last up date 2016.11.06

43-10
異質なだけでもやはり知性と人格に帰結させられる

 現代においては、「個性」やら「自由」やらといった概念に価値がおかれているし、大抵の人間は自分がそうしたものを重んじていると答えるだろう。しかしそれが認められる範囲はときとして非常に狭い範囲に限定され、そこから逸脱する者は全力で叩かれ頭と人柄の悪いクズであるかのようにみなされる。こうしたことは、個人的な見聞の範囲では、やはり「人間の流動性が極端に低く、文字を用いて書誌を読む習慣がろくにないような場所(以後ИНКと呼称する)」で多く発生するようである。そうしたИНКで苦汁を舐めた人間から多くの怨嗟の声を聞いた経験から鑑みるに、ИНКで異質な人間がいると以下のような様相が見られる。もちろんこれは「そういうこともある」という程度の話だが、しかし複数似たような話を聞く以上、無視出来ぬ傾向である。同じようなことは私もすでに何度も書いているが、やはり世の中に似たような傾向はあるらしい。

 ИНКという場所は、上で挙げた定義のように人間の流動性が低いので人間の同質性が必然的に高く、書誌を読む習慣にも欠けるので新しい知見を得て考え方やな習慣を相対化する機会もほとんどない。そこで外部からやってきた者や、書誌を読んで周囲とは違った趣味嗜好や考え方を発達させた者(現在ならインターネットで内輪の世間話に終始せず積極的に新しい知見を求めるのも含むだろう)は、異質な存在となる。生育環境や身体や脳神経の若干の差異でも異質となりうる。特に何ら原因らしきものがなくても異質となりうる。さて、人間には大なり小なり差異があるものだし、差異が存在すること自体に驚き惑い、差異がある理由について知りたがり戸惑う必要などないはずである。だが、同質性が高いИНКでは、差異に驚き戸惑うのである。

 差異が存在することに驚いた後はどうなるか。最初は戸惑い、落ち着くために理由を不躾に聞きたがったりする。しかしやがては、異質な他者について知性や人格が劣る異常者として結論づけるのである。
 もちろんたいていの場合はいきなり異常者だとは見なさないだろうけれど(いきなり見なすかもしれんが)、まず最初に接触して考え方や趣味嗜好が異質であるとわかった段階で、自分の世界観を揺るがす脅威であり、不気味であり、そんな人間がなぜ存在するのか不安になり落ち着かず、まるで自分の考え方や趣味嗜好などにケチをつけられた気にもなる。だがその段階ではまだ戸惑いが先行する。なぜそんな様相の人間がいるのか理解できない(他者の在り方なんぞにいちいち理解しようとするのがそもそも間違いではある)。だから不躾にいろいろと聞くのである。
 しかし人間など大なり小なり差異があり、それについて理解が及ぶことなどあまりない。ましてや気になるほど大きな差異があるときは、理由を不躾に聞いたところで相手の返答に対して納得のいく因果関係を見いだせることなどまずありえない。むしろ理解のできないことを言われて余計戸惑う(なぜお前はそうあるのかと、何ら特別なことをしていないつもりの当為に対して理由を聞かれたところで説明は困難であるし、そもそも同じでなければおかしいと思っている人間を納得させる術は乏しい)。だからこの段階で、少しおかしい人間じゃないのかと感想がはっきりしてくる。
 相容れない人間だと思ったのなら放っておけばいいのに、非常の近い距離と高い頻度で接触して共に行動する斉一性に人生の重点を置くИНКの人間は、そうはしない。全力でさらに関心を持って介入干渉し、親切で同化を勧める。同化、つまり既存の考え方や趣味思想を放棄することを求めるのである。これはまさに暴力そのものである。もちろんそんな暴力に恣に蹂躙される理由などないので大抵の人間は同化を拒絶する。そうなると、人格と知性に問題がある悪人でクズだと確信されるに至るのである。ИНКの人間にとっては「親切」をしたのにそれを一方的に踏みにじられたと感じるのだから悪意を感じるのだろう。「正しい」行いを勧めたのに拒絶されたから、自分だけが正しいと思い上がる視野の狭く独善的な頭の悪い人間にも見えるのだろう。自分の不快感が普遍性を持つと信じているのだろう。つまり、自分の好悪や快感不快感といった勝れて個人的な感情を(感情を抱くことがわるいわけではない)、合理的か非合理的か、適切か不適切か、妥当か失当か、事実か虚偽か、善か悪かといった判定と錯誤しているのだろう。そうでもなければ些細な一部分の異質性をもって全人格全知性を云々できるわけがない。

 異質であるだけでも心が邪悪で頭が悪いと思われるとは、恐ろしいことである。しかも恐ろしいことに、異質性を巡る遣り取りをいくらかしていくと、別の側面で些細な異質性を観測しただけで、ИНКの人間の脳裏には今度はいきなり即座に知性と人格の欠陥を見いだす短絡回路が出来上がりもする。「本来するべきではない異常な発想をしているのにこれに固守し、周囲に足並みをそろえず自分だけが正しいと確信して殻にこもり、他の考えや発想(例えばИНКの人間たちが妥当だと思うような)が存在すること自体をわからない視野の狭く邪悪な人間」だと、わずかな差異の観測から機械的に判定するようになるのである。ИНКの人間はИНКの人間で、異質性を垣間見るたびに自分への挑発であり自分への悪意であると感じて、その不快感がエネルギーとなっているのだろう。かくして知性や人格が窺い知れるような大層なことではなく、とても些細なコトバや習慣や趣味嗜好から、全人格全知性へのイメージまで導き出されて「知性と人格に劣るやつだ」という確信を繰り返し繰り返し深められ、それを口に出して繰り返し繰り返し貶められるのである。しかもИНКの人間はそれを事実関係の認識としても道義的な振る舞いとしても正しいことだと確信している。

 こういうИНКにおいて異質な人間がうまくやっていくことは難しい。出来ることといったら、異質性を隠して表層的に周囲に合わせることぐらいだ(それとてどんなに無理をしても不可能な場合もあろう)。だが、人間の流動性が低いИНКでは同じ人間たちと猛烈な近い距離と高い頻度で付き合うことになるので、隠さなければならないぐらい異質性を持つ人間が、嫌々表層的に周囲に合わせ続けることは当の本人にとって何の価値も感じられない人生を送ることに他ならない。これは苦しみであり人生の無駄である。差異の内容は、具体例を挙げるとひとつひとつはバカバカしいような差異だったりもするからひとに具体例を言ったら笑い飛ばされるかもしれないが、しかし自分の営みや発想のすべてが否定され、しかも知性の劣等と人格の欠陥とまで見なされる場所は精神衛生に極めて悪い。小さな自分のなり考えや趣味嗜好もひた隠しにし怯え続けなければならない人生は苦しいし、人生になんの発展性も見いだせないことだろう。ましてや人間の流動性が低いИНКで人格に劣り知性に欠けるダメなやつだと認定呼称されると、狭い人間関係の中での位置づけやイメージを延々と再生産し続ける狭い世間の中で何をしてもしなくてもダメなやつだと侮られ続けることにもなる。何を為しても正当に評価されず、何もしていないのに「奴がしそうなこと」というイメージからしたと決めつけられるのだ。そんな評価を受け続け共有されるとカネを稼ぎ社会生活を営むことにさえ支障を来す。そうしてИНКでスポイルされてしまった人間はたくさんいる。これはそうした知人らから収集した話である。やはり人間の流動性が極端に低く文字を読む習慣もない場所には、そこで満足する人間以外は居続けてはならないのである。離脱できるときに離脱するべきである。さもないと人生を失う。


今回の要点:同質性が高い場所で一部分でも異質な人間は、異質性を欠点や悪意と見なされ、異質性を「是正」しないことをもって独善的で視野の狭い悪人と決めつけられダメにされる。
注意点1:ИНКの人間がどんな文化や習慣を持とうとそれ自体は自由であるし、他の文化や習慣との間に優劣をつけるつもりもない。ただ、ИНКでしばしば見られる、他者の権利を侵害し尊厳を傷つけるような介入干渉が許せないのである。
注意点2:これは他者と交流を拒絶した(あるいはされた)孤立した人間の話ではなく、それなりに同質な部分もあり、それなりに人付き合いして社会生活をしている人間の話であり、人付き合いしているが故の仲間内での評価位置づけの話である。
注意点3:ここでいう異質な人間とは、特別オリジナリティがあり創造的な人間だというわけでも天才肌なわけでもなく往々にして世の中によくいる凡人である。しかし関心を持つ範囲、欲求や執着の対象などの僅かな差異に対し、時として異常性を見出され人格や知性の問題にまでされるのである。
記述日:2016.11.06


