last up date 2007.02.22

40-05
日本的意味の「第3セクター」ではなくて

 日本で生活していると、社会の営みが概ね「行政」と「民間企業」の2つによってのみ、成り立っているかのような錯覚を覚える。そして社会に於ける人間の活動を語るに当たっては、多くの場合、両者の二項対立や協働の観点で語られる。あるいは行政と民間企業の2つへの不信感をもって、社会そのものへの不信感を表す場合もあろう。そして行政と民間企業以外の存在は、どうでもいいもの、あるいはやくざ・ゴロツキ・アウトローの類として、蔑視され捨象される。


 こうした見方を持つことは、日本に暮らす人間にとっては自然なことであるのかもしれない。なぜならば、日本の社会は「第3の勢力」を極力排除することによって、行政と民間企業が結束して、猛烈な経済成長をしてきたからだ。「第3の勢力」とは勢力化した市民のことなのだが、そうした組織・活動の例として市民団体、市民運動、学生団体、学生運動、労働組合、労働争議、NGO、NPOなどのコトバを挙げると、どうにも胡散臭いものを感じる人が多いのではなかろうか。
 勢力化した(しようとしている)市民に対する反応はこんな感じだ。取るに足らないことを騒ぎ立る、くだらない連中のような気がする。きれい事をならべて企業や政府から小銭むしり取ろうとしているチンピラのような気もしてくる。青二才のおままごとのような感じも否めない。さらには脱税の手段ではないかとも思えてくる。……こうした反応は日本で生きる人間としてはまぁ自然なものであろう。何しろ、日本は「第3の勢力」をアウトローとして排除してきた社会なのだし、また、その結果として市民の勢力化はあまりにも弱く小さいからだ。「市民の結束は必要である」とは、心理的にも理性的にも思い難い状況にある。そして市民の勢力化が為されていない社会では何が起きるか。それは行政や企業が、市民を恐れる必要がないということである。


 さて、第3勢力の役割について触れる前に、第1第2の勢力である行政・企業の役割について述べたい。これらの役割は、その活動によって社会に貢献することである。これは理想論でもなければきれい事でもない。まがりなりにも市民の代表たる政治家が制定した法に従って、サービスを市民に提供する行政については、まだ納得しやすいかもしれない。が、市場原理に従う企業が「社会に貢献」とは異に思う人も少なくなかろう。


 しかし、企業が利益を追求する努力そのものが、社会に、人々に資するのだ。簡単に言えば、ある場所で安く買い叩いたモノを、別の場所に輸送して高く売るのが商売だ。これとて、利益追求のために、その土地では手に入らないモノをもたらしてくれる商人がいるからこそ、人々は文物を入手できる。もうちょいと高度なサービスである保険とて、数学と法技術を駆使して保険会社が確実に儲かるように出来ている。しかしそれでも万が一のリスクをヘッジしてくれる保険があるからこそ、個人は安心して自動車を運転したり、住居に暮らしたりできるわけだ。他の事業者も、保険があるから船舶や航空機を動かしたり、不確定要素の大きなイベントを企画したりもできるわけだ。こうした、自らの利益を追求する行為そのものが、他者に役に立っている。これが企業の存在意義である。


 同様に、行政とて社会や市民を益する善意や道徳に基づいてサービスを展開しているわけではなく、組織や構成員にとっての内部価値を追求した結果として、社会や人々の役に立っている。行政に対しては、サービスが悪い・態度が悪い・使えねーといった不満を持つ人も少なくなかろう。だが、少なくとも社会や市民が必要としている最低限のことは、自らの存在の持続の為、内部価値の追求の為に、行っているし行わざるを得ない。行政機構が未発達の中世の地獄や発達途上の近代に比したら、現代社会の行政機構の果たしている役割は、あまりにも大きく多様である。


 このように、行政にせよ民間企業にせよ、自己目的の追求・利益の追求が社会と人々にも利益を与えている。が、市民が勢力化していないが為に、行政や民間企業は市民をナメており、問題の発生に対して緊張感がなく、指弾されることも少なく、抗議や訴訟に用いられるエネルギーも小さい。その為、なかなか行政や企業の問題は、問題化されにくい。


 例えば、欠陥商品によって死人が出たとき、日本でももちろん非難の声は上がる。被害者は結束し訴訟を起こし、その他の個々人もその会社の商品を義憤や自己防衛の為に避ける傾向は現れよう。また、非難のメールや電話をする人間も必ず出現する。だがあまりにも無力。一時的なイメージと売り上げの低下で潰れるのは、よほどのことがない限りは欠陥商品を製造販売した大企業そのものではなく、傘下の小さな工場や小売店だけである。訴訟の費用や賠償額もたかが知れている。したがって、会社にはあんまり危機感は生まれない。


 だが、米国や西欧で同種の事件が起きると、勢力化した市民は強烈な打撃を企業に与え得る。政治勢力でさえある消費者団体がカネをかけて被害者を支援し、名うての弁護士を集めて強力な訴訟を展開する。企業が敗訴した場合は、莫大な賠償金を取られかねない。また、不買運動や抗議デモも大規模に組織化され、政治化し、徹底している。そのため、大企業を倒産に追い込むことさえもある。


 1960年代から米国・西欧では市民の勢力化の動きが活発になり、社会に取り込まれて発達してきた。一方、日本では市民の勢力化はなかなか育たず、社会から排除されもした。だからこそ日本の企業官庁は一体となって、何者にも妨げられずに経済成長を邁進することが出来た面もあろうが、消費市場・労働市場・生産拠点のグローバル化にともない、「第3の勢力」の脅威に行政・企業が晒されてこなかったことは、日本にとっての弱点にもなっている。今さらCSRなどと言って、イメージ低下や訴訟リスクに強い「テフロン企業」として脱皮して自己防衛しようとしても、難しいものがある。


