last up date 2006.03.16

39-10
経験経験言いますが

 私は、経験という単独では大して意味のない抽象概念で、自らの他者からの優越を語る人間を信用しない。好感も抱かない。憐憫さえ禁じ得ない。

 もちろん、例えば自動車整備を20年間やってきた人間ならば、自動車整備という限定された職域に於いてそれなりの経験があると評価することは出来る。まぁ経験の長い整備士が有能とは限らないし、自動車整備といってもその内容は多様なので一概に評価できないが。

 が、漠然と「オレは他人よりも人生経験が豊富だ」とか、ましてや「自分は経験豊富だから世の中のことを人よりもよく知っている」と僭称する人間は、何を持って自己の優越と他者の劣等の根拠としているのだろうか。不思議でならない。

 しかもそういう人間が、社会生活をする上でそれなりに知る必要があることを知らずに物事を遅滞させたり、中学校を出ていれば身に付くはずの基礎知識が極端に欠如していたりするのを観るのはつらい。

 さらには、意味不明な経験を根拠とする自己有能感のあまりに、自己の認識の間違いを認めず、学習の機会を悉く逃してきた人間が、自分が物事に通じた優秀な人間だと称するのに肯定を求められたものなら、このような愚かな人間を生み育ててきた社会を原子力爆弾にて殲滅せしめたくなってくる。

 ましてや、自分のごくごく限定的な経験において自分の不確かな感覚器官で得た情報と、それについての不確かな記憶に基づいて構築された脳神経の短絡(ステレオタイプとか妄想、さらには皮膚感覚的な反応と言い換えても言い)を根拠に、世の中や他者の営みを知り尽くしたような気になっているのに出会すと、人類の知的レベルの下限について絶望するあまり、ダブルオーバッグで自分の脳髄を粉砕して、自己の思考作用とバカについての認識を消滅させたくなってくる。


39-09
ナショナリズム

私には疑問がある。

中層中流階級以下に所属して、
自分が社会に参画しているという自負も、
それなりに豊かな生活をしているという認識もなく、

自己の不遇や金銭的欠乏はすべて権力層や富裕層のせいにし、
その地位や権力、富に対して、
妄想とも言える嫉妬羨望をたぎらせつつも、
権力層・富裕層に「人格」を見出してそれを貶めて溜飲をさげ、

自分よりも貧しい者に対しては、
社会の品位や風紀を貶める者として侮蔑し、
その貧困や機会の欠如をバカにして喜びとし、

自分と同程度の階層の人間に対しても、
些細な差違を受容できずに同化の強要か排斥をしたがり、
些細な不都合があれば、やはり「人格」という妄想を持ち出して、
自己との間に優劣関係を見出そうとするような、

言うなれば大衆社会の申し子のような人間が、
何故、
オリンピックでは祖国の選手を応援し、
祖国の防衛の為に軍備が必要と説き、
異民族に対する自民族の優越を主張し、
異国の侵略に対しては自らの命を賭して戦うとまで宣うのか。
とても不思議だ。


 もちろん伝統的なナショナリズムの観点からも、「自由からの逃走」の観点からも、ホッブズ的国家間の観点からも、これはある程度は説明できる。大衆社会の中で疎外に苦しむ個々人は、血の通ったゲマインシャフトの一員でありたいと願うものだ。何てことのない寄る辺なき人間が、輝かしいものと一体化したいと願うのは自然なことだ。この闘争の世の中で、他者から身を守る為には団結して他者集団に対抗するしかないのもわかる。
 だが、それでも私は、上も下も右も左もとにかく散々唾棄し、バカにし、対立しているような人間が、どうしてバカにし嫉妬し不快感を覚える人間たちが暮らす日本社会を尊いものと見なし、自己と一体視し、讃え、守ろうとするのかは、なかなか不思議な光景に思える。


39-08
安いイメージだけで投資するとは

 知人が勤めている会社が、此度の「ライブドアショック」とやらの巻き添えを食って、一時株価が急落したという。知人の会社はネット関連企業を想起させるような名前を冠していた(実際にはまったく別業種である)。その為、ネット関連企業と勘違いしたアホな個人投資家連中が一気に株を手放したせいで、猛烈な株安に見舞われたという。まあ、もう回復したけれども。


 ちなみにこの会社、ネットとは縁もゆかりもない。しかも、誰でも知っている大企業の子会社である。少し調べれば、ネット関連企業じゃないことなど容易にわかるのに・・・。しかし短期で利ざやを稼ごうとするデイトレーダーにとっては、そんなもの調べるヒマさえないのかもしれない。いいとか悪いとか言うつもりもないし、これが現代の資本市場のひとつの側面だ。だが、会社名が持つイメージひとつで株価が一次的とは言え下落するとは、いい迷惑だ。


 似たようなことは昔からあった。1990年代後半のITバブルのときは、会社名に「ドットコム」とか「アットマーク」を付けるだけで、ネット関連企業でも何でもないのに株価が跳ね上がったものであった。世は一局の碁なりけり。


 まあ、カジノ資本主義の中でマッドマネーに踊るのもよかろう。が、時局の読めない博打打ちほど滑稽なものもない。前述の実態のないITバブルは2000年には弾けた。ITとつけば持てはやされた時代がとおにすぎさった2001年の4月か5月。そんな中で学部時代の後輩が、「これからはITの時代ですよ」と嬉々として語っていたことが脳裏から離れない。当時私は就職活動をしており、同じ立場の学生と企業について学食で話していた。そこで鉄鋼などの重厚長大型企業について話していたら、「そんなのはダメですよ、これからはITの時代ですよ」と割ってきやがったわけだ。


 言うまでもなく、当時はITバブルの崩壊によって、乱立するネット関連企業が潰れまくっていた時代だ。そして重厚長大型企業は、その情報技術のおかげで、保有するだけで莫大な税金・保管料のかかる原料や製品の管理を徹底し、ドラスティックな変革を達成した時代でもある。ちなみに鉄鋼大手の社員が独立して、ネット関連企業を立ち上げる例もいくつもあった。そんな時代に於いて、「重厚長大型企業はダメでネット関連型こそよい」とどうして簡単に両断できるのか。そうした区分自体無意味な上に、業界の一時の好調・不調調で、入社する企業の可否を決めるとは発想が貧しい。