43-09
他者の知性と人格のみの問題にすると

 他者の主張に対して、その主張が相容れないときに、「知性あるいは人格もしくはその両方について劣る」としてしか処理しない事例は少なくないように感じている。知性に劣るから異質な意見を持ち、人格に劣るからそのような意見を口にする、というわけだ。そして相手は知性や人格に劣るから相手にする必要はなくその言辞も顧みる必要がないとして処理するわけだ。何ら利害関係のないわけのわからない人間相手ならそれでもいいかもしれないが、しかし利害を共にする契約関係において、異質な主張を無価値だとして処理し、そのような言動をする人間をクズだとして扱うのは、みすみすあり得るリスクを見落としありえる機会を見過ごすことになりかねない。
 現代においては、上意下達を旨とする軍隊においてさえも、補佐役の役割は指揮官の意思決定に際して、とりあえず異を唱えてあり得るリスクや別の可能性について示唆することであるという。もちろん上官の意思決定には従うし従わなければならない。だが、意思決定のプロセスについて補佐役が異を挟むのは義務であり役割である。様々な可能性やリスクを指摘することによって、指揮官の意思決定に資することができるのである。同じ選択肢をとるにしても、リスクを踏まえてそれでも選ぶのか、それともどんなリスクがあり得るか意識せずに選んだのかでは、その後の状況への対処が仕方が違ってくる。だが、実際にそのようなプロセスをたどる意思決定が巷間においてどれだけ為されているであろうか。私の人や書誌から見聞きする範囲においても、意見を言うこと自体が憚られる職場環境について多く存在すると感じている。
 意思決定自体はしかるべき役職の者が行い、その者の決定に従う。だがその意思決定に際して意見を言おうものなら、やはり知性や人格を誹謗されるという話はしばはしば聞く。異を唱えたものなら、「やる気がないから仕事を妨害しようとしている」「俺の足を引っ張りたいから仕事の妨害をしようとしている」「自分の考えが絶対正しく、他人は自分の考えるようにやればすべてうまくいくと錯誤してる」「視野が狭いから仕事のことがわからない」「バカだから俺の考えが理解できない」など散々と人格が邪悪で知性に欠けると扱われるという話だ。あるいは下手に問題を指摘したものならば、問題の元凶のように扱われる。医者が病気の診断を下したら医者が病気の元凶だと思うバカはそういないと思うが、組織の問題を指摘すると指摘した人間が悪の元凶のように捉えられることがしばしばあるらしい。さらには、あり得るリスクや逃すかもしれない機会費用、すでに生じている問題について指摘することは、おおむね定量化可能な経済的な問題であるにも関わらず、単に「ストレス」「嫌なこと」「理不尽」など個人の定性的な精神衛生上の問題にされ、問題を口にする人間は精神衛生上の問題に堪えられない幼稚でダメな人間で、黙って堪える人間が立派な強い人間だという処理もされるという。その結果何が起きるかというと、誰も何も言わなくなる。問題意識や改善意欲を持つ者は士気を急速に失う。そして権力関係における上位者は誰の意見も聞かず追従のみを耳にして意思決定をするようになり、下位者は何があってもそれを飲み込んで黙って従うことのみが立派な行いだと信じるようになる。
 誰も何も言ないところではグループシンクは深化を極める。あり得るべきあるいは起きている問題について誰も何も言わず、問題について口にした者を上下左右から叩くような習性を深めていくと、問題とその存在についておよそ妥当性のある判断が出来なくなる。訴訟リスクなら、業界における慣習や判例や争われる金額を考慮してどこまでならば争訟にならないか見極めるのではなく、単に「今まで起きなかったからこれからも起きない」「自分たちは正しいから訴えられるわけがない」「例え訴えられても、自分たちに問題はないから、負けるわけはないし大事にもならない」と何の根拠もなく思い込んでしまう。世間一般に知られると信用を毀損し取り返しのつかない損失が出るような問題が存在していても、いつしかそれが問題になりうるという感覚が巷間から乖離してくる。むしろ自分たちは正しいから正しいし、トラブルが起きた場合は自分たちが正しいから他者がクズだし、自分たちが正しく他者がクズだから他者が罰せられるべきだし、世間に知られても自分たちが悪く思われるわけがない、という感覚におぼれてしまいかねない。
 もちろん誰もが表立って意見を言いにくい場所においても、意思決定に自分の意見をインプットする方法はある。しかし表立ってされない意見のインプット方法は往々にして非公式的なものであり、非公式にそれなりの人間の同意を得て集団化し、それなりの役職者に接触するのでは、コストがかかる上にリスクもあり、おいそれと出来ることではない。ましてや問題提起は、非公式に主張しようと問題を指摘した人間が問題の元凶のように扱われかねず、あるいは主張した者のみが対処を求められる損失しか招かない蓋然性もある。やはり表立って気付いたことを主張をできるような風土を涵養し制度を整えなければ、とんでもないアホみたいなリスクを見過ごされ、問題に対する感覚が巷間と著しく乖離し、問題はバカで邪な他者のせいでありバカで邪な他者さえいなければ自分たちが成功を収めるといったような意味不明な因果関係を集団で信仰するようになりかねない。というようなことはダンカン・ワッツが指摘している通りである。
 さて、昨今は弁護士や司法書士が食い詰めるような時代になりつつあるが、利息過払い金がメシの種にならなくなった後は、争訟について何も考えていないアホな企業が鉱脈になると聞く。問題があっても問題が起こりえても、それについて意見を述べること自体が知性や人格の欠陥であるかのようにしか扱われないような場所が散在しているのならば、問題が深まっても何ら問題と認識されず、争訟対策もされていないような無防備でアホな企業が散在していることになろう。なるほど、小さな商機が無数に転がっていることになる。

今回の要点:問題について指摘する主張を、主張する人間が知性に欠けて人格に劣るとのみ解釈していると、グループシンクに陥り問題を問題と認識できなくなる。
注意点:問題について指摘する者を叩くような場所においては、上位者だけがアホなわけではない。個々人ではなく風土と制度の問題である。
記述日:2016.10.04


43-08
「ИНК者」とは

 私はこのサイトで頻繁に書いているように「ИНК者」を蛇蝎のように嫌悪しているし恐れてもいるが、これは必ずしも「ИНКに住んでいる人」のことを意味するわけではない。結論から言えば、私のいう「ИНК者」とは、「流動性の極端に低い狭いコミュニティーに居続けており、異質な他者が存在することを知らない人」のことである。この定義に従えば、「東京なんか『ИНК者』の集まりだ」「東京者だって元々は『ИНК者』だ」といった言説は意味を為さない。どんなИНКで生まれ育とうと、そこのコミュニティーから離脱して、存在する人間が「知人の知人」や「親戚の親戚」の範囲に収まり、下手すれば中学高校の延長のような狭い人間関係から我が身を切り離して、誰の何でもない単体の一個人として都会に移住して様々な他者と邂逅して一から人間関係を築いたり解消したりする人間は、もはや私のいう「ИНК者」ではないからだ。逆に言えば、例え東京に住んでいても、狭い地域にとどまり、「知人の知人」や「親戚の親戚」の範囲で人間関係がとどまり、中学高校の延長のような暮らしをしていれば、住民票が東京都23区にあろうとそれは間違いなく「ИНК者」である。実際問題として、私が「ИНК者」と呼称して嫌悪している具体的な人々の多くは、大都市の部類に入るところで会った人々であった。

 「流動性」に着目するに至るには、数年前の発見があった。掛け値なしのИНКに生まれ、学校もろくに行かなかった人々と少なからず接した経験があるが、彼らは仕事のために様々な地域へ飛び回り、様々な地域の出身者と集まり仕事をしてまた散じることを繰り返して、外国へも少なからず行っていた。最初は、どんな難しい人々なのだろうかと戦々恐々として接したのだが、予想に反して他者を受容する人たちだった。
 様々な場所へ行き、様々な人間と接している人間は、習慣や発想が決まり切った狭い範囲の「当然」あるいは「正常」しかないなどとは思わず、世の中にいろんな習慣や発想があることを知っていた。自分の習慣や発想のみが「正常」で異質なものが「異常」などと安易に判定せず、ましてやなぜ異質な人間が存在するのかと惑ったりもしなかった(もちろん好悪はあるが)。そして同化を強要することが親切だと思っているわけでもなく、異質な習慣や発想が存在することそのものが自分への敵意や脅威だとも見なしてもいなかった。ИНКで生まれ、いちばん長い学校歴で高校卒業で、前科もある人もいたりする、それまで接したことがない人間層だったが、その見識や柔軟性は想像以上のものがあった。これはすばらしい発見だった。さらに言えば、彼らは意外に(といったら失礼だが)本を読み、外国語を独学である程度習得していたりもした。

