last up date 2005.11.27

37-10
羨望しているうちは絶望していない

 死にたいと思う奴には、死にたいだけの理由がある。私に、それをとやかく言うことはできない。だけれども看過できないのは、「自分は不幸」で、一方「他人は幸福」だとするコントラストで世界を捉える人間だ。本当にどうしようもなく絶望しているときは、この世に「幸福」「成功」「安定」といったものそのものが存在しないとの発想に至るのではなかろうか。


 「幸福」や「成功」が他人にあって、自分にない。この発想は、自らが描く世界観の中に望みを見出せないという意味に於ける絶望ではない。自分に「幸福」や「成功」がないのは条件が悪くてうまくやれなかったからだ、あるいは自分にそれらがないのは他人に奪われたからだ、などという妄想に物事を帰結させている人間は、おそらく死ぬまい。まだ自分の「不幸」や「不成功」を何かのせいにしていられるだけ、精神の安定を図る余地があるからだ。


 だが、私がこの世で最も憎む感情は羨望なんですよ。羨望によって世界の道理と物事の因果関係を整理すると、人間はいかれた発想しか出来なくなる。自己は「不幸」で他者は「幸福」であるという鋳型に、耳目に入る事象のすべてを無理矢理当てはめる異常さを、疑えなくなる。自分にとっての不都合や失敗を自己の境遇や他者の悪徳のせいにする短絡回路を、脳神経に造り上げてしまうからだ。こういう人間は口では辛気くさいことを恒常的に吐きながらも、図太く生き抜くことであろう。


 こういう人間には決して好感を持てない。その行動に信用も出来ない。あくまで相対的な問題だが、羨望によって生き抜く人間よりも、心底絶望して自決する人間の方がまだ共感の余地がある。自らの死や世界の滅亡を祈りながら生きる人間にはまだ同情や共感の余地があるかもしれないが、自らの死や世界の滅亡を祈ると同時に「幸福な他者」への羨望や憎悪を吐き散らす人間には、決して共感の余地などないってことだ。


37-09
ゲームじゃないのだ

 情緒(じょうしょ)と言うべきか、精神と言うべきか、それとも神経と言うべきかはわからない。が、とりあえず「精神」としておこう。精神へのダメージを、数値で表されるRPGのHPとダメージのように捉えている人ってどうにかならんか。他人のことについて「そんなことは大したことがない」と矮小化し、自分のことについては「誰もが受けたことがないような大ダメージ」として喧伝したがる輩は、どうも精神の耐久力とダメージなるものを、万人普遍の数量として表せるとでも思っているのだろうか。


 肉体へのダメージは、棍棒でぶん殴ればだいたいの人間は大ダメージとなるし、素手でちょっと引っぱたいたぐらいでは大したダメージとならない(もちろん「ちょっと引っぱたいただけ」でも、条件によっては視神経が切れるなどの大ダメージとなるが)。だが、精神に受けるダメージとやらは、環境とタイミングとそれまで神経系が受けてきた刺激の蓄積などの諸条件によって決まる。まったくもって何が大ダメージとなるか、なんてことないかを量ることは自分にとってさえ困難だ。他人にとっては何がわかろう。


 私も些細なコトバ、それも今思い出しても「失言」とも「暴言」とも思えないような私にとってはなんてことのないコトバで、大の大人を泣かせてしまったことが何度かある。私にとっては、世間話みたいなものだったのだが、相手にとってはとんでもない刃となって聞こえたのであろう。まあ、泣く・わめく・怒るなどの目に見える反応を示さないまでも、コトバひとつで相手の精神にどんな大ダメージを与えるか。それはとても恐ろしいことである。そして私自身も、コトバに対して多大なる不快感を覚えたことはもちろんある。コトバそのものというよりも、そのコトバをその条件で吐いた人格に不快感を覚えるものだ。例えば、相互の利益になることをしたのに相手がそれを理解できずに非難されなどしたら、適切に評価されないことへの不快感・適切な物事を為してさえ認められない不快感・自分の利益さえ理解できない相手のアホさへの不快感など、様々な不快感が累積される。これが毎日続いて、何をやっても認められないとなれば、精神への多大なダメージとなることであろう。


 まあ難しいものですよ、精神へのダメージというやつは。ただ、木刀でぶん殴られれば大ダメージで、ちょっと胸を突かれただけならば大したことがない、というように、暴力の度合いを数量化して矮小化や過大化はしたくないものです。つーか、自分がいつでも大ダメージをくらいつつもそれに堪えているが、他人が受けていると称するダメージなんか鼻くそ同然と思っているような輩は、どうにかならんか。こういう奴は不快なだけではなくて、問題意識を矮小化し解決を遅れさせる。