 そして市民自身のメンタリティーにも大きな違いがある。日本の市民も、もちろん行政や企業が問題を起こせば非難するし、怒るし、不信感を持つ。だが、自分が消費者として市民として権利を持っている、あるいは勢力化して権利を守るべきだ、という発想にはなかなか至らない。前述の通り、騒ぎ散らす連中は世の中を知らない青二才か、問題にかこつけてカネを巻き上げようとするやくざ者だというイメージがある為もある。が、それ以前に、社会における活動主体が行政と企業の2点に集約されており、他は捨象されているのだ。つまり自分自身が役所や企業に勤める勤労者であるという意識ばかりが先行し、消費者・市民としての意識が未発達なのだ。


 実際問題、欠陥製品で何人も人を死なせた会社が問題視され、各地の自治体がその会社の製品を使わないと次々に表明したとき、こんな意見を聞いた。「**社にも頑張っている人はいるのに、行政が悪いイメージと偏見を助長している。役人は保身しか考えないのか」と。この声は、「行政対企業」という二項対立によって社会を捉え、自己を企業側に置いて行政への不信感を顕わにするに終始している。ここに於いては、消費者ないし一般市民の安全という発想が欠如している。確かに事故を起こす製品はごく一部かもしれないが、なぜこのリスクを問題視せずにしていいと言えるのか。ましてや何件も明らかな欠陥によって人を殺している事例があるのに、事故によってもたらされたマイナスイメージを、企業や勤労者にとっての単なる迷惑としか捉えないのか。こうしたイメージは迷惑だから、何の検証もないまま行政が率先してその会社の製品を使って「安全だ」とアピールしろとでも言うのか。


 確かに、死亡事故を起こすようなひどい欠陥商品はごく僅かだろうし、多くの勤労者は誠実に職責を全うしていることであろう。ここに於いて、事故によるイメージ低下が引き起こした泥を、無辜の勤労者が被ることについては気の毒には思う。所属している会社の不祥事の為に、それに何ら荷担していない従業員が批判され、仕事に懐疑の目を向けられ、給与減や失職するかもしれないことの恐ろしさはも、想像に難くないし気の毒にも思う。だからといって、何故企業とその中で働く人間を擁護することばかりを考えるのか。消費者として市民としての観点が欠如している。


 何かあったら会社が潰れる。勤める人間も経営者も、泥を被った上に失業する。企業に対して、市民がそれぐらいの打撃力を発揮できるほどに勢力化してはじめて、企業もそこに勤める人間も、CSRに本気になれる。CSR−企業の社会的責任とは、別に良心に従って働くことではなく、市民に被害を与えることを避けて、企業が市民に攻撃されないようにすることである。自己の存続と利益追求の結果として、安全が図られ消費者に資する。これが最も安心できる社会というものだ。



 しかしこの国においては、市民の勢力化は30年は遅れている。行政が作った完全に行政寄りの非政府機関や、行政と企業との共同運営による企業体(日本的意味に於ける「第3セクター」)は、市民勢力とはとても言えない。さてはてどうなっていくのでしょうかね。


 あと、私は必ずしも米国・西欧を「理想化」して日本の「後進性」を糾弾しているわけではありません。米国・西欧のような市民勢力の伸張が、脆弱で大衆社会に孤立した市民・消費者の権利を躍進させている面は多大にはあります。が、企業の訴訟リスクや訴訟コストが生産活動を停滞させ、結局消費者によい品・サービスを提供できなくなり、あるいは給与が伸び悩んで被雇用者としての消費者が貧しくなるなどの問題もあります。また、イメージ操作や訴訟対策を駆使して、問題を非問題化する術を企業が身につけている面もあります。ただ、米国・西欧、就中米国の規範が世界的に影響力を持っている以上、日本の行政も企業も市民も、市民が勢力化した時代のやり方に慣れる必要はあります。


40-10
一等星

 下で扱ったストーカーだが、随分とあちこちで異常行動を起こしていたようで、危険人物として広く認識呼称されるに至った。別に、誰かが殴られたわけでも刺されたわけでもない。しかしこうした「些細な」トラブルこそが、生活や業務(あるいは学業)を妨げ、精神を不安定にし、さらにはより大きなトラブルにつながりかねない。問題として広く認識されない為、大きなトラブルよりも小さなトラブルの方が解決が難しく、苛まれる人間は他者の理解を得にくい為にひどく苦しむ場合もある。だが、問題意識を共有できたので、取りあえずは一安心である。


 しかし当該人物のやった行動は、聞けば聞くほど危うい。この際、明確化するが、当該人物はM1の院生である。誰からも異常者として認定されている人間の行動を書き連ねることは、悪趣味かもしれない。が、よくある些細な日常レベルのトラブルの例として、忘れないように記しておく。これからまた、似たような人間に会うかも知れないので、そうしたときに類型化は役に立つ。


・数度会って食事をしただけで、その人と結婚するようなことを複数の人間に繰り返し繰り返し話した。だが、その相手となる人物は、ヘタをしたら当該人物の名前さえ知らないらしい。学内バイト等で一緒になってメシを食った程度の話らしい。