 やはり私が恐れている人間の在り方は、「ИНК者」というコトバで表すのは不適切であり、「人間の流動性が極端に低いコミュニティーから出たことがなく、異質な他者と邂逅した経験がろくになく、書誌によって世の中に様々な発想があることにも触れておらず、それゆえ異質な他者が存在すること自体を理解できず、自分の習慣や発想とは異なる習慣や発想があるとは思わず、それらと邂逅したら異常としか判定できず、最大限の親切で異質な習慣や発想を否定させて同化を強要し、そうしない人間に悪意や敵意を感じ取る人々」というのが正解であった。そしてどこで生まれ育ち、どんな勉強をしようとしなかろうと、様々な場所を移り歩き、様々な人と接し、ましてや外国へ行き外国人とも接していれるような人々は、私が恐れるような様態にはならないと知った。だから、私が恐れている人間を表すのに「ИНК者」と称するのは不適切極まりないが、しかし他の一言でそれっぽい響きのコトバが見つからないので、つい「ИНК者」を使ってしまうのである。地方で生まれ育ち、また地方で暮らす以上、「ИНК者」というコトバを濫用するのは好ましくないので、替わるコトバを発明したいところである。

 余談だが小都市たる郷里では私が定義する「ИНК者」に会った記憶はあまりない。幼少期においては自分自身も同じ土地しか知らなかったので、問題を認識できなかったのかもしれない。また、高校においては読み書きが十全に出来て、本を読むなどして世の中にいろんな発想があると察することのできる層としか接していなかったせいかもしれない。そう、どんな場所に住んでいようと、本を読んで世の中が広く様々な発想が存在することを知ることは出来る。帰郷してからは幸い個人に過干渉するような場所には属していないので、他者との文化上の問題が発生していない。実際問題として現代社会においては、地方都市ぐらいだと、個人に過干渉するような組織や共同体はごく一部で、大半の人々は干渉したりされたるするような煩わしさを避けて暮らしており、私が恐れるような「ИНК者」は例外的な場所でしか発生しなかったのかもしれない。それはわからないが、そうあってほしい。


今回の要点:私の恐れる「ИНК者」とは、必ずしも「ИНКに住んでいる人」のことではなく、「人間の流動性が極端に低いコミュニティーから出たことがなく、異質な他者と邂逅した経験がろくになく、書誌によって世の中に様々な発想があることにも触れておらず、それゆえ異質な他者が存在すること自体を理解できず、自分の習慣や発想とは異なる習慣や発想があるとは思わず、それらと邂逅したら異常としか判定できず、最大限の親切で異質な習慣や発想を否定させて同化を強要し、そうしない人間に悪意や敵意を感じ取る人々」のことある。
注意点1:私のいうところの「ИНК者」について、私は相互に最大限の善意をもって接してもろくなことにならない存在だとして恐れているのであって、恐怖以外の感情は持っていない。嘲笑しているわけではない。
注意点2:どんな表現で言い繕おうとも、私は自分が観測したそう多くもない他者から悪辣なステレオタイプを導き出し、自分のステレオタイプを恐れているだけなのも理解している。
記述日:2016.08.24



43-07
14年間の総括

 このサイトを開設して14年を過ぎた。それまでも学部時代にもサイトを制作していたが、卒業と就職を機に区切りをつけるべく学部時代のサイトは制作終了として新たに社会人としての時代を描くのに開設したのがこのサイトである。社会人としてふさわしいサイトと称して、社会人として必須といわれる(が、後の社会人経験で読んでいる人間を見たことは殆どまったくないけども)『日経新聞』の紙をスキャンして加工してサイト背景画像を作ったものである。さらに社会人となるにあたって新たに買った腕時計にも『フルメタルジャケット』で聞いた海兵隊の文句「Semper Fi. Do or Die. Gung ho.」と彫り込んで社会人生活への気合を入れたものだ。だが、サイトに記している通り、新卒で入ったところは早々に辞し、それからロシア語学校や大学院へ通い再び学生として長い年月を過ごした。それからもいささかの空白期間を経てどうにか再び社会人らしきものになって今に至る。

 当時は敢えて口にはしなかったが、新卒で入ったところについては、実は内々定の顔合わせのときからそこで出くわした人々の様相に失望していた。ありていに言えばИНКの「何の勉強もしなくても入れる」大学出身者しかいなかった。それでも他に行くところがなかったから入社したし、皆、学校なんかに関係なく立派な大人として仕事をするのだろうと思った。しかし彼らは仕事に支障が及ぶレベルで読み書き計算ができず、会話もほとんどが短い擬声語擬態語の繰り返しからなり、知識学力のみならずИНКの狭い世間で暮らして外界を知らずそれゆえ享楽や悪徳さえろくに知らなかった。そうした人間の様相には堪え難く、そこへの同質化を強いられて今後の何十年という残りの半生を生存することに意義を見出せず、早々に職を辞した。当時は今よりも仕事を辞めることが人間のクズの所業だという意識が世の中に強く(私自身もその意識が強く)、職を辞したことについて少なからぬ人々に責められ、自分も世の中でやっていけぬ人間のクズだと自責した。だが早々に辞めたことを責める言辞よりも、「なぜそこに入ったのか」という場所の選択を責めるコトバが応えた。もちろん答えは「他に行くところがなかったから」なのだが、しかし求職努力をあまりしていなかったのも事実である。
 私は学部時代には大学院進学を希望しており、当初は親からもその旨の承諾を受けていたが、どうも誤解があったらしく後になって急に方向変更をすることになった。ここにおいては親の知識不足もあったが、私の説明と協議が足りなかった。そして一般の就職活動へ切り替えたが、あまり意欲がなかったし軽く考えていた。いかに当時は新卒求人が冷え込んでおり、私が留年していた上に何の資格技能もなかったといえども、しかるべき準備をして就職活動産業にカネを払うなどして武装していればもうちょっと違った場所へ行けたかもしれない。しかしそうはしなかった。面接なんて自分自身の知恵を絞って弁舌を弄せばそれで済むぐらいにしか考えてなかった。景気のよい時代ならば何を言ってもどこかにすぐ採られたらしいが、長く不景気の続く時代においてはそもそも採用数が絞り込まれ、その状況が就職活動産業を躍進させ、その提供する型式に沿うことがハネられぬ近道となった。もちろん独力で就職活動をしてそれなりの職を得た人間も周囲には多かったが、しかし私はそうしたサービスを認知していながらその利用を検討しようともせず、使わないなら使わないで通過儀礼に必要な型式を習得する自助努力をするわけでもなく、やはり簡単に考えていた。その上、多少のコネもあったのでコネでどうにかなるという安易な考えもあった。コネについては、「『「例年通りならば通った』はずだが、長引く不況により今年は急に人事状況が変わってコネ競争も厳しくなり、通らなかった」として頼んだ内部の人間にほとんど泣いて謝られた。こうした失敗を経ても尚、どうにか得たのが新卒で入った職場である。

 もちろん不満があっても、誰がみても「バカなИНК者」しかいない職場であっても、仕事をしてカネを得なければ糊口をしのぐことはできない。そして「時代がよくない」「自分はもっとマシな職場に行くべき人間だ」「準備も足りなかった」などと称したところで、そこにしか入られなかったのならば、「自分はその程度の人間だ」と観念してそこで堪えて少しでもマシな営みが出来るように試みるか、あるいは「自分はもっとマシな場所にいるべきだ」という信仰を重視するのなら時間をかけて計画立てて転職するのが本来的な身の処し方だ。だが、私はそうはしなかった。
 もし私のいうところの「愚かなИНК者」しかいない場所により長く居続けていたら、用意周到にワグナー事件を起こしていたか、そうでなくても絶望のあまり憤死していた気しかしない。そうするぐらいならば無計画にでも辞めた方が、一般的にはマシではある(主観的にはどちらがマシだったかはともかく)。かくして無計画に仕事を辞めて、学部在学中には大学院行きを拒絶した親からも、このままでは危ういと思ったからか、新たに支援を得ることが出来てロシア語学校や大学院へと再び長く学生時代を送ることになる。
 付記しておくと、私が早々に辞した職場は、単に人間層が私の言う「愚かなИНК者」からなることが堪えがたかっただけであって、そうした人間模様に同化出来る者や最初からほぼ同質である者にとっては最高の職場であった。労働力を搾取して従業員を使い潰すような悪徳企業ではなくその対極にある。まあ給与は大してよくはないが(少なくとも当時の水準では。今だと巷間の平均が下がっているから相対的にマシになっているかも)、労働時間が長いわけではなく、競争が激しいわけでもなく、それゆえ穏やかにアットホームな雰囲気で友人付き合いのように気楽にいられ、競争がないからこそ従業員は善人揃いで互いを思いやり、しかも口実をつけては会社経費で飲み会を頻繁にしなどもしていた。契約関係に過ぎないのに濃厚な人間関係らしきものを築くことをよしとする雰囲気は、個人的には本当に気持ち悪かったが、そうでない人間にとってはわるくない環境である。