37-08
もったいない。ただし時間と空間とマンパワーが。

 もったいないと称して、モノやエネルギーや金銭を大切にして倹約すること自体は、間違ったことではない。地球レベルに於いても個人レベルに於いても、利用できる資源は限られている。だが、些細な物的資源の倹約の為に、時間や空間、労力といった類の資源をムダにすることに、なぜ人はかくも鈍感なのか。


 私が今出入りしている某所では、何もかも捨てないで蓄積する風習が全職員に染みついている。カセットテープのラベルシールの残った枠でさえも、「これはセロテープ代わりに使える」などとして捨てないようなことさえ行われている。クーラーが全館にいきわたっているのに扇風機は倉庫に溢れ、携帯電話のスピーカー程度の性能しかない旧式のPC外部スピーカーも、永久に使われることもないのにコンピューター室の片隅に積まれている。ここには本当に、どうしようもない物品が山ほど積まれている。地震がきたら掛け値なしにこれらの物品の重みで、この建物は倒壊するだろう。


 倒壊はともかくとして、このゴミの山のせいで、通常業務が妨げられまくっている。どこに何があるのか、必要なものがまったくわからないのだ。ごく少数の古参職員の芸術的な感性と記憶力によって、やっと発掘されるほど。時間と労力のムダである。そして、空間のムダは言うまでもないだろう。作業するためにも、物品を秩序よく保管するためにも、空間にはある程度の余裕が必要なのだ。だが、現状は倉庫やロッカーはおろか、空き机からPCデスクのの周辺、通路にまでガラクタが積み上げられている。人に見せられないので、業務の幅を狭めてさえいる。


 もちろん事業ゴミは捨てるだけでもカネがかかる。だから捨てるのも大変なことだというのは理解できる。だけれども、毎日その日発生した不要物を捨てていけば、少なくともこれ以上堆積は防げるはずである。テープのラベルシールのガラまで束ねてそこいらに置いても、誰が再利用しようか。結局誰も使わないまま、捨てさえもされずに放置される。そうした代物が日に日に堆積していくのだ。いつか、時間と労力とカネをかけて、建物の空間を目一杯使って作業して、掃除するハメになるだろう。コンピュータ室は改装することが決定しているので、大掃除はもう時間の問題である。


 もったいないと言いつつも、時間と空間と労力という資源をムダにし、場合によってはカネをもムダにして、そしてもったいないとして蓄積された物品さえも廃棄処分にする。こんなムダがあろうか。もったいないという発想自体は必ずしも間違いではないけど、その方法には気を付けなければならない。捨てないのならば、どう使うか、どのように使える体制を保持するか。秩序ある保管をしなければ、ムダになるだけである。


 私は、吝嗇、貧乏根性、倹約、もったいない、とかいう発想には抵抗を覚える。それはひとえに、これらのコトバを絶対的に正しいかのように捉えた人々が、却ってムダや非効率をもたらすことがあまりにも多いからである。行動や発想に万人共通の正当性を添付するかのようなコトバを振り回しても、実は逆の結果をもたらすのはよくある話。


 余談だが、「外国語なんて学校で勉強してもムダ。外国で体当たりでネイティブと渡り合えばいい」というコトバを真理のように語る人間は多いけれども、これも罪深いコトバだ。何年も外国に暮らしても、最低限の生活をどうにか出来る程度のコトバしか身に付かないまま帰ってくる人間は少なくない。母国できちんと外国語の基礎を身につけた上で、さらに外国でも外国人向けの体系的な語学を受けつつ生活しないと、「めしくれ」「いくら」「このバス新宿行くか」ぐらいしかしゃべれないまま終始してしまう。「もったいない」とて、その方法論をきちんとしないと、本当に(物品であれ時間であれ労力であれ)有限な資源をムダにしてしまうだけである。 


37-07
被害妄想をコトバに出すことほど、惨めで愚かなことはない

 A氏がとてもセンシティブなことは承知している。自分を他者に受け入れられないことや、自分へのちょっとした非友好的態度を、A氏はひどく気にして騒ぎ立てる人間である。それもかなり些細なレベルでの話だ。ある時は、「オレは潜在敵として、あらゆる他者が怖い」のようなホッブズ的自然観を私が述べただけで、私に自分をも「敵」として扱われたとして怒り狂ったものだった。またある時は、モノの名前の些細な間違いを指摘されただけで、自分の全人生・全人格を否定されたとわめき立てて大暴れしたものだった。しかし今までの出来事はまだ理解できた。何がA氏にとって不愉快だったのかが明確だからだ。だが、先日の出来事はあまりにもひどい。理解困難である。ついにA氏は被害妄想によって騒ぎ立てるようになったのだ。