 たかが大学入ったばかりの後輩のアホな一言に、そこまで執念深くなくてもいいのではないかと思われるかもしれないが、私がこだわるのには理由がある。彼が富豪の息子で、帝王学の一環として証券投資をやっていたからだ。私は富裕層が好きだ。反感を覚悟で言うが恵まれぬ者よりもずっと付き合いやすい。だが、恵まれた環境にいながら安いイメージでものを知っているかのように語る姿には、とことん失望した。「これからはITの時代」って、テレビで何年も前に作られたイメージ。日経でもあらゆるビジネス雑誌でもITバブル崩壊と、ネット関連業界の逆風について山ほど報じられている時代に、何を寝ぼけたことを語るか。こういう人間が、テキトーに証券投資して、安っぽいイメージで買ったり売ったりしているのかねえ。まったく。


39-07
Обычный день в нашей аудитории

1,児童文学に・・・

 児童文学の一節なのだが、これを読まれてどういう感想を抱くだろうか。

「ビーチカは、セルゲイの背中に泥玉をぶつけた。
セルゲイの目には涙が溜まりだした。
だが、彼は決して痛みで泣いたことはない。
彼はとても些細なことであっても、
屈辱と理不尽に対して泣く子であった」

 原文はロシア語である。本当は数倍長いのだが、要約した。
 描かれているのは、小学生の他愛もない日常である。
 だが、これに対して「オレなんかは歯を折られたことも、肋骨を折られたこともある。こんな痛みなんか甘い」と吐き捨てる人間はいかがなものか。

 まず第一に、我々は語学の習得の為にいい年して読んでいるが、児童文学じゃあないか。登場人物も小学生じゃないか。ちょっとしたことで泣く年頃だ。我慢できるにせよ出来ないにせよ、子供が(大人もだが)日常に於いて経験する痛みなどたかが知れている。もちろん事件・事故・病気で激痛を味わうことはあるにせよ、若くなればなるほど、そうした経験は少なくなる。当たり前のことだ。そんな小学生の他愛もない話に対して、30過ぎの男が自分が殴られた経験を持ち出して、物語の主人公にとっての諸問題を矮小化するなんて恥ずかしくないのか?

 次に、人間生きていれば、理不尽な暴力に晒されることもある。不可避なこともあろう。だが、殴られて歯や骨をやられたことが、「自分はすごい体験をしたが、他者はしていない」として自慢げに語ることか?どんな状況で起きた不幸な出来事なのか、自業自得の損害なのかは知らない。だが、「歯や肋骨をやられた」という話は、荒んだ生活をしているやくざ者だという印象を与える。トラブルを回避できない危機管理能力のない人間だという印象を与える。そして愚かな発想ではあるが、闘争に敗れる、男性として弱い存在だというイメージをもどうしても与えてしまう。暴力に晒された経験は、決して自慢のタネではない。

 さらには、この話。痛みは決して主人公にとって重要ではない。屈辱こそが重要なのだ。「この程度の屈辱で泣くとは甘い。世の中もっと理不尽なことがある」と言うのならば、まだ理解できる。もちろん30男が小学生相手に言うセリフとしては、醜悪かつ常軌を逸していることには変わりがないが。痛みが焦点ではないのに、自分の受けた暴力による痛みを持ち出す必要性はまったくない。

 子供の諸問題を唾棄して矮小化する段階で大人としては最低のクズだが、児童文学の主人公にまでこんなことを言うようでは、病を疑いたくなる。ついでに、誰もそんなこと聞きたくもないし、聞いても何一つ有益ではない。くだらんことを言って他者の時間を奪うな。


2,カンは世界の核心を突いている、だと?

 ロシアで、イギリスのスパイが逮捕された。石に偽装した通信機の周囲を歩くだけで、ポケットの中の小さな機器が無線でデータを石に転送し、あるいは石からデータを取り出せるという、スパイ映画ばりの出来事だ。この諜報活動がどういう背景で行われ、摘発とその報道がロシアの政治にどんな影響を与えるかは知らない。ジェームズ・ボンドめいた事件は様々な想像を呼ぶ。あくまで想像として事件について思考をめぐらせる分には、とても面白い。けれども、遠い異国のうさん臭い事件に対して、マジで自分が物事の核心を突いたなどと思うのはどうかと。

 曰く、この事件はプーチン政権によるでっち上げであって、外国人の監視強化の為のネタに使おうとしているのではないか、と。誰でも出来る想像だが、そういう想像を巡らせるのも面白い。チェチェン侵攻への国民世論を盛り上げる為に、プーチン首相(当時)が自作自演のテロを行ったとも憶測が流れるロシア。陰謀説を考えつきたくなるのもわかる。

 そしてロシア語講師に聞くのだ、自分の意見はどうなのか、と。講師は、「今回逮捕されたイギリスの大使館員は、NGOの反露活動を支援していたと言われているね。この事件でNGOへの規制強化に弾みがつくんじゃないか」と当たり障りのないことを答えた。だが、当該人物は、これを自分の発想への全面肯定と捉え、しかも新聞を読んでテキトーに言った講師のコトバを、真実と捉えた。そして言ったのだ。「見ろ!オレのカンはだいたい世界の核心を突いているんだ」と。

 カンで面白い推測をするのは別によいが、ちょっとした陰謀説を思いついたぐらいで世の中の何を見抜いたつもりだ。事件の背景や動機について、報道とは異なった内容を少し、ほんの少し思いついただけで、何を天下とったつもりでいやがる。お前が世の中の何を見抜いたというのだ。講師が世間話したぐらいで、貴様の見立ての何を肯定し、何を権威付けたというのだ。もし万一、本当にこの事件がロシア当局の自作自演だったとしても、それは貴様の想像と事実がたまたま一致していただけであって、貴様が世の中の出来事のメカニズムを見抜く能力があるわけではないからな。

 十代の子供ならば、世間で言われていることと違ったことを思いついただけで、すげーことを見抜いたような気になることもある。中には、世の中で言われていることはすべて間違いで、自分は真実を知っているとほざくガキもいる。まあ、若いうちならばいいさ。誰しもそんな時期はある。が、30過ぎのおっさんが自分の根拠のない見立ては世界の核心をついていると確信し、人前で自分が世界の真実を知っていると自慢するのは病気である。


3,自分は世界の秘密を知っている!