 そうして新卒で入った職場を辞めたのだが、繰り返すが、仕事を辞めることを人間のクズだと見なす風潮は、当時は今よりも強かった。人から責められるのはもちろん、いかに私のいうところの「愚かなИНК者」揃いの生理的嫌悪感を催す場所といえども、仕事を早々に辞めてしまったことについては、自分自身でも「世の中に通用しない人間のクズだ」と自責した。さらには、さすがに義務教育程度の読み書きを半分も出来ない(本当に信じられないレベルの漢字も読み書きできないし、当然意味もわからない)明らかなバカな、あるいは「何の勉強もしなくても入れる」大学といえどもカネのかかる私立大学まで通う機会に恵まれながら読み書きも身につけていない怠惰な人間たちの中にしか入れなかったことについても嘆いた。だからこそ、再び学ぶことを志向した。
 さらに言えば、読み書きもあやしく、読み書きも身につけない程に怠惰な人間の中に入れば、当然のことながら私はそれなりに事務処理能力が高く(あくまで相対的な問題であって私が優秀だと言っているわけではない)、私が辞してからはその穴を埋めるのに1人の補充では足りず、最終的に3人補充しなければならず、いなくなってはじめて有用性に気付いたという話を人づてに聞いた(どこまで本当かは知らんが。業務再編期で拡充せざるを得なかったとも言える)。さらに言えば営業課以外の全従業員が行う定期営業についても、北海道2位を記録した(これは明文化されている記録である)。営業についても私に能力があると言いたいわけではなく、仲間内だけでは調子がいいが異質な他者との接し方をまるでわからない人間ばかりな中では相対的に私の態度物腰の工夫の方がマシだっただけである。これらも絶望させる話だった。そんなバカの中に入るしかなかったこともさることながら、私は役に立っていなかったわけではなかったのに、誰も能力や有用性について僅かも認識せずただ生活習慣や諸観念が異なることをもって「自分たちの域に達していない気の毒な人」として侮った評価しかしなかったからだ。しかし競争やノルマみたいなものがろくになく、仕事の絶対量も少ないところなので、仕事を評価する発想も乏しかったのだから取り立てて評価などしないのも当然のことではある(いかなる人間についても仕事の良し悪しへの評価を聞いた記憶が殆どないし、聞いた記憶があるのも異常に出来ない特定の1人への評価だけであった)。だから、おそらく14年間居続けていても、「愚かなИНК者」とまったく同程度か、下手をすれば仕事と無関係のイメージでもって知性や人格に難があるとして、それ以下のスピードでしか昇進昇給しなかったのは想像に難くない。堪えて、観念していたところで、今頃どんな給与を得ていたのか。何年も辛抱してそれなりに貢献したところで大したカネにさえならないのなら、早々に辞めて正解だった。

 もし最初に入ったところに観念して14年間を経て、気が狂いもせず自暴自棄にもならずに今に至っていたら。時間の経過と共に職場でのローカルルールに習熟して地歩を築き、大した給与でないまでもそれなりにカネを貯めて、縁故なり自助努力なりで見つけた嫁を娶り、どうにかごく庶民的な家を建て、それなりに幸福に過ごしていたかもしれない。そうはならなかったが、そうなっていても不思議ではなかった。だが、その場合、私が新卒で入った職を辞してからした多くのことを出来ず、東京に再進出してから出会った多くの人々と出会えなかったことになる。
 私が職を辞してからしたことは次の通りになる。第2外語でどうにかアルファベットを読める程度になったに過ぎないロシア語を本格的に学ぶことが出来、大学院入試のために学部ではインチキでどうにか単位を取った政治学について基本書で叩き直し、憧憬していた大学院に入り一応修士号は取った。さらにはインターネット経由で多くの人々と出会い、頻繁にオフで会う機会も得て、一部の人間とはかなり濃密に付き合った。また同人誌即売会おいてはテーブルの内側で何度も参加することが出来て、そこでも多くの人と出会った。それがきっかけで後に人に別の場所の知人を紹介することにもなった。そして比較的マイナーな国に駐在員として暮らすことも出来た。何度か猫を死の淵から助け、何匹かは飼うことにもなった。
 これらは正直なところ、殆どは軽く触れただけではある。語学をやったといってもレベルはたかが知れており、機会はあったのに留学さえしなかった。大学院に入ったといってもろくな研究もせず、成果も出さず、その道に残れず、ただクソ論文で修士を取っただけである。同人誌即売会にしても、制作したもののレベルは推して知るべし(それを言ったら買ってくれた人に申し訳ないし、そもそも同人誌とはそういうものなのかもしれないが)。インターネット経由で出会った人々には多くの面で救われたし、新卒で入ったところではとてもお目にかかれなかった教養や趣味の面で尊敬すべき人々と出会えたことは幸福なことであった。だが、地理的に離れてしまってもはや会うこともなくなってしまい、ネットでは今も繋がっている人もいるが、ネットでさえ接触が途絶えてしまった人もいる。駐在員経験についても、まあどうにか仕事はしたが語学力もろくにない中で無理矢理やったのであって、多くの点で無茶があった。私は語学もろくに出来ずちょっといただけでその土地のことを語ったりしているが、これは噴飯もののことである。猫についても、外国で飼った猫は連れ帰ることが制度的に出来ず、現地職員に引き取ったもらったが、これも忸怩たるものがある。そして異性関係においても外因的な問題で法律婚には至らなかった。
 つまり何もかも中途半端あるいは触りだけで、結局、多少の享楽や多少の精神的充足と多少の話の種を得ただけで、今に続く成果を出したものはひとつもない。いわば、ちょっと覗いた程度の出来事をして自分は何かを知ってる、何かをしたと大言壮語するトンマなわけである。しかしそれでもいろんな物事を覗き見ることさえ、新卒で入ったところに居続けていたら出来なかった。学問、語学、趣味といったあらゆる知的営みに対して心を残し、文明に憧憬しながら、読み書きもあやしい「愚かなИНК者」の中で暮らして不満を囲っていただろう。さらに言えば「愚かなИНК者」は、いつまでも中学校の延長みたいな人間関係を引きずり、中学校の教室での位置づけ(これ自体が扁平なステレオタイプなのだが)でしか人間を判定できず、カネのかかる私立大学に通える程度には経済的にも家庭的にも恵まれた平凡な人間で、若いときに不良だったわけでも長じてからチンピラになったわけでもなく似たような人間と付き合っているだけなのに、自分が巷間の悪徳をも含めた世故を知った立派な男であると自負し、しかも読み書きが出来なく流動性が低い狭いコミュニティに閉じこもっているから外界のことを知り得ず、自分はものを知っているという確信が何歳になっても揺るがない。そうした人間たちの確信の中で暮らすことを思えば、ちょっと覗いただけでも成果がなくても、いろんな場所やいろんな人間とわずかでも触れることが出来て幸福だった。

今回の要点:私は14年も前の就職の失敗を今に引きずっている。職を辞してからも何の成果も残せなかった。しかしそれでも、最初の職場にいたら出来なかったいろいろなことに触れ、会えなかったいろいろな人に会えてよかった。
注意点1:もちろん就職に失敗したのもその後成果を残せなかったのも自分の怠惰や無能力のせいである。また、就職に失敗して無計画に職を辞して尚、様々なことを出来たのは親の援助のおかげであり、それがなかったら今頃野垂れ死んでいるか、あるいはすべての条件や環境により劣る労働環境で働くことになっていたのは間違いない。
注意点2:14年も前の、しかもごく短期間のことに頓着するのが愚かであることも異常であることも自覚している。また、私がどんな感情を抱こうと、かつての職場の人々が、一般論として概ね善良で親切であり、また、社会に必要な事業に労働力を提供し、税金を納め、貯蓄や消費をし、多くは婚姻して子を為し、社会に貢献している立派な大人であることも認識している。
記述日:2016.08.24


43-06
念じるだけ

 10年前においても、「日本の労働生産性の低さ」について取りざたされていた。2015年になってからまたもや「労働生産性の低さ」について関心が集まっているようだが、数値が10年前よりも明らかに低下しているのはどうしたことか。

 生産性の低さについて、10年前においてはシャバとは関係の無い企業内部、セクション内部にとっての価値にばかり注視して、収益の獲得にも費用の削減にも関係の無いことばかりにコストを投じそれを評価することこそが、その理由だと見なしていた。そしてそれはそう間違いでもなかろう。ただ、10年間でさらに悪化したのは、人件費の際限の無い削減と際限の無い労働時間の延伸が、さらに進んだことだ。労働生産性という質の低さを量で補おうとしたのか、それとも際限なく拘束して奉公を求め続ければ質が向上すると錯誤したのか、いずれにせよその結果として、労働生産性は低迷している。どんな労働倫理や社会人観を唱えようとも、結果は数値で出ている。無茶な拘束は従業員の心身を蝕み、所得の低迷は士気を上げようわけもなく、そして長い拘束時間と少ない所得は消費をさらに萎縮させて尚一層企業の収益を逓減させる。そして低い収益でも人件費を削減されば利益を出せるとの発想に1度でも囚われた経営者はその麻薬的な魅力にとりつかれる。際限が無い。

