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あのサイコ・スリラーの元祖『羊たちの沈黙』の11年ぶりの続編。『レッドドラゴン』に始まる三部作の掉尾を飾るにふさわしいエンターテインメント。もし前2作をお読みでないなら、『レッド・・』はともかく『羊・・』は読んでから本作を読む方がよろしかろう。
前作のヒロイン、美貌の女FBI捜査官クラリス・スターリングもすでに32歳。影の主人公「稀代の食人鬼」天才ハンニバル・レクター博士もますます健在。前作では彼女に連続殺人犯逮捕の示唆を与えながら、それを利用してまんまと逃亡。現在もFBIの捜査の手を逃れて悠々優雅な日常をおくっている。しかしかつての彼の犠牲者で、異形の姿となった大富豪メイスンの復讐の手がレクター博士に着実に迫ってくる。博士を追うクラリスもFBI官僚組織の権力争いになじめず孤立無援のピンチに陥っていた。陰謀・逃亡・追跡・逆転・・・・ストーリー展開はさすがにサスペンスフルで読み手を飽きさせない
面白い小説のつねとして、脇役にいたるまで人物造形に工夫がある。レクターやメイスン、メイスンの妹でマッチョな同性愛者マーゴ、メイスンに雇われる誘拐専門業者カルロ、レクターの元看護人で「世界中の全てのフェルメールを見る」のが夢のバーニー。エキセントリックな登場人物ほど魅力的に感じられる文章のマジック。チャーミングな大悪人たちに比べて、FBI内部で権謀術数に明け暮れる俗物たちが一番生きる価値のない悪役に思えてくる。
前作では「謎の天才犯罪者」だったレクター博士。今回は彼の秘密のかなりの部分があきらかにされる。趣味嗜好、経済基盤、生い立ち、果てはトラウマまで。なんと大画家バルチュス(エロティックな少女の絵で有名)が博士のいとこだったとは?!
博士のパーソナリティが明瞭にされた分、逆に印象が卑小化されたことは否めない。その点から本作が前作の『羊たち・・』より落ちるとする声も多いようだ(怖くないレクターなんて!)。しかし、本作の面白さはミステリー的な部分より博士の全体像を描くディテールにこそあると私には思える。むしろ、その点では物足りないくらいで、もし更に続編があるのなら(ないだろうけど)もっとネチネチと書き込んでもらいたいものだ。
本作の映画化にあたりジョディ・フォスターは「羊たちの沈黙」で演じたスターリング役を辞退したらしいが、もったいない。辞退の理由は「クラリスがあまりにも恐ろしく、自分が本来演じた主人公と同じではない」そうだが、そんなおぞましいイメージには書かれてないけどね。彼女の倫理感のなにかに抵触したのだろうか。まさか乳房を出す(重要な)シーンを回避したかったからではないだろね?それとも女同性愛者の書き方が気に入らなかった?<邪推邪推。
ラストでのクラリスの変貌ぶりを演じるのは女優冥利につきると思うがなあ。
戦国時代世界有数の鉄砲生産利用国だった日本が、江戸時代に鉄砲を放棄ししかも文明が遅滞したわけでもなかった。そこに世界の核兵器廃棄の可能性を思う元米国軍人の作者。気恥ずかしくなるぐらい日本を持ち上げてくれる。ただし現代の日本ではなく明治維新以前の日本をだが。
捜査側より犯人役悪役の設定が面白い。なんといっても「吸血鬼」なのだ。犠牲者を逆さ吊りにして、特殊な機具で血を抜いて死にいたらしめ、犯行を偽装するために死体をバラバラにする。家の冷蔵庫には血を整然と保存し、飲用に浴用に堪能する。吸血にいたる性格描写、肉体的心理的要因もリアリティがある。この現代のノスフェラトゥの魔の手は自分を追いかけるジェシカ・コランに向かっていく。
キャラクターというストーリー運びといい、『羊たちの沈黙』の影響は否めないなあ。とてもあちらには及ばないが、映画的サスペンスはなかなかで、エンターテインメントとしては十分に楽しめる。及第点でしょう。
「女検死官」と言えば、コーンウエルの「検屍官」シリーズも思い出すが、あちらのスカーペッタはシカゴの局長、こちらもFBIの主任クラス。どちらも専門技能はもちろん抜群だがジェシカ・コランのキャラクターはスカーペッタよりさらに派手でである。「輝くばかりの美女ばかりの中でもずばぬけて目立つ」美貌で、銃は「百発百中」、その上関節を外して縄抜けもできるというスーパーウーマンぶりである。そのくせ男の保護欲を刺激するような気の弱いとこもあるのは、ちょっとずるいし、リアリティに欠ける感じもする。
射撃の名手のわりにたいした銃撃戦があるわけでもないのは拍子抜けだが、これはシリーズ化された続編で生かされるのかもしれない。
数えてみると再々々読了だった。THE BEST OF MY BOOKS.
