4.恐れ
「どうした」 診察所、ソルバーユ曰く研究所に入ると、ソルバーユがいつもと同じ顰め面で聞いてきた。 「なあ、人の記憶って好きなように出し入れできるのか?」 ルカの質問に、ソルバーユは呆れ顔で答えた。 「そんなわけないだろう」 あっさりと言われて、ルカは次の言葉が出てこなかった。 「ああ、でも」 思い出したようにソルバーユが言う。 「暗示を掛けて、忘れたように思い込ませることはできるらしい」 「暗示? 忘れたように思い込ませる?」 「私の専門外だがね。君だって子どもの頃の記憶は曖昧だろうが、何も分からないかというとそうでもないだろう。ほとんどの場合は記憶が無くなっているのではなく、その記憶に辿り着けない、つまり思い出せないだけなんだよ」 「なるほど。うん。うーん?」 今一理解できない。 「例えば君が昨日会った人を全員、どこでいつどの順番で会ったかすぐに言えるか? つい昨日のことだぞ。忘れているというのは変だろう。つまりそれが、思い出せないということだ」 少しいらついた表情でソルバーユが言った。できの悪い生徒に言い聞かせる気分だろう。 「仮に、私がここで君の頭を殴ったとする。そうすれば、君の脳細胞が破壊されて本当に忘れるかもしれない」 「脳細胞?」 「細胞はひとを作っている小さな材料のようなものだと思えばいい。君は色々知りたいようだが、最初に言ったように私の専門外だ。脳についての研究はまだ発展途上だし、好きなように記憶を操作することは不可能だ」 莫迦にされているような気もするが、何しろ聞きなれない言葉ばかりでよく分からない。だが、好きなように記憶を操作することは不可能だ、ということは分かった。 「じゃあ、最初に言った暗示で忘れたように思い込ませるのは?」 「ああ、それは結構昔から使われる方法だな。人族は思考型が妖精族と違っているらしくて、少々効きにくいのだがね。どうした。何か忘れたいようなことでもあるのか」 急にソルバーユの表情が活き活きしてきたような気がする。 俺で実験するつもりだ。専門外だと言っていたくせに。 本能でそれを察知して、ルカは急いで首を横に振った。 「いや、いい、いい。俺じゃない。いや逆だ逆。忘れたいんじゃなくて、思い出させたいんだ」 ソルバーユが残念そうな顔をしたように見えた。 椅子の背もたれに体重を掛けて、ギイという音を立てている。 「暗示かどうかもわからないものを、専門外の私にどうにかできるとは思えないな。記憶を失うような暗示というのは、強いショックをきっかけに自分で掛けてしまうこともある。それを解くことが本人の為になるとは限らないぞ」 「それは確かに……」 暗示などとは考えていなかったが、イーメルが記憶を失った期間に母親が亡くなっている。それがイーメルにとって記憶を消さなければならない程の衝撃だった可能性は大いにあるのだ。 |
「話は変わるけど、今度ヴォルテス王が再婚するんだってな」 ルカとしては話を変えるつもりはなく、ずっとイーメルの記憶喪失について話しているのだが、いきなり王の前妻の死について尋ねるのはおかしいだろうと思って、今話題の王の再婚の話を振ってみる。 「ああ、人族にまで触れ回ってるのか。新しい妃は七十歳だそうだよ。娘のイーメルよりも若い母親になるな」 それは大変そうだな。 と思うが、それについて話を進めてしまっては目的と逸れる。 「王の前の奥さんが何で死んだのか、あんたは知ってるか?」 「ああ。王から直接聞いたからな。秘密を共有すれば私を引き込めるとでも思ったらしい。私も加担させられた。ルカ、君は何か知っているのか? あれは少数の者しか知らぬはずだ」 違う。ソルバーユは、ルカが知っている『王妃は狩で毒蛇に咬まれて死んだ』ことを言っているのではない。人に王の武勇伝を知らしめる為の本に書いてあるようなことが、少数しか知らぬことであるわけがないのだ。 「知っているなら白状してしまおう。イレイヤ公の妻は毒蛇に咬まれて死んだんじゃない。殺されたんだよ、夫であるイレイヤ公にね」 「え……。でも何で?」 お互いに一目見て結婚を決めたと書いてあった。さすがに一目見てというのは大げさな表現だとは思ったが、その後百年近く一緒に過ごしていたはずなのだ。仲が悪かったとは考え辛い。 「それより十年程前だったかな。私も話に聞いただけで本当かどうかは分からないがね。イレイヤ公の妻は戦争に明け暮れる夫に嫌気が差して家を出てしまったらしい。まあそれにしても、その後十年もほったらかしにしておきながら、急に妻を呼び出して殺すとはね。どうやら、チュンウとの外交の折、既婚でないと不利だと感じたらしい。チュンウでは未婚者は未熟者扱いされると言うからね。彼に必要だったのは彼女ではなく、妻が居るという事実だけだった。