last up date 2008.10.29

42-10
買ってみせろ

 「カネでは買えないものもある」というコトバは、人間性ではなく、知性についての試金石ではないかと思います。結論から言えば、金銭で何事も恣に出来るわけではないし、ましてや容易に札ビラを切れる人間は極めて稀なので、「カネで買えないものがある」というコトバはいかなる価値判断も含まない事実認識に過ぎないんですがねえ。

 まあ、こうしたコトバを聞くと、話者が「青臭い価値判断」をしていると勝手に解釈し、そうした「青臭い価値判断」に冷笑的な態度を取れば、自分が物事を知った強靱な人間だという気持ちになれるのでしょうけれども。

 言うまでもなくカネは重いです。カネがなければ生存すること、人並みの生活をすることそのものが不可能であり、そのために人生の大部分を投資し、寿命を磨り減らして稼がねばなりません。しかし遣り甲斐を覚える納得のいく仕事に、妥当な条件で従事していると胸を張って言える人はそう多くはありません。しかしより条件のよい人生を送るためにはカネが必要です。カネさえあれば、よりよい条件で働ける、よりよい生活を出来る、もっと好きなことを出来る……という、悲壮な思いは、多くの人が持っているはずです。

 そして健康についても、カネがあるほど質の高いものを維持・実現する条件を整えられるます。治療法の確立している病気でも、治療費を払えなかったら不治の病と何一つかわりません。治療のため長期休職することも、大変な経済的負担を強います。病気は庶民にとっては大敵なのです。でも、うなるほどカネを持っていれば、病気に伴う問題は小さくなります。

 が、カネがあれば必ずしも健康になれるわけではありません。金持ちだろうと王侯貴族だろうと、夭逝することもあります。障害や持病に苛まされて生きていくこともザラです。誰だって、自分の境遇において苦労し、解決できない問題を抱えているんですがねえ。カネがあれば有利にはなりますが、それで何もかも思い通りにいくわけではないです。その意味においては、「カネで買えないものもある」のは何一つ青臭い情緒に基づく理想論でも倫理でも、何でもないんですがねえ。



 また、カネがあろうとなかろうと、自分の過去を、これまでの人生を変えられるわけではない点は、重要です。昔の屈辱的な経歴を札びら切って隠すことは出来るかもしれませんが、それでも自分が納得のいく、よい人生を送ってきたことにはなりません。そして、カネがあろうと、年齢食えば食うほど出来ることは限られてきます。

 例えば、若い頃貧乏していた人が成功して、歳食ってから昔行けなかった大学に入ったところで「20前後の若者としての学生生活」を送れるわけではありません。ましてや20前後の若者同士で無邪気で愚かな学生生活を送ることも出来なければ、そうした『若い頃の輝かしい過去』を共有した仲間を得られるわけでもないです。「そうならなかった人生」を修正することは不可能です。当たり前のことです。

 そして成功して富を築いたビジネスリーダーが、年をとって死を前にして思うことは、「成功への満足感」ではなく、「家族を顧みなかったことへの後悔」「気の置けない友人もいない孤独さの痛感」がかなり多いという研究があります。そしてこれは、ハーバード・ビジネススクールの講義に組み込まれています。自分の能力を活かして成功するという最高に遣り甲斐を覚える仕事をして、多くの人が夢見るが実現できないような裕福な暮らしをしつつも、人生は一筋縄ではいかないのです。



 考える必要もないことじゃないんですかね、金持ちだろうと成功者だろうと、問題を抱えたり、悩んだりするということは。人生がままならないのは、誰にとっても同じことです。金持ちだってアルコール依存症になったり、自殺したり、鬱病になったり、人間関係トラブルに悩まされたりしているじゃないですか。特に、メディアはそういう下世話な話題を好んで報道するじゃないですか。そうした情報を摂取していながらも、「カネで買えないものもある」というコトバを青臭い寝言だと笑い飛ばしている人は、「悩める金持ち」が人格的に脆弱なクズで、自分がうなるほどカネを手に入れればそれで面白おかしく人生を謳歌できると言いたいんでしょうかね。