・初対面の博士課程の先輩に対して、名前を聞かれて当該人物は、「そちらから挨拶なさい」などと放言。「私は**年からこの大学にいるんだから、私はあんたよりも先輩」などと。しかし文系大学院では博士課程*年目などというのはザラで、この先輩の方が年齢でも学部入学年度でも上であった。まあ、そんなことはどうでもいいが。
 それにしても、学部入学年度や年齢でなぜ威張ろうとする?会社だろうと大学/大学院だろうと、入ったときは誰でも新人である。大学院ならばM1の段階で新人である。別に、先輩に平伏する必要も、尊敬する必要もない。コトバは丁寧語で十分。だけれども、最低限の礼儀ってものはある。新人なんだから、いろいろと教えて貰う立場だ。古参の人間にケンカを売ったところで得るものは何もない。何故、自分で自分の生活環境を、過ごしにくくするのだろうか。情報や協力を得られたかもしれない人間に、何故ケンカを売るのだろうか。
 もちろん新人や先輩を抜きにしても、他者に対する最低限の敬意を払わない人間はどうかと。


・当該人物は、基礎学力がとにかくない人間である。学部は夜間部、院は社会人枠と、ほぼ無試験の道を通ってきた。これらのルートを差別するつもりはないが、基礎学力をつけず入学・卒業することが可能なルートである。そして当該人物は、英文のイロハもわからず、日本語の文章読解・文章執筆もテキトーである。基礎が何も出来ていない。それなのに自分をすばらしく有能な人間だと思い込んでいる。掛け値なしに、本気で。堂々とそれを吹聴して回るほどに。


・大学院の講義(ゼミ)は、基本的に出ていれば単位は取れる。だが某先生のゼミでは、発表をしなかった人間まで全員Aだったのに、当該人物だけはBだった。これは当該人物の発表があまりにも杜撰で、教授が激昂した為、「**は出来ない奴だ」という印象が強かったのだろう。つまり「目立って出来なかった」からBだった。
 しかし当該人物は「私は出来る人間だから、先生はエールを送る為にわざとBをつけた」と、最大限自分に都合良く解釈し、それを吹聴して回った。いや、中学高校レベルの英語の間違いを何度も犯して、何故自分を出来る人間と思えるのか。「出来る人間だからエールの為に」1人だけ低い成績をつけるという発想も、意味不明。


・別のゼミで、アホな意見を言って、先生に「それは違うんじゃないか」と訂正されたら激昂し、「私は**先生の直系の弟子だ!その私の意見する気か!」と言い放った。**先生とは、その道の大家である。しかし当該人物は学部時代に**先生のゼミに所属していたわけでさえなく、講義に出ていたというだけの話である。それは弟子でも何でもない上、**先生は当該人物のことなど知らない。
 この意味不明な「弟子」発言にゼミの先生は恐れおののき、関わってはいけない人だと思ってそれ以上何も言わなかった。しかし当該人物は先生のその様子を見て、後で他の院生に「先生も反省しているようだった」と意味不明なことを抜かしていたという。「反省」って何様のつもりだろうか。


・このように、とにかく教授だろうと他の院生だろうと、当該人物は他者を上から下に見下ろして捉えている。自分の意見に対して、「傾聴して、全面肯定する」以外の反応をされたら、侮辱されたと思うのか、バカげたことを言われたと思うのか、とにかく怒り狂って「あの先生は教育者としてクズだ」「院生の**の野郎は、態度がわるい」などと、人格に対する誹謗をそこらの人間に言って回るのである。自分の立場や見識を高めるわけではなく、貶めるだけだというのに。
 で、あらゆるゼミで、アホなことをいう→教授や他の院生に否定される→激昂して人格批判など滅茶苦茶なことをまくし立てる→ゼミを飛び出すを繰り返す始末…。


・ゼミであれ雑談であれ、意見を否定されたり異なる意見を言われたりして恨みを持った相手に対し、当該人物がとる行動は奇妙である。教室の学生全員(といっても院なので数人しかいない)に、突然、当該人物は缶飲料を配り出すのだ。そして憎むべき人間にだけ、配らない。もって回った、嫌らしい悪意の示し方である。
 しかし突然缶飲料なんか配られても、いくら貧乏院生といっても嬉しくもなんともないし、困惑するだけである。奢られる必然性がない。また、学内価格90円の缶飲料で、歓心を買えるわけもない。部活等で汗を流しているときに、OBや先生が差し入れをするのならば喜ばれるだろうけれども、エアコンの利いた快適な教室で、立場が水平か一番下であるM1の院生が突然、缶飲料を配っても気味が悪い。親しくもないのに。そして、1人だけその配布から外されたところで、別に哀しくも疎外感もなんにもない。「何やってるんだろう、この人」と思うだけで。
 また、1人だけ外したときに、「お前の分はないんだぞ」と嫌らしく笑うのならば、悪意としてまだわかりやすい。それはそれで不健全だが。しかし当該人物は、1人を除く全員分を配り終えてから、残った1人を睨みつけ続けるという。何なんだ。


・「缶飲料作戦」の最も酷いケースでは、2人で話しているときに横から当該人物がやってきて、無言で1人に缶飲料を手渡し、去っていったこともあるという。飲み物を買うよう頼んでいたのかと思ったら、そういうわけでもなく、それどころか渡された人は「顔はたまに見るけれども、話をしたこともないし、名前も知らない。いったい何でジュースを渡されるのかわからない」と困惑していたという。
 憎む相手が話している相手に缶飲料を渡す行為に、どんな意味があるというのか。持って回った悪意の表明というのはわかるが……。それで何かの溜飲が下がるのか。「仲間はずれにしてやること」が目的というより、「偉大な私のありがたい好意を、貴様にはくれてやらん」と表明することに意図があるのだろうか。行動原理の中核には「自己愛」があるというか。自らの好意を憎む相手に与えず、他の人間にくれてやることで、「罰」としようとでもしているのだろうか。