 他者に何かをしてもらうというのは大変なことだ。悪条件にもかかわらずとなると尚更だ。しかしどうも人から見聞きする事業者における人間の使い方は、非科学的極まりない。人間の使い方について、どんな仕組みを作るか、どんな方法を講じるかではなくて、念じるだけなのである。経営者が従業員に、管理者が部下に、「こうするべき、こうあるべき」と念じるだけで、条件環境を顧みない。統計的な経験則を考慮しない。科学ではなくせいぜい個人の経験則とそれに基づいた感情のみによって、「こうあるべき」と念じるだけである。それで人が動くか、思うように働くか。しかもこうした念じる発想は、感情に根ざしているのが度しがたい。不都合なことをした者は罰を受けるべきという処罰感情(やみくもな処罰は問題を隠させリスク管理にはマイナス)、若い奴や下位者は苦労すべきという抑圧移譲、かつての自分と同じ目に遭わせたいという報復感情、苦労して滅私して堪えて我慢すればうまくいくという何の因果関係もない呪術的な願望。科学ではない。あるべきと念じてるだけだ。しかしどうも、労働環境が悪くなると、他者に対する辛苦を求めたくなるのか、苦痛に堪える(た)自分は立派だと確認したくなるのか、生産性とは何の関係もない辛苦の度合いばかりに関心が行くような気がしてならない。こんなバカげたカリカチュアな話は、多少そういう傾向がある程度の話ではと思っていたが、どうも人々の話を聞いていると、世の中そんなに正気ではないような気がしてくる。もう少し科学的な発想らしきものが必要なのではなかろうか。

 もちろん経営論みたいなことをやったところでそれでうまくいくわけではないが、過去に行われた企業行動に対する結果についての統計とそこから見いだす因果関係に学ぶことは、少なくとも個人的な感情と体験のみに囚われるよりは発想を広く持てる。必勝策など手に入らないが、しかし先人が陥った必敗策がどういうものか垣間見ることもできる。そして、物事を統計的に捉えて分析する経験は、他者の行動について個人の「人格」に帰結させて、その行動について怒ったり貶めたりするに終始する発想を振り払うことが出来る。ましてや他者について「こうすべき、こうあるべき」と自分が念じたところで何の意味もないことにも気がつくはずだ。科学が必要だ。


今回の要点:他者の行いについてどうあるべきか念じても、物事はうまくいかない。
注意点:労働生産性の低い事業者における経営者や管理者はその責を負うが、だからといって一般従業員が相対的に賢いと言っているわけではない。
記述日:2016.01.19


43-05
10年

 このサイトに労力を殆ど投じなくなって何年にもなるが、10年も前にはそれなりの頻度で更新していた。10年というと、今の年齢になると大した年数ではない気もしてくるし、実際問題として10年で私がどれだけ進歩したのか変化したのかも相当に疑問だ。だが、私自身はともかくとして、昨日のような気がしていても、世の中は変わっているものだ。

 10年前には、私は「階級社会の到来」を願うようなことを書いていた。それは、新卒で就職したところで、親の庇護の下で大学まで安穏と通っていながら義務教育程度の読み書きも満足に出来ず(何度も書いてるが比喩ではなく本当に簡単な読み書きができなかった)、それゆえ仲間内でのみ通じる擬声語・擬態語・辞書的な意味とは乖離したジャーゴンからなるごく短い音声のみで意思疎通することしか出来ず、他者が異質であるという発想も、異質な他者とどう相対するかという発想自体をも欠くようなアホウな人々が存在することに心の底から絶望した、という極めて個人的な感情に基づいて、そういうアホウとは明確に異なる生活圏で暮らして明確に異なる文化を享受して、とりあえず明確に異なることを互いに理解した上で、なるべき接しないで暮らしたいという願いから出た言葉だ。もちろん単に個人的に気にくわない人々と接したくないというだけの悪意の表明でしかない。だが、気がついたらより「階級社会」に世の中が近づきつつある気がする。それも私の漠然とした期待とは全く異なる形で。

 私は、「十分に教育を受ける機会を得ながら」アホウな人間が、学ばなかった怠惰や曲がりなりにも学校に通っても能力を身につけない愚かさを嫌気していた(もろん私とて貴重な機会をろくに生かさなかった自覚はあるが、それは差し置いて)。とりあえず、学ぶ上での「十分な機会」は所与の前提と見なしていた。機会があっても尚、読み書きもろくに出来ないアホウには嘆息したし、「勉強よりも大切なことがある」だの「学ぶやつはその大切なことをしてない」だのと称して怠惰を正当化する言辞を憎悪もしていた。しかしアホウであろうとなかろうと、「学ぶ機会」は基本的に少なからぬ者が持つものだと見なしていた。もちろんいつの時代も機会は不均等なものだし、10年前20年前にも様々な不遇や苦労は垣間見た。しかしこの10年で不均等が明らかに大きくなっている。気がするのではなく、親の所得の低下、仕送り額の低下、「奨学金」と称する債務の受給率の増加、アルバイト時間の増加とアルバイト待遇の悪化、そして高止まりする学費という数値が「学ぶ機会」が蝕まれていることを示している。そして四苦八苦して学ぶ者の陰には、必ずや学ぶことそのものが出来ぬ者がいる。10年で世の中ずいぶんと変わったものだ。

 機会が不均衡なのは今に始まったことではないが、数値の悪化を突きつけられると、かつての自分がまだ総中流のような幻想に生きていた気がしてくる。だからこそ「階級社会」なるものについて、機会ではなく、能力や努力によって人間が棲み分けるべきだという漠然とした期待を込めて捉えていた。しかしそれはあまりにも脳天気な話だったということだ(能力や努力において、自分がマシな部類に入るかどうかはともかく)。そして親の所得に基づいてこれまで以上に「学ぶ機会」が大きく分かたれるという本来的な意味の「階級社会」に世の中が近づいているとしても、持てる者において「学ぶ機会」を得ながらそれを無駄にして読み書きもろくに出来ないアホウは生まれ続けることだろうし、「階級社会」らしきものに世の中が近づいても、私がかつて漠然と期待していたような世の中にはならんわけだ。むしろ乖離している。


今回の要点:「階級社会」とは努力ではなく機会の不均衡を指すことを、10年前の私は総中流のような幻想から、本気で捉えてはいなかった。
注意点:機会があって尚アホウな人間だから見下していいということにはならないが。しかし学士でありながら義務教育程度の読み書きが本当に困難という人間層が存在した記憶には今なお苛まれている。
記述日:2016.01.13


43-04
「コミュニケーション力」と称する何か

 巷間では、「コミュニケーション力」とやらがもてはやされているが、どうも必要な意思疎通をする能力というよりも、単に明るく闊達に他者と接する「社交性」程度にしか捉えられてないことが極めて多い気がする。しかもわるいことに「意思疎通する能力という意味におけるコミュニケーション能力」と「社交性」とは、まったく別物であり、片方を有するがもう片方が欠如する人間も存在しうる。だが、闊達に誰とでも積極的に接しているように見える人間のみが、それだけで使えるやつだと錯誤されることがままある。

 他者との間で、必要な情報を伝え、必要な情報を引き出すにあたっては、別に陽気だとか根暗だとかはそれほど重要でない。齟齬がないよう語義や認識について確認を重ねる徹底した慎重さと辛抱強さがあれば最低限はどうにかなるし、その慎重さがなければ情報共有や伝達といった基本的な業務に問題が生じる蓋然性が跳ね上がる。「コミュニケーション力」があると称されやすい闊達な若者が採用されやすいといったイメージがあるが(実際は知らん)、しかし似たような階層年代土地柄の仲間内での振る舞いなんか参考にならぬ。似たような年齢、似たような階層、土地柄の出自の人間同士の中で、堂々と陽気に振る舞うことを称して、事業遂行の上で有用な資質であると錯覚すると、誰にとっても不幸な結果にしかつながらない。

 出自年齢階層が違う人間に対しても物怖じせず闊達に接する人間となると、そう多くはない。だから、誰に対してでも打ち解けるように見える人物の「社交性」は時として得がたい能力となり、重宝がられる。だが、注意しなければならないのは、「陽気に物怖じせず話しかけ、話を盛り上げて打ち解けること」と「多種多様な出自の相手と、語義やコトバに纏わるイメージにも神経質になり、互いの抱く認識の齟齬と有する情報の不足がないか何度も確認しながら伝達すること」とは全くの別物であること。体感的には前者の自信があると、後者が疎かになりがちになる気がする。