 先日、A氏は若い女の子であるBさんを、「ちょっといいかい?」とロビーへ呼び出した。「おいおい、いい年こいて愛の告白かよ」、と残された面々は冗談を言い合った。まあ、ちょっとした事務的な要件だろうとは思っていた。だが戻ってきたBさんは、皆に言った。「何を言っているのかまったくわからなかった」と言いながら彼女が話しはじめた内容には、皆騒然とした。A氏は、自分についての情報を故意にBさんがバラまいているとして、彼女を責め立てたのであった。ついに被害妄想に基づいて他者を非難するようになったか!これはいよいよもって、危ない。


 A氏がBさんによって漏洩されたと思っている情報の内容は、「A氏が外国人の女と付き合っていたこと」を上役であるC氏が知っていた、ということである。A氏は少し前まで外国人の水商売の女性と付き合っており、大金注ぎ込んだあげく最近逃げられた。この話を知らない者はここにはいない。彼自身が女に逃げられるまで、その女の写真を見せながら何度も何度もあちこちで様々な人間に話したことである。なぜそんな誰でも知っていることをC氏が知っていたからと言って、Bさんを責めねばならないのか。


 ただ、A氏は女に逃げられるまで、男女の付き合いの上での悩みを、Bさんによく相談していた。Bさんはそんな話聞きたくもなかった(と本人が明言している)。ただ、BさんはA氏の鬱陶しい相談をはねつけることが出来なかった。私を含めた他の人間は、もともといけ好かない人間であるA氏の、騙されているに決まっている女についての悩みを聞く気などなく、最初から相手にしなかった。だからA氏は唯一話を聞いてくれるBさんに、悩みをあれこれ打ち明けて自分の精神の抑圧を解消したのだ。


 そんな、わざわざ相手をしてくれたBさんに対して、難癖つけて責め立てるとは何事か!誰も相手をしない鼻つまみ者の相手をしたばかりに、鼻つまみ者に過度の依存をされ期待をされた挙げ句、ふとしたキッカケで「裏切られた」と身勝手な発想を持たれ、最初から無視していた人間よりも強く憎まれるようになるのは、よくあること。誰も相手にしないような人格異常者に、情けをかけて相手をしてやっても、話しかけてくるのをはねつける勇気がなくて相手をするハメになっても、結局相手をした人間が一方的に恨まれる。不条理だが、よくあるパターンだ。Bさんは何もわるくないのに気の毒でたまらない。


 しかも、A氏がBさんに打ち明けた相談の内容は、大声で人前で話していたのだから、私だって知っている。さらに言えば、C氏が知っていたのは、「A氏が外国女と付き合っていたこと」という一言の内容に過ぎない。A氏がBさんに対して打ち明けた相談とはまるで関係がない、あまりにも簡単な情報に過ぎない。さらに決定的なことは、A氏自身が自分の女性問題についてC氏に話したのを私は聞いている。バカか!?A氏が女性関係について話したC氏が、A氏の女性関係のことを知っているのは当たり前。それなのにどうして、第三者であるBさんが自分の女性関係について吹聴した、と考えることができるのか。しかも、「建物のあちこちに情報を吹聴している」という、妄想まで付いて。このイガチキ!


 そもそも30代の男が大学出たての若い女の子を呼びつけて、「お前はオレのことをあちこちで吹聴して回っているだろう」と非難することそのものが、常軌を逸している。例えBさんが本当に、A氏について悪辣な意思であることないこと吹聴していたところで、呼びつけて追求しても何一つ事態は解決しない。それどころか悪化する。女性同士のネットワークは恐ろしい。そんなに仲がよくもなくとも、実は心の中で深く軽蔑していても、女性同士はネットワークを形成し、しかも「女を呼びつけて、『お前はオレの悪口言っただろう』などと宣う気味の悪い男」のような外敵に対しては強力な共同戦線を展開する。前々からA氏のような異常者は誰からも好かれてなかったけれども、女性陣に間で、「奴は生きる資格がない異常者。早く死ね」との合意が形成されるに至った。


 私としても、A氏のような異常者が秩序や安全を乱すことは看過できない。というか、ここまで愚かで惨めで醜悪な発想と行動をする人間がこの世に存在しうることについて、哀しくなってくる。


37-06
とんちんかん

 ロシア帰りの人が、「現地の大学の近辺では、今年は日本人は殺されなかったが、中国人留学生が2人ネオナチに殺された」と言った。ロシアに於けるウルトラナショナリズムの尖鋭化は、恐ろしいものがある。だから、ロシアに於けるネオナチの猛威は日本でロシア語を学ぶ人間にとって関心が深い。留学にせよ仕事で派遣されるにせよ、他人事ではないからだ。そしてこの話に対して、ある人物が言った。