・下で書いたが、気に入られたら気に入られたで大変。気に入られるといっても、メールに返信したとか、話を聞いて相づちを打ったとか、その程度のことで「私を認めてくる人に出会った!」と思うらしく、しかも「他者に受容される快楽」を求める行動は歯止めがかからない。
 メールは返信しなかったら、1日に何通もやってくる。携帯電話、パソコンの両方の恐るべきメールが寄せられたり。さらには電話も、深夜でも平気でかけてくる。「昨日から38℃の高熱が出て寝込んでいる」と言ってあるのに、深夜まで電話を何本もかけてくる無神経さ。しかもその内容は、体調を気遣う文言は一切なく、自分のことばかりである。それも急を要する一大事ならばともかく、どうでもいいことばかり。


・結局、当該人物にとっては、自分の問題は他者のあらゆる問題に優越するのである。ちょっと他者と話したい、話を聞いて貰いたいという欲求の前には、他者の事情・都合はまったく思いつきもしないのであろう。他者の情緒なんかに想像が及ぶはずもなく、「素晴らしい自分」の話に他者は耳を傾け、「素晴らしい自分」の問題に他者は関心を抱き、「素晴らしい自分」と話が出来て他者は悦びを共有しているのに決まっているのであろう。典型的な異常者の一例です。こういう人、どこのコミュニティに行っても最低1人はいますね。


 この人間が異常であり、ゼミの正常な運営を妨げ、学問としての議論を潰し、他の学生の安寧や生活を掻き乱す危険人物だということは、もう誰もがわかった。博士課程に上がるつもりらしいが、狭い専攻でこうも問題意識を共有されては、それは不可能である。何処の世界でも大なり小なり人間関係がものを言うが、狭く徒弟制の残る大学院では、他者を脅かすような人間は生き残れない。もちろん先生だって、異常者を上げて自分の負担を増やしたくはない。当該人物の、学問への道はすでに断たれた。

 だけれども当該人物が問題人物として認識を共有されたのはよかったが、これで終わりではない。 この専攻には今年度、異常者は2人も入ってしまった。これは前例のないことである。どちらも基礎学力がなく、それでいて自己有能感は満点で、学問の場としての議論の根底を崩す横柄な人間であり、挨拶1つできず、ストーカー騒ぎも起こす本物の社会不適合者である。だが、当該人物よりも、もうひとりの方が大人しく目立たない。だから、当該人物に先生方の注目が集まり、一等星の前の小さな星が霞むように、もう1人の方を博士課程に入れてしまうのではないか、と院生は怯えているわけであります。有害性でいったら、どっちも同じぐらいなんだが、目立たない方が相対的にマシだと思われて上に入れられたら、我が専攻は破滅ですよ。


今回の要点:今年度M1の汚点の1人については、問題意識を共有されました。
注意点:しかし1人が問題視されることによって、もう1人の問題児が霞むかも。
記述日:2007.02.22午後


40-09
米とは異なる物体のような、脅威

 本来都市名であるミューニックという語には、「独裁者に対して戦争を恐れるあまり譲歩し、その結果として問題を複雑化・長期化すること」という意味もあります。

 もちろんこれはギットレルとチェンバレンらとの間で開かれた会談とその結果を指しているのですが、この発想は非常に応用が利きます。独裁者と相対するときにはミューニックという語が脳裏にあるからこそ、西欧や米国の政治指導者は徒に融和策を取らないとも言えましょう。

 さらにはこれ、卑近な対人関係にも当てはめることが可能であります。人格的に問題ある人物の、迷惑・不快な行動言動に対して、正面から拒絶することによって険悪化するのを恐れて、テキトーに相手をしていると問題は必ず悪化します。


 人格的に問題のある人間は、自然な結果として他の人間と摩擦を起こし疎外されるようになります。摩擦を起こし疎外されストレスを抱えている異常者に対し、話を聞いたり異常行動に対して特に何も言わないなどしていると、異常者は一方的に「自分の全行動・言動が受容され肯定されている」と思いはじめるようです。

 異常者は、自分の行動言動を拒絶しない人間に対しては、「何をしても許される」との妄想を抱きはじめ、それを確認するかのように、迷惑・不快な行動言動をエスカレートさせます。これは二重の意味で典型的な抑圧移譲です。自分の抱えた抑圧を他者に移譲してストレス解消するのも抑圧移譲ならば、そのことによって「自分が相手に認められている」という承認の感覚を得ようというのも抑圧移譲です。これは「相手に迷惑をかけることによって、相手から認められたい」という異常な行動なのですが、この麻薬的な魅力の前には、自己を省みることは出来なくなるようです。単に「よい関係を享受している」程度にしか思わないようで。

 さらには、頻繁に自己と他者とを天秤にかけて選択させるようなことをも繰り返しさえします。異常者は、好意を寄せた人間が第三者の方を見ることを異常なほど嫌います。やはり棄てられることが不安なんでしょうか。それともそんなに承認が欲しいのでしょうか。あるいは気に入らない第三者を「敵」、自分を「味方」と区別して欲しいんでしょうか。フロイトを彷彿させます。