イレイヤ公は身勝手なエルフさ。自分を裏切った妻は殺したが、娘は既婚である証明になるからと、イーメルを連れ帰った」 聞いた話とは思えない程、ソルバーユは細かに話していた。ソルバーユの作り話でなければ、それでほぼ真実と相違ないと考えて良いだろう。 「だが、ひとは一度裏切られたと感じると、何に対しても疑心暗鬼になるものだ」 ソルバーユが机の上に置いてあった石版を手に取り、右手を翳した。 キラキラと光るのが見える。既に何かが記録されている石版を妖精族が読もうとする時、その石版が光るのがルカには見えるのだ。 「イレイヤは、イーメルが自分の本当の娘ではないのだと思い込み始めた」 懐かしそうに石版を見つめる。 「実はね、イレイヤ夫妻がまだ若かった頃にも付き合いがあったのだよ。あの頃は本当に幸せそうな夫婦だと思った。……だが、疑心暗鬼に陥ったイレイヤはイーメルの記憶を消し、カザートから追放した」 石版は、イレイヤ夫妻の子どもイーメルが誕生したことを伝えた物だった。 イレイヤがカザートの代表になり、ソルバーユは彼に呼ばれた。再会した時にこれを見せて話題にしようと引っ張り出してきたのだが、イレイヤの用事は妻の死体を掘り出し、毒蛇に咬まれて死亡したように見せかけろということだった。自分だけなら断って終わりだっただろうが、呼ばれた医者は自分だけではなかった。 分野における権威を持つものも居る。反対すれば彼らに見放されることになる。人族を不老長寿にする研究は、彼らの助力もあってのことだった。 「ソルバーユ、あんた今、イーメルの記憶を消したって……」 ルカが言う。 「ああ。私がやったのではないがね。だから私の専門外だと何度も……まさか、戻したい記憶というのはイーメルの記憶のことか」 厳しい顔でソルバーユが言った。 「そんなことをしてどうする。彼女は母親を父親に目の前で殺されたんだ。確かに、カザートから追放するというのは酷い話だったが、記憶を消すことには私も賛成した」 イーメルの記憶を戻すなと、ソルバーユは言うのだろうか。イーメルの記憶の中には、テリグラン−テリでの一部始終も入っているというのに。それさえ分かれば、イーメルがルカの姉かどうかも分かるのに。 ルカの表情が、ソルバーユの説明に納得したものではないことを察して、ソルバーユはさらに続けた。 「記憶が無いことは、彼女にとって良いことなんだ。君が一体何を考えて彼女の記憶を戻そうとしているのかは知らない。だが、君が故郷を滅ぼしたイレイヤ公を恨んでいたとしても、娘のイーメルには無関係なはずだ」 「でも、テリグラン−テリが滅ぼされたのは、イーメルが居たからだって――」 「いいか、ルカ」 ソルバーユがルカに近づいて小声で言った。 「彼女は父親に、テリグランを滅ぼす口実として使われたんだ。テリグランにあったのは単なる田舎の町で、軍事基地が置かれているわけでもなかった。だがイレイヤは戦績を伸ばしチュンウに有能だと思われる必要があった。イレイヤにとって偶然娘がそこで暮らしていたのは、そこに攻め入るのに丁度良い材料になったんだよ」 それは、ルカがずっと知りたかったことだった。なぜ自分の故郷が滅ぼされなければならなかったのか。 イーメルを取り返す為ではない。最初からテリグラン−テリを滅ぼすことが目的だったのだ。攻め入って勝利した、という事実が欲しい為だけに。 「……じゃあ結局イーメルが居なかったら、イレイヤ公はテリグラン−テリには来なかったってことじゃねえか」 もしイーメルが別の町に居たら、イレイヤはそちらの町を攻めて、テリグラン−テリは滅ぼされなかったのではないか。 「だから、どうしてそういう考えになる? イーメルも被害者だ。君は王だけでなくイーメルも殺す気か!」 「え……?」 ソルバーユの言葉に驚く。 イーメルを殺したいとは思ってもいない。町にイーメルが居たからイレイヤ公が襲ってきたのは確かだが、まだイーメルが姉かもしれない可能性が残っているのだ。ユディトを殺す気はなかった。 でも、姉ちゃんじゃなかったら? 殺したくはない。だが仇であることは間違いない。 首に下げた形見のナイフを握り締める。皆死んで、自分だけ生き残ったことをどれだけ責めただろう。この苦悩から逃れるには、仇討ちを遂げるしかないのだ。 まだ考えなくていい。姉ちゃんかどうか分かるまではこのままで。 「お姫さんを殺すかどうかなんて、俺は考えたことがない」 考えないようにしているから。 「そうか。なら良いんだが。おそらくイーメルはテリグラン−テリに居た頃の記憶も操作されているだろうが、それを弄ることは、その前の母親が死んだことも同時に思い出す可能性が高いんだ。余計なことをしようとするんじゃない。私が知っていることなら君に教えるから」 ソルバーユが言った。 |