読むたびに感動がよみがえると言うと、陳腐な表現で書くのに気がひけるのだが、むしろ、前回気づかなかった言葉の意味や登場人物の心理や構成の妙に気付いて新しい感動を覚えると言った方がいい。やはりドストエフスキーは深いよ。
金のため金貸しの老婆を殺す主人公ラスコリニコフの心理描写など、少年犯罪が社会問題になっている現在、読むと、そのリアリティに慄然とする。別に『罪と罰』が新しいというわけではなく、昔も今も変わらぬ人間の普遍的な恐怖や憎悪を触発する力を持っている小説なのだろう。
ミステリーとして読んでも、すっとぼけた検事ポルフィーリーが思わせぶりな言動で主人公を追い詰めていく遣り口は、コロンボや古畑任三郎を彷彿とさせて、ルーツはここだったのか、と思わせる。ラスコリニコフとポルフィーリーの対決場面の心理的緊迫感・迫力は言わずもがなだ。
ロマンスとしても、ラストのラスコリニコフと聖なる娼婦ソーニャの愛のシーンは泣かせます。広い意味のハッピーエンドなのも、何度も読んでしまう理由の一つなのだと思う。
現代のラスコリニコフ=殺人少年たちは「自分のソーニャ」と出会うことができるのだろうか。
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仕事で日本橋に行ったので、帰りに久しぶりに丸善による。本買いたい病発病、『罪と罰』の別の訳者のまで買いたくなったが、さすがにこれは何年後かの楽しみにとっておくことにして我慢する。
日本刀神話は虚構だった、という本。
戦国時代からこっち、日本の戦争(いくさ)というと白刃を振りかざしての白兵戦、というイメージがあるが、本当は鎌倉以前の昔から主武器は「弓矢」であった。たしかに武士のたしなみは「弓馬の道」というものなあ。
鉄砲が登場してからはもちろん鉄砲。他にも石を投げたり落としたり、接近戦を嫌う徹底した「遠戦志向」である。これは日本に限らず諸外国の歴史を見ても共通していることであり、白兵戦を尊ぶ中世ヨーロッパの騎士文化のみ特殊な例らしい。
やむを得ず接近してしまった場合も主武器は槍や薙刀などの「長物」であって、刀の主たる役割は倒した敵の首を取る「首取り」である。では、なぜ危険を伴う「首取り」などという行為をわざわざしたのか。「遠戦志向」と矛盾するではないか。
これはもう「手柄の証明」以外の何ものでもない。恩賞を与える側も、どのような場合のどのような働き=功名のランキングが家(織田家とか武田家とか)ごとにきっちりと決まっていたらしい。「首取り」もとった首のランクはもちろん、最初に取った首は「一番首」として賞揚された。
さすがに実力主義実績主義の戦国時代。能力主義をうたいながら評価の基準がきちんと公開されないことの多い現代日本の企業や官庁より、ずっと合理的である。当たり前といえば当たり前で、このへんを明確にして部下に仕事にはげんでもらわねば、戦国時代の敗北は死に直結する。せいぜいが倒産・失業程度の現代とは真剣味が違うことは疑いようもない。
逆に言えば賞罰を決めておかないと、誰も危険な接近戦は嫌がって真剣に相手を倒そうとしなかったということだろう。だからこそ誰もが躊躇する戦闘の口火を切る「一番鑓(やり)」や、敗走の際の最後尾の守り「殿(しんがり)」が功名でも最上位とされたのであろう。誰でも命は惜しいやね。
これは戦国時代に限らず幕末でも同じで、一時復活した刀剣優位もすぐ銃砲優位に変わる。人斬りのプロである新選組の土方歳三でさえ「これからは槍や刀ではだめだ。鉄砲にはかなわない」と言っている。それがなぜか第二次世界大戦に至って世界でただ日本陸軍のみが日本刀を実用兵器と思っていたらしい。勝てるわけない。
著者は防衛庁勤務経験を持つ在野の研究者。やはり歴史常識を破壊する『鉄砲と日本人』(洋泉社)も面白い。
「ドリトル先生」と聞いて心ときめく人は、ある年齢以上では結構多いのではないだろうか。
イギリス(のちにアメリカ)の作家ヒュー・ロフティングの書いた「動物と会話できるお医者さんのファンタジー」である。日本では岩波書店が出している井伏鱒二の名訳全12巻がポピュラーだ。