 さすがに異常な言動に堪えかねて注意・勧告したり、あるいは気持ち悪くなって距離を取り始めたりすると、さあ大変。こういう輩の言うことは決まってます。「裏切られた」「棄てられた」、と。この台詞の前には「尽くしていたのに」とか「散々利用された」とか意味不明な文言が入ります。こうなっては今までの依存感情が反転して、猛烈かつ執拗な憎悪を持たれるようになります。で、こういう奴はストーカー行為に走るわけで。

 これならば最初から冷遇・迫害していた方がよかったのです。憐憫から話やメールを無視できなかったことが、面倒を避けるために迷惑・不快な行動言動を拒絶しなかったことが、より悪い結果を招くわけで。


 私自身の不徳のせいかもしれませんが、私はこういう異常者に好かれやすいんです。今までも、こういう異常者に付きまとわれたことがあります。気持ち悪くなって相手にしなくなったり、異常な言動に堪えかねて一言言ったりすると、その瞬間から猛烈に憎悪されるようになるわけで。

 その先はどういう心理かまったく理解できませんが、こういう奴は、ストーカー化するんですよ。過去には、知らない間に部屋に侵入されたこと、入れたことのない自室の内容を詳細に話されたこと、帰宅したら部屋のドアノブに何故かコンビニ袋と食い物が掛かっていたこと、連日深夜にまで電話・メールを夥しい数よこされたこと、背後を話しかけるでもなく延々つけられたこと、走ってもUターンしても追い掛けてきたこと、駅で降りたら別の車両から異常者が駆け降りてきたこと……数限りなく。

 どうしてこういう気持ち悪いことをして、嫌われるのが自分の行動のせいだと考えないのか、理解できません。憎むのならば一貫して憎めばいいのに、ちょいとこちらから声をかけたりすると、それまでの鬼のような形相が一変し最大限嬉しそうな表情になって、何事もなかったかのように嬉々としてくだらない話をはじめようとするんですから、あら不思議。

 今年度は、異常者に一方的に好かれ、そして憎まれるようになる1年でもありました。そして問題は終わってはいません。サイトがまったく更新されなくなったときは、私は刺し殺されているのかもしれません。今日同期に相談したところ、「このことはもっと広く言って、皆に覚えていてもらったほうがいい」「我々で、可能な限り防衛する」とのコトバを頂きました。まあ大きな問題は起きないとは思いますが。それでも世の中何が起こるかわかりません。


今回の要点:異常者に付きまとわれています。カンベンしてください。
注意点:ストーカー行為の内容は、今回のものだけではありません。過去に別の人物から受けた行為も含めてまとめてあります。
記述日:2007.01.11未明


40-08
自己との距離と、自己に対するベクトルがすべて

 他者から自己への働きかけを、いつでも受容できるわけではない。内容はアドヴァイス、冗談や世間話、何かの誘い、酒や飯を勧めること、金品を贈ること……まあ何でも良い。とにかくこうした働きかけに対して、相手が最も期待する対応をいつでも取れるとは限らないし、そうする必要もない。


 上で挙げたものならば、例えばアドヴァイスは、従った方がうまくいかないと思われることもある。冗談や世間話も笑えないこともある。楽しめないだけでなく、不謹慎、偏見、悪意、愚鈍などによって、話の前提そのものを看過出来ないこともある。誘いだっていつでも応えられるわけではない。酒や飯だって勧められるたびに飲み食いしていては健康を害するし、自分のペースや嗜好もある。ごく僅かであってもカネや品物を提供すれば歓心を買えると思う人間は案外多いが、大した理由もなく差し出されるのはプライドを傷つけるし、無用な借りをつくることも避けたい。


 まあ日常的な、大抵はくだらない些細なことだ。だが、こうした些細なことも、断ると問題が起きる場合がある。必ずしも言い方やタイミングといった技術の問題ではなく、相手に受容されないことそのものが当人の精神を揺さぶることもままあることである。


 何か親愛を確認・表現する手段として働きかけをした人物が、他者を自己の延長のように捉え、自分の判断通りに物事が進まないと気が済まない性質を持っている場合は、対応が難しい。これは、「他者」という感覚がないと言い換えることも出来る。このような人間は、相手が自分と接しているか否か(自分と一体であるか否か)でしか友好や愛情の度合いを判断できない。相手を見る尺度は、距離とベクトルである。相手が常に自分の側を向いて、自分と一体となっていることを期待し、それが自然状態だと思い込んでいる。


 この場合、自己の働きかけが受容されず相手が期待通りに動かないと、そのことに衝撃を受ける。相手が自分から離れていったかのような錯覚を覚え、一方的に「棄てられた」「裏切られた」かのような感覚を持つのでやっかいだ。怒りというよりは哀しみを持たれかねない。


 さらに、人間を敵味方に区別したがる人物の場合は、これはこれでやっかいだ。こうした性質は、上記の「他者という発想の乏しさ」と「他者への拒絶」とが組み合わさって発現する。つまり、敵と味方とをそれぞれ「自分ではないもの」と「自分の一部」と言い換えることが出来る。上の類型と同じように普段は無条件に、相手が自分の方を見て密に接していると、いつでも相手が自分の味方であり自分を受容してくれると思い込んでいるのだが、相手が自己を受容してくれなかった場合、一気に感情が反転しかねない。ちょいとした世間話や冗談を受容するかどうかといった、(第三者の目には)くだらないことであっても。


 「今まで味方だったので裏切られた」という、極めて一方的でまったく合理的根拠のない思いは、上の場合よりも強烈であり、強い怒りを伴う。ちょいと自分を受け入れられなかったぐらいで、「散々利用されて、用済みになったから棄てられた」「奴の為に尽くしてきてこの仕打ちか」などと妄想を膨らませて、猛烈な憎悪に発展しかねない。


