メルグ達を結界でトラルファーガに送った後、クレヴァスとシーファは、ヤベイ族の村長の家で軽い食事を取っていた。 食事をするために居るのではなく、あくまでも、秘宝について詳しい話を聞くために、村長の家に行ったら、茶と軽食を出されただけだ。それでも、今までの対応から考えれば、ずいぶんと良いだろう。 ヤベイ族の村長、フォルザス=マラザンは、クレヴァスに金色の塊を渡した。 大人の手のひらほどの大きさの、金塊。ちゃんと、重さもある。 「複製〔レプリカ〕です」 そう言われて、クレヴァスはその金塊をよく眺めてみたが、その雄獅子の顔をかたどった金は、本物のように思えた。 これと同じものが、この村の秘宝なのだと言う。 たしかに、結構な重さの金塊ではあるが、秘宝という感じではない。 あたりまえだ。金塊はただの飾りに過ぎない。秘宝は、その金の雄獅子の額の、赤い石なのだから。 「この形であれば、わりと探しやすいでしょうね」 クレヴァスが言った。 「けれど、もし、秘宝だけを取り出し、似たようなガラス玉の中に混ぜられると、探すのは大変そうですが」 冗談なのだろうか……。 シーファが隣で、呆れ顔になる。 秘宝が村から奪われると、村が破滅するらしい。それを防ぐために、神官また、巫女として、ヤベイ族の頼みを引き受けたのではないのか。確かにビー玉に紛れたら探すのは大変だろうが、そんな冗談を言っている場合ではない。 村長の方は、気にしていないようだった。 「どうぞ、宜しくお願いします」 軽く、頭を下げ、村長は席を立った。 クレヴァスとシーファが部屋に残される。 「どうするの?」 シーファが言った。 「これだ」 クレヴァスはそう言って、本を取り出した。 「それ、部族の紋章とか、地名とかが判るっていうやつ?」 「そう」 「で、どうやって、秘宝の場所がわかるの?」 「ふっ。紋章がわかるというのは、紋章さえあれば、それがどこにあるかも分かるということ」 自信満々に、クレヴァスは先ほどの秘宝のレプリカを、その本に重ねて置いた。 本が、淡く光始める。 光は、おそらく、魔法の心得のある者にしか見えないものだろう。シーファやクレヴァスには当然見えているが、実際は、元のままのはずだ。 パタン 本の上から、秘宝のレプリカが勝手に転がり落ちた。本の表紙が開いたのだ。 風でも吹いているかのように、ページがめくれ、そのうち、止まった。 「へー。便利なものね」 シーファが言う。 「神官っぽいだろ」 クレヴァスが言った。 本を拾い上げページを見ると、そこにはヤベイの村と、もう一箇所、『ゼルム公国』の名が浮かんでいた。 「ゼルム公国」 クレヴァスが声に出す。 女王フィスィスが治める、小さな国。行ったことはないが、産業の盛んな国だと聞いたことがある。ガズナターガに周りを囲まれているためか、言語も、生活様式も、宗教も自分達と寸分違わない。 「秘宝はゼルム公国にある。が、それより詳しいことは、もっと近づかないと分かりそうにないな」 クレヴァスは本を閉じ、鞄に戻した。 秘宝のレプリカも拾い上げ、鞄に入れる。 シーファも鞄の蓋を開けた。 何をするのか、とクレヴァスが見ていたら、シーファは手紙を書き始めた。 「何、やってんだ?」 「ん、見たら分かるでしょ。手紙書いてるのよ」 「誰に?」 「メルグと、お母さんたちと、あと、あなたのお母さんにも書かないとね」 そっと、何を書いているのか覗き見ると、メルグ達への分は、ゼルム公国に行くという報告、シーファの両親宛には、予定より帰りが遅くなるかもしれないという報告、クレヴァスの親には、途中で他に予定ができてしまい、寄れないかもしれないという報告……。 「すぐに取り返せば、実家にも来れる。な」 クレヴァスが言うが、シーファは取り合わない。 「な、って言われても。多分無理よ。結界で飛ぶにしても遠すぎて無理なんでしょう? それなのに寄り道なんかしてたら、有給休暇終わっちゃうわよ」 そう、シーファには、未来を見る力があるんだ…… クレヴァスは思い出した。 