 上の2と近い内容なのだが、スパイの暗躍についてちょっとした筋書きを思いついて、それを真実だと思い込むのはまだマシだ。だが、自分は世の中の仕組みを知っている、世界の秘密を知っている、と公然と主張するのはオカルト的すぎる。

 彼の知っている世界の秘密とは、「世の中は金持ちという人種と政治家という人種がいて、金持ちと政治家は結託して貧乏人から搾取して、その為に戦争を起こす」というものである。この発想は、持たざる者の皮膚感覚的な妄想と嫉妬と社会問題に対する無責任以外の何者であろうか。ただ社会問題を、「政治家と金持ち」という"生来的に邪悪な存在"のせいにして、自分をイノセントだと思いたいだけでしょう。こんなことで、自分が優れているから人の知り得ない「世界の秘密」「世の中の仕組み」を見抜いた、これで世界がわかった、と公言するのを見るはつらい。

 そして、突っ込みどころは山ほどあるが、一番の難点は、どうして「金持ちと政治家が貧乏人から搾取して私腹を肥やす」という発想が戦争につながるのかわからない。説明が一切ない。妄想であっても、因果関係について、需要と供給について、利益とインセンティブについて説明があれば、少しは説得力を持ったかもしれない。いずれにせよ、すべてをある層の「人格」に帰結させて物事を捉えようとしている段階で、社会認識としては破綻しているのだが。

 「環境」が人間の精神状態を左右し人格をも変貌させ、意思決定を決定づけるのに、「人格」でしか考えない。しかも階層という、極めて多人数で曖昧な人間集団に「人格」を見出して社会現象を捉えるなど、雷が鳴れば「天の神が怒っている」、テレビのつきが悪ければ「今日はテレビの機嫌が悪い。そのうち直るだろう」と自然現象や無機物に「人格」を見出すのと同じぐらい呪術的な発想だ。つまり構造やシステムが人・モノ・カネ・情報の流れや性質を決めるのに、そうした発想がない。すべての人間がアクター・主体者であるという意識がないわけだ。特定層が自らのフリーハンドですべてを決定できると単純化している。その上、戦争はカネになると無条件に思っている。

 小学生並の単純化だ。無責任だ。階層差別でさえある。30過ぎの男が語るにしては、粗末すぎる世界観ではないか。世界観が粗末なのは頭が悪いせいだが、こんなアホなことを語って、「自分は世界の秘密を知っている」と得意げに主張することにはキモさを禁じ得ない。


4,世界の法則を知っている!

 「他者は自分の意思を挫く存在」という前提で、世界の法則を見抜いたとも言っていた。カンベンして欲しい。曰く、語学で合格点を得る為には講師に、「自分はもう1度勉強したいから落として欲しい」と言えばよい、とのこと。「受からせてください、お願いします」と言えば、落とされるそうな。まったくもってオカルト的だ。物事にアプローチする正当な手段を知らない類の、迷信深い人間かとても幼い子供が言いそうなことだ。

 まず、努力すれば合格点を得られるという発想はないのかね。そこからして不思議だ。基本的に、落とすための試験ではない。もちろん点数が足りなければ「お願いします、受からせてください」と言ってもダメだ。しかし懇願したという理由によって、落ちるわけはない。カネでも包んだら、不正を働いたとして落とされるかもしれないが。そして「落として下さい」と言えば、多分冗談だと思われるだけだ。あるいは本当にもう1回勉強したいのだとそのまま解釈されて、自主留年を進められる可能性もある。少なくとも、望みとは反対のことを言ったが為に、うまくいくということはあり得ない。

 まあ、「受からせてくれ」と言われたら点を恣意的に厳しくつけたり、「落ちたい」と言われたら点を甘くつけるアホな採点官が絶対存在しないとは言えない。だが、そんな極めて微細な可能性を考えてどうする。ましてや、自分の望みを言えばそれを挫かれ、望みと反対のことを言えば望みが叶うという妄想が、世界の普遍的な法則だとどうして考えられようか。そんなこと考えているヒマあったら勉強しろ。試験に受かることではなく語学を習得するのが目的でしょうに。試験をインセンティブとして1つでも多くの知識認識を身につけようと、どうして考えられないのか。

 このオカルト的な発想は、他者は自分の望みを蹂躙するものだ、という認識があってはじめて成立する。うまくいかないことがあると、すべて他者の悪辣な人格にせいにし、世の中には自分を陥れる陰謀があり、自分は正当な評価を得られないというパラノイアな発想がなければ、まともな方法論を放棄してこんな異常な方法論を考えようとしない。自分の望みが叶わないと、すぐに何もかもうまくいかないという錯覚を覚え、他者や世界を自分の敵対者と認識し、正当な手段の模索を放棄する。これは就学年齢以前の幼児の世界観だ。「自分の望みとは反対のことを言えばうまくいく。これが世界の法則だ」などと、30過ぎの、社会経験と人生経験が豊富だと僭称する男が語るのは愚かしいにも程がある。


 これが今日の1日に起きたこと。
 取り立てていつもと変わらない、平凡な日だった。

 だが思う。
 彼のような人間が、周囲に1人だけだから私は生きていられる。
 彼が1人の異常者として、蔑まれ嫌われ憎悪されているから、私は生存していられる。
 だが、彼のような人間が圧倒的大多数を占める場所に於いては、私が生のチャンスを得ることは叶わないだろう。
 私を殺すのにナイフも拳銃も必要ない。
 彼程度に頭が悪く精神構造の稚拙な人間が満ちた空間に私を投げ込めば、多分勝手に狂い死にすることであろう。


