたことに対して、担任には思想の相違と些細な趣味を根拠に、この世のありとあらゆる罪悪の権化と見なされたものであった。


 たぶん、私のような体験、つまり「平和主義」を僭称する二元論者に、些細な意見や趣味を掴まえて「戦争の権現」のような扱いを受けた人間は少なくないだろう。それに対する反動が明確に現れたのが、丸山眞男のいう悔恨共同体意識が世代交代によって薄まった近年のことではなかろうか。
 「平和主義」に対する反動主義者めいた連中の言うこともまた、なんとも不愉快極まりない。彼等もまた、自分にとっての戦争観に反する言葉を吐く者をすべて「アカの類」と決めつけることしか出来ぬのだから。これでは丸山眞男が1950年に発表した「三たび平和について」で嘆いた二元構造の、一方の側が勢力を躍進させただけで、何も変わっていないではないか。


 この相互依存の経済社会の中で、戦争などというカネのかかることはなかなか起きない。しかしこれは先進国やそれに準じた国の話である。ライフルや中古の装甲車と輸送ヘリだけで十分な活動が出来るアフリカの貧困国に於ける戦争は、ますます激化していくことであろう。
 そう、戦争が起きているのだ。冷戦終結後にアフリカで紛争が激増しているのは単に「たがが外れたから」に終始しない。誰か少数の極悪人が悪いわけでもない。問題は冷戦後世界の構造性そのものにある。人間は自分で考えて行動しているようで、自らが於かれた環境に選択を左右されている。この構造に従って企業は軍事化し、民族は争い、先進国民は豊かな消費生活を享受しているわけだ。


 この構造性に目を向けることなしに、何が「平和主義」か。
 自分がどのような構造の上に生活しているいるか知らずして、何が「戦争観の再構築」か。
 いい加減、このクソみたいな二元対立から離れて、戦争と平和にまつわるすべてのコトバからくだらんイメージを排除して、安全保障論と平和論について研究をしたくなる。少なくとも、戦争について少し自分の意見と違うことを言う奴がいたら、「軍国主義者の権化」としか言えない輩も、「反体制運動家のアカ」としか言えない輩も、seinを見ていないという意味に於いては同じで、貶めるべき反対者を設定することによってしか自分の位置を確認することしか出来ない。


 まあ学ぶことと疑うことをやめて、自慰的な自己完結した思考に終始してはいかんわけです。
 これが、某教授からの強烈なメッセージだったわけだ。
 私はそう解釈している。


36-01
涙が・・・

 私は一時、突然涙があふれ出して、目を開けていられなくなる症状に見舞われた時期があった。別に感情の高ぶりや精神的な疾患などではない。眼科的な問題だとは思うのだが、この症状が出始めたとき、眼科に適切な治療ないしアドヴァイスをされたことは一度もない。せいぜい、涙腺の活動を抑える目薬を渡されてお茶を濁されるだけだ。まあ眼科的な疾患ではなくて、例えば汗や皮脂が目に入り込んで浸みただけかもしれないし、空気中の微細なゴミが目に入っただけかもしれない。単なる眼精疲労かもしれない。だけれども、突然涙が溢れだし、猛烈に目が浸みるような感覚に襲われ、目を開けていられなくなったが為に、何度困ったことか。


 この症状の正体が何であれ、周囲の人々はこういった事態に陥ることがないらしく、突然私が涙を流し始めたら、泣いているようにしか見えない。それが困りものだ。何てことのないタイミングならばいいんだ。ただ歩いているときや座っているときに、私が猛烈に涙を流し始めて、どうにか症状を緩和しようとメガネを外してハンカチで目をこすりなどしていたら、「お前、何泣いてるんだよ」と言われても、「いや、目にゴミが入った」とでも言えば、相手は納得する。それ以上は関心を持たれない。


  だが、私にとって辛い状況と他人が判断しうるシチュエーションに於いて発症したら困る。私は、くだらないことを本気で忌避し合うような連中が辛い苦しいと思うようなことにあまり感想も持たないのに、たまたま目の問題で涙を流した為に、くだらないことで悲しんでいると思われるのはシャクだ。そして本当に多少なりとも辛い場合でも、いい年をした男が泣くようなことは滅多にない。それにも拘わらず、 たまたま涙腺が暴走してしまったが為に、大げさに悲しんでいる根性無しのクズだと思われるのもシャクだ。そしてシャクなばかりか、今まで大した困難に当たったこともないものを知らないクズで、人格的に脆弱で、困難に打ち勝つ能力に劣るとまで思われ得るから、非常に迷惑な症状である。目の問題で突然涙が出るという事態を想定できない人間にそのことを説明するのはとても難しいし、一度「悲しんで涙を流している」と思い込まれたら、何をどう言おうとごまかしているとしか見なされない。これは他人のせいではないのだが、どうにもシャクに障る話ではある。


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