未来というものが、どのように「見える」のかは分からないが、巫女や神官は、強い魔力で未来を見られる者がいるらしい。 らしいというか、シーファがそうなのだが、未だに、実感はない。 未来が分かっていて、黙っているだけなのだろうか。 それは怖いな。 クレヴァスは思う。 自分との未来も、いや、過去、自分と出会ったことも、最初から分かっていたのだとしたら。 「クレヴァス、一番近くの神社ってどこ?」 シーファが尋ねた。 未来が見えるのならば、それくらいもわかりそうなものだ。 「どうしたの?」 返事がないからか、シーファが不思議そうに言った。 「よし、行くか」 シーファの疑問には答えずに、話を変える。 「移動結界よろしく」 クレヴァスの傍らに立って、シーファが言った。 クレヴァスは結界を張った。 手紙を神社に預けると、すぐにクレヴァスは次の移動用結界を張った。 「ゼルム公国へ行く」 シーファが隣で頷く。 神社の神官が、二人を見送った。 他の人間や動物が、結界に入ってしまわないように、だ。 「皆様お元気で」 ニコニコと笑顔で神官が言っているのが、薄くぼやける。 目を開けているはずなのに、ぼやける視界。歪んで、雑音が聞こえて、そして飛ぶ。 結界での移動はいつもそうだ。そう何度も連続して使えるものでもない。 軽い症状で車酔い程度。重度になると、時空の狭間に精神を残し、肉体だけが戻ってくる、という症状が出るらしい。 もっとも、ここ数年は、そういった事故も聞いていない。その理由は、神社が主体で販売している魔法を使う際に術者を助ける道具が普及した為だと言われている。 何事もなく、ゼルム公国の片隅へたどり着いた。 シーファが結界を抜けて、続いてクレヴァスが結界を抜けると、結界は消滅した。自然に消えたわけではなく、クレヴァスが自分が結界を出るのと同時に消したのだ。 素晴らしい魔法のセンスだと思う。 もう見慣れてしまって、それほど感動もしないが、初めて見たときはすごく驚いた覚えがある。 「行きましょう、クレヴァス」 シーファはクレヴァスに声をかけた。 暫く町を散策した後、道端のベンチに腰をおろした。 クレヴァスが、また例の本を取り出した。キジマナウス族の村でやったのと同じように、獅子の形をした秘宝の複製を本の上に置く。 淡い光が宿り、すぐに消えた。本の表紙が開き、ある一点を指す。 しかし、その表示を見る前に、二人の前から本が消えた。 顔を上げると、本と秘宝の複製を持って、ひとりの人間が、二人を見下ろしていた。大きな布を纏っており、顔も目の辺りしか確認できない。本を持つ手には、ニ、三本の腕輪が擦れて音を立てている。 「おもしろいものをお持ちですね」 その人が、声を出した。 腕輪は、マジックブレスレット――魔法使いだ。魔法使いだが、巫女や神官ではないだろう。 二人は立ち上がり、その人物と対峙した。 「返して――」 「帰りなさい」 返してくれ、とクレヴァスが言いかけたところで、先にその人物が言った。 「他国の者がうろついていると、宿無しの者たちが集まってきますよ」 緑の瞳を見ても、親切心で言っているようには、到底思えなかった。 何者か聞こうとしたが、本と秘宝の複製をクレヴァスに押し付けるように渡すと、そのまま背を向けて、去ってしまった。 「……まあ、いいか。もう一度やるぞ」 本の上に、秘宝の複製を置き、本が開くのを待つ。 開いたページには、ゼルム公国の地名が書かれてあった。 本に従い進むと、工場が密集した場所まで来た。本が示した住所は、ほぼ間違いなくこの辺りだ。 秘宝を保管するような場所には思えないが。 そのまま一軒の工場へ入った。 「すいませーん」 声を出すが、機械の音に阻まれて、誰も出てこない。 大きな機械に囲まれて、人影は見えない。警戒を緩めずに、もう一度声を出す。 「すいませーん」 奥からガチャガチャと音がした。 「どうしました?」 