 そりゃ、うなるほどカネがあれば、どうしようもない仕事を擲って面白おかしく遊んだり、贅沢品を購買したりして、楽しく暮らせる……ということは誰だって夢見ます。しかしカネがあったところで、長年患わされている持病が一発で全快するわけではないし、子供の成長についての問題がなくなるわけでもないです。また、学歴のないことを気にしている人が、カネを手に入れれば突然教養や専門知識が湧いてくるわけでも、ましてや、いきなり念願だった名門大学に入れるわけでもないです(仕事を辞めて受験勉強に専念することも、合格後に気ままに学校に通うことも出来ますが、合格・卒業・修了する能力があるか、歳くってからの大学生活に堪えられるかどうかは別問題です)。何もかもうまくいって満足を得られるわけじゃないです。

 人間関係についても、「学生時代のささやかだが輝かしい過去を共有した旧友」を持たない人が、そうした仲間を得られるわけではないですし、それなりに充実した過去を持つ人でも疎遠になった旧友を呼び戻せるわけでも、ましてや過去を再現できるわけでもありません。カネに物言わせて人を集め、芝居を打たせることは出来るかもしれませんが、虚しいですよ。それで満足する人もいるのかもしれませんが。

 ついでに言えば、カネが降ってきても、自分の魅力や社交性が高まるわけでもないです。カネがあればアクセスできる人間層の幅が広がりますが、それだけです。そこでうまく立ち回って、有用な人間関係を築くのは一朝一夕にカネを得た人間には難しいのではないでしょうか。ましてや、歳を食ってから友人付き合いの出来る人間を得ることは、いかなる人間にとっても本当に難しいことです。

 


 「カネがあっても出来ないことはある」、つまり「カネで買えないものもある」。ごくごく当たり前のことです。しかしこういうコトバを、機械的に「青臭い理想」「きれい事」と判定して冷笑するような人間は、知性に問題があると思いますよ。カネがあろうとなかろうと、人生には解決できないことなんていくらでもある。解消できないわだかまりや問題はいくらでもあり、カネさえあれば何についても満足や幸福を実現できるわけではない。考える必要さえない事実じゃないですか。カネがないために苦労し、問題を抱えることは多いですが、カネさえあればそれで何もかもうまくいき満足できるという発想は、あまりにも人間について、人生についての認識がデタラメすぎます。

今回の要点:カネがあれば何でも恣に出来るわけでもないのに、それを指摘すると「青臭い」と感じる人間は、知性に問題があるのではなかろうか。
注意点:カネが重いことは大前提です。また、大学生活云々の話が出てくるのは、私自身が大学で面白おかしく仲間と愚かにも若い日々を過ごしたことに最大限の価値を置いているからです。
記述日:2008.10.29


42-09
確率統計

 重心の偏りや振る人間の技術などを捨象すれば、六面サイコロで「6」が出る確率は1/6だ。しかしだからといって、6回振れば必ず1回「6」が出るわけではないのは言うまでもない。が、5回連続で「6」が出なかったからといって、次は必ず「6」が出る、確率的にそうなる、みたいなことをいい年こいて真顔で言う人間は大丈夫か?サイコロを何回振っていようと、今までどういう目が出ようと、今この瞬間振るサイコロが「6」を出す確率は1/6だろうに。

 サイコロで「6」が出る確率は1/6だから、6回振れば必ず1回は「6」が出る、なんて論理がまかり通るのならば、当たる確率が1/2の丁半博打は、2回やれば必ず1回は当たるということになる。が、そんなバカなことがあるわけはない。

 2回、丁半博打をやったときは、
・1回目に「丁」、2回目も「丁」。
・1回目に「丁」、2回目に「半」。
・1回目に「半」、2回目に「丁」。
・1回目に「半」、2回目も「半」。
と4パターンの結果が考えられる。

 1回のツボ振りで「丁」が出る確率は1/2だ。が、2回やれば必ず「丁」が1回は出る、というわけではない。2回とも「半」の場合こともある。当たり前のことだ。2回振って最低1回「丁」が出る確率は75%に過ぎない。
 一方、6回サイコロを振って、最低1回「6」が出る確率は約66%である。正確には31031/46656。