「ネオナチは、どうやって日本人と中国人を区別しているのですか?」

 ・・・・・・。別にネオナチは「奴は中国人だ、やろうぜ!」と申し合わせて暴行しているわけでも、「あれは日本人だからやめておこう」と話しているわけでもないでしょう。たまたま目に入った有色人種を手当たり次第にぶん殴って、日頃の憂さを晴らしているだけなのだから。今年某大学の近辺で殺されたのが中国人で日本人でなかったのは、ただの偶然に過ぎない。選んでいるわけではない。なんで、ロシア語に何年も従事していて、こういうアホな発想ができるんだろうか。不思議でたまらない。いや、1度や2度のとんちんかんな言動ならば寝ぼけていることも、聞き違えて勘違いすることもあるでしょう。けれども、この人はあまりにも頻繁すぎて・・・。


 最近のでは、「モスクワの人はスラングを使わないんですか?」というのもあった。そんなの人それぞれでしょう。「東京の人は、流行コトバや汚い罵りコトバを使わないんですか」と聞くのと同じぐらい無意味な質問だ。数百万都市には、チンピラ地回りもいればビジネスマンや上級官吏もいるし、ИНК出身者もいれば生粋の都会生まれもいる。貧乏人も金持ちもいる。そんな数百万人民を一刀両断して、共通の特徴を見出すことなんか出来るわけがない。


 しかも質問の内容がとんちんかんならば、質問をするタイミングも文脈も滅茶苦茶でして。くだらない内容の質問で、他人の仕事を阻害し、他人が学ぶチャンスを損なっているのだけれども、本人がそれをわかっていないから改善のしようがないので困りものです。 


37-05
一度Aと言ったら、いつでもAでなければならんのか

 他人の言動に些細な不整合点を見つけると、猛烈にそこを追求し非難する人間がいるものだ。議論や仕事の討論ならば徹底して追求する必要もあるかもしれないが、日常の些細な言動で猛烈に追求する人間には、ちと病的なものを感じることがある。しかも不整合といっても、本当に間違っているのならばまだしも、別に間違っていない場合の方が多いのだ。過去の言動と現在の言動とでは文脈や意味合いが全く異なるのに、「いつぞやはこう言ったのに、今こう言うのはおかしい」として追求する人間は見ていて痛々しい。また、意見や見解が変わることだってあるだろう。一度何か言ったら、いつでもいかなる状況でも、まったく同じことを言わないとならんのか!?そんなバカな。


 さて、こうした人間は「間違い」と彼等が判断することを、何故猛烈に非難するのか。間違いを指摘することは自体は、まったく当たり前の行為だ。自分の労力や利益に関わることならば、細かいことでもいきり立つのは当然だ。だが、どうでもいい日常的な世間話で、何故些細なことをこれでもかと追求して非難するのか。これは不思議でたまらない。


 一番簡単な理由は、優劣関係という麻薬の為だ。他人の間違いを見出したら、間違いを犯した人間を劣ったアホな人間と見なし、それを指摘する自分は相対的に優れていると思うことが出来る。この優劣関係を確認したくてたまらない面は否定できないだろう。自己と他者とを優劣関係で捉えることは、大きな快感をもたらす。自分に自信がない人間や妄想的な自己有能感に浸る人間ほど、執拗に優劣関係を他者に口で言って聞かせて、確認したくなるというもの。だが、これだけでは理由として不足かもしれぬ。


 最近思うことは、自分の認識と異なる事象が起きることに堪えられないのではないか、ということだ。例えば、「不整合」に騒ぐ人間は、他人が何か言ったら「こいつはこういう考えの人間なのだ」と確固たる認識を構築する。そして別の時に、その認識とは異なることを当該人物に言われたらば、自分の認識の鋳型とは異なる情報を提示されて当惑するのではかろうか。「こいつは前と違うことを言って間違ったな。なんてバカなんだ」として「誤り」を追求するのではなく。つまり、自分がすでに脳に認識の短絡回路を構築している過去の言動の方こそ正しいのではないか、と確認したいわけだ。ここに於いて求めているものは優劣関係ではなくて、認識の安定である。


 どんな卑近で些細な情報によってでも、一度脳に物事を整理して認識する鋳型を作ってしまったら、すべての物事をその鋳型に当てはめて考えるようになるものだ。脳に短絡回路を作って、情報処理の効率化・高速化をしていると言い換えてもよい。これは確かに似たような物事を類型化して考えることが出来るので、一度鋳型を作ってしまったら認識に労力が要らず楽である。安定した世界観念は心地よいものだ。しかし鋳型に当てはまらない出来事に出会したり、あるいは鋳型を覆すような情報に出会したら、鋳型への依存度が高い人間ほど混乱して落ち着かなくなる。今すぐ物事を確認して確固たる認識を構築し直さないと、今日この瞬間も生きていられないような、別の宇宙に迷い込んだかのようなキモチワルさに苛まれる。だからこそ、確認したいのだ。過去と現在とで違った(ような気がする)言動をした人間に、なぜ差違があるのか、以前はこう言ったではないかと追求して確認せずにはいられないのである。前に聞いたコトバから構築して、自分の認識の方が正しいはずだろうと確認したいのである。動揺した世界観を安定させる為に惑い、焦燥している為、非礼で病的な追求となるのだ。そうとでも考えないと、優劣関係だけでは説明がつかない。


