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ユメがナティに見せたのは、各部屋に置いてある机の引き出しの一つだった。勿論のことながら、引き出しの中には何も入っていなかったのだが、代わりに引き出しの底に、引っ掻いたように文字が刻まれていた。
『助けて』
まず始めに、そう大きく書かれてあるのが目に入る。なおよく見てみると、その文字と重なってもっと小さな字で沢山書かれてあった。
ナティは引き出しを抜き取って明かりの下に持って行った。
『銀の天使が黒い悪魔に変わるのを見た。もうここには居られない。今日この町を出よう。皆も気を付けろ。宮に行くと、悪魔の、黄金の髪を持つ仲間が皆に食事を勧めるだろう。だがそれを食べてはいけない。飲んではいけない。それを口にすれば立ち所に悪魔に取り憑かれる。だから、皆も気を付けて。僕の名前は――』
はっきり読めたのはそこまでだった。『名前は』の後は書きかけで終わっていた。二文字ほどしか書いていないのだ。それからそれらの字に重なる、ひどく暴れた字の『助けて』
「何かが、……何かがここで起こったんだ。これを書きかけて何かが起こった。だから名前も書けなかったんだ。『助けて』が他の文字よりもきつく書かれていて他の字を消しているから、これが最後に書かれたということは間違いない」
ナティが言う。
「ナティ、ここ、この『銀の天使が黒い悪魔に』っていう所」
ユメがその部分を指さして言う。
「何か思い当たる節でもあるのか?」
「分からない。だが、なぜかは分からないが、分かるんだ。この書いてある事の情景が頭に浮かぶようであって、だがはっきりとは見えない」
ユメは言って、もやのように頭の中にある情景をはっきりさせようとした。
銀、天使、黒、悪魔、……
言葉を頭の中で繰り返すうちに、瞬間、ある人物の顔が浮かんだ。ユメはそれを必死に探し直した。
そうだ、キフリの神子。
「キフリの神子だ」
ユメはナティに向かって言った。
「キフリの神子? まさか。そんな訳ないだろう」
ナティはユメが言ったことを否定する。否定しながらも、ナティもキフリの神子の姿を思い浮かべた。
銀色の切れ長の目。目尻が少し下がっているが、決して甘そうな感じは無かった。むしろ、微笑みの中にさえ冷たさを感じさせる、そんなふうな瞳を持っていた。
「ユメ、ユメの言う通りかもしれない」
一度は否定したが、ナティはそう言い換えた。
「キフリの神子は銀髪だ。それに、この文の中には宮という文字も出てくる。神子であるなら、天使と例えてもおかしくない」
「それはそうなんだが、俺にはどうしても、神子が悪魔に変わる理由が分からない」
ユメが言う。
「ユメが先に言ったんだろ。その情景が分かると」
ナティに言われて、ユメは頷く。頷いてから、ユメは首を振った。
「まるでもやが掛かっているみたいなんだ。そのことは、多分あの町の森でのこととも関係があるんだ。だが、俺には何なのか、よく分からない」
「言っている本人が分からないんじゃ仕方ないよな。俺にもどうしようもない。たがやっと分かってきた。ウィケッドとキフリの神子との関係が」
ナティは言ってから引き出しを机に戻した。
「ナティ」
部屋を出ようとするナティをユメが呼び止めた。
「あの森から帰って来て気づいたんだ。ここを怪我していた」
ユメが、右肩から少し下にずらした当たりを指して言った。
「それが?」
ナティが聞く。
「分からないのか? ここは防具で守られているはずの所だ。今でこそこんな格好だから関係ないがな。見ろ」
言って、ユメはボタンの上の方を二つほど外して、肩を露出させた。
肩の少し下、さっきユメが指した辺りから胸の方へかけて、引っ掻いたような傷があった。もうほとんど直りかけてはいるが、傷の周りが赤く腫れたようになっている。
見ろと言われて少しの間だけは見たが、その後は目のやり場に困ってナティは視線を漂わせた。
「俺がこの怪我に気づいたのは、あの森から帰って来て目覚めてすぐだ。その時は今よりもっとひどかった。あの時に比べると腫れもかなり引いているんだ」
ユメが言う。
「しかし、あれから何日立った? その傷はまだ新しいように見えるが」
ナティが言った。