 こんな計算はどうでもいいんだけれど、5回振って「6」が1度も出なかったから、次は必ず「6」出る、とジョークでも験担ぎでもなく本気で考えるのは、ちょっとどうかと思います。

今回の要点:1回の事象についての確率を複数回に当てはめるときは、足し算をすればいいわけではない……ということをわからない人はカンベンして欲しい。
注意点:高校数学の確率統計では赤点寸前だったので、計算にあんまり自信はないですが。
記述日:2008.07.08


42-08
特殊警棒

 現役の巡査から聞いた話。警視庁の警察官の持つ特殊警棒は、「ダメージの与えすぎ」を避けるために、脆弱な作りをしていた。そのため、使うとすぐに壊れたそうな。しかしここ1年で丈夫なものに交換されたという。
 日本製の特殊警棒は民間市場に出回っているものも、華奢なものが多かった気がする。それはメーカーが、大量購入する警察が求める仕様に合わせて生産出荷していたからなのかもしれない。中には、一度伸ばしたら戻らないものもあったが、それは戻す意味がない(使ったら壊れる)ということだったのか。いや、ごく少数がマニアや自衛意識あふれる人(+犯罪者)に買われるだけの民間小売市場なのだから、ただの安物が出回っていたというだけなのかもしれないが。


42-07
大人無料、子供半額

 空港のリムジンバスで運転手と若い家族が揉めていた。結論から言えば、若い家族が4人なのに3枚しかチケットを買っていないのが原因だ。リムジンバスには子供料金などない。しかしこの家族は「子供たちは幼稚園児だから」として、子供2人に対してチケット1枚しか買わなかったわけだ。ちなみに子供料金がない旨は券売機に書いてあるし、座席は予約制である。4才のガキだろうと予約なしに席を占有すると、席が足りなくなる恐れがある。若い家族がそうしたことに一切発想が及ばなかったことが、全ての問題である。よくあることだ。

 そして「揉めていた」と言っても、横柄で必ずや頭が悪いであろうチンピラが、強く出れば思い通りにいくとして騒いだわけではない。ごく平凡な家族であり、対応は終始穏やかだった。ただ、根本的に「何が問題なのか全くわからない」ようであった。「子供ならば半額・子供料金」という発想は、とても堅牢なようで…。繰り返すが無理に料金をケチろうとしたのではなく、ただ自分が脳内に持つ認識の鋳型に、料金体系を無理矢理当てはめてしまったというだけである。

 このバス運転手はこの家族を叩き降ろしたりはせず、「お子さんを1人ヒザの上に乗せるのならばよい」と強く念を押して、車内に通した。チケット3枚に対して、3席を占有させる妥当な案である。しかし若い家族の方は、夫婦で「何を言われたのか、さっぱりわからない」という趣旨のことを言っていた。運転手が「子供料金はない」「子供でも席を座ると、予約制なので席が足りなくなる」「だから席に座るのならば子供であろうとなかろうと、人数分券を買え」という点について説明があまりうまくなかったせいもあるが、若い夫婦の思いこみはそれ以上に強烈なようで。「子供は半額」という思いこみ。「半額券がないのならば、大人券1枚で子供2人分とする」という方法が、いつでもどこでも通用するという思いこみ。何故、そうした方法が全席予約制のバスには通じないかもしれないと、考えることができないのであろうか……。

今回の要点:いつでもどこでも「子供料金」なるものがあるわけでも、ましてや「大人料金1人前」で「子供2人分の料金」とできるわけではない。
注意点:幼子2人に対して大人料金2人分を払うのが、若い家族にとって大変な負担なのはわかります。しかし子供料金という設定がないのに、子供料金を通そうとするのは犯罪です。
記述日:2008.03.05