所々が機械油で黒く汚れた作業着を来た男が、手にスパナを持ったまま姿を現した。 どう見ても、普通の男だ。二人の姿を見ても、特に驚くわけでも、恐れるわけでも、ニヤニヤと笑っているわけでもない。 男は、近くにかけてあったタオルで自分の手を拭き、二人の前まで来た。 「いらっしゃいませ。社長もおりますので、お呼びしましょうか」 「あ、いえいえお構いなく」 クレヴァスが、急いで否定する。 拍子抜けだ。 ここに秘宝があるのだろうか。 「すいません。ここに、このくらいの大きさの獅子の形のものってありますか」 親指と人差し指で大きさを示して、尋ねる。 「色々ありますよ」 男は、そう言った。 色々? 疑問が浮かぶ。 少なくとも、獅子の形のものを隠している訳ではないようだ。 「えぇ。こちらの製造ラインでは、こういった物を作っております。」 そう言って、男が兎の形のブローチを差し出す。 「あと、あっちでは、型を作っています。今の時間でしたら見学できますよ」 差し出されたブローチは、手のひらに乗るくらいで、ブローチとしては大き目。金色の鍍金が施されている。 「いえ、いいです」 ブローチを男に返して、クレヴァスは工場を見渡した。 機械が動く音がする。 人があまり居ないのは、ほとんどの行程が機械で行われているからだろう。 「ここは、さっきのものみたいな、金属の装飾品を作っている工場なんですか」 シーファが尋ねた。 「さようでございます」 元気に男は答えて、はて? と言った表情になった。 彼らは当社と契約しに来た客ではないのだろうか。 最近の客は、電報や通信で用件だけ伝え、実際に工場まで足を運んでくれるような熱心な担当は居なくなった。 久しぶりの客なので、工場長の彼としては、非常に嬉しかったのだが。 「獅子の製品をお探しですか?」 考え方を変えてみればよいのだ、と彼は思った。このあたりは金物工場が数件あるから、目当ての品を作ってくれる工場を探して歩いている所だろう。 シーファが軽くため息をついた。 (この服装を見て、お客だと思うのかしら) 今までの会話から、自分達は彼から「客」と思われていることは明白だ。しかし、クレヴァスは否定する素振りを見せないから、シーファもそれにならうことにした。 「あ、そうそう。これこれ」 クレヴァスがわざとらしく大きな声を出して、秘宝のレプリカを男に渡した。 「こういうのを探してるんですよね」 「ほう」 男はそれを受け取ると、じっと眺めてから、一言「うちの製品ですよ」と答えた。 クレヴァスの落胆ぶりが、後ろから見ても分かる。 そう。昼間に会った人物に、レプリカをさらに別のレプリカに掏り替えられていたのだ。 「ああ、ありがとう。なんだそうでしたか。これは誰かから頼まれて作ったんですか?」 「いえ、当社のオリジナルですよ。デザインは社長が一般公募したものだと、持って来たのですが」 「そうでしたか。では」 クレヴァスはそう言って、男に背を向けた。 そのまま出口へ向う。シーファもそれに続いた。 気に入ってもらえただろうか。 工場長はそう思いながら、二人を見送った。後で知らせが来るかもしれない。 獅子の像は社長に頼まれて、自分が型から全部取って十点だけ作ってみた見本のようなものだったが、気に入ってくれる客がいれば、商品化も間近だろう。そうなれば、ボーナスをいくら貰えるだろうか。 工場長はありえない未来の幸せな図に、心躍らせた。 「駄目だったわね」 シーファが言う。 「ああ。我ながら情けない」 既に辺りは薄暗く、該当に灯りが燈り始めていた。 昼間に会った人は、明らかに怪しかった。本と秘宝のレプリカは一度彼の手に渡っている。すぐに確認すべきだったのだ。掏り替えられていないか。 「一般公募のデザインですって。嘘にきまってるわ。あんなに本物と同じ形にはならないわよ」 シーファが悔しそうに呟く。 最初からレプリカを用意していたのだ。 ビー玉の中に紛れるよりもやっかいなことだ。 