39-06
雪を見れば思い出す

 全国各地で、雪害が猛威を振るっている。あまりにも深刻な雪害の報道に際して、私は大学時代の同期*君のアパートを急襲して、問いつめたくなる衝動に駆られる。


 今冬の雪害は深刻だ。交通は各所で寸断され、企業は物資の輸送が出来ず商売あがったり。さらには石油・食糧などの生きるために最低限の物資さえも孤立した村落では欠乏しつつあり、事態は深刻である。さらには今冬の雪は水分が多く質量は例年の2倍。しかも屋根にへばりついてなかなか落ちにくい。この雪の質量の為に家屋の倒壊も相次いでいるが、屋根の雪下ろし中に転落死する悲劇が絶えない。その他にも落雪の直撃を受けた方や除雪中に身動きが取れなくなって凍死した方など、死者は数十人に上っている。雪を溶かす為の融雪パイプで地下水をくみ上げすぎた為に地盤沈下の危機すら起き、自治体・自衛隊・市民が全力で除雪しても、もはや除雪した雪を捨てる場所にさえ事欠く始末。本当に深刻なのですよ、雪害は。


 そのことと*君とがどういう関係があるのか。それはとても些細なことだ。些細だが、*君の態度を象徴するものとして脳裏に刻み込まれている。私は東京に所在する中央大学に通っていたが、中大は比較的地元占有率が高いようで東京・神奈川・埼玉の実家から通う学生が多かった。その為あまり雪について知らない学生が多かったとも言える。地方自治の話か天気の話だったかは忘れたが、私は雪は大変なものだという話をした。雪は交通を遮断して市民生活や商業を妨げ、除雪には莫大なカネと手間がかかり、雪捨て場の確保さえ難しい。私の話に、雪とはロマンティックなものだというイメージしかなかった人々は皆聞き入った。が、話の輪に加わっていなかった*君が背後で「何が『雪対策費』だ!」と吐き捨てたのを私は聞き逃さなかった。ただそれだけである。
 *君が南方の人間ならばともかく、札幌近郊出身の人間に「雪対策費」なるコトバを貶められるいわれはない。特に豪雪な年でなくとも160億、200億と増え続ける札幌の雪対策費は、富裕な政令市と言えども札幌を苦しめ続け、お国からの交付金や補助金の内実にも雪対策費は深く食い込んでいる。雪は自治体にとっても死活問題、国政にとってさえ問題だ。それを笑うか、貶めるか。だからこそ、今彼のアパートに乗りこんで、「貴様、昨今のこの様相を観て、それでも行政の雪対策の苦悩をバカに出来るのか」と問いつめたいわけでして。


 勘違いして欲しくないが、たったひとつの不愉快なコトバを延々と恨みに思っていたわけではない。前述の通り、これは*君の態度を象徴する出来事だったわけだ。私が物知り顔で知識を披露しているのが気に食わなかったのか、自分の周囲にではなく私の周囲に輪ができていることが気に食わなかったのか、私自身が気に食わなかったのかは知らない。が、気に食わないことに対して言いたいことをはっきり言わず、自分が加わっていない会話に対して背後で唾棄するのが彼のやり方だ。これはとても気分が悪いし気持ち悪い。言いたいことがあるのならばはっきり言え。
 *君と私は、同じ北海道出身ということもあり、最初はそれなりに付き合っていたのだが、こんなことを何回も繰り返されているうちに気持ち悪くなって距離を取るようになったわけだ。他にも彼と疎遠になった、というか私が突き放した理由は多岐に及ぶが、この気持ち悪い態度だけでも十分だ。


 「何が雪対策費だ」だけでは弱いので、*君の態度で最も強烈な例を1つ付け加えよう。同期の●君が「オレは今まで周囲に受け入れられなかったが、皆に会えて良かった」と号泣する場面があった。●君は、高校時代からバラガキとして闘争に明け暮れ、女性との付き合いも活発で、大学でもヒゲヅラで筋肉質な身体を誇示して闊歩する益荒男だ。その彼が、何事にも動ぜず腕っ節と度胸で剛胆に生きているかのような彼が、号泣して邂逅を讃えたんだ。友人としてこんな嬉しいことがあるか。私と▲君は●君の吐露を嬉しく思った。だが、それまで一言も口を利いていなかった*君が突然言い放った。「こォおの、吹きだまりがァ!」
 何を言いたい。誰にも認められなかった受け入れられなかったと泣く●君を貶める気か。今まで心を許せる友人と邂逅できなかったが、皆に会えて良かったと泣いて喜ぶ●君と、そうかと言って肩を叩く私と▲君とを「吹きだまり」と呼んで侮辱するか!そもそも貴様、今まで一言も口を利いてもいなかっただろう。何故突然口を開けて侮辱するか。何故に他者の言動を唾棄するのか。これで*君と友好関係を保てと言う方が無理である。
 しかも、時々背後で人の直前に言ったコトバにケチを付けて、唾棄しておいて、それでも何事もなかったかのように友好関係を保持できると思い込んでいたのだから、*君は病気だ。彼には皆好感を持たなくなり、少しずつ距離を取るようになった。直接排斥し迫害する程の人間はいなかったが、誰も*君を信用しなくなった。まあ人間、他人の言動が気に食わないことはいくらでもある。私とて、自分が何かすれば(しなくても)、それに反感を持つ人間が現れることぐらい覚悟の上だ。しかし*君は直接面と向かって文句を叩きつけず、背後で一言だけ言えば穏便に不満を解消できるとでも思っていたのだろうか。不思議だ。そして何よりも不気味だ。