42-06
絶対性

 「背広のボタンは、一番下を外さなければならない」というコトバには、どうも違和感を覚える。いやもちろん、一番下のボタンを閉めると座りにくいことも、一番下のボタンを留めるようにデザインされていない場合は留めるとシルエットが崩れることも、認識している。上記のように「外さなければならない」とmustで語る人間が少なくない以上、下のボタンを留めることによってものを知らないクズ野郎だと見なされる危険性もある。だが、それでも「いついかなる場合でも、一番下のボタンは外さなければならない」と、唯一絶対の規範のように扱うべき問題なのか。
 私はものを知らないクズ野郎なので、服飾やマナーについて自分なりに調べているが(身に付いているかどうかは別問題)、そうして得た知識によると、必ずしもすべての背広が一番下のボタンを留めることを想定しないデザインをしているわけではない。ましてや一番下のボタンについては、「外さないことが非常識・マナー違反」というより、「一番下は外してもよい」というような扱いも見るのだが。さて、どうしたものか。

 何にせよ、私は背広を着ることが稀にしかなく、ましてや混み合う時間に電車を使うことは年に数えるほどしかないやくざ者。それでも背広を着て朝の電車に乗ることはある。そうしたとき私は、背広の上着のボタンを下まで留める。満員電車の引張圧力でボタンホールに掛かる負荷を、分散できるからだ。「下のボタンを留めるとシルエットがくずれシワになる」としても、満員電車で引っ張られて出来るシワの方が凶悪だ。ボタンホールやボタンの留め糸へのダメージも大きい。それを緩和するために、ボタンを全部留めることに妥当性はあるのではなかろうか。
 しかし電車に乗るときにボタンを全部留めるのを見られたら、私が「いついかなるときでも背広のボタンはすべて留めなければならない」と、これまたmustで「間違った信仰」をしていると見なされ、ものを知らないアホ野郎として扱われるから厄介だ。だから電車を降りたら、すぐさま一番下のボタンを外すのを忘れないようにしている。


今回の要点:背広の一番下のボタンは「いついかなるときも留めてはならない」という信仰が、絶対性を持つのかは疑問だ。
注意点:何にせよ、一番下のボタンは外した方が無難ではある。
記述日:2008.03.04


42-05
殺したくない

 生きてれば、殺したいような奴の5人や10人とは出くわすことであろう。それどころか、朝の満員電車の中でいい年こいたオッサンに耳元で大口開けてガムの咀嚼音を聞かされ続けたとか、狭い通路を塞ぐように横に広がって歩いてきたガキどもにどれだけ避けても肩を当てられた上罵詈雑言を浴びせられたとか、若い女に足を踏まれたとき何故か悲鳴を上げられてあたかもこっちが加害者であるかのようにし向けられたとか、そんなくだらんことでも殺意のひとつも覚えるもの。些細であっても他者との接触はストレスに満ちている。
 しかし腹が立ったときに「ド畜生め、ブッ殺してやる」と思うことはあっても、真実殺してやりたいかといえば疑問符がつく。決して倫理的な話ではなく。ましてや法律や社会規範におけるペナルティの話でもなく。他者を殺すという強烈な禁忌を犯すことに情緒が苦しむという問題でもなく。ましてや太宰治のように、「相手を殺すことは、相手を苦しみから解放すること」と言いたいわけでもない。殺したら、相手がこれから起きることを認識できないからだ。自分が何故、悪意を向けられるのか、相手が認識できないからだ。
 特に、行きずりのどうしようもない態度のクズに対しては、いきなりぶっ殺しても相手は何が起きたのかわからないまま死んでしまう。自分にいかなる「非」があるのか、いや、「非」云々以前に、自分の行動が他者にいかなる影響を与え、その他者が自分にいかなる行動をするのかという単純な因果関係を理解できぬまま死んでしまう。社会通念的にも道徳的にも法規範的にも、殺されることが妥当な「非」などはそうそうないし、相手に「非」があり、自分にそれを裁く資格と権利があるとして暴力を振るうのは、いかにも病的だ。ただ単に、自分がナメた態度を取れば、他者が怒り、怒りに基づいて暴力を振るってきて、自分が非道い目に遭わされる蓋然性がこの世に存在することを、知らしめたい。いかなる正当性を主張するつもりもなく、ただの未来予測として起きうる可能性について、知らしめたい。だからこそ殺したくない。死なない程度にぶちのめしたい。セフティスラッグで脳髄を粉微塵にするよりは、プラスティック製の訓練弾でハラワタにボディブローをあびせたい。
 それが他者から受けた憤怒に対する、適当な(正当、ではなく)返答ではなかろうか。殺意を抱くのは不健全だ。
 もちろん、恒常的に迷惑をかけ続ける輩に対しては、脅威を不利益を確実に排除するため、ぶっ殺すことも極めて合理的な選択であるが。