あのレプリカが幾つ作られたのか知らないが、見た目には全く同じものが、この国には幾つもあるということになる。 「困難かな」 クレヴァスが言った。 シーファに聞いたのか、ただの独り言だったのか。 「シーファ、ヤベイの村が昔、この国の軍に襲われたのを覚えているか?」 「え、結構昔のことよね。四、五年前? でも、あれって実は反政府軍がどうのこうのって聞いたけど」 シーファの聞いた限りでは、ゼルム公国の反政府軍が、ヤベイ族との契約でいざこざを起こし、結果ヤベイの村が襲われた、とされていた。 「ああ、ガズナターガ的にはそうなってるな。」 クレヴァスが言う。 工業国として栄えるゼルム公国の技術を恐れてか、正式の軍が攻め入ったことにはしたくなかったらしい。反政府軍などというものは、今も昔も、ゼルム公国には存在しないのだ。 「その時も、確かヤベイの秘宝は持ち去られている」 クレヴァスは思い出すように言った。 「そうだったわ。ただ、それはレプリカで、数日後にヤベイの村の近くの湖で見つかったって……」 「同じだとは思わないか。今回はレプリカではなく、本物が盗まれたが」 クレヴァスに言われ、シーファは暫し考え込んだ。 クレヴァスが言うことはもっともだ。以前の襲撃と同じ相手がまた来たという考えは悪くない。ただ、相手が国軍というのはどうだろうか。いや、ありえる話だ。 王国や公国では一人の人間が総べているのだから、当然、その一人の意思で軍も動く。その人が「秘宝が欲しいからあの村を襲え」と言えば、軍が動くのだ。もっとも、それがガズナターガであれば、いくらなんでも他の大臣達から反対を受け、王の意見といえどもそう簡単には通らないと思われる。しかし、ここは小国だから、王の意見が強いのかもしれない。 「城に、ヤベイ族の秘宝があると?」 シーファが言う。 クレヴァスは頷いた。 「もし城でなければ、それに対抗できるほどの大きな勢力だが、この国は建国したばかりで、国と比べて大きな勢力はないだろう。」 「そうだとしても、どうやって秘宝を探すの? あるかないかわからないのに、城へ向ってもしょうがないわよ?」 そう言うシーファの前で、クレヴァスは本と秘宝のレプリカを取り出した。 いつもどおりに、本の上にレプリカを乗せ、呪文を唱える。 (その秘宝は偽物じゃないの?) 聞こうと思ったが、呪文の詠唱を始めた魔法使いに向って声をかけるのは無粋だろう。 パタリと本の表紙が開き、ページが捲られる。 シーファは本を覗き込んだ。 「これは……やっぱり、城」 ページに表示されている地図と住所。間違いなかった。 「でも、これは偽物でしょう?」 シーファが不思議に思って尋ねる。 クレヴァスは本を閉じて立ち上がった。 「ああ、偽物だよ。でも、ここまで精巧にできたレプリカなら、本物から型を取っているに違いない。本物との接点があれば、集中さえすればこれくらい」 「さすがね、クレヴァス。頼もしいわ」 シーファが言うと、クレヴァスは嬉しそうに笑った。 城へ向う。 辺りはすっかり暗くなり、城門前の店も閉じている。城門も閉じていた。この門が昼間は開いているのか、それともいつも閉じているのかはわからない。 門の横に背の低い扉があり、その隣には灯りが付いた格子の窓があった。 二人はそちらへ向った。 「すいません」 門番、というよりは守衛さんと言った方がよいだろうか、格子窓の向こうに居る男に声をかける。 「はいどうぞ」 背の低い扉の鍵が開く音がした。 扉を引いて中に入る。 あまりにもあっさりと入れたので驚いたが、扉をくぐってから外壁の中の様子を見て納得した。 目前に城があるが、城の周りは堀で囲まれている。堀より外側は比較的自由に住民が出入りできるらしく、所々に街灯と長椅子が設置され、公園のようになっていた。そして、城への跳ね橋は上がっており、橋のたもとには衛兵が居た。 衛兵に声を掛けると、衛兵は二人を見た。 「ここから先へは入れません。お帰りください」 棒読みでそう言われる。 