著者の南條竹則は『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞を取っている作家で、マッケンなどを訳している英文学者。私と年齢も近いが、あとがきを読むと(浅草や千束が出てくるので)生まれ育った所も似通っていそうだ。子供の時に読んだ本も『シートン動物記』『ファーブル昆虫記』『ケストナーの諸作』と思わずうなづいてしまいそうなラインナップだし、とりわけ「ドリトル」に熱中したというのも、風邪を引いて熱があるのに寝床で読みふけったというのも、私には共通する思い出である。
その初恋のような書を大人になった今再読して、記憶の底からよみがえらせた昔感じた面白さ、新たに発見したかつて気づかなかった細部や隠された意味、それらを嬉々として書いたのだから、同好の士が読んでつまらないはずがない。
もちろん「ドリトル」を読んだことがない人にも読めるように内容の紹介にも気を配ってはいるが、基本的には「ドリトル先生シリーズ」の愛読者のための書だ。
博物学者としてのドリトル先生。進化論との関係。興行師としての先生。ドリトル先生と女性(!)。
愉しいのはドリトル先生の食卓に関しての章。そう、アヒルのダブダブが取り仕切るあの台所である。ブタのガブガブの大好きな「オランダボウフウ」や「アブラミのお菓子」などという謎の食物の正体もあかされる。
本書の白眉は「ドリトル先生と階級社会」の章である。かつて日本で「小説中の黒人の描写が差別的なのでドリトルは子供に読ますな」などという人々がいたが、そんな浅薄きわまりない論旨ではもちろんない。イギリスは名だたる階級社会。その中で上流階級出身であるドリトル先生がどんな階級意識を持って描写されているか、先生以外の登場人物たちや動物たちはどんな階級意識を持っているのか。この章だけでも一読の価値がある。
「ドリトル先生」は作者ロフティングが第一次世界大戦に従軍したとき、離れ離れの子供たちのために書き送った童話がきっかけとなって生まれた。戦後出版されると人気を呼び営々12冊も書きつがれることになる。最初のSF専門誌「アメージング・ストーリーズ」の創刊の翌年から『ドリトル先生月へ行く』のシリーズが始まっているなどと知ると不思議な気分になる。
最後にして最大の長編『秘密の湖』が出版されたのは1948年。書き終えたロフティングは刊行時にはすでに亡くなっていたが、皮肉にも第一次世界大戦がきっかけで生まれた「ドリトル先生」は次の大戦のさなかに幕を閉じることになった。著者(南條氏)は次の言葉で本書を終える。
ロフティングは国際平和と動物へのいたわりを終生説きつづけたが、人類は一度の大戦争に懲りず、やがてもっと大きな戦争を始めた。ロフティングの晩年の心はきっと苦渋に満ちていたろう。彼は時々、ドリトル先生が今ここにいたらどうするだろうと考えて自分を励まさなかっただろうか――たとえ、それが自分のつくりだした人物であっても。
著者や「山藤塾」の特待生の作品が、ただそっくりなだけの「似顔絵ならぬ肖像画」とは全然違うものなのはわかるが、それが「物真似芸」との比較で語られているのが、実にわかりやすい説明であった。
たしかにコロッケや関根勤の物真似は単に「そっくり〜♪」というのとは違う、「創造」と「発見」を感じる。オリジナルに近いほどいい作品であるのなら、写真やテレコにはかなわんものね。
今月は何と言っても、小林泰三。
小林泰三は「パラサイト・イブ」が日本ホラー小説大賞を長編部門で受賞したとき、短編部門を表題作で受賞している。長編と短編の違いがあるにしても、はっきり言ってパラサイト・・より数段面白い。バーカー的神話的想像力とSF的超論理性思弁性を合わせ持つ不思議な作風である。
表題作は玩具でもペットでもなんでも直す不思議な「修理者」に、傷ついた自分の顔と死んだ弟を「修理」してもらった姉弟の物語だ。生物非生物をめぐる姉弟の対話の論理性思弁性も面白いが、修理者が猫や弟を修理するシーンの色鮮やかなグロティスクな美しさが圧巻である。