 徹底した確認をする慎重さと辛抱強さがない人は何を重視するのか。単なるスムーズな流れ、格好良さだけか。だから徹底した確認や情報共有の努力をしない。メモを忌避し、何度も聞かれることを嫌悪する。確認しなくても自分の意図通りに意思疎通が出来ている、あるいは何故か既に共通認識があるはず、と確信してるのだろうか。おそろしい。

 日本でも外地でも、物怖じせず誰とでも親しげに接す人物は、「社交的」と評価される。だけど、必要な情報を伝え、あるいは引き出す際には、齟齬がないよう語義や認識について確認を重ねる徹底した慎重さこそ必要だ。で、「社交的」な人間がそうした辛抱強さを持っているかは別問題なのが悩ましい

 異国に行くとこの問題はさらに顕著になる。堂々として、自信に溢れた態度で、闊達に誰にでも話しかけ、カタコトでも身振りでもとにかく打ち解けてしまう社交性は、それはそれで得難いものではあるけど、しかし貧乏旅行で友達を作りに行くわけじゃないんだから、ハッタリとわかったフリと思い込みで行動されると言うまでもなく問題が起きる蓋然性が跳ね上がる。「自信に溢れた態度で堂々とし、物怖じすることなく誰にでも話しかける社交性」はあっても、「日本語であろうとなかろうと、語義や認識のズレに無頓着で意思疎通と情報交換が粗雑」な人を外国で通用するコミュニケーション力ある人材として送り込むのは止めた方がいい。

 しかし近年よく聞く話だが、在外経験の乏しい事業者が異国に誰を送るかとなると、社交的で闊達な人を「コミュニケーション能力がある」として送る傾向にあるという。そして、どうもそういう人は、自分のコトバが通じないことに自責する習性が乏しく、発想の違いや意思疎通の齟齬に慎重になる姿勢が欠落しがちだ。語学力が同程度に不十分ならば、おそらく根暗の方が使える。

 コトバに纏わる齟齬を例示するのは難しいが、意思疎通に関するよりわかりやすい例を挙げれば、例えば、異国にいても、本国との業務上の都合でGMT+9を使う在外事業所はわりと存在するという。しかし異国に存在する以上、ローカルタイムももちろん使用しなければならない。そうした状況においては、その都度日本時間かローカルタイムか明記明言しないと事故のもとである。例えばこういうときに、齟齬の発生可能性に想像がいたらず数字だけ口にするのを「コミュニケーション能力の低さ」という。その都度確認し、誤解の余地を排除する書き方しゃべり方をするのは大した手間ではないのに、それを怠るのは、意思疎通に齟齬が起きること自体を想定できないせいだろう。齟齬がもたらすリスクを考えたら、わずかな手間を惜しまないはずだ。陽気さ社交性などどうでもいい。

 もっとも私のような根暗な人間から見ると、誰にでも物怖じせずに話しかけ、言葉が通じても通じなくても親しげに接するなんてのは、超能力にも類する特殊技能であり、私には逆立ちしても真似出来ない芸当であるのは確かだが。

今回の要点:「コミュニケーション力」とやらがもてはやされるが、「意思疎通する能力」と「社交性」とは全くの別物である。
注意点:「社交性」を軽視しているわけではなく、「意思疎通する能力」があまりに軽視されているのではと危惧しているのである。
記述日:2015.07.30


43-03
憤怒

 いきなり自分自身の欠陥について書くが、私の脳は、「過去の記憶」について憤怒が起きる短絡回路がかなり太くできあがっている。ただし、実際に目の前で起きている出来事について沸騰する気性は持ち合わせておらず、それゆえ私は他者に掴みかかったり無闇矢鱈と怒鳴りつけたりするような人間ではない(瞬間沸騰して実際の他者に面罵する類いの人間だったら、それはそれで精神衛生にはよかったかもしれんが)。そうではなく、過去にあった不愉快な記憶を思い返すたび、それに対して憤怒が沸き起こる。その「過去」とは、現在所属している場所における進行中の問題にまつわることだったり、すでに帰属を外れて当事者が生きているのかさえ知らないような遠い昔の出来事だったり、様々だ。それどころか、人間の記憶などというものはあやしいもので、思い返す内容が微妙に改竄されているかもしれないし、極端にいえば本当にあったかどうか疑わしいことかもしれない(さすがにそこまで酷いことはないはずだが、戦争体験記などを読んでいると、「事実としてはなかったはずの銃剣突撃の光景」が、戦後の日本軍イメージや映画等に引っ張られ、自身の唯一の戦争体験という最も苛烈な体験を思い返そうとする度に脳裏にちらつくという話もあるので、人間の記憶はそんなに信用できない)。しかし思い描く「過去」がどのようなものであろえと、思い描いた光景に対して抱く感情は現在進行形の生の感情である。

 私がこうした過去の記憶への怒りに囚われがちなのは幼少期からだ。記憶にある限り、中学ではいきり立つ頭の悪い連中の粗暴の記憶に、高校では友人が時々見せる人を侮った不誠実な態度の記憶に、予備校では意味不明に人にまとわりついてくるストーカー気質の寮生の記憶に、大学では武道部の運営を巡る対立とOBから理不尽に振るわれる有形無形の暴力の記憶に、怒り狂っていた。必ずしも仕事でいよいよ不愉快不都合が束を為してやってくる前から、常日頃、至近の過去あるいは遠い過去に対して怒りを抱いていた。私はそういう脳をしているのだろう。

 気が短い人間や攻撃的な人間はたくさんいる。だが、繰り返すが、私は他者に対して攻撃的ではない。だからこそ脳に負荷がかかってるのかもしれないが、しかしだからといって攻撃的な態度に出てみたところで、精神の充足を得られるとはあまり思えない。経験上、他者に有形ないし無形の暴力を加えたところで気が晴れるような単純な心持ちはしていないはずだ(それほど大したことをしたことがあるわけではないが)。したがって、私は怒りに身を任せて他者を殺傷するようなことはありそうにない。ましてや現在所属しているところに纏わる記憶ならばともかく、すでに所属していないところでの記憶については、もはやその主は実在しないも同然である。過去に不愉快不都合をもたらした人間と物理的な連続性を持つ個体は地球のどこかにいるのだろうけど、過去に共有していた問題はもはや霧散し、その個体はもはや私の記憶とはまったく別の存在である。したがって、過去についてサスペンスもののごとく「探し出してしかるべき報いを与えてやる」などという単純な心持ちにもなることはない。また、そこまで執念深くrevengeやavengeしなければならないほどの取り返しのつかない重大な被害を受けたことがないとも言えるが。


 さて、例えばだが、自然災害や機械の暴走事故に際して、自然や機械相手に命乞いをしたり罵ったりする人はまずいないだろう。ましてや被害を受けて、自然や機械を恨むなんてこともありそうにもない。あらゆる物体や現象に人格を見いだす自然崇拝みたいなものはあるが、しかし大抵の現代人は何か不都合があると、その怒りの矛先を同じ人間に向けるはずだ。自然災害ならそれに対する予防措置、機械なら管理や製造について、実際には誰のせいであろうとなかろうと、誰かのせいにしたくなる。それが人間というものだ。

 だが、自分に不利益をもたらす存在が同じ人間となると、途端に懇願や罵りの声を挙げたくなる。法律に則って職務として死刑囚を殺す処刑官吏や今まで何人も息をするように殺してそれについて大した感慨もない悪党が、いざ自分を殺そうとしているときに、命乞いをしようと良心に訴えようとしても、自分を殺そうとする意思が変わるわけはない。変わるわけもないが、それでも命乞いをせずにはいられない。天災や機械とおなじく自分のコトバに関係なく自分の命を取るだけの相手であるのに。それはひとえに、蓋然性がまったくなくとも、相手が同じ人間だから、コトバで対話しその行動を変えられる可能性を心のどこかでは否定しきれず、それゆえに命乞いをする衝動も沸いてくるのだろう。

 生き死にはともかくとして、他者と関わって生きていると不愉快不都合にはよく出くわす。そのときに、他者を自然災害のようにしか思わない種類の人間がいることを、私は新卒で入職したところで知った。具体的には上役に叱責されるようなときだ。命を取られないと確信しているから命乞いはしない。糊口をしのぐのに重大な影響を及ぼすとも思っていないから必死で弁解もしない(そこの連中が、上司等の心証や評価について、本当に社会人生活に影響があるかないか判断しているとは思えなかったが、それはさておき)。彼らはただ単に、嵐や時化が収まるのを待つだけであり、その背景にある事情について考慮することなく単に突然吹き荒れて我慢していれば去って行く嵐や時化のようなものだとしか捉えていない風だった。