 1つ些細な例を挙げる。昔、私の誕生日を数日ズレて覚えていた男がいた。彼が私の誕生日を祝福してくれる過程で起きた出来事なので、あまり悪く言いたくないが、あまりにも衝撃的だった。さすがに不快感を禁じ得なかった。というのは、私の指摘に対する彼の反応が常軌を逸していたからだ。私は穏やかに「自分の誕生日は正確にはこの日で、君の言っている日は間違いだ」と指摘した。これは「そうだっけ?間違えてた」で済む話だ。だが彼は、私が以前間違った誕生日を記述したと称して、猛烈に私を責め立てたのだ。
 自分の誕生日を間違えるものか!彼が読んだのは、大学の部の会報が毎春組んでいる自己紹介号。本人が手書きで書いた原稿をコピーしているのだから、間違えるわけがない。私は後日5年分5冊の自己紹介号を持ち込んで、彼に提示し、私が過去にも現在にも間違っていないことを証明した。もちろんここの段階で、彼は私に侘びを入れて終わった。ただそれでけのことであるが、なんとも不思議な話である。


  この事例は、優劣関係では説明がつかないような気がする。いくらなんでも23〜4才の大人が、自分の誕生日を間違えるわけがない。それなのに「晴天は自分の誕生日も間違えるバカ野郎」だとして劣者と見なし、それを指摘したことによって優越感に浸るのはあまりにも滑稽すぎる。もっと違うメカニズムがあるような気がした。
 この背景には、彼が何故か構築してしまった私の誕生日についての間違った認識が、覆されることへの不安と不快感があったのではないだろうか。「晴天の誕生日」→「*月*日」と変換する鋳型を彼がどれだけ長い間持っていたのかは知らない。だが、誕生祝いの準備をする段階になってから会報を読み返したのならば、間違うはずがない。割と長い間持っていた認識なのではなかろうか。内容自体は些細でも、認識の鋳型を崩されることの衝撃は小さくない。だからこそ精神の安定を図るために、私を責めるしかなかったのではなかろうか。


 もちろん運転免許証で正しい日付を見せられた段階で正否は確定している。私を責めたところで、彼の認識していた誕生日が私の誕生日になるわけでもない。自分の自己紹介を間違って書くなんてこともあり得ないことだ。冷静に考えれば、「彼が間違って私の誕生日を覚えていた」以外の結論はあり得ない。なのに何故、執拗に猛烈に私が誕生日を間違ったと責め立てるのか。それは、自分の認識を否定したくない、否定されたくないからだ。自分の非を認めたくないというよりは、自分が持つ認識を揺るがされたくないと言うべきだ。そう考えた方がすっきりする。


 こんな正否がはっきりするに決まっていることでも、他人の誕生日というあまりにもどうでもよいことでも、既存の認識を崩されることに対して、常軌を逸した追求や非難を展開する人間はいるものである。これが、証拠の残らない口頭のことで、正否がはっきりしにくく、それでいて話者にとっては明確に異なる意味づけで区別して話したことについて、「昔こう言ったのに、今の話は違うじゃないか!」と食ってかかられたら、結構困りものです。さらには言ってもいないことについて、勝手に持たれたステレオタイプと言動とに「齟齬」を見出して、「お前はこういう人間なのに、こんなこと言うなんておかしい」と責め立てる奴までいる始末。これこそが、自分の認識の鋳型に当てはまらない出来事が起きて、混乱しているわけか。


 例えば、私がロシアマニアだというだけで、私が過去に階級的な言動をしたことを持ち出して責め立ててきた奴がいた。曰く、「ロシア人なんて貧民じゃないか!お前の嫌いな貧民だろう!その貧民のロシア人に興味を持つなんてお前の言うことは滅茶苦茶に破綻して、矛盾している!」と食ってかかってきたわけだ。不思議だ。破綻しているのはお前だ。
 階級意識なるものと、一国の国民そのものなどという大集団への好悪がどう関係するのかね。だいたい階級というのは、国民の構成要素の分類であって、国民そのものではない。一国の国民がすべて、特定階級からなるなんてことがあるわけがない。
 さらに言えば、私が過去に階級的な言動をしたのは、学問と教養に対する敬意がない人々を多く見てうんざりしたときのことだ。言うまでも無いが、ロシア国民にも他の国民と同じく、学問と教養のある人間もない人間もいる。さらに言えば、ロシアは混乱期にあり、学問と教養のある人間の多くが貧しい生活を強いられ、ごろつきみたいな成り上がり者が略奪同然に私腹を肥やしている時代にある。動乱期のロシアに、英米やそれに追従する日本に対して私が抱いている階級観は、簡単には当てはまらない。