「酔歩する男」は論理性全開の、題名通り酩酊感をさそうような時間SF。
第二短編集。玄人の間では「本」の評判が高いが、私の好みは「玩具修理者」に通じるグロティスク風味の表題作だ。
パッチワーク・ガール。そう。わたしは継ぎはぎ娘。その傷痕の下には私のものではない臓器が埋められている。
第三短編集。表題作はジュラシック・パーク的アイデアによる正統派怪物ホラー。「妻への三通の告白」「獣の記憶」はトリッキーなミステリー。こんなのも書けるのだね。
特筆すべきは「ジャンク」だ。読んだ中では小林泰三の最高傑作。「西部劇をモチーフにゾンビの世界を描いた」と惹句にはあるが、それだけでは言い尽くせない不思議な小説。ラストの一行に描かれた情景の美しさはなんとも言えない。
「よしの冊子」という松平定信時代の資料集を元に、260年に及ぶ徳川幕府を支えた行政組織とそこで働く役人たちの世界をさぐる本。元になった資料は信頼性に色々疑問符がつくようだが、著者はその点に正直に言及し傍証を挙げ推理をたくましくする。
優秀なところ駄目なところ保守的なところ革新的なところ、いかに現代の役人世界(よく知らないけど)と似ていることか。違うところももちろんある。家格の違いなんてものはなくなった(のかな?)が、天下りなんてものができた。その他の違いは本書を読んでもらうとこととして、明治政府が江戸官僚機構の「良い部分」をうまく継承できたかについて著者は疑問を呈する。江戸幕府がもう少し続いていたら「能力主義」がもっと発展したかもしれない、という著者の指摘は面白い。
著者によれば世に蔓延する社会調査(世論調査など)の大半はゴミであるそうな。その典型的な例が序文に紹介されている。
1991年にロサンゼルス・タイムズが全米で行った「健在の4人の元大統領のうちだれを支持するか」という世論調査で、カーター35%、レーガン22%、ニクソン20%、フォード10%という結果が出た。
この調査結果は全米の市民の意識を正しく表わしているだろうか。
実はこの4人のうちカーターだけが民主党で、他の三人は共和党である。全米で二大政党の支持率が伯仲している以上、共和党の三人の票は割れ、カーターが一位になるのは調査する前から分かっていた。
戦前の「大本営発表」のインチキさは今となっては誰でもわかるが、いかにも公正に見える「社会調査」の危うさはわかりにくい。しかも意図せず結果としてゴミになってしまう場合もあるだけに始末が悪い。著者はゴミを作りださずゴミにだまされない能力を「リサーチ・リテラシー」と呼び、その方法を細かく説いていく。辛辣、露悪的な筆致は抵抗を感じる向きもあるだろう(実は私も感じた)。しかし、ネットでもマスコミでも情報の海から正しい情報を選択する大切さは声高に語られるが、その具体的な方法のきちんとした説明にはとんとお目にかかれない。本書の内容が、その情報を選択する(効果的な)方法の一つであることは間違いない。
エロティックモダンホラー・アンソロジー「震える血」のシリーズ。 しかし、エロティックモダンホラーというよりむしろ、「エロバカホラー」といった方がふさわしい。なかでもリチャード・レイモンの「浴槽(バスタブ)」がエログロ度ラストの衝撃度ダントツ。これだけを立ち読みするのが正解かも。
「バレ句」は「破れ句」。一般的にエロティックな川柳、卑猥な川柳、艶笑句を指す。古川柳でもっとも有名な「末摘花(すえつむはな)」も含み、江戸時代全体でバレ句として残っているのは一万句近くあるらしいが、本書には約650句が収録されている。ひと読みしただけではどこが卑猥なのかわからない句も多い。表現そのものが韜晦されているし、当時の風俗を知らないせいでもある。
その中からわかりやすくて卑猥度の低いのをいくつかを紹介してみよう。
蒲焼きの謎を亭主は晩に解き (鰻は昔も今も精がつく)
御背中へかかとを上げて御意に入り (御意に入り=殿に寵愛される)
行灯を震える息でそっと消し (初夜)
たあれにも言いなさんなと数珠を置き (なびかんとする後家)
口説くうち倅落涙つかまつり (ご馳走を前によだれを垂らす)