 私は*君をまったく相手にしなくなり、やがて彼は仲間内から消え、新しい居場所として見出したところからも排斥され、哀れに思った大学の後輩に紹介されたバイトでさえも後輩自身によってクビにされなどしているうちに、大学そのものから姿を消した。もう私とて縁もゆかりもない人間である。だが、私は雪を観るたびに、*君が突然何の脈絡もなく背後で吐き付けた、「何が『雪対策費』だ!」という呪いのコトバを思い返さずにはいられないのである。正面から文句をつけて、会話・口論という形で非難なり批判なりしたのであれば、私はそのこと自体は忘れないとしても、雪を観ただけで*君のコトバを思い返したりはしなかったろう。自分が参加していない会話への文句を、当人の背後で一言だけ吐き捨てるという不気味なスタイルの為、脳裏に刻み込まれて、未だにそのことが雪とリンクしてどうしようもないですよ。


39-05
貧乏を売り物にする者が、自分よりも貧しい者を迫害しようってか

 自分が不遇であるから何をやっても許され、他者は恵まれているから自分に奉仕するのが当然というトチ狂った世界観念を公然と語る病める人が、「ホームレスは都市から追放して殲滅するべきだ」と主張する扇動政治家の意見を素晴らしい方策だと賛美するのはいかがなものか。


 私はもともと、羨望や僻みという感情を持つ人間を好まない。ましてや、誰だって様々な面で大なり小なりの苦労や苦悩はあるというのに、自分が絶対的に不遇であり、他者は恵まれていると思い込む人間には狂気さえ覚える。自分は不遇であるからうまくいかなくても仕方がなく、不遇な中で苦闘するので自分の行動は絶対的に尊く、恵まれている人間は自分に関心を寄せて評価するべきだ、受け入れ認めるべきだ、などと公然と口にする様には戦慄さえ覚える。自分が認められないのは受け入れられないのは、陰謀があるからだ、恵まれた連中は人格が邪悪で自分を陥れようと画策しているからだと宣って暴力の示唆や恫喝を行う様には、殺意さえ禁じ得ない。
 だが、ここまで自分が貧乏で不遇であることを売り物にしている人間が、どうしてより貧しき者に対して共感や憐憫を示さないのか。貧しい者をゴミ同然に始末することをすばらしい意見だとどうして考えられるのか。貧乏は個人の病だと思っているのではなかろうな。無能で怠惰だから貧乏になってホームレスになる、と思っているのではなかろうな。自分は家庭環境が不遇で、教育を満足に受けられず、不利な条件で搾取されているから仕方がないなんて言っている人間が、何故他者の貧困に構造や環境の問題があるという想像が働かないのか。


 私はより劣悪な条件を引き合いに出して他者の問題を非問題化・矮小化する論法を嫌うが、敢えてそれを使う。彼が好む論法だからだ。人間、自分が何者にも動じない強靭な人間であると、超然とした大人であると思いたいものだ。それを示したかのような気になる簡単な手は、他人の、あるいは世間一般の問題を非問題化矮小化することである。あまりにも稚拙で、他者の問題を非問題化して一層重大な問題に発展させかねないという意味に於いて罪深い論法だ。それを敢えてやる。


『貴様はまだ恵まれているんだよ。カネに苦労し搾取されているかもしれないが、労働の結果としてボロでも自分が契約したアパートに住めて、パソコンと携帯電話を保持できて、3食食って、女に貢ぎ、さらには学ぶことが出来ているのだから。働いても、自己投資が出来ない、異性と付き合うことも出来ない、パソコンや携帯電話を買うことも難しい層が全世界にはごまんといる上、日本でも低所得に固定化された層がすでに形成されているんだよ。
 ただ限りなく弱い労働力としてドИНКで家畜のように単純労働と独房みたいな寮とを往復させられ、周囲に遊ぶ施設も何もなく、友人や異性と付き合うことも買い物することもろくに出来ず、使い捨てられている層が。しかも短期契約で使い捨てられるが、自己投資する時間的金銭的余力がなく、結局短期の悪条件の雇用を再び得るしかない。
 そして一度、突然の雇用打ち切りで住み込みの部屋を追い出されるのに需給の緩みが重なったり、傷病をしたりして、悪条件が重なってホームレスに一度転落したら、再び仕事を得ることそのものが困難になる。そうなると足下見られて本当に安いカネで労働力を買い叩かれる何の保証もない仕事をしてでもその日その日の糧を得るしかなく、そんな状況ではとても貯金をして状況を脱出することも出来ない。傷病に際しては治療どころか即座に食うにも困り、命に関わる。そんな層に比べたら、貴様はまだ恵まれた位置にいる。そうだろう?その恵まれている貴様が、より恵まれていない、努力しようがすまいがどうにもならないところまで至ったホームレスを、あたかもゴミのように「掃除」することをよく礼賛できるな』


 さらに言えば、社会から異端者を排除して市民が安心を得る施策が実際に行われた際、自分が排除される側になる可能性に思い至らないのかね。彼自身がいつも言っているように、彼は恵まれていない部類に入る。出自や学歴、社会的地位の低さから差別されることがあるといつも彼は言っている。だったら彼とてわかるだろうに。自分が「掃除」される立場に近いということが。いつも迫害されている、自分を貶める陰謀が蠢動しているとほざく彼が、なぜ自分が迫害されないと思うかね。さらに言えば、社会の問題は金持ちの権力者が私腹を肥やす為に起こしているという、典型的な持たざる者による持てる者への僻み根性に基づく責任転嫁を述べている人間が、権力者が「社会悪を掃除して社会をクリーンによる」と宣うときに、それが邪悪な試みだと疑うことがどうして出来ないのか。自分が「掃除」されると何故思わないのか。


 いや、こんなパラノイアの異常者にかかわるだけムダだとわかっているが、ホームレスの殲滅を「すばらしい意見だ」と述べたのを聞いて、心底絶望しました。まったく。


39-04
だから、関わるだけ損しかないっての

 去年の話になるが、親戚がやっている会社に馴染みの顧客がやって来て、開口一番こう言ったそうだ。
「匿ってくれ」
 これは漫画でもドラマでもない。会社にはすぐにチンピラが乗りこんできて、大声で「今、来たろう!出せ!」と喚き立て始めたという。もちろんいかなる仕事でも極道と関わることはある。いちいち肝を冷やしてひれ伏しても、腹が立って殴りかかっても、商売あがったりだ。たまに難癖つけてくるチンピラや意味不明な集金に来る自称政治結社同様、穏便にお引き取り願ったそうな。