「悪いな」 クレヴァスが言って、目の前の衛兵の鳩尾に一撃食らわす。 シーファが止める暇は無かった。 ぐったりした衛兵を脇の木に、あたかも意識があるかのごとく立て掛けてから、クレヴァスは跳ね橋を下ろした。 そのまま何食わぬ顔で橋を渡り、橋はまた上げておいた。 橋の先は天井の丸い廊下になっていた。うすい緑の灯りが高い天井に取り付けられている。足音が多少響くが、柔らかい底の靴を履いているので、気になるほどではなかった。 「あらぁ、いらっしゃいませ」 突然、廊下に女の声が響いた。 カツン、カツンと足音が響いてくる。 緩く曲がった廊下の向こう側から来たのは、派手な赤い服を来た女だった。年齢は二十台後半……いや、もう少し若いだろうか。白い肌に真っ赤な口紅、すなわち厚化粧。 カツン 一際大きな音を立てて、赤いハイヒールが止まった。 不審としか言いようがない。服装がこの国の人間のものとは全くことなっている。胸元が大きく開いた体にぴったりとした服。履いている靴も見慣れない、細くて高い踵の物だ。 (見慣れないデザインだけど、どこかで見たことがあるような……) 二人が思っていたところに、女が声を掛けた。 「お久しぶりねぇ」 妖艶に微笑む。 「誰?」 「さあ」 シーファの問に、クレヴァスはそう答えた。 女が苛立たしげに長い前髪を後ろへ払った。 「思い出せないのなら、別にいいわよ」 そう言って、女は手のひらを二人に向けた。 「あっ」 シーファが呟く。 何か思い出したような気がする。 ずっと前に、同じような目に遭ったことがあるような。 女の手が、そのままシーファの首まで伸びてきた。 そう、そのまますっと伸びたのだ。 シーファの首を締め上げる。 「魔族か」 クレヴァスが言った。そのまま続けて呪文を唱える。 クレヴァスの指輪が光って、女の腕に光が伸びた。 女の腕が途中で切断される。 切断された腕からは血は流れなかった。 シーファの首に残った手首の部分を無理やり剥がすと、シーファの首に歯型が残っていた。 シーファが咳き込む。 「この前はあなたの方がおいしそうだったけど、もう年取っておいしくなさそうよ。」 女が笑顔で言った。 「今は彼女の方がおいしそう」 切られた腕を元のサイズに戻し、女はシーファに向って歩いて来た。 クレヴァスがシーファの側まで走り、そのまま移動結界を張る。 (急げ) 安全な場所まで移動しなければならない。 (人が多い所が良い) 別な場所への移動結界の出た先は、昼間に一度通った城下の酒場前だった。 「シーファ、大丈夫か」 まだ咳き込んでいるシーファに声を掛ける。 周りの客が何事かと集まっているが、さほど気にすることでもないだろう。それに人が多い方が、魔族も手を出しにくいだろう。いくら人は弱いとはいえ、数には勝てないだろうから。 「ええ、もう大丈夫――っ」 大丈夫とは言ったが、まだ咳が収まらなかった。 「私は医者です、容体を診せて下さい」 親切にそう声を掛けてくれた者が居たが、その姿を見て、クレヴァスははっきりと、 「結構です」 と断った。 確かに医者かもしれないが、今の上着も半分脱げ掛けているような彼はどうみてもただの酔っぱらいだったから。 自分の姿を思い出してか、医者と言った男は気まずそうに頭を掻いた。 「とりあえず、上の部屋を空けましたので、使ってください」 酒場の店主と思われる男が、声を掛けた。 傍からみて、相当にシーファが苦しそうに見えるらしい。 実際、顔色も悪いし、息も苦しそうだった。 (先ほどの魔族、確か、精気を吸う力を持っていたはずだ。それで多少吸われたのかもしれない) 「ありがとうございます」 クレヴァスは店主の言葉に甘えることにした。 酒場の上の階の部屋の寝台にシーファを寝かせる。 「苦しいならもう寝ろ。魔族が来ないように結界張るから」 シーファが頷くのを確認し、クレヴァスは部屋に結界を張った。 結界を張ることは、場合によっては、敵に自分達の居場所を知らせることにもなる。