 まったくもって破綻も矛盾もしていないことで、「過去こう言ったのに、今こう言うとはどういうことだ」「お前はこう思っているはずなのに、こんな風に思うとはおかしい」と責め立てられるのは意味不明だ。余談だが責め立ててきた人物は強い階級意識を持っているので、私の悪辣な言動をいさめたわけではなかろう。


37-04
「相手がおかしいから自分の主張は正しい」

 高校時代の担任は自分の言うことを認められないと、相手を「視野狭窄で思い上がった頭の悪い人間だ」と言い返してきたものだった。話題は思想や信条をめぐる抽象的な問題ではない。例えば概ね答えがはっきりしている卑近な出来事の事実関係に対して、担任の認識が間違っていたから「そんなことはしていない」「そんなことはなかった」と私は否定した。ただそれだけだ。だが担任は「オレは40年生きてきて、オレなりに考えてきたことがある。お前はそれを否定するのか。お前はいつでも自分だけが正しいと思っている視野の狭い人間だ」と言い返してきた。
 まったくもう、誰があなたの人生観や人格を論じていますかっての。私が視野狭窄かどうか、思い上がったアホかどうかはさておき、卑近な出来事に対して滅茶苦茶な妄想を語られたので否定したぐらいで、私の見識をとやかく言われたくないですよ。それとも「先生がそう言うのならば、そういうこともあるかもしれませんね」とやってもいないことをやったと認めなければならないと言うのか?バカな。


 それと似たようなことが、身近で最近起きたそうな。ロシアの文物に対する些細な知識についての話だ。ある物品の名称についてA氏が間違った。ただそれだけの話である。それに対して「それは違うのではないか」と周囲の人々が言うと、A氏は激高したという。まあ自分の言ったことを否定されると、例え自分が間違っていて相手が正しくても、気持ちのよいものではない。上記の担任のように、相手がおかしいのであって相対的に自分は正しいと思い込んで、精神の安定を図りたくもなる。そういう感情を持つことそのものはやむを得ないことなのかもしれない。しかしそんな発想に溺れていては、他者を説得・論破することは出来ないし、それどころか異常な振る舞いに対して人は不気味に思う。信用さえ失いかねない、子供じみた反応だ。
 まして、たかが物品ひとつの名称の間違いを指摘された程度のことに対して、A氏の反応は過大すぎた。「貴様らはオレを侮辱するのか。貴様ら人の人生も知らないで何を言う。オレは貴様らのような恵まれた中で安穏としてきたわけではない。オレの人生も知らずに侮辱したことを後悔させてやる」、と。意味不明だ。A氏は自分が苦労していて他人は恵まれているというと常に妄想しており、自分は苦労しているから優れていて、何をやっても自分は赦されるとさえ妄想している。
 だが、名称の間違いひとつで苦労もクソもあるか。もし自分の人生の経験とやらで、この物品に対する造詣が深いことを示したいのならば、それを述べろ。結局何もロシアの文物について知らないのだろうが。「恵まれた者」という虚構の存在に対する憎悪と蔑視。「自分だけ苦労している」という妄想を根拠として自分を能力・経験・人格のすべてで優れていると思いたがる病理。これらはA氏の特徴だ。だが、ひとつのコトバの認識の違いで、それをすべて動員して相手を「おかしい」と非難し、自分を「正しくて優れている」と主張し、恫喝までするとは異常すぎます。そんなことだから、彼はそこそこ優れた面も持っているのにそれ以上成長しないんですよ。自分を省みることがまったくできないから。成長のチャンスを自ら逃している。なんということだ。


37-03
堪え続けること数年間

 私はバッドマナーを決して看過しない。身近にいる人間のバッドマナーを私はどうしても堪えられない。もちろん殺しも怒鳴りも気が狂いもしていないのだから、堪えているのだが。例えば、上唇と下唇を密閉させるという些細なことを怠り、食い物と唾液と空気をこね合わせる汚い音を直に周囲の空気に響かせられただけで、食欲を失う。密室の車の中でそのような音を立てて大口開けてガムを噛まれたら、思わず事故りそうになる。私が見ているPC画面や雑誌を覗き込もうとして、耳元で咀嚼音を立てられたときは背筋に悪寒が走って文字通り震え上がり、殺意を堪えるのに苦労した。さらには、少しも隠さずに人の目の前で大胆にゲップをされたものならば、侮辱されたのかとさえ錯覚する。さらには講演や語学学校の貴重な講義で、携帯電話を切らず、あまつさえ話しはじめるような輩が私の貴重な機会を損ない、講演者や講師の仕事をも妨害するものならば、撃ち殺したくなる。そんなことが多すぎます。