 人間なるものは、そんなに合理的な判断をして他者とつきあっているのではないわけです。もちろん私も含めて。だけれども、自分の他者への働きかけを受容するかしないか以前に、相手が自分と相容れない習慣や趣味を持っていたり、自分とは異質な発想や観念を持っているとわかったときにも、1人で勝手に「距離が開いた感覚」に苛まされる人間もいるから困りものです。いや、異質性があまりにも強烈だった場合はそれも自然な反応だ。が、本当にちょっとした日常の範囲内のことでも、まるで一方的に裏切られたかのように、自分に敵意を示されたかのように、過剰に反応する人もいるんですよ。ホントに。


今回の要点:人間の友好や愛情の根幹は、相手が如何に自分と近く、そして自分の方を向いているか、という非合理的な感覚にあるのではなかろうか。
注意点:小さい小さい出来事こそ、ストレスの蓄積になったり、あるいは導火線の火になったりするので、「些細な出来事」をナメてはいけません。誰もが「問題」と認識呼称する大きなトラブルよりも、小さな行き違いによるトラブルの方が解決がより困難ですから。また、今回は被害者意識を持つ側を常軌を逸した存在であるかのように扱いましたが、一方で「受容しない側」こそが無視や価値の否定などによるモラル・ハラスメントを行っている場合もあったりします。第三者には問題の存在そのものがわかりにくいので、難しいものです。


40-07
アドヴァイス

 アドヴァイスなるものは、時として非常に迷惑な行為となる。自分が成功するための方法を知っており、相手はそれを知らない、自分よりも劣った人間だという前提で為される場合はやっかいだ。自分のアドヴァイスを相手が一字一句正確に、自分の思い通りに受け入れないと、侮辱されたと勝手に受け取るからだ。


 もっとも明確に技能や技術に差がある場合や命令に従う契約関係にある場合、例えば親方が弟子に対して指導するのならばこの態度に妥当性がある。が、ほとんど優劣関係が存在せずいかなる契約も存在しない場合でも、この態度をとる人間がしばしばいる。ろくな根拠もなく自分が優れて物をしっており、相手は知らない劣った人間だと思いたがる人物は、老いも若きもどの世代にもいるものである。優劣関係を見出すことには麻薬的な快楽があるのだから、それに溺れてまともな判断が出来なくなることは、ままあることである。


 こういう人間の優劣関係には根拠がなく、むしろ自己の優越と他者の劣等を確認する為にアドヴァイスをし、その通りに相手を行動させて満足を得たがっているので、その欲求が満たされないと怒るのは無理からぬこと。迷惑な話だ。


 まあアドヴァイスというものは時として、された方の対応が難しいものです。


今回の要点:下の40-06で、私がアドヴァイスに対して侮辱されたことを扱ったが、別に私はアドヴァイスなる行為をすばらしいものだと思っているわけではないと示す為に、敢えて極論でアドヴァイスの迷惑さを記述。
注意点:そもそもアドヴァイスなるものそのものが、多かれ少なかれ根拠のない優劣関係に基づいているのかもしれんね。


40-06
健忘症

 他者と付き合っていれば、自分の言動に相手が激昂することぐらいはあるだろう。そんなことはどうでもいい。だが、不思議でたまらないのは、言われて怒り狂ったのとまったく同じ内容を、なぜ平然と口にできるかということで。いや、罵詈雑言のことではないですよ。


 例えば、私は学部時代、「就職活動をする予定のない人も、後学の為にちょっとエントリーシートを出してみたらどうか。企業の本社ビルに入ったり、その会社の人間と会うことはなかなか出来る体験ではない。面接の場数にもなる」と言ったことがあった。だが、私のこの言に対してある後輩は怒り狂った。曰く、「俺は研究者になる為に生きてきた。勤労者になるぐらいならば死んだ方がマシだ。就職活動なんか誰がするか」と。本当はこの10倍ぐらいの分量でもっと激しい言葉遣いなのだが、要約するとそういう内容だ。企業見物を勧めただけであって、進路についてとやかく言ったわけではないのに、何故こんなに怒るのか。いやはや。


 さて、この後輩は大学院へ行く目標を果たせず、公務員試験に切り換えた。これ自体は、よくあることである。私も、後に院へ入ったが、学部時代には経済的理由によって一度院を断念した経験がある。進路の変更については何も言う気はない。ただ、彼は言ったのだ。「自分は在学中、就職活動というものをせずに卒業した。今こうして公務員試験の面接に挑むのだが、経験のために、形だけでも就職活動をしておけばよかった」と。かつて私が勧めたことではないか。単なるアドヴァイスや世間話ならば忘れるのも当然のことだが、私の言に対して何が気に食わなかったのか、彼は公然と私の顔にクソをなすりつけるがごとく、人前で激昂しやがったではないか。その私に対し、よくもまあ平然とこんなこと言えますね。


 人知れず他人を傷つけたり怒らせたりしたのならば、そもそも気づかないこともあるし、気付いてもすぐに忘れるだろう。しかし怒り狂って、人前で長々と侮辱まじりに演説をぶった強烈な体験を、忘れるものかね。私ならば忘れないですよ。そんな強烈な記憶。やったことの強烈さもさることながら、自分が怒り狂った記憶、怒り狂うほとの不快感を覚えたという記憶はそうそうは忘れない。そして言われたことを散々否定して侮辱までしたことを、後になってそれが正解だったとわかったとき。私ならば平然と「そうすればよかった」とは言えない。二重三重に恥ずかしい。