今回の要点:相手を殺すと、相手はなぜ自分に悪意を向けられるのか理解できなくなる。だから死なない程度に痛めつける方が気が晴れる。
注意点:だからといって、日常の些細なストレスに対して暴力を振るうことを正当化するつもりはまったくない。
記述日:2008.02.25


42-04
第三者

 少し前に、遠方に飛ばされた旧友と再会する話になったときのこと。旧友は私を女が酌をする店に連れて行きたがった。一時代を共有した旧友同士が、数百キロ遠方から移動して再会するというときに、なぜ第三者を交えようとするのか。親しい人間を紹介するというのならばまだわかるが、単に一時くだらない話をするだけのサービス業者を同席させる必然性などないだろう。もちろん、生活も暮らす文化も大きく変わった旧友同士がたまに会っても、なかなか共通の話題が乏しいことはわかる。だけれども、昔話や近況報告、同時代を過ごした別の人間の消息話でもすればそれでいいじゃないか。というか、旧友との再会でそれ以上の何を望むというのだ。共有した過去を語る以外に何をしたいというのだ。
 私はねーちゃんを中間に置くような店に行くことを拒絶したら、旧友は「俺も最初は抵抗があった」とか「カネのことは心配いらん」とか寝言を。ようするにお前は、学生時代に行かなかったような店に出入りすることを称して、自分が世間慣れしたと示したいだけなんだろうが。くだらん。で、それを断る人間は、「未知の場所へ行くのを恐れ躊躇する、世間を知らんクズ」なんだろうよ。「相手は知らないが、自分は知っている」という優越は、能力や富と異なり、他者に対して自分にあると思うのが(妄想としても)極めて容易な発想である。しかしこういうアホな一元的なベクトルでしか物事を見られなくなってはどうしようもない。極めて非友好的な態度である。だから余裕のない奴と付き合うと疲れるんだよ。


今回の要点:旧友が時間的空間的距離を経て再会するときに、第三者など不要。
注意点:もちろん結果としては、サシで会談して終えましたが。
記述日:2008.02.22


42-03
現在しかなく、バイラテラルな関係しかなく

 昔英語で読んだイギリスの古典的な教育書によると、労働者階級の子供と中産階級の子供の違いは、時間に対する認識に現れるという。もちろん労働者階級も中産階級も、子供に対して教育や躾を施すこと自体にかわりはない。だが、労働者階級の親は頭ごなしに禁止や命令をするに終始し、一方で中産階級の親は何故「何かをしなければならないか」「何かをしてはならないのか」「禁を破ったらどういうことが起きるか」を理知的に説明する。その結果として、時間に対する姿勢に最も顕著な差異が現れる。つまり、時間という目に見えないものに合わせて、自らが自らの行動を束縛する理由について、中産階級の子供は理解できる。一方で、労働者階級の子供は単に親父にぶん殴られて「〜しろ」「〜するな」としか言われないので、そうした怒鳴り声や暴力の支配からはずれたところで、自らが自らの行動を拘束する理由を理解できない。非常に階級差別に満ちているが、これは一昔前のイギリスでは割と信じられていたようである。