 もちろん私にも至らないところはとても多いし、必ずや気付かずに失礼を働いていることであろう。しかし自分にも問題があるからと言って、他者の問題を指摘し糾弾してわるいということはない。イノセントな人間しか非難が許されないのならば、社会は問題を解決できない。ヨハネ8:7では罪のない者のみが罪人を罰してよいとイエスが述べたら、誰も石を投げられなかったとあるが、超越者の絶対的な真理も唯一神も事態を解決しない現実社会では、罪人同士が間違えながらも互いを罰して社会を維持するしかない。


 まあそれはさておいても、私に不快感と不利益を与える人間を、私が看過しなければならない理由などない。マナー違反というものはひとつひとつはとても小さなものだ。大したことのないようにも思える。もちろん1つ1つの不快感や不利益は、その被害を受けた方が我慢すればそれで済むようなものだ。だが、私は自己を省みず、小さな行為習慣を正そうとしない人間の人格を決して信用しないし、好感を持たない。私ならば、ちょっと言われたことは止めますよ。自分の行いがマナーに反していると思ったときは。だが、言われても止めない、それどころか注意されたことそのものを不条理で理不尽なことと解釈する人間はどうしたものか。


 咀嚼音を周囲にまき散らし、眼前でゲップをし、携帯電話の会話で他人の仕事や勉強の機会を損なうことに、いかなる正当性があろうか。メシを食うときに上唇と下唇を密着させられない障害を持っているのならばまだしも、たいていの人にとってそれは極めて些細なことのはずだ。ゲップとて、ゲップそのものは抑えられないとしても、鼻から出して音を立てないとか、横を向き口を手で押さえるとか、何か出来るはずだ。そして一言「失礼」ぐらい言ってもいいはずだ。さらには携帯電話。どんなに大切な電話かは知らないが、出るなとは言わない。せめて、廊下やロビーに出て話せ。小声で話したり、ちょっと背をかがめて机に身を隠したりすれば、それで許されると思うのは大間違いだ。なぜ些細な努力をしないのか。なぜ些細な気遣いをしないのか。それは他人に不快感を与えない為というよりも、自分の品位と評価を守る手段でしょうに。なのに、なぜその程度の努力をしない。なぜ人に言われて腹を立てることに終始する。


 こういう輩にはもう数年間注意をし続けているが、まったく事態が改善しない。あまつさえ、「そういうのはよくないよ」「マナーとしてどうか」と言ったら、強引に「ああ、**の奴の咀嚼音は最低ですよね」と別の人間の話にして非難をかわそうとする奴までいる始末。だから名指しで批判するよ。咀嚼音を響かせる■氏。ゲップを毎日数度聞かせる●氏。携帯電話でどこでも話す▲氏。君らは最低だ。そんな態度を続けていると、知らないうちに人生の様々なチャンスを逃すだろう。


 例えば、私とて他者の人生に多少の影響を与えることが出来る。だが、バッドマナーを平然と、あるいは何の疑問も持たずに繰り返すような人物に、利益を享受させる気にはならない。私には何の力もないが、多少の繋がりは持っている。属しているところにはそれなりに力のある人物がいるし、ロシア界の先輩方や有力者とも知己を得ている。能力に優れた人間ならば、そうした人々に私が紹介することもあろう。都市生活では、仲介者がいないと何も出来ないし誰とも知り合えない。Weak ties論を引き合いに出すまでもなく、私の些細な紹介が他人の人生にそれなりに影響を与える可能性は否定できない。


 だが、紹介者の目の前でゲップしないか、会食の席で咀嚼音を周囲に響かせないか、ましてや会見の最中に携帯電話で話し出しはしないかと恐れて、私は上記の連中をとても人に紹介できない。たたでさえ私のような小さな人間にとっては、他人を他人に紹介するだけでも多大なるコストとリスクがかかる。もうバッドマナーの持ち主なんかどうしようもないですよ。まあそれ以前に、私自身が彼等から受けている不快感だけでも、利益を与えようという気には決してならないが。


 このように、私程度の人間でさえチャンスを提供できたかも知れないのに、私の前でバッドマナーをしでかした為にそれを失うこともある。それがもっと長年最前線で経験を積み、パイプを広げている人々や何かの決定権や大きな影響力を持つ有力者だった場合、バッドマナーの為に失うチャンスは計り知れない。それどころか、不利益を下賜される可能性だってある。人から注意されても意に介さず、そもそも自分の行動の何がわるいのかわかっていない人間は、どこでも誰の前でも、とんでもないことをしてしまうものだ。バッドマナーはどうしようもないですよ。