 今回挙げたことは一例にすぎない。今年はいくつかこの手の事例がありました。いちいち本人に対して「お前、あのとき散々俺のツラにクソをなすりつけて、よく俺にそんなことを言えるな」と言うほど私の根性は悪くはない。しかし黙っていられるほど根性がよくもない。というわけで一番当たり障りのない事例について、一筆書いたわけで。本当はもっと強烈な事例が2つばかりあるのだが、さすがにそれは内容が強烈すぎて書けません。

今回の要点:かつてアドヴァイスに対して相手を侮辱するほどに拒絶しつつも、後に「そのような行動をすればよかった」と、あくまで「個人的な後悔」として、当の本人に対して平然と述べる人間の神経を疑う。
注意点:過去に自分のアドヴァイスを他者が受け入れなかったこと、あるいはアドヴァイスを忘れていることが問題なのではない。侮辱を忘れていることが問題なのである。



40-04
禁酒禁煙

 今年の6月の末から禁煙を徹底し、1人での飲酒も停止している。
 酒もタバコも、そろそろ止めないと健康に深刻な問題が発生しそうな塩梅であった。去年腸カメラをやった原因は、間違いなくウォッカとジンの飲み過ぎだ。タバコはここ数年間は「喫煙者」とは言えない程度にしかやっていないが、それでもたまに吸う時期が続くとノドの炎症になって現れた。
 まあ控えた方がいいのであろう。
 いいのはわかっている。


 だが、それらのない生活を思うと、人生から色彩が失われたような錯覚を覚えることもある。いや、停止することが出来ているし、人付き合いでちょいと一杯やった次の日も、別に堰を切ったように飲み始めるわけでもないから、それほど依存度が高いわけではないのだが。しかしそれでも、止めるとなると抵抗はあるようです。タバコよりも酒に関して、特にそれが強い。あんまりいい兆候ではない。だからこのヘンで歯止めをかけねば。


 まあ、すばらしい人生を送ろうとはあんまり考えてないし、最初から何もかもなかったことしたくなることもある。が、しかしそれでも、飲んだくれて社会的にダメな人に成り下がることは避けたい。肺ガンや肝硬変で緩慢に死んでいくのは、最期としてはあんまり理想的ではない。したがって、例え未来や生に対して肯定的な感情を持っていないとしても、少なくとも生や死を多少はマシなものにする為には、禁酒禁煙は必要なのかもしれん。いや、陰鬱に日々を送っているわけではなくて、例えそういう精神状態であったとしても禁酒禁煙は有益だと言いたいだけね。


40-03
アイデンティティの根幹ではある。だが、もはや関係はない。

 私の学部5年間は、ほぼ100%が武道部の中にあった。留年した理由は、部の実務運営の為に試験さえサボって物事に当たっていたという側面もあった。また、毎日他人の下宿を渡り歩いて、酒飲んで歩いていたものであった。
 もちろん違った学生生活を送っていれば、4年で卒業してもう少し条件のよい就職が出来たかもしれない。もっと若いうちに大学院に入ることも出来たかもしれない。「あったかもしれない可能性」はいくらでも考えられる。だが、私は自分の学部生活を完全肯定しており、一片の否定句も浮かばない。


 ただ、今の私が武道部と関係があるかと言えば、ほぼまったくない。部で培った人間関係はある程度は生きているが、最初に札幌という遠方に飛ばされて地理的に隔絶され、次に早期離職者となった私は勤め人たる連中とは生活習慣も思想信条も金銭感覚も合わなくなり、あまり付き合うこともなくなってきている。さらに、現役時代にはOBによる傍若無人な振る舞いや運営への介入、あるいは人生や仕事について高説垂れて学生を侮り蔑むようなことを蛇蝎のように嫌ってきた私としては、自らがOBとなってからは、現役部員の前に安易に現れることを禁忌としてきた。部には私の連絡先さえ伝えていない。したがって、私と部との関係はないも同然である。


 しかし先日、久々に学部時代の奴と会ったとき、「部から離れなければまともな人間にはなれない」と言われた。不思議でたまらない。久しぶりに会って大学時代の誰それはどうした、と消息話を2人で始めたときの話だ。私が一方的に始めて聞かせたわけではない。他人の近況について話している最中に突然、なぜ私が彼から「部から離れろ」と勧告されねばならんのか。


 もう部には出入りしていないし、当時の連中と会うことさえ滅多にない。ごく稀に他のOBと会ったときに他の連中の消息を聞いたから、それを話しただけだ。もし私が異常者なのならば、それは部との関係ではなく、私自身の問題だ。さらに言うと卒業後の就職、離職、語学への転進、大学院への『入院』と繰り返している中で、私の生活習慣、趣味嗜好、思想信条、カネの使い方のすべてが大きく変わっている。別に、昔を懐かしんで日々暮らしているわけでも、学部時代の習慣を墨守しているわけでもない。


 だが、「部から離れろ」というコトバの適切性やタイミングはともかく、彼がそう口にした理由は想像できなくもない。彼は、過去の自己を否定をしたがっているからだ。部の生活も、それなりに楽しい場面もあったとは認めているが、否定的に捉えているからだ。彼のアイデンティティは、過去との差別化によって成り立っている面が垣間見える。だから彼は、消息話に出てきた「現在あまりうまくいっていない人間」を「部を引きずっているせいだ」「部の人間の末路はこんなものだ」と安易に見なした。その上で、そんな人間になってはいけないとして、私に対しても過去と現在との明確な差別化を求めたのかもしれん。