 さて、ここで取り上げた「労働者階級の子」のような人間は、実際には様々なところで出くわすことがある。現代日本ではイギリス的な階級観はそぐわないので、「時間のような目に見えないものに合わせて、自らが自らの行動を束縛することの理由を理解できない人間」を単に「彼ら」と呼称しよう。
 時間などという概念は、人間の頭の中にしかない。そうした便宜的に区切った時間に合わせて行動するのが、現代人だ。時間に対して自分の行動を束縛するのは、自分自身の意思でしかない。何故ならば、時間に合わせて行動を律さなければ、大きな損失を受ける可能性があると判断しているからだ。しかし「彼ら」はこうした勘定を出来ない。
 「彼ら」は、時間やシステム、組織、社会といった目に見えないものを理解できず想像できない。目の前の脅威や物理的な束縛しか理解できず、目の見えない、人間の頭の中にしか存在しないものに自分の行動を適合させないと、その結果として近い未来において不利益を被るかもしれないという予想を立てられない。その瞬間における情緒とバイラテラルな人間関係の束しか把握できない。


 上で挙げた「時間」とは約束や学校や会社のスケジュールという意味の、あくまで「他者との関わりの目安としての時間」である。だが「彼ら」はより単純な意味においても、時間についての想像力が乏しい。つまり自分の行動の結果、近い未来に何が起きるのかということを想像するのが難しい。ある小説の表現を借りれば、「寒いからといって部屋で火を焚いて、その結果として家が火事になることを理解できない」ようなものだ。単に刹那の快楽や興味を満たすことにしか関心がなく、その結果として危険や損失を受ける未来を想像できない。自分だけは何をやっても大丈夫だと思っているのか、自分に不都合なことは起きるはずがないと考えているのか、その程度の想像はできても些細な快楽や興味を満たそうという欲求の前にはあらゆる歯止めが利かないのか……とにかく、近い未来に生じるであろうことを予想する能力が十分にあればやらないであろうことをして、その結果大変なことになる。それが「彼ら」の行動原理の根本である。多分、未来についてを考えた上で欲望を優先させているというより、単に先のことについて何も考えていない、考えられないというのが正解に近いのではなかろうか。


 そして未来についての想像力を欠如させる要因として、「彼ら」はシステムや組織といった、近代的な人間関係を理解できないことが挙げられる。「彼ら」は原始時代に、身体がデカいエテ公がより小さいエテ公を蹂躙して恣にしていた時代のような、最も根元的なバイラテラルの人間関係でしか物事を考えられない。つまり他人の言うことを聞く人間は、殴られたり怒鳴られたりするのが怖い「弱者」にしか見えず、他者に何を言われても動じず、従わないことを「強者」の証明だという、極めて原始的な感覚に支配されている。
 しかしながら、現代社会においては気にくわないことがあっても、相手をぶん殴ったり、感情のままにゴネたりする人間は多くない。そうすることがもたらす損失を考慮にいれているからだ。人間が組織や社会において、他者の不本意な命令に従ったり、権力関係に基づく理不尽な態度を甘受したりするのは、目の前の相手を殴って勝てないからでも、相手個人の持つ「動物的な脅威」に怯えているからでもない。相対しているのは組織や社会といった、より巨大で力強い存在である。もちろん組織や社会といったものは人間の脳内にしか存在しない概念だが、多くの人間が共有することによって富・暴力・情報などを動かしている。だが「彼ら」はそうした概念を共有しておらず、単にバイラテラルな対人関係でしか物事を判断できない。
 だから「彼ら」は、感情を抑制する人間を、単に、「言いたいことも言えない弱い人間」「暴力に出る勇気のない人間」「闘っても負けるから引き下がった負け犬」としか見なさない。そして「彼ら」は、必ずしも暴力に秀でた人間であるとは限らないが、より近代的な判断をする他者を「弱者」と見なすことによって、自分が相対的に「強者」であるかのような錯覚を得たがる傾向がある。