37-02
認識しやすいようにしか認識できず、思い出しやすいようにしか思い出せない


 人間は物事を思いたいようにしか思えない。これを打破するのは結構大変なことだ。


 例えば私の本棚にはそこそこの量の専門書や教養めいた本がある。これを見た人間の中には、自分が本も読めないバカだから、晴天の奴が読めるわけがないと思う奴もいるわけだ。こういう奴は、「晴天は、本を大層に並べているけれども、それを読んでいない」と思いたがっている。それを後押しする情報を欲しているのだ。だから「この本はまだ読んでいない」と言ったりしたものならば、1冊ではなく本棚の全ての本を読んでいないと解釈して、「晴天はこれらの本を読んでいない」という認識を造り上げる。ほとんど無意識のうちに「この本は」の部分は捨象されて、「読んでいない」の部分のみ強調されているのだろう。
 そして、もともと持っていた予想を確信に変えるだけなので、この認識は堅牢である。しかも、自分や身近に本をよく読む人間がいない為、「身近な知人が大量の本を読んでいる」という事実が存在することをなかなか受け入れられない。こんな風にして、結構人間はもの凄く恣意的な解釈をするものだ。これは全然極論だとは私は思いませんよ。人間、結構いかれた認識をしているものです。現実を目の前にして、自己の持つイメージの方を優先させる人間さえ決して少なくない。


 さらには記憶さえも人間は改竄してしまう。これはロシア関係者の先人の事例を上げよう。満州で捕虜となり、ソ連に残留してソ連国籍を取得した川越史郎氏は、自分の記憶についてこう述べている。川越氏の部隊がソ連軍と交戦状態になったとき、部隊の指揮官は最後まで陣地に立て籠もって、砲や銃で抵抗するよう指揮した。決して銃剣突撃のごとき無謀無意味な玉砕は命じていない。その記憶自体は確かなものであるはずなのに、川越氏がこの戦闘を思い出すと、どうしても軍刀を天高く掲げて銃剣突撃を指揮する部隊長の姿が目に浮かぶという。そんな事実はないのに!
 これは戦後、「日本軍は、WWIIになってさえ、機関銃を備えた大部隊に対して銃剣突撃するものである」というイメージが広く流布し、そのような模様を描いた映画などが広く制作された影響であろうと思われる。別に、川越氏にとって指揮官が銃剣突撃を指揮しようとしなかろうと、何の得も損もない。記憶を改竄したところで、精神の安定も快楽ももたらさない。だけれども、もっとも当てはめやすいイメージの型に、人生唯一の戦闘体験という強烈な経験さえ当てはめてしまっているのだ。だから記憶さえも、人間は覚えやすく思い出しやすく連想しやすい形に、いつのまにか改竄してしまいがちなのだ。


 だから私は経験至上主義や「百聞は一見に如かず」といった発想を持っていない。もちろん他人の百聞だって同じ理由で信用できないし、その百聞を解釈する自分の認識力とそれを記憶して再構成するプロセスも信用できない。けれども、自分のヘボい目と脳で見聞きした経験を、絶対的な事実と思うこともまた愚かなことである。


37-01
うわさ

 今日、A氏が憤っていた。なんでもB氏が自分のことを歪めて周囲に吹聴していたという。


 まず断っておくが、「悪口言いふらされたからムカツク」なんて思うとはガキみたいだ、とか話を矮小化・非問題化するつもりはない。何歳になってもいい大人になっても、人間関係では単純で稚拙なことが繰り広げられる。ましてやある程度の年齢になれば、付き合う人間は友人同士でも仲良しグループでもない、利害関係だけの付き合いが多くなる。もともと仲がよいわけでもなくので異質な人間同士がせめぎ合うだけで対立が起きるし、そこに利害が絡むと悪意や不審はどうしようもなくなる。例え誰の悪意や恣意が働いていなかったとしても、自分が損をしたり、うまくいくと目論んでいたことが失敗すると、人間はその原因を他者の邪悪な企みのせいだと思いたがる。このようなゲゼルシャフトに於いて、よからぬ風聞が流されるとどんな不利益を伴うことか。決して風聞被害は、小学校の悪口と同列に考えてはならない重大な問題である。


 だけれども、A氏の判断は妥当なんだろうか。
 これ以上詳細は書かないが、どうもB氏の勘違いや聞き違いのレベルっぽい。


 そして罪があるものは他者を非難してはならない、とは言わない。そんな論理が通用すれば誰も何も糾弾できず、物事を改善できない。だからA氏がB氏を責めること自体は彼の勝手だ。だけれども、私としてはどうしても、A氏が私のことを、自分が思いたいように捉えて、その思い込みを周囲に漏らされたことの迷惑の印象が強い。結局、自分がやったことを他人にやられて、あたかも自分だけが無辜であるかのように怒っているだけなのでは。そんな風に見えて仕方がない。


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