 もちろん時間が経つと、過去の自分の所業が愚かしく恥ずかしく思えることもあるでしょう。現実にはそうしなかった「あったかもしれない可能性」について考え、選択を誤ったと思うこともあるでしょう。だが、そのときの条件の中で、最も自分が欲する選択をしてきたのではないか。特に、それなりに金銭的時間的に自由でいられた学部時代について、後になってから誇りを持てず、ひたすらに否定するとはあまりにも哀しい。


 もっとも、いかに学部時代が相対的に自由であっても、納得のいく日々を送れるかどうかは簡単ではない。自分の努力ではどうにもならない条件も存在する。過去に誇りを持てというのは、酷な話なのかもしれない。だがしかし、過去の自己を徒に否定し、過去の自己と現在の自己との差別化を図ったところで、否定「そのもの」によって現在の成功を得られるわけではない。あたかも、ネルシャツをダサいと言う男が、そのシャツを避けた「だけ」ではcoolな服装を構築できないように。


 しかし現在に芯となるものを打ち立て、自信やプライドを持って生きることは難しいかもしれない。だが過去を恥じ、貶め、否定し、差別化を図ったところで、そのことによって現在に誇りを持てるわけでもない。久々に会った旧友の口から、過去の否定を現在の成功と結びつけて語られるとは、こんなにも哀しいことはありません。


40-02
忌避点

 「他人によく見られたい」「人付き合いのときに気をつけたい」という話に於いて、フランネルシャツをダサい服装の代名詞として扱う人間はしばしばいる。だが、食事のときに大口あけて、咀嚼音を他人に聞かせるバッドマナーに気を付ける人間は少ないように思える。


 「ネルシャツはクズの着るものだ」のごとく、前後の文脈もなくただ1種類の衣類を評することに、あんまり意味はない。衣類は、組み合わせや、着る人間の体型・肌の色に大きく左右される。ひとつの品物について一概に言えるほど簡単ではない。もちろん特定種類の品を嫌うのは個人の勝手だが、その品を避ければそれで自分が見栄えよくなるわけではない。まあ、件のシャツをダサく着る人間もいるのであろうけど。多分私もその1人だろうし。
 だが、「食事のときに、唇を開いて咀嚼して、周囲に汚い音を響かせるのはクズのすることだ」と、1点の行為をバッドマナーと評すことには意味がある。バッドマナーは、行った瞬間に他者に不快感を与え、一緒にいる人間に恥ずかしい思いさえさせかねない代物。避けたところで自分の評価が上がるわけではないが、行えば自分自身を貶めることになる。


 しかしながら些細な服飾にこだわっても、致命的なバッドマナーには無関心な人間は、私の経験上少なくない。
 具体例を1つ挙げるが、「人生の目的は異性との付き合いである」と称して、身だしなみには気を付けねばならんとし、それこそ「女と付き合うのならネルシャツなんかは着れない」などと1品目への忌避ばかり述べる人物が身近にいる。まあ、彼が嫌いな格好を避けるのは彼の勝手だ。だが、それだけで他者に与えるイメージがよくなるわけではない。彼には、自分が「ダサい」と思う服飾を忌避する心があるのに、バッドマナーを避けることには神経がまったく向かわないのだ。
 彼は、最悪なバッドマナーを私の知る限り何年も続けている。注意は何度もしているのだが・・・。いい年こいてここそこでガムを噛み、大口開けて汚い音を響かせる。会食に行ってさえ、食器は丁寧に扱っているのに上唇と下唇を閉じることを怠って、生々しい咀嚼音を直接周囲の空気に響かせる。お前は、女の子を誘った車の中で、いつも耳障りな音を立ててガムを噛んでいるのか?メシに誘っても、気の利いたメシ屋で周囲数メートルに汚い音を響かせているのか?私だったら、相手がどんな美(少)女だろうと、そんな最悪のマナーの人間とは二度と会わないし、1秒でも早く1メートルでも離れたくなるが。


 すばらしいテーブルマナーや礼法を身につけろと言っているのではない。人の耳元でガムを噛まないとか、食事のときには下唇と上唇を閉じるとか、その程度の最低限の気をつけない人間は、一緒に居て最も堪えがたい。これは異性づきあいであろうと友人づきあいであろうと、あるいは仕事であろうと、マナー以前の振る舞いである。
 1種類の服飾品のよしあしについて絶対的な判定を下し、特定か不特定の他者についてバカにして相対的な優越感ないし安心感を持つヒマがあるのだったら、もう少し自分のマナーを振り返ってみてもいいのではないだろうか。


40-01
学校の当直警備

 現在50才ちょいのさる研究者の話によると、この先生が大学生/大学院生だった時代には、学校の当直のバイトが学生のバイトとして割と手頃だったという。当時はもちろん街の小学校なんかに機械警備などあるわけもなく、民間警備会社も発達していなかった。
 夜の学校では、消したはずの電灯がついていたり、あるいは懐中電灯の明かりが動いていたりと、たまにトラブルもあったという。児童生徒の運動着を掻っ払おうとする変態ではなく、アホな教師が置きっぱなしにしていた給食費などの小銭を取る泥棒がしばしばいたという。ただ、そういう事態に出会したときの原則は「戦うな」「傷つくな」「すぐに教頭に連絡」だそうな。
 もちろん危険は物取りなどの犯罪者以外にはまず存在しないのだが、学校は怪談の舞台としては古来から語られる場所。好きこのんで当直警備を引き受ける大の男でも、夜の学校は決して気持ちの良いものではない。そこに、大学の学友が脅かしにくるようなこともあったという・・・。


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