ソルバーユの研究所に着いたルカは、付近の様子がいつもと少し違うことに気付いた。具体的に何が違うのかまでは分からないが、少しだけ違う。
妖精族が居る。
研究所の周りに。普段から誰も通らないという訳ではないが、わざわざ立ち止まるような場所ではないはずだ。
ルカは首を傾げながら、研究所に入った。
入ってすぐの受付にいたトキメが、ルカに気付いて頭を下げる。それから、診察室になっている部屋の扉を少し開け、「ルカさんがいらっしゃいました」と告げた。
「どうぞ」
トキメが右手で扉を差したので、ルカは診察室に入った。
診察室には、いつものように顰め面の緑髪のエルフと、もうひとり、ここでは初めて会う顔があった。
肩に細長い胴体の小さな動物を乗せて、その輝く白い髪のエルフ女性は、ルカを見て微笑んだ。
「お姫さん」
一瞬、驚いて声が出なかった。
竜の剣を取りに行って以来だから、一月ぶりくらいだろうか。
「何でここに……」
「この子の調子が悪かったから、医者に見せに来たのだ。別にそなたに会う為にここに居たわけではない」
『この子』とイーメルが言ったのは、イーメルの肩を右へ左へと動き回っている小動物のことだった。ルカは初めて見たが、毛皮を取る為に飼おうとしていた鼬がそれだった。
ただ、この鼬はこちらの環境でも問題なく飼育できるかどうかの確認の為に持ち込まれた数匹のうちの一匹で、体も小さく弱そうだった為、イーメルが引き取ったのだった。決して、大きくなったら自分用の毛皮にしてもらおうと思って引き取ったわけでは……。
「ルカ、私には挨拶もなしか?」
椅子に座って机に肘を付いたソルバーユが言った。
「えっ、ああ、すまない。今日もよろしく」
ルカが言うと、ソルバーユは満足そうに頷いた。
「王女は待合室に居てください。今トキメが鼬にあげる薬を用意していますので」
ソルバーユが言う。
イーメルは「分かった」と言って診察室から出て行った。
「今日は王女が来ていて、君も見ただろうが、外には警護の兵士がうろついている。今日は他の人たちも早々に引き上げてもらったよ。王女が何で居座るのかは、まあ理解はしているつもりだがね」
言いながら、ソルバーユがルカの手のひらに文字を書いた。
北の地で立ち往生している前線部隊に補給する為に中隊が出発する、正確な日取りだ。
丸二ヶ月もある。三日前の話では、来月中ということだったが。
「こうも妖精族が多くては、あまり込み入った話はできない。誰がどこで聞き耳を立てているか分からんのでね」
ルカが思い浮かべた疑問に答えるかのように、ソルバーユが言った。
「どうした? 目が赤いぞ。疲れているのならまずは十分な睡眠を取るべきだ」
急にソルバーユが言った。今までの会話と全く違う話。
また何か謎かけのような問答になっているのかと思ったが、そうではなさそうだ。
「いや、疲れているわけじゃない。ただ、今朝、友達の訃報を聞いたばかりで」
サラはマギーと同じくらいの年齢だった。まだ子どもだったのに。
「そうか。今朝と言うと、あの話だな。ラグイハクア子爵の奴隷の一家が殺されたという。あの家族に、君の友達が居たのか」
そんな名前なのか。
オーヴィアは一家の主人の名前を言おうとしなかった。ルカやセイロンは知る必要がない、ということだろう。
「正確には、まだ家族じゃなかった。婚約して、一緒に暮らし始めたばかりだったんだ」
これから、幸せになるはずだったのに。
あまりサラと交流がなかった自分でも、これ程辛いのだ。ずっと仲良くしていたマギーや、サラを好いていたセイロンの気持ちは、ルカにも計り知ることはできない。
「なあ、やっぱり誰も裁けないのか? その家族を殺した奴を」
「難しいな。持ち主であるラグイハクア子爵が訴えを起こさぬ限り保安隊も動けないし、今の所、訴えを起こしたという話も聞かない」
妖精族の貴族は気位が高く、自分の持ち物を奪われたらすぐに訴えを起こす。それは奴隷に対しても同じだ。だが、自分で自分の持ち物を壊した場合は気にしないし、奪った相手の階級が自分より上なら、勝ち目がないからと訴えを起こさない場合もある。
「そうか」
仕方がないことだ。今の所は。
早くこの国を、もっと住み易い世界に変えたい。幼い頃にルカが失った、妖精族も人族も、半妖精族も、同じ立場で共に暮らせる世界に。
診察室の扉が少し開いて、トキメが顔を見せた。
「先生、ローシュ様の使いの方がいらっしゃってます」
「使い? 本人ではなく、か? 珍しいな」
ソルバーユが言って席を立った。
「待ってろ」
ルカに言うと、ソルバーユは診察室から出て行った。
暫くして戻ってきたソルバーユは、鞄に机の上にあったいくつかの道具を詰め込み、ルカを見た。
「出かけなければならなくなった。後はトキメに任せる。この奥の部屋は入院患者用の部屋だが、今は誰も使っていないから、時間があるならそこで待っていてくれ。なるべく早く戻る。無理そうなら帰っても良いが、明日から私も暫くカザートを離れるから」
早口に言って、一瞬診察室の扉を見、またルカを見た。
「王女が居ると色々面倒だ。どうせ君に話があるのだろう。さっきも言ったが奥の部屋を使っていいから、王女の用事を聞いてさっさと帰ってもらえ」
半分怒るような口調で捲し立て、ソルバーユは鞄を掴んで部屋から出て行った。
開いたままの扉の向こうから、「行ってらっしゃいませ」というトキメの声が聞こえてくる。
その扉から、イーメルが鼬と一緒に顔を出した。その後ろからトキメが来て、イーメルとルカを奥の部屋に案内した。
「ごめんなさいね。先生が回診なさっているお家の子牛の容態が急に悪化したらしくて、どうしても行かなければならないのです。今お茶をお持ちしますね」
そう言って部屋を出る。
入院患者用の部屋だと言っていたが、白いシーツが掛かった寝台が二つ並んでいて、小さなサイドテーブルが寝台の側にそれぞれ置いてある、殺風景な部屋だった。
そもそも、ソルバーユの主な診察対象は家畜であって人間ではない。入院患者用の部屋など必要ないはずで、使われていないのも当たり前だった。
部屋に置いてあった丸椅子にそれぞれ腰掛けて、ルカとイーメルはトキメがお茶を持ってくるのを静かに待った。
いや、何か話そうと思ったのだが、ルカは何も言い出せなかった。
鼬がイーメルの肩や膝を自由自在に歩き回っている。時折地面に向かって降りようとするから、イーメルががっちりと掴んで肩に戻す。
それを見ているだけでも面白い。
「お待たせしました」
トキメが来て、サイドテーブルを二人の間に引っ張って、そこにお茶を乗せた。
「どうぞ、ごゆっくり」
普通に客が来た時のような調子で、トキメが言って部屋を出て行く。
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