 さて、このお客さんは何をしてチンピラ連中に追い掛けられたのであろうか。答えは、車であおられたのでブレーキを踏んだ。ただそれだけである。手足伸ばせば伸ばしただけ自分の空間が増えると思っているチンピラ連中は、自分の意思が通らないことをとかく嫌う。ゴネて怒鳴れば、すべて望むようになると思っている頭の悪い連中だ。道路で自分の前に車がいたら、あおってパッシングすれば道を開けるものと確信している。それが急ブレーキという反撃を喰らったのだから、腹が立ったのであろう。
 身勝手極まりない怒りだ。だが、奴らはちょっとブレーキを踏んだだけの車を、遥か遠くから延々と追跡してきたという。こういう情緒(じょうしょ)の未発達な、単純な精神構造の連中は、他者から何か屈辱と思える行動を受けたら、それを晴らさなければ今日を全うできないような錯覚を覚える。だから、追いつめて車から引きずり降ろして、ぶん殴って土下座させて屈服させることに至上の価値を覚えるのである。どうしようもないクズだが、そういう人種は巷を跳梁跋扈しているものだ。こういう連中が起こした暴力事件など、よほどの大ケガでも負わせるか死なせるかでもしない限りは、新聞にもニュースにも載らない。だが、よくあることだ。


 こういうバカは関わったら関わっただけ損しかしない。こういう輩は、肩で風切って闊歩すれば道が空くと思い込んでいるので、横柄な態度でそこいらを跳梁している。そんなのを見たら誰だって腹は立つ。自分の車にパッシングしながらあおってきただけでも、その日一日は気分が悪くなる。銃を持っていたら、デカい態度取っていればそれで物事通じると思い込んでいるバカ野郎の腐った脳ミソを、アスファルトにぶちまけたくなるってものだ。それが人情ってもんだ。
 だがね、そういう奴に些細であっても関わってよいことはない。もめ事の際に少し言い返したり、車のトラブルなら被せ返したり急ブレーキ踏んだりしたが為に、ややこしいことになったことは枚挙に暇がない。殴り倒されたものならば、痛い思いをした屈辱は一生モノだし、障害なんか負ったら目も当てられない。殴り倒したところで、そんなクズの為に傷害の前科を負うなど言語道断。警察が関与しない程度であっても、こういうクズは殴られた屈辱は決して忘れず、報復を渇望するものだ。
 身元がわかれば陰湿な嫌がらせを受け、身元が分からなくても限られた生活範囲の中で再び顔を合わせたときに、報復されることもある。労働者や漁船員だって、街角で仲間が殴られたら手分けして探して報復することなんかもあると聞く。労働者や漁船員ほどの団結力も絆もなくとも、いきがることだけが生き甲斐のクズ連中とてバカにはできない。労働者や漁船員と違って普段は怠惰極まりない生活を送っている連中でも、暴力の口実が出来たときには恐ろしいほどのエネルギーを発揮する。こういう連中をナメてはいけない。運動不足で怠惰なチンピラ連中なんか腕っ節で殴り倒せると豪語したところで、数や陰湿な嫌がらせの前には何に役にも立たない。


 で、何が言いたいか。それは別に、巷に蔓延る頭の悪い連中への批判ではない。こういう連中を殴り倒せると思っているアホな市民への批判である。例えば私が車を運転しているときに、チンピラや不良トラックドライバーが横柄な運転でやってくると、私は速やかに道を譲る。当たり前だ。もちろんこういう連中は腹立たしいが、関わってもなんの益もない。が、助手席や後部座席から、私をチンピラに屈服する弱い人間だとして非難するアホがいたりもするわけだ。
 もちろん私とてチンピラや地回りの類には腹が立つので、普段はぶっ殺してやるぐらいのことは言っている。本当に車を止められて引きずり降ろされる事態に備えて、武装を積み込んでいたときもあった(現在は武力闘争よりも職務質問を恐れて、持ち出すことはない)。が、実際に好きこのんでいざこざを起こして、闘争に発展させるわけがなかろう。こちとら苦労して名門大学を出て、人並みの生活を送っている(あるいは、送ることを欲している)まっとうな一市民だ。アホがちょっかいを出してきたぐらいのことに私が道を開ける程度の譲歩をしたからと言って、普段威勢の良いことを言っていても、脆弱な口だけの人間みたいに言わずともよかろうに。


 ただ、この人物(明らかにたった1人の人間を指しているわけだが)。彼自身が、他人を弱い人間だと非難すれば自分が強い人間であるかのような錯覚を得るに終始する、彼が言うところの「口だけの人間」ならばどうでもよいのだが、彼は本当に手を出す人間だから怖い。金銭的に苦労して大学を出て、名誉ある仕事に着こうというものが、クソみたいな人間の挑発に怒り狂ってぶん殴っても、何の益にもならない。彼が、自分のキャリアに傷をつけないことを祈ってやみません。人格にはちと問題があるにしても、社会的にダメージを受けて地位を失うには惜しい能力の人間なので。  


39-03
責任

 「責任」なるコトバは、とても重いコトバだ。場合によってはとても尊い。この概念ないし意識がないと、あらゆる仕事は進むまい。自らが自らを拘束しなければ、物事をこなすことは難しい。
 そんな当たり前のことはどうでもいい。問題は、「責任」というコトバを聞くと、脊髄反射的に「責任逃れ」「叱られる」のような、稚拙なネガティブ・イメージしか浮かばないクズが多すぎること。責任というコトバを聞いたら、漫画や映画によくある自分の保身しか考えず徒に仕事を遅滞させる、卑小な人間の「何かあったらどうする?誰が責任取る?」みたいなセリフにしか聞こえないみたいで。あるいは、責任というコトバを「失敗した際に叱られること」程度にしか考えられず、それ故「責任」というコトバを他者が口にすると、小学生が「先生に怒られるよ」と同級生に注意されたかのようにしか思えないバカもまた、いるようで。