「そうだ。だが確かにその時のものだ。毒が入ったように、……今でも痛い」
服を戻してボタンをもう一度かけ直す。
「今でも? そんなことが自然にあるはずがない。魔法かもしれない。カムに聞いてみないか?」
「そうだな」
軽く傷に触れてみて、ユメはそう答えた。
カムの部屋に行こうとして、誰かが泊まっているらしい部屋の前を過ぎようとしたとき、その部屋から紛れも無いカムの声が聞こえた。
ナティが先にカムの部屋の扉を叩いてみたが返事はなく、代わりに隣の部屋からカムの声は聞こえてくる。
よく分からなかったが、ユメはその部屋の扉を叩いてみた。
「どうぞ」
そう声が聞こえた。
二人が部屋に入ると、足元に転がる小物がまず目に入った。そのまま視線を上げると、カムが山となったその小物を一つ一つ見ているのが見えた。
「俺に用か? それとも……?」
声のした方を見ると、ディナイが微笑みを浮かべて立っている。ディナイは視線を二人からカムに向けた。
「おい、カム、ナティとユメが来てるぜ?」
それでやっとカムは二人の方を振り向いた。
「カム、ユメの怪我を診てやって欲しいんだ」
ナティが言う。
「そういうのはナティの方が得意なんじゃねえのか?」
カムは体ごと二人の方へ向けて言った。
「違うんだ。そういう怪我じゃない」
「怪我をしてから何日も立つのに、まだ痛むそうだ。魔法の類いかもしれないと思ってな」
ユメの後にナティが続ける。
「診てやれよ。何か分かるかもしれないぜ?」
ディナイが言う。
カムは上手く小物を避けながら入り口の方へ戻った。
「どこだ?」
聞かれてユメは、面倒臭くもあったが、まだボタンを外して傷をカムに見せた。
「これは魔法というより毒だな。ほら、ナティも知っているだろ? 傷が完治しなくなる……」
「『クチヌコ』か? だがあれはすぐに無害なものに分解される」
「そう、クチヌコだ。あれに魔法をかけているんだ」
ディナイはカムが説明するのを聞きながら、面白そうにユメの傷を見ていた。
「どうした、ディナイ?」
カムがそれに気づいて尋ねる。
「いやね、俺も同じような傷をしたから。見るか?」
言って、ディナイは手首まであった服の袖を肩までまくり上げた。
ディナイの二の腕には、ユメと同じような引っ掻き傷があった。
「どうしたんだ?」
カムが尋ねる。
「前にこの町に来たときに子供に引っ掻かれたんだ。もっとも、その時にはこんな傷じゃなかった。赤く跡が付いたぐらいのものだったんだが、後になっても痛みが治まらないのでな、もう一度見るといつの間にかこんなになっていやがった」
「ガキに?」
「ああ。一カ月以上前だな。十歳前後の男だった。何だか追われてるみたいだったから助けてやろうと思って声を掛けたら、それだけで引っ掻かれちまった」
引き出しに『助けて』と書いたのは、その子供か?
ユメとナティは顔を見合わせた。二人とも同じように思ったのだ。
「どうした、二人して?」
その様子を見たカムが尋ねるが、二人とも答えなかった。はっきりしたことではないから、あまり騒ぎ立てない方が良いのだ。
カムは、答えが返って来ないのにわざとらしく肩を竦めてみせた。
「まあ、いい。魔法を解くから」
言ってカムはユメの傷に手を翳した。
「他の奴は聞くなよ」
そう言っておいてから呪文を唱えた。
「ミヒパメワホ。――すぐには効かないと思うけど、魔法だけ解いたから。毒はすぐ消えるんだろ? なあ、ナティ」
それまで耳をふさいでいたナティは、カムにそう問われても何を言われたのかよく分からなかった。
「え?」
「毒はすぐ消えるんだろ?」
「ああ。多分な」
一度聞き返してからそう答えた。
「おい、カム、俺は?」
同じ怪我を持つディナイが自分を指して言う。
「お前は自分でやれよ。今すぐとは言わないが、暇な時にな」
カムはそう言って断った。
「ナティ、俺はもう戻る」
ナティの服を軽く引っ張って小声でそう言うと、ユメは部屋を出ようとした。
「ユメ――」
カムに礼も言わずに行こうとするユメをナティは呼び戻そうとする。
ユメは扉を開けてから振り返った。
「カム、ありがとう」
そう言ってから、ユメは部屋を出た。
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