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「ユメルシェル」
声は今通り過ぎた病室から聞こえた。ユメルシェルはその病室に入った。
寝台にはナティセルが起き上がって、本を手に持っていた。長く伸ばした前髪を真ん中で分けて耳の前に垂らしている。トライファリスよりも少し長めの後ろ髪は首の高さで一つにまとめてあった。試合のときにはただの紐で結んであったのだが、今は広めのリボンで結んであるので少女のように見えた。
ユメルシェルは病室には入ったものの、謝るきっかけが掴めずに、ナティセルがゆっくり本をたたんで脇のテーブルに置くのを見ていた。
殺そうとした相手が、生きているばかりか試合が終わって間もないのに寝台に起きているのが歯痒かった。また、自分を殺そうとした相手が目の前にいるのに落ち着いているのも気にくわなかった。
「ナティセル、俺は着替えようと思っていたんだが、ここで着替えてもいいか?」
着替えの入った鞄を持ち上げて言った。
「どうぞ。そのカーテンの陰ででも」
風通しのよくない病院の中は暑苦しく、闘いのための厚い生地で作られた服は早く脱ぎたかった。
ユメルシェルが着替えている間、ナティセルは本を読んでいるようだった。
ユメルシェルが着替え終わってカーテンを開けると、ナティセルはまた本をテーブルの上に置いた。ユメルシェルは踝まである長い、堅い生地のスカートをはいて、上にはこの辺りの住民が昔着ていた民族衣装によく似た複雑な模様が描かれた服を着ていた。
ナティセルは、ユメルシェルを上から下まで眺めて言った。
「女だったのか」
これはユメルシェルがよく言われる言葉で、全く気にならなかった。闘いのときは剣や銃での攻撃に備えて硬い金属の鎧を身につけている。体中を覆うその鎧のせいで、体の線は全く分からなくなるのだ。
「女だったら何なんだ」
「いや、ただ男だと思ったから」
言ってナティセルは、言わなければよかった、と思った。男だと勘違いされるのは嫌なことだろう。
だがユメルシェルは表情一つ変えなかった。
「ナティセル、すまない。怪我をさせてしまって」
ユメルシェルはナティセルの目を見た。こうすると、たいてい相手は目を逸らそうとするものだが、ナティセルは逸らさなかった。
「いいんだ。君の言った通り、命が惜しければ試合に出なければ良いんだからな。これくらいの怪我なら、平気だ」
ユメルシェルは自分の力の無さを思い知った。確かに、あれで死ぬ者もいる。が、平気だと言っている目の前の男を見れば、死ぬ方が珍しいような気がしてくる。
結局、ユメルシェルの方が先に目を逸らした。逸らした先にはナティセルが置いた本があった。そしてその本の上にはしおりがあった。しおりには花の絵が描かれてあった。淡紅色の小さめの花が、楕円形の葉の間から伸びた茎の上に咲いている。
ユメルシェルはそのしおりを手に取った。
「これは何だ」
「その絵か? それはプリムロウズという名前の花だ。生命の星から昔採って来た花だ」
「生命の星から……」
ユメルシェルはしおりを眺めた。
「立ったままじゃ疲れるだろ。そこに椅子がある。座れよ」
ユメルシェルはしおりを持ったまま、ナティセルが指した椅子に座った。ナティセルはユメルシェルがいつまでもそのしおりを眺めているので不思議に思った。
「気に入ったのか? 良かったらユメルシェルにあげるけれど」
「いいのか?」
「そうだな……せっかくお見舞いに来てくれたんだしな……。そうだ。テーブルの上に林檎があるから、それを剥いてくれたらしおりはユメルシェルにあげよう」
ユメルシェルは林檎を手に取った。
こんな男のような女に、林檎の皮をきれいに剥くことができるのか。
ナティセルは思った。できなくても、しおりはユメルシェルにあげるつもりだった。
ユメルシェルはナティセルが思っていたよりも、ずっと上手に林檎の皮を剥いた。髪が短いせいか男のように見えるが、そうしているとちゃんと女に見えた。
ナティセルはユメルシェルを見ていた。それに気づいて、ユメルシェルが顔を上げる。
「どうした?」
「いや、別に」
ナティセルはそう言って視線を逸らした。
ユメルシェルは荷造りを始めた。
無駄な時間を過ごしてしまった。
そう思って、自然と荷物を鞄に入れる手が速くなる。
一体何なんだ、あの男は。それに俺も俺だ。どうしてたかがしおりのためにあんなことをしたんだろう。生命の星が何だというんだ。もう俺には関係ない。
「ユメ」
呼ばれて振り返る。セイウィヴァエルだ。
「やっぱりここにいた。お母様に会って聞いたの。……どうしたの、これ」
荷物の上に置いてあったしおりを手に取って、セイウィヴァエルが聞いた。
「貰ったんだ」
「ふうん。見たことのない花ね。なんて言うの?」
「プリムロウズといって、生命の星の花だそうだ。セイ、それはおまえにやる」
「え。だってこれ、ユメが誰かから貰ったんでしょう」
「いいんだ。どうせ俺は本は読まないからな」
ユメルシェルはまた荷造りを始めた。
「ユメ、そんなことしてる場合じゃないのよ。決勝戦の組み合わせを決める抽選会があるから、早く行かなきゃ」
「ああ」
ユメルシェルとセイウィヴァエルは闘技場へ向かった。
ナティセルは一人で病室にいた。声がする。
『ナティセル、具合はどうですか』
「そんなに悪くない。……俺は彼女に賭けることにした」
『ユメルシェルに、ですか? いいでしょう。ナティセル、あなたが言うのなら大丈夫でしょうから』
ホイ=ユメルシェルか。本気で俺を殺そうとしていた。それなのになぜ、ここで会ったときは少しも殺意を感じさせなかったんだろう。彼女が人を殺すのは闘技場でだけか。……それにしても、闘いのときあんないい表情になるなんて、やはり普通じゃないな。恐ろしい人だ。
ナティセルはそのまま眠りについた。
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