穴の中に落ちたイーメルは、暫くしてから気付いた。
薄暗いが、イーメルの眼には近くの様子なら見えていた。
「ルカ?」
呼んでみるが、返事がない。
近くに居る様子もない。
イーメルが気を失っている間に、どこかへ行ってしまったのだろうか。
――我が名はクレイシステレス。汝の名は。
声が直接聞こえて来て、イーメルは立ち止まった。
「わらわらはカザート王女イーメル」
クレイシステレスとは、竜の剣を作った賢者の名前と同じだ。
幻聴か?
思ったが、どうやらそうではないようだ。声がまた言った。
――それは汝の真実の名ではない。名を答えよ。
「何を言うか。わらわはイーメルじゃ。それ以外の名などない」
イーメルは声から逃げるように、駆け出した。
どこかにルカが居るはずだ。
こんな所でひとりにしないでくれ。
――汝の名は?
声はイーメルを追ってきた。
「しつこい! 全て破壊するぞ!」
手を壁に向かって伸ばして、力を伝える。
壁の一部が崩れた。
――……。
何度も名を問いかけてきた声が黙った。心なしか、溜息が聞こえたような気がする。
――汝の真実の名は、汝の失われた記憶にある。
記憶? 母上が亡くなった時からの記憶のことか。わらわが何も思い出せない。その間わらわはずっとカザートに居たのではないのか?
「ユディト……? ルカが、言っていた」
姉を探していると。その姉の名がユディトだと。そしてイーメルは自分の姉ではないかと。
――ではユディト。汝は竜の剣を求めるものか。
クレイシステレスの質問がようやく変わった。
「違う」
自分はユディトなのだろうか?
クレイシステレスは真実を知っているような気がする。イーメルが忘れてしまったことも。
――ならばよかろう。我が試練に打ち勝てば、出口へ案内しよう。
「余計なお世話じゃ」
言った途端、周りの風景が変わった。
粗末な木造の家の中だった。
「姉ちゃん、俺のおもちゃどこやった?」
黒い髪の小さな男の子が、イーメルに話しかけてきた。妖精族の姿をしているが、なんとなく妖精族でないと感じる。
そなたなぞ知らぬ。
言おうとしたが、声が出なかった。
「ルカが遊んでばかりだから、子犬さんも疲れたって。ルカが母さんのお手伝いして晩御飯が終わったら、またルカと遊びに出て来るわよ」
自分の意思とは無関係に言葉が出る。
子犬さん、と自分が言った物のことは分かる。この男の子の父親が作ったブリキのおもちゃだ。母親の手伝いをせずに遊んでばかりだから、男の子のお気に入りのおもちゃを自分が部屋の隅の物の陰に隠した。
なぜそんなことを知っておる。
何も覚えていない。でも分かる。ここがどこで、家の中の住人が誰なのか。
「ユディト、ルカ」
「ほら、母さんが呼んでる。今日はルカの好きなシチューなのよ。お手伝いしなかったら、ルカの分は人参だけになっちゃうかも」
「じゃあ、手伝う」
しぶしぶとルカが歩き出した。
イーメルもその後を追った。
台所では、母親が野菜を切っていた。ルカに玉葱を渡して、皮を剥くように言っている。イーメルもルカの側で皮剥きをした。玉葱を剥くのに刃物を使うわけでもないし、危険はないだろうが念のためだ。
皮が剥けた玉葱を母親に渡すと、母親はルカの頭を撫でて言った。
「ちゃんとお手伝いしてくれたわね。偉い偉い。またお手伝いしてね」
「うん」
笑顔で頷く、ルカ。
「ユディトはもうちょっと手伝ってね」
ルカの母親は緑色の髪に、青い瞳の、綺麗な妖精族女性だ。
父親は、今はまだ仕事場から帰って来ていないが、黒髪黒眼の人族男性だった。イーメルはこの二人にとても感謝していた。
何も覚えていない。なぜ感謝していたのかも分からない。
ある日イーメルは、母親から銀色の指輪を渡された。結婚前に夫に貰ったものだという。そんな大事なものを良いのかと聞いたら、
「あなたはわたしの娘だから」
と言って微笑んだ。
平和に時が過ぎていく。
駄目じゃ。このままでは、あの日に……。
今のイーメルは知っている。このままの速度で時が進めば、すぐにあの日が来る。
テリグラン−テリが父に滅ぼされた日が。
逃げろ。
しかしイーメルの口は開かない。単に記憶をなぞっているだけなのだろうか。イーメルには何もできないのだろうか。
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