 どちらにせよこういうバカは、小学校で先生が「チャイムが鳴ったら何故、席に着かなければならないかわかるか?」と聞かれて、「先生に怒られるから」という回答以外を思いつかない出来損ないのガキが、そのまま大人になったようなものだ。イギリスの教育論の本で「下層階級の親も子供を教育しはするが、例えばなぜ時間を守らなければならないか理由を説明せず、とにかく暴力と怒鳴り声で罰を与えるだけである。故に下層階級の子供は、時間をなぜ守らねばならないのかわからず、大人による罰の存在の有無だけを考えるようになる」とあった。タイトルは忘れたが、有名な本の一節だ。イギリスの下層階級の子供だけではなく、日本に於ける大人の中にも、時間や規則のような目に見えず、物理的に自分を拘束しないものに自分の行動を沿わせようとする発想そのものが欠如している人間は、そう少なくはない。そのように、私は経験上感じている。
 時間や規則のような目に見えないものを遵守する原動力は、物事をうまく行うためには何が必要か判断して、自らが自らを拘束する意思以外にあり得ない。殴られることに対する脊髄反射的な恐怖ではない。所属する社会において自分がうまくやる(その結果として社会に公益をもたらす)方法を考え、その為に自らを拘束する意思を、責任と言い換えてもよい。


 「自分や所属する社会を良好に機能させる意思」として責任という概念を捉えられない人間が「責任」と聞くと、「誰か上の人間に怒られて、罰を喰らうこと」としか捉えられないのも無理からぬ話かもしれぬ。無理からぬことではあるが、「責任」という語を他人が使うのを見て「怒られることを恐れている」「テレビでやっているように、こういう卑怯で臆病な奴が物事を悪くする」程度の認識しかしない人間が社会に所属していることは許し難い。
 しかしそういうバカが、責任ある態度・行動をとっているのを見たことは一度としてない。やはり、責任という概念そのものを理解していないからこそ、責任ある行動などとれるわけがないのである。責任という概念が理解できないということは、物事をうまく運ぶ為の正当な方法論がわからないということだ。社会の中で権力にアプローチし、自己の限られた権限の中で人的・物的・金銭的・時間的資源を最適配分することが、責任とも言える。しかし責任という概念のない人間は、どうすればよいか実際的な模索せず、ただ思いついたことを口にし、よかれと思いついたことを気まぐれに実行しようとすることしか出来ない。そして自分の思いつきが却下されれば、ひどく侮辱されたような気になるばかりだ。そのときに、他者が「責任」というコトバを持ち出したものならば、映画でヒーローがすばらしい活躍をするのを阻害する、「矮小で保身にしか価値を置かない無能で無気力な人間」に重ね合わせることしか出来ない。


 だからバカ相手に仕事をするときは、責任というコトバを迂闊には使えない。使う前に責任という概念を十分に教育しておく必要があろうがそれは困難で手間がかかる。それを考えれば、こうしたバカには責任などという高等な概念を使わず、言われたことしかしない、出来ない人間のまま、暴力でもって脊髄反射的に必要なときだけ使役した方が有益かもしれぬ。フォン・ゼークトの言う「頭の悪い怠け者」の使い方だ。
 ゼークトはあくまで将校の分類にこの表現を使ったが、一般社会に敷衍するに際しては、一般労働者に対しても「頭の悪い怠け者」というコトバを適用してもよいだろう。社会には兵も必要だ。単純作業しかしない出来ない安価な労働力が、産業社会を支えてきた。現代のポスト産業社会では、限りなく弱い非熟練労働者を、全世界化した労働市場からあらゆる企業が探し求めて、安価に短期間で使い捨てる傾向が強まっている。とても幸福な労働とは思えない。


 従来の産業社会(例えば1970年代までの日本や西独、イギリスなど)では、それなりに福利厚生があり、企業は労働力を育み守り、(欺瞞的な面もあるにせよ)家族の一員であるかのような擬制の下で、それなりに労働者は大切に扱われてきた。が、ポスト産業社会では企業も政府も福利厚生を軽視する。そうしなければ全世界化した労働市場から安価な労働力を選んでは捨てる競争の中で、企業も国家も立ちゆかない時代なのだ。
 こんな中で使い捨てられることは不幸だ。「頭の悪い怠け者」は、希望の持てない劣悪な環境で低賃金に固定化される。つまり、「自己責任」の美名の下に自己投資が賛美されるが、その為の時間もカネもないまま、底辺に固定化されるということだ。子供に教育を施すことも出来ず、次の世代も下層階級に固定化される。それどころか多くの者は結婚さえ難しいだろう。それがポスト産業社会に於けるエスタブリッシュされていない労働者の人生だ。
 小学校のときに、種々の規則を守らねばならない理由を「先生に怒られるから」としか考えることが出来ず、先生に見付からなければ何をしてもいい、受ける罰が大したことなければ何をしてもいいという発想しか出来なかったガキが、その世界観を保持したまま高校や大学を出て、勤め人になっているがごとき様を見ると、私はため息しか出ない。こういう人間と働くことの苦労もさることながら、こんなバカばっかでは、日本は低賃金労働者の供給地となるのではないかと思えてくる。そして、こうした連中は同じ日本の中でも、ドИНКや過疎地の単純労働集約拠点に短期契約で掻き集められて、低賃金で労働力を、人生そのものを搾取されるのではなかろうか。


 先祖代々海外から植民地として、あるいは国内中枢部から半植民地として搾取されてきた人間が、知識を習得できず労働や社会生活に熱意を持てないのは当然だ。その場合、このような人間が生まれた理由として恨むのは、社会だけで済む。だが、日本が最も豊かになった産業社会期に、親の援助で高校や大学へ進学した若者が、怠惰でバカとなると話は別だ。
 私は何人もの、想像以上のどうしようもないバカを見てきた。高校や大学を出て、義務教育程度の漢字も英単語もろくに出来ない。教科書で触れる程度の基礎知識も身につけていない。これはつまり、仕事に影響するレベルでバカである。そして責任という概念さえなく、行動指針を「怒られるかどうか」程度の基準でしか考えられないとなると、こんな大人になったバカどもそのものが憎くなる。こんな連中が学士や専門士や高校卒業の資格を持って、それに準じた給与を得ているなど言語道断。こいつらのかわりなど、何の学位も持っていない15才の子供、それも出来の悪い部類の小僧でも十分果たせる。特に札幌時代では、私がバカと認定呼称したどうしようもない連中は、1人の例外なく学士であった。ムダにも程がある。