何事もなければ、結界は利用しないにこしたことはなかった。 「思い出したわ。」 シーファが言った。 「え」 「さっきの、魔族」 そう言ってから咳き込む。 「無理に喋らなくていいぞ。精気吸われたんだろ」 シーファが微笑んだ。 (なんだ、クレヴァスも思い出したのね) そう思うと、なぜか安心した。 魔族のことなど、いちいち覚えていない。 魔族は基本的に、人型をしていたとしても、本来は一目見て人間とは異なる顔立ち――瞳が大きすぎたり、口が裂けていたり――しているはずだ。だから、見た目が人と同じ魔族は、仮の姿と言える。仮の姿の魔族が、いつまでもその姿を維持していることは滅多にないから、一度見た魔族の顔は忘れるように努めるのが普通だった。 見た目に惑わされず、人に害をなす魔族は滅ぼす。それが、神社で働く者の在り方だ。 だから、忘れていた。 でも、二人の始まりのきっかけではあるのだから、思い出したのが自分だけでは悲しい。クレヴァスにも思い出して欲しかった。 もちろん、既にクレヴァスは思い出しているのだから、シーファの願いは不要だったと言える。 「ほら、もう寝ろよ」 「はいはい」 階下では酔っ払いたちの笑い声がしていて、静かとは言いがたい。それでも疲れていたのか、シーファはすぐに眠りについた。 翌朝、部屋に昨夜医者と名乗った男が来た。 「昨日はすいませんでした。それで、お詫びといってはなんですが、今日はわたしの知り合いの女医が来ていますので、奥様のご様子を診てもらってはいかがでしょうか」 男の後ろには、三十代後半と思われる女性が、白衣姿で立っていた。 (魔力は感じない。普通の人間だ) それを確認し、クレヴァスは言った。 「それはありがたい。いえ、こちらこそ、昨日は失礼なことを言ったような気がします。申し訳ない」 言われて、男は頭を掻いた。 後ろで話を聞いていた女医は、「もういいか」とでも言いたげに、呆れ顔で仲間の医者を眺めていたが、奥に居たシーファの様子を見て顔色を変えた。 「あんた、ちょっと、すごく顔色が悪いよ。大丈夫?」 女医はそう言って、クレヴァスと男の間を割って部屋に入った。 「え」 シーファが寝ぼけた顔で答える。 普段より早い時間から寝ていたせいで、睡眠時間が半端になり、調子はそれほど良くは無い。しかし、特別気分が優れないという訳でもない。 「まあ、とりあえず簡単に診察するから」 女医は持っていた鞄から、聴診器を取り出した。 「はい、あんた達は出て行って」 男二人に声をかける。 言われて、二人は部屋を出た。 簡単な問診と診察が終わると、女医はシーファに言った。 「もしかしたら、妊娠してるんじゃない? わたしはそっちは専門じゃないから、断定できないけどね。専門の医者に診て貰ったほうがいいよ」 「あ、はい」 唐突ではあったが、特に驚くほどのことでもない。シーファは返事を返した。 男二人が部屋に入ってきて、女医はクレヴァスを呼んだ。 「奥さん、妊娠してるかもしれないから、ちゃんとした産婦人科に連れて行ってあげなさい。おめでとう」 断定できないと言う割には、おめでとうなどという言葉を残し、女医は仲間の医者という男と共に、部屋を出て行った。 暫く、クレヴァスはぼーっとシーファを見ていた。 頭の中では、これから何をすべきか、凄い速さで並列思考しているのだが、考えるだけで結論まで到達したものは何一つない、という状況だ。 「あの、どうしたの? 子ども、いらないの?」 シーファが言う。 「いる」 クレヴァスが答えた。 「いるけど、どうすればいいんだ?」 「だから、専門の病院へ行くのよ!」 そんなことに悩んでいたのか、とシーファは声を荒げた。 イライラするのは、既に妊娠の影響が出ているのだろうか。 「ああ。そうだな。慣れた病院の方がいいかな。それとも、シーファのお母さんにどこの病院が良いか聞いたほうが良いかな」 クレヴァスの顔が笑顔になった。 「どちらにしろ、一度ネリグマに戻ろう」 シーファは頷いた。 |