 もちろん人間社会においては、他者がいつでも自分に対して都合のよい対応や反応をするとは限らない。自分の信じる妥当性や正当性とは相容れない理不尽や不合理な判断をされることも多々ある。他者が不愉快不都合をもたらす際には、それが理不尽なものであろうと、受忍しなければならない場面は多い。しかし(その頻度が高かろうと低かろうと)受忍が必要なことと、ただ単に他者のもたらす不愉快不都合に対して、まるで自然現象のようにしか対処しないこととは異なる。

 単に受忍して通り過ぎるのを持つ嵐としてしか他者の言動を捉えていなかったら、どうなるか。自分の信じる妥当性正当性に反する言を弄されたときに、相手との間にいかなる利益相反があるのか、それとも相手に単に認識の錯誤があるのか判断するのを妨げる。他者に錯誤させたことまでをも含めて自分にどのような非があるかも認識できない。そしてそうした事情がわからなければ、自分の利益の為には受忍するべきかどうかさえ判断がつかないはずだ。受忍すると却って物事が悪くなる蓋然性が高いのならば、対応を考えなければならない。結果として受忍するのではなく、最初から受忍を選ぶのは、自分にとっても相手にとっても組織社会にとっても、存在する問題を認識すること、問題を提起すること、問題に対処することを妨げ、いずれ誰に対しても最も不利益な結果としかなるまい。それが避けられたかもしれないのに。


 ただ、まるで嵐やいかれた機械と相対するように不愉快不都合な声に対処する人間は、最も脳神経へのダメージを受けにくい気もする。しかしこうした人間を「ストレス耐性が高い」などともてはやすと、物事を聞き流すだけのクズだけが跳梁跋扈することになりそうである。そして他者に対して嵐が過ぎ去るまで待つことしかしない態度は、極めて非人間的である。他者がどういった理由や情念に基づいて自分に不愉快不都合な声を浴びせるのかについてまるで理解も共感もできず、単に荒れ狂う嵐や故障した機械が不協和音を立てているようにしか聞こえない。これはもはやサイコパスである。台風や火山や岩や木々に人格を見いだして恨んだり恐れたりしていた古代人や一部の呪術的思考を持つ現代人の方がまだ人間的かもしれない。好ましいとは思わないけど。

 冒頭書いた私の発作的な憤怒だが、これは思い描く記憶の相手を人間と見ているから起きることである。過去なんてものは単なる私の脳神経が描き出している虚像に過ぎないし、思い描いている過去がどの程度改竄されているかも自信はないが、とりあえず私の脳は思い描かれる「不愉快不都合をもたらしてきた主」を人間と捉えている。もし命を取ろうとしてくれば通じないとわかっていても命乞いをせざるを得ず、私についての認識に錯誤があれば正したくなり、相手に錯誤させたことを失策として自責し、自分と相手との間に利益相反がないはずにも関わらず反感や反発を受けることについては疑問に思うし是正したくもなり、単純に私の人となりを侮ってきたときにはその認識や情念を上書きさせたくなる。これらはひとえに、思い描かれる存在を対話可能で概ね同じような人間と見なしているからだ。だが、これは誤った認識だ。脳が描く虚像は人間ではない。人間だと思うから憤怒が沸いてくるし、記憶に対する憤怒は現在進行形の感情として現在の生活と健康に影響する。過去の記憶において不愉快不都合なことをしでかしてくる主については、自然現象や無機物だと捉える心持ちで捉えるべきか。現実の人間に対して行ったらサイコパスでしかないような対処をするべきか。もちろん心持ちで脳の反応をコントロールできれば誰も苦労しないが。

 私のこの「過去の記憶に対して怒りやすい性質」は、必ずしも悪い面ばかりではなく、誰もが不愉快や不都合を覚えているのに(裏では口にしても表立っては)誰も何も言い出さず行動もしないことについて、私が一歩踏み出して問題提起させる原動力となってきた。もちろんこれは大変なエネルギーとリスクとを要することで、大なり小なり評価されたこともあれば、まったくもってうまくいかなかったこともある。これが生存する上で果たして賢明な選択だったかどうかはわからないが、しかし黙っていると問題が存在することそのものが見過ごされ、何もかもうまくいっていると錯誤されるような状態をあえて維持することが賢明だとも思えない。探りとして、少し提起してみるだけで改善に向かうことだってないわけではない。私に問題について(結果がどの程度妥当かは知らんが)解析するエネルギーとなったのは、この怒りである。不愉快不都合があると怒鳴り散らしてさらなる問題を生じさせ、面罵にエネルギーを使い相手を凹ませて満足してしまう人間よりは、マシだという自負はある。だが、全然関係ないことをしていわゆる「発散」をすることをバカにしてきたが、しかし私にも不愉快不都合について嵐だと思って受忍し、その後の全然関係ないことをして発散とする手法は必要なのかもしれない。特に、現在の進行形の問題にまつわる至近の過去についてではなく、すでに過ぎ去っている遠い過去の記憶については、やり過ごす技術が必要なのかもしれない。

今回の要点:私は「過去の記憶」に対して怒りやすい性質を持ち、これは必ずしも無益ではなく現状改善へのエネルギーともなるが、やり過ごす技術が必要である。
注意点:「過去の記憶」と言っても、何年も前のことばかりではなく、現在目の前で進行している事象ではないという程度の意味にすぎず、その日の出来事も含む。
記述日:2015.07.30


43-02
物語

 もし1人のなんてことのない人間が、世間の注目を集めるような刺激的な刑事犯罪を犯したかどで逮捕されたら、人々に何を思われるだろうか。その人物の生い立ちや家庭環境、学歴学校歴や職歴、そして趣味、交友関係、そしてネット上の活動に到るまで報じられて、巷の人々はそこからわかりやすい「異常な人物像」を導きだし、それに基づいてやはりわかりやすくて刺激的な「犯行の動機」を思い描くことだろう。裁判においても同様に、どうでもいいことから牽強付会な物語を語られることは想像に難くない。例え冤罪が立証されたところで多分その人物は、他人に好き勝手な物語を思い描かれたこと、思い描かれたであろうことに打ちのめされるだろう。日頃から好奇の目に晒されてることに慣れ、そうした雑音の処理方法を確立しているテレビ芸能人や有名作家ならばともかく、市井の市民ならば精神に変調を来すことは避けがたいはずだ。

 他者に関心を持つということは、その人物についての些細な情報や印象から、自分にわかりやすい物語をでっちあげることだ。もちろん他人に思い描かれる人物像が自己認識と一致することはそう多くないし、あまりにも粗雑な類型に無理矢理当てはめられることもザラだ。過小評価や過大評価を迷惑に思ったり、他愛もない経験さえ持っていない青瓢箪扱いされたり逆に悪の限りをつくしたクズみたいに思われたり、そして能力や適性や関心や嗜好とはまったく相反することをするよう期待されたり、そういうことに怒ったり落胆したりするのは、誰しも大なり小なりしていることではある。他者が自分について見出す物語がどんな酷いものであろうと、それはそれまで出会った人々についての類型やテレビや本で提供される人間についての物語に相当部分基づくものであって、悪意の介在余地は小さい。それゆえ甘受しなければならないことも多い。しかしどうしても訂正せずにはいられないこともある。そのために骨を折らねばならんこともあろう。そんなことは、人間社会で生きていく上では日常の範疇に入ることだ。

 だけれども、他者の人となりや経験についてわかりやすい物語をでっちあげることは、時として鋭利な凶器ともなる。また、生じている問題を見過ごさせることもある。
 不本意な物語を、自分の交友範囲における単数ないし少数の人間が語る分には、大した問題ではない。だが、それが自分を取り巻く人間のうち、圧倒的大多数となった場合はどうか。あるいは誰と会っても同じ不愉快な物語を語られる場合はならば。「多くの人間が、自己認識とは大きく異なるほぼ同一の物語を語る」場合、それは自己認識の方が間違っていることも往々にしてあろう。
 でも、多数の人間が語ることがいつでも正しいわけではない。ましてや、1人の人間がアクセスできる範囲などたかが知れている。もう少し違う種類の人間から見れば、リンチにも等しい物語をよってたかって当てはめられ続けているなんてことも、よくあることだ。そうした場合は、「ダメなやつ」「おかしなやつ」としての役割をも期待されているので、コミュニティで何か問題があっても、すべて「ダメなやつ」のせいと片付けられがちなので、問題は往々にして保存される。ついでに何かに資することをしててもなかなか認められぬ。職場や部活のような全体で同一の目的のために活動する場では「足を引っ張るやつ」を作り出したり、競争や達成目標のない仲良しグループや緩やかなサークルでは「ちょっとおかしいやつ」を作り出したり、そんなことはよくあることだ。ちょっと出自や受けた教育が違って態度物事が違うとか、発想やその基盤となる知識教養が違うとか、あるいは体質や性的指向といった持って生まれた違いなど、差異についての不快感や無知から愚かな物語を膨らませ、何か不都合の戦犯扱いされたり、あるいは素人考えで精神障害の名前を持ち出してレッテル貼りするなど、罪深い事例は枚挙に暇がない。