夜っぴとへ胸で屁をひる仲のよさ (胸と胸の間から空気が漏れる)
最後に美女の胸を内を想像した絶品の一句。
おれをしたかろうと思ふいい女 (江戸時代は女性もおれを使った)
「ゼウスガーデン衰亡史」「小説伝」などの傑作の著者で俳人としても名高く、博覧強記ぶりは柳瀬尚樹も一目おく才人、小林恭二の秀抜な歌舞伎論。もちろんこの著者の歌舞伎案内だから、一筋縄ではいかない。
現代の典型的な若者(フリーターの少年と銀行のOL)を連れて幕末にタイムスリップし、江戸の芝居小屋へ招待しようという趣向。二人のファッションを選ぶところから始まって、舟で両国へ乗りつけ盛り場をぶらつき、たっぷりと時代の雰囲気になじんだところで、河竹黙阿弥の運命悲劇「三人吉三(さんにんきちざ)」をじっくりと鑑賞することになる。名科白「月も朧に白魚の・・」で有名なこの芝居、盗み、殺人、近親相姦、同性愛と、犯罪アンモラルてんこもりの、まさしく幕末に咲いた悪の華である。
本書がちまたの江戸本と一線を画すところは、江戸フリークでない人を対象に、しかもレベルを下げずに江戸を紹介しようという姿勢だろう。江戸のどこが現代と共通し、どこが違うのか。若者二人と歌舞伎見物しながらそれがわかってくる仕組みになっている。最後にはタイトルの意味が判然とする仕掛けがあるのでお楽しみ。
中国文学というと「三国志」「水滸伝」といった英雄譚、「西遊記」「封神演義」「平妖伝」などの妖怪譚を連想するし、たしかにどれも面白い。
本書で紹介されるのは、もっと時代を下った16〜17世紀、明代末、あの「金瓶梅」の20年ほど後輩の小説群である。荒唐無稽さがなくなった分、近代小説としてリアリティ、ストーリーの面白さをそなえ、江戸時代の日本でもさかんに読まれたらしい。
紹介されるストーリーは、復讐譚、出世物語、殺人、不倫、暗号、妖怪など多彩で、土曜ワイドドラマ的猥雑さにあふれ、いかにも面白そうである。
しかしいざ読もうとすると翻訳本は簡単には手に入れられそうもないのが、ご馳走の匂いだけ嗅がされたようで口惜しい。ひまができたら大きな図書館でも行ってみるか。
著者は気鋭の中国文学者。文章も論理も巧みで読みやすいが、フーコーやバタイユなどの西洋の小説理論の頻繁な挿入・引用は、解説者が褒めあげているほど成功しているとは思えない。著者自身の言葉だけで十分なように思える。
自意識を持ったスーパーコンピュータがやったことは、なんと「ストーカー」、しかも悪質なやつ。一人暮らしの美女の家のセキュリティシステムを支配して彼女の自由を奪い、自分の子供を産ませようと迫る。
サイコなコンピュータの独白体が無気味な「完全版」の方が「文学的」面白さは上。旧版はSFガジェット満載、定番的お色気シーンありでB級的面白さならこちらが上。「金属製触手がペニスと化して美女を襲う」というのは日本のエロゲーが発祥かと思ってたけど、こちらが先だった。
ホラーSFアンソロジー。表題作のレビュー→影が行く
オールディス、クーンツ、ディック、ゼラズニイとビックネームが並ぶ中、あの「虎よ!虎よ!」のアルフレド・ベスターの「ごきげん目盛り」が掘り出し物。サイコなアンドロイドのサイコな話。
20世紀最後のオリンピックが行われた国オーストラリアは、言わずと知れた有袋類の国だが、乾燥地帯であるがゆえに砂地が多く、アリジゴクの王国でもあるらしい。
ウスバカゲロウの幼虫であるところのあのグロティスクなアリジゴクが、どのようにしてすり鉢状の巣を作るように進化したのか。
著者が巣造りについての自説の実証を求めて訪れたオーストラリアでの研究滞在記が面白い。五輪中継や観光案内とは一味も二味も違ったオセアニア大陸の自然風土を紹介してくれる。
多数掲載されているアリジゴクの拡大写真は実に無気味である。来世で蟻に生まれ変わったとしたら、こんな奴に食い殺されるのだけは勘弁願いたい。
しかし本書にはさらにアリジゴクを上まわる正に蟻の悪夢ともいうべき怪物が登場する。アリジゴクと同様な巣を作って蟻を捕食する蛆虫、アナアブである。どれほど無気味かは本書の「砂の魔術師」の章を読んで確かめていただきたい。