 そう、「彼ら」は自らについて、より近代的な人間よりも勝っていると見なしたがる。より近代的な人間が暴力を回避し忌避するのを見て、それを「弱者」と見なすことによって自らを相対的に「強者」であると見なしたがる。さらには、よりタチがわるいことに、「彼ら」はより近代的な人間よりも、自分たちは「知っている」と思いたがる。「知っている」といっても、本を読んだり、教養を身につけたりすることとは全く異なる。「社会を知っている」「世の中を知っている」という用法の「知っている」だ。「経験」と読み替えてもいい。
 だが、社会の規範を守るのを見て「怒られるのが怖い臆病者」としか見なさず、権力関係に基づく命令に従うのを見て「殴られるのが怖い弱者」としか見なさず、恣に振る舞うことによる近い未来の不利益を想像できないような人間が、社会や世間を知っているわけはない。「彼ら」は基本的に明日を想像する能力がない。彼らが知っているのは昨日だけである。例えば、10回飲酒運転しても、1度も捕まらないことの方が多い。しかしだからといって、過去に捕まったことがないと言っても、これからも捕まらないという保証にはならない。ましてや、過去に事故を起こしたことがないからといって、今後も危険運転をして事故が起きないという論理は成立しない。そのはずなのだが、「彼ら」は自分にとって都合のよい昨日が、今後も続くと錯覚している。
 「彼ら」が「知っている」のはこの程度の都合のよい経験則でしかない。アホな連中が事故や検挙をアホみたいに恐れているが、それは「世間知らず」であって、「世の中を知っている人間」は捕まらないことや事故らないことを「知っている」というわけだ。捕まらない方法や事故らない方法について講釈たれることもあるが、それは博打打ちの語る必勝法のようなもので、何の根拠もないオカルト的な信仰にすぎない(にもかかわらず、自分の能力や見識の証明だと思っているところも博打打ちそっくりである)。
 ここの「飲酒運転」を、他の違法行為・脱法行為、その他社会をナメた行動に置き換えてもいい。「彼ら」の語る「知恵」など、その程度のものである。しかしそれにもかかわらず、自分がより近代的な人間よりも優れていると思いこみたがるので、タチがわるい。自分が優れていると信じているから、自分の行動を改めないし、自分と同じように行動することを強要する。自分が他者よりも「暴力に優れている強者」であるという自己認識と、他者よりも「物事を知っている」という妄想が相まって、「彼ら」は物事をシキりたがる。制度上の権限も、能力的な妥当性も、他者を動かすカリスマ性も何もなく、ましてや他者を支配する最も単純なパワーである暴力・生物的脅威においてさえ優れているわけではないのにもかかわらず、自らが他者を支配し指揮することが妥当であると思いたがる。それが「彼ら」の最も厄介なところである。


 もっとも大震災などのカタストロフィにおいては、こういうその場その瞬間しか考えられず、生物的な強弱(これは妄想かもしれんが)のみに基づく共同体が案外強かったりするかもしれん。デカいエテ公が昨日の経験に基づいて共同体を支配するってのは、現代人にとっては悪夢ですよ。そうした原始的な共同体に依拠せずに、個々人が「砂粒」として生きていられるのは、社会やシステムが整備されたからだ。さほど共同体に依拠せず生きていられる都市市民は、社会システムが正確に機能し、明日について予想を立てられる中でこそ、生きられる。しかしカタストロフィで都市機能や政府機能が崩壊したときは、エテ公になって団結しないと生きていけないかもしれないね。


今回の要点:現在の情緒と、バイラテラルな人間関係でしか物事を判断できない人間は、未来について想像できない。
注意点:もちろん「彼ら」なるものはフィクションにすぎない。しかし、上で取り上げたような傾向を大なり小なり持つ、近代化の成果を否定するかのような人間と出くわすことは実際にしばしばある。
記述日:2008.02.20


42-02
自らの死は認識できない

 人間は、自分の死を認識することは出来ない。意識があるのならば、出血などの状況から「死ぬであろう」と判断することは出来る。だが、自らの死を確認することは出来ない。これはとても恐ろしいことだ。


 人間は時として自らの死を希望することがある。自殺ばかりではなく。例えば他殺を望むような状況としては、助からないような大けがを負ったとき、苦痛から解放される為に「楽にしてもらうこと」を望むことが考えられる。あるいは、惨たらしい拷問やリンチで散々苦痛を味合わされているときも、早く殺されて「楽になること」を望む場合もあろう。解放されたとしてもまともに生活も何もできないほど身体が損傷しているのならば尚更だ。さらには自然に死ぬことを望む場合もあるだろう。やはり病気やケガで回復の望みがまったくなく、猛烈に苦しみ抜いている場合は、早く「楽になること」を望む場合があろう。