 「勉強した奴が偉いわけではない」「優等生は何にも出来ない歪んだ人間だ」「大学では本を読むことよりも、遊んで酒飲んで活発にやった方が人格が豊かになる」・・・こんな寝言がまかり通っているうちに、ダメな連中が数多く輩出されましたな。正直なところ、こうした連中は中学卒業で丁稚奉公からはじめた方が、よほどまともな人間になるのではないのか。少なくとも、字も読めないバカに学士の給与を払うよりは、コストカットにはなるし、仕事で必要な知識・技能・姿勢は習得できるだろう。まあポスト産業社会ではあまり大切にされないような気はするが。
 少なくとも私は、12年も16年も学校教育を受けて、社会生活に必要な読み・書き・計算・基礎知識を身につけなかった怠惰な人間の人格など信用しない。また、何も為してこなかった怠惰な人間が物事を進めて生産に寄与する意思を持っているとも思わない。何かを積み上げて成し遂げる為の、正当な手段を模索して責任を全うする発想や能力を持っているとも思わない。そして日本人は勤勉であるという妄想を信仰することも、とても出来ない(ちなみに、あらゆる階級を通して労働時間が最長の国はアメリカ合衆国である)。学部で遊びほうけてきたことを公然と自慢する人間がしばしば議員や企業役員をやっていることには、絶望さえ禁じ得ない。さらに言えば、私自身もどうしようもない無知で怠惰なバカである。しかしそんな私よりも識字能力も知識も低く、社会参画の方法論さえ知らぬ人間が跋扈していることには、2重の意味でため息しか出ない。


39-02
防犯意識

 十数年前に、米国で日本人留学生が射殺された。頭に包帯を巻いて仮装した留学生は家を間違えてしまい、そこの家主に「脅威」と認識された。家主は44口径を留学生に向けて制止を叫んだ。だが留学生は家主に歩み寄った。FreezがPleaseに聞こえたのか、チャカを出したのが歓迎のギャグだと思ったのか、諸説あるが今となっては何故彼がこのような行動をとったのかはわからない。だが、家主には撃つ以外の選択肢はありえなかった。

 銃の優位性は距離をとれることであり、一撃で致命傷を与えられることだ。近づいてくる脅威が自分に危害を加える可能性を剥奪する為には、撃つしかなかった。足を撃つなどということも非現実的だ。動いている目標の足などという細いものに当てるのはとても難しい上、反動の強く扱いの難しい.44magに2発目は期待できない。確実に脅威の可能性を排除するためには、最も当てやすい胴体を撃つしかなかった。この事件直後は、丸腰の留学生を射殺したことで日本国内で非難が巻き起こったが、私は家主を責める気は一切ない。生きるか死ぬかを想定しなければならない非日常的事象において、人間はシビアな選択肢をとらなければならないのだから。結果として留学生が何の敵意もなく、武器も持っておらず、単に家を間違っただけであったが、しかし家主には、銃を突きつけているのに歩み寄ってくる人間を「脅威」として対処するしかなかった。


 この事件が起きたときは、私は中学3年生だった。周囲でも、テレビでも新聞でも、ヒステリックに銃社会とやらや家主を弾劾する声が響いていた。この運動力学に同意しなかった私は、中学でも後の高校でも、よくとんでもないクズとして扱われたものだった。しかし今、学校に異常者が乗りこむ、ガキがさらわれて殺される、強盗が一家皆殺しにして金品を奪う、外国人窃盗団が跳梁する・・・といった情報に対して、人々は治安維持の強化を求め、自衛をも進めている。昔に比べて今が本当に物騒になったのかどうかは一概には言えないが、今が物騒で油断ならない時代だという意識が芽生えつつある。多分、今日本で警察官があやしげな行動をとる無辜の外国人を誤射して殺しても、そんなに非難は巻き起こらないだろう。世の中変わるものである。


 防犯意識が高まること自体はわるいことではない。今までの無防備な意識が異常だった。だが、危機感だけ先行するのは、無防備なことよりもよくないのではなかろうか。日本が導入しつつあるアメリカの割れ窓理論とは、マイノリティや弱者を迫害することであり、その強権を警察(場合によっては自衛する市民にも)に与えることだ。しかしそんなことで治安はよくならない。さらに悪いことに危機意識は商機を生み、どうでもよいサービスや商品に市民はカネを払って安心を得るようになったりもする。武力に、人間が物理的に取り得る行動に対して、冷静な判断なしに、防犯は立ちゆきませんよ。なんだかなあ。


39-01
院試明けで

 もう何ヶ月も前の話になるが、院試を終えてホテルから戻る途中のこと。
 ***線**駅で降りようとしたとき、荷物棚に上げた旅行カバンの肩紐が棚に絡まって、危うく乗り過ごすハメになるところだった。
 乗り換えの**駅では、気がついたら**線の改札をくぐっていた。まあこのルートでも乗り換え回数が1度か2度多くなるが、行けないこともない。駅員に「間違えて改札を潜った」としてパスネットカードを差し出すのも面倒なので、そのまま**線に乗った。
 **線で荷物棚にカバンを載せるとき、払いのけた吊革が振り子状に戻ってきて額を叩かれ、軽い音が響いた。隣のねーちゃんが笑いをこらえるのに苦しそうだった。まあメガネに当たって傷がつかなくてよかった。
 実は動揺していたのか?
 あるいは寝不足で注意散漫なだけ?
 いずれにせよ、こんなにアホを繰り返すことはめずらしい。


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