 だが、ひとつの場所で浅薄な物語をでっちあげられ、過去に行ったことも未来に為すことも今日の様子も、実際の行動によらずその場で共有されているわかりやすくも刺激的な物語の文脈でしか解釈されぬような愚かな場所に暮らしていたとしても、別に場所に行き別の人々と会えば、日頃語られている物語と自己認識との妥当性がわかってくる。クズ呼ばわりされていると本当に自分をクズだと思い込むか、あるいは周囲への憎悪だけを募らせてすべてを心の中で拒絶するか、いずれにせよ精神の健康にわるく、そして適切な自己認識を妨げる。だから、ひとつの場所で語られる物語(これが好ましくないものであろうと)に安住するのはあまり健全ではない。そのため、様々な場所に出て、違った種類の人々と会う機会と場所を持つことは精神の健全とそこそこ妥当な自己認識を行うのには欠かせない。容易いことではないかもしれないが。

 だが、「どこに行っても」同じような、好ましからざる物語で自分について語られる場合はどうすればよいか。「どこに行っても」同じことが語られ、しかもそれが自己認識と大幅に乖離する場合は、自己認識の方を疑うのが妥当かもしれない。だけれども、世の中には物語の鋳型というべきものが広く共有されていることも忘れるべきではない。「どこに行っても」なんていっても、人間がアクセスできる範囲なんてたかが知れている。また、どうしても似たような、自分にとって脅威でなさそうな層を選んでもいるはず。そこにおいて、なんとなく似たような認識が共有されていたって不思議ではない。昨今話題の遡上に上りがちな事象あるいはそれを思わせるような事象と関わっていたり、流行語のように一世を風靡した「絶対に自分ではないが、なんとなく不愉快な存在」を示すコトバで語られることが多い状態あるいはそれを思わせるような状態にあったら、「どこに行っても」似たような物語で語られる可能性は飛躍的に高まる。クズだとなんとなく世間の人々が思っている、あるいは思いたがっているような空想上の人物像に少しでも類似していると思われたら、やはりクズだと見なされる。見なされ続ける。これは、とても怖いことだ。

 ひとつの場所でよってたかって悪辣な物語で語られることは、不幸だが誰にでも訪れうることだ。そして、ひとつの場所をすべてだと思って、自分を「ダメなやつ」「決して受け入れられない、おかしいやつ」と思い詰め、あるいは「世の中は、世の中の人間は自分の敵だ」と憎悪を膨らませて、早まったことをするのはどうしようもなく不幸なことだ。ちょっと余所のことを知っていれば、ちょっと別の場所にも居場所を作る機会があれば、避けられた悲劇がどれだけあるだろうか。そう思わざるを得ない事例は枚挙に暇がない。だけれども、ひとつの場所で傷ついた人間をさらにセカンドレイプするかのごとき言説が巷間に蔓延り、これといった罪もさほどの劣等もなく悪人・能なしとして貶められ続けたという事象を、安易に、わかりやすい負け犬・社会不適合者の物語として好んで語りたがる傾向が世の中にはあるのではないか。具体的な事情をさほど鑑みず、既に出来上がっている物語を適用することでわかった気になる傾向が、ある場所での失敗に関しては特に強いのではないか。そういう恐怖を禁じ得ないのだ。善意によって慰撫し有益なアドバイスを示そうという者でさえ、安直な負け犬・社会不適合者の物語を前提にして語ることに到っては!
 それはもはや、性犯罪や猟奇殺人のかどで捕まった冤罪被害者が捕吏や司直によって散々好き勝手な物語をでっちあげられた挙げ句、その物語に基づいて裁かれる恐怖と屈辱を受け、シャバに出てからも世間の人々に面白おかしく興味本位で語られ続け、一時流された牽強付会な推測推測や事実無根の中傷さえもが事実であるかのように語られ続ける恐怖にも近いのがあるのではなかろうか。

今回の要点:ある場所で、自分の人となりについて好ましからざる物語を共有されることは恐ろしいが、他の場所に飛び出して他の人に会えば、精神や自己認識の健全性を維持しやすくなる。しかし世間には、ある場所で失敗した人間を貶める物語が蔓延っており、それを無理矢理適用される可能性がある。
注意点:多数の声が正しいとは限らない。しかし自己認識と出会った多くの人が述べる物語とが悉く乖離している場合は、やはりまず自己認識を疑ってみるべきではある。
記述日:2010.12.12


43-01
自分の最低限の尊厳を守るための唯一にして最も解決から遠い方法

 突然無差別に見知らぬ人々を殺傷することと、与太って手当たり次第に他者を脅かすことには、共通性があるような気がする。
 どちらも鬱屈した情緒が根底にある。そうした感情が、他者を害しあるいは脅かすことが自分の尊厳を守ることになるという常軌を逸した発想へと結びつく。もちろん解決とは最も遠く、何を守ったことにも誰に勝ったことにもならない。だけれども、自分が負けている、疎外されているという思いを、多少はごまかせるかもしれない。
 鬱屈を他者への攻撃性に転化させるような人間は、不都合はすべて他者や世の中のせいであり、他者は自分よりも幸福であるという妄想に囚われている。しかしそうした人間にとって、他者を非道い目に遭わせあるいは怖がらせることは、自分が「勝者」になることを意味しない。せいぜい敗者ではない」と示すことでしかない。暴力は、自分が優位に立つために振るわれるのではないのである。ただ、日頃、優劣関係の「劣者」の側に自分がいると(認めたくないながらも)信じている人間にとって、優劣の「優者」であるような気がする人々、あるいはそうした人々からなる社会を脅かすことは、自分が「劣者」ではないと証明する唯一の方法であるかのような気がしてくるのだ。
 自分が「劣者」ではない、疎外されたまま虐げられたままで終わらないと証明するには、凶刃を振るうか、暴力で恫喝するしかない。そうしなければ、自分が1分1秒たりとても地上に存在していられないかのような焦燥感を覚えるわけだ。そして、漠然とした世の中への不満を晴らすために、暴力の行使を妄想しはじめ、執拗に何度も想像を繰り返すようになる。
 もちろん実際に凶悪犯罪に出るのはなかなか難しい。被害妄想に囚われていても、社会的な制裁などの結果についての想像ぐらいつくし、大胆な行動を取ることには心理的な抵抗も大きい。しかしそれでも決行しないことは、自分の卑小さを甘受することと同義語である。疎外され、何も出来ない劣者であると認めることである。だから、やって世の中を見返して散るか、やらずに惨めに死ぬかの二者択一しかこの世に選択肢がないような精神状態に陥ってしまう。そうした心理に達したところで多くの人間は、結局何もしないか、あるいはちっぽけな暴力で地域住民や交番巡査を騒がせつつ日々を過ごす。だけれども、暴発する奴もいるわけで。

 もちろん自分が成功しなかったり充足していなかったりするのは、様々な要因からなる。運やタイミングが悪かったり、能力や努力が足りなかったり、単純に選択がうまくいかなかったり、境遇が不利だったり。誰もが競争して自己実現できるわけではないし、自分の境遇に納得するのもそう簡単なことではない。
 だけれども、自己がうまくいっていないからといって、他者が自分よりもうまくいっていることにはならない。ましてや、自分の不成功や鬱屈の原因は、他者のせいなわけでもない。また、いくつかの面で優れていたり、恵まれていたりしたところで、誰にだって様々な問題や葛藤がある。他者が成功している、幸福だ、というのは幻想である。そして、もし他者が自己よりも幸福で成功していたところで、それについて何の罪があるわけでもない。ましてや他者の幸福が自己の劣等の証拠にもならない。そう難しい話ではないが、不遇が続いたり、思うような人生が送れなかったりすると、こうした思いを抱いてしまう傾向が人間にはあるのだろうか。
 とにかく、誰だって自分なりに問題を抱えて生きている。また、特定の相手とならまだしも、漠然とした他者と自己とを比べても何一つ生産的ではない。にもかかわらず、自分の鬱屈した感情を晴らすために、自分を疎外する社会を構成する一部分と見なされて、突然凶刃に襲われるようなことはカンベン願いたいものである。
 まー、刺されないまでも、自分が他者に「報復」するのは正当な権利であり、何をしても許されると思って、嫌がらせや有形無形の小さな暴力を振るってくる奴は、どこのコミュニティにも必ずいましたが。


今回の要点:無差別な暴力を振るう動機のひとつとして、自分が「劣者」ではないと証明することが、こうした暴発の根底にある。
注意点:こんなこと書いたからといって、私が「自分」と「彼ら」とに世の中を分けて見る妄想に基づいてルサンチマンを溜め込み、一矢報いる衝動に囚われてるトンマだと思わないように。
記述日:2008.12.18


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