 が、そうした場合でもやはり死は恐ろしい。自分の意識が混濁しつつあり、視野が狭窄ぎみになって明度が低くなってきたとき、「これで死ねるんだ。楽になる」と思うのと同時に、「楽になった」と確認できない。それは恐ろしいことだ。これから意識を失うだけで、再び気がついてケガや病気や暴力の苦痛と恐怖に曝されるかもしれない。その可能性を完全否定する術を当人は持たない。これは恐ろしいことだ。自殺に置き換えても、自らの死を認識できないことは恐ろしい。死に損なって、逃れるべき浮き世の艱難辛苦が続くかもしれないし、何らかの意志の表明が失敗に終わるかもしれない。後遺症によって身体は不自由になり、自殺を試み失敗したという烙印を押され(少なくとも当人はそう認識し)、身体能力や監視の面から今後は死ぬことさえ出来ずに苦痛にまみれて数十年と生きることになるかもしれない。それはそれで恐ろしい。しかし苦痛や絶望に苛まれる渦中の人間は、「死なずに再び目が覚める」というような「先」のことを考えらないかもしれない。しかし「死を確認できないことそのもの」の恐怖からは逃れられないのではなかろうか。


 自らの死を確認できないというのは、死を希望する場合においてさえ、なんとも恐ろしいことである。猛烈な苦痛や絶望に苛まれているときは、とにかく現在進行形の辛苦から逃れたいと願い、何をしたい・何を伝えたい・何を確かめたい・何が心配だといった、平常時に考えるような「死にたくない」理由には思い至らないかもしれない。苦痛や絶望は、それほどまでに人間の脳髄を圧倒的に支配する。が、そうした苦痛から逃れた状態を認識できない以上、死は救済ではないのかもしれない。死によって何も認識することも感じることもなくなるのは確かだろうけれど、それは他者にしか認識できない。あるいは生前に、「死んだら楽になるであろう。そして死につつあるのだろう」と予想することはできる。けれども、「楽になった」状態は当人が認識できない以上、当人にとって存在しないのだから。


今回の要点:死によって「楽になる」としても、自分が「楽になった」と確認できない以上、死に至る(であろう)プロセスは死を希望する人間にとってさえ恐ろしい。
注意点:こんなこと書いているからといって、私が妙な精神状態にあるとか思わないように。
記述日:2008.02.04


42-01
関心

 「愛の反対語は無関心」とかいうコトバはよく言われるが、他者に関心を持つことを好意の表れと見る風習はなんとかならんのか。例えばストーカーにつきまとわれた人間は、猛烈に嫌悪感を抱き、次に何をしてくるか、どう対処しようか、なんで自分に対してこんな不気味なことをするのか、どういう育ち方をすればこんな常軌を逸した発想を出来るのか……と、当該人物について頭がいっぱいになる。関心を惹くという意味においては、ストーカーの目的は達成されたと言えるだろう。だが、だからといって被害者がストーカーに抱く「関心」を、好意や愛情と受け取るアホはおるまい。
 人間が他者に向ける関心は、あまりにも幅広い。愛情は関心の一種かもしれないが、すべてではない。恐怖や憎悪といった不快な感情もまた、関心の原動力となる。ごと当たり前のことだ。そして他者に不利益や不快感を与えられたり、他者のために生活がかき乱されるといった状況に対して、第三者に愚痴をこぼすときは、当該人物に対する問題意識や不快さを共有したいわけだ。だが、こうした愚痴を聞いて、「そんなに関心を持って、いつも話して、奴のことが結局好きなんじゃないですか」みたいなことを言う奴は、どういう精神構造をしているですか。本当に不思議でならない。


今回の要点:愛情の反対語は無関心かもしれないが、関心と愛情はイコールではない。むしろ強烈な悪意もまた、関心を形成する。
注意点:憎悪と愛情は必ずしも相反するものではないが、生活をかき乱す異常者に対する憎悪を称して、愛情ではないのかと語ることはナンセンス。
記述日:2008.01.22


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