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読書日記 1999

今年も1年間、あだし事を書き連ねてきたわけですが、本など読んでる場合かというようなトンデモナイ事件は頻発し、日本では奇っ怪な宗教を信ずる輩続出し、米国では進化論もビッグバンも「聖書に反するから」教えられない州もあるという。

結局、本ぐらいは読まなくちゃなあという気分に逆戻り。

てなわけで、来年も怪物領域を御贔屓に。m(_ _)m

極私的年間ベスト10【1999/1998】

大体、1年で50冊程度しか読んでないのにベスト10など選んで何の意味があるのだろうか。

しかも、どんなベストセラーも文庫になるのを待ってから読む、という貧乏くさい私が選ぶのだから、タイムリーなのはほとんどない

さらに、「私が面白かったと思った」というだけが基準なので、小説だろうがノンフィクションだろうがごちゃまぜである。

誰の役にも立たないことだけは断言できる

しかし、書きたいから書いてしまうのである(ま、いつものことだけど)

まずは1999年(に私が読んだ本)のベスト10

  1. 三つの小さな王国  スティーブン・ミルハウザー(白水社
  2. OUT  桐野夏生(講談社)
  3. 蒲生邸事件  宮部みゆき(光文社カッパブックス)
  4. 魍魎の匣  京極夏彦(光文社文庫)
  5. 永遠の仔  天童荒太(幻冬舎)
  6. スタープレックス  ロバート・J・ソウヤー(早川文庫)
  7. 魔性の子  小野不由美(新潮文庫)
  8. 清水義範の作文教室  清水義範(早川文庫)
  9. 日本語練習帳  大野晋(岩波新書)
  10. レベッカ・ポールソンのお告げ  (文春文庫)

続いて1998年(に私が読んだ本)のベスト10も挙げちまおう

  1. 千日の瑠璃  丸山健二(文春文庫)
  2. ブラインドウォッチメーカー  リチャード・ドーキンス(早川書房)
  3. 幻色江戸ごよみ  宮部みゆき(新潮文庫)
  4. 室町少年倶楽部  山田風太郎(文春文庫)
  5. 乾し草小屋の恋  D.H.ロレンス(福武文庫)
  6. 波多町  内海隆一郎(集英社文庫)
  7. 黒い家  貴志祐介(角川書店)
  8. 荒野論  小林恭二(福武文庫)
  9. 十二神将変  塚本邦雄(河出文庫)
  10. 盗聴された情事  エド・マクベイン(新潮文庫)

番外というか別格というか

西遊記1〜10  中野美代子(岩波文庫)

●1999年も1998年も順番は気分なので特に意味はない。

ただしどちらもベスト1は不動である。

1999年12月

「日本語相談」  大野晋 (朝日文庫)

我らが日々使う日本語への疑問の数々。

なぜ古文などを学ぶのか?

なぜ「どこ『え』」と書かないか?

「大きなお世話」と「大変お世話に」の違い。

なぜ「甲」でなく「乙な味」なのか。

「いいじゃない」はほめ言葉?
・・・・等々。なんでそんな事気にするんだろう?

例えば、パソコン使っている人ならもっとうまく正しく深く使いたいと思うのは自然だろう。PCの未来は?などとも考えてしまう。日本語を使ってる人も同じように思うのこそ自然なのだなと思い至る。

巻末の日本語の起源に関する座談会は面白い。日本語はどこから来たのだろう?

「旅人国定龍次(上下)」  山田風太郎 (廣済堂文庫)

珠玉の明治小説を書いてきた作者が、明治直前の幕末を舞台に描く国定忠次の息子の破天荒の物語。国定龍次はもちろん架空の人物だが、彼を狂言回しとして幕末を彩る人物が次々と現れる。

前半はおなじみの侠客たち、すなわち大前田の英五郎、新門辰五郎、黒駒の勝蔵、清水の次郎長。彼らを相手に胸のすく大暴れをする龍次。父親の形見の妖刀、小松五郎義兼が数え切れない血を流す。

天衣無縫な龍次もやがて幕末という時代の流れに呑み込まれてゆく。龍次の出会う「維新の英雄」たち。天狗党、坂本竜馬、西郷隆盛、岩倉具視。彼らが龍次にもたらした運命は?

「邪眼鳥」  筒井康隆 (新潮文庫)

この作者には似合わない言葉かもしれないけど、読んで浮かんだ言葉は「円熟」。「虚人たち」から続く言語実験も、言語マジックと言いたくなるくらい精妙絶妙。現実と虚構、現代と未来がなめらかに混じり合い、自在につながり配置されて再構成された物語が読者に提示される。

これほど先進的でもエンターテインメントとしての面白さはちゃんと外してない。

ただし、短いせいか物足りない感じも否めない。「RPG試案-夫婦遍歴」併録。

1999年11月

「大江戸死体考」  氏家幹人 (平凡社新書)

ライフスペース=どこから見ても聞いてもインチキきわまりない「教祖」の虚言を信じて、自分の父親の死体を死体と認められない「現代人」。死が非日常であって、死体を見ることなど滅多にない、そんな時代はここ数十年のことでしかないのを、本書を読んで思い知らされる。

江戸時代、特に初期の江戸には、本当にそこら中に死体がごろごろしてたようだ。水死体などは多すぎて、竿でつきはなしてもう一度沖に流してしまってもいい、ということになっていたらしい。一般の人の日記にも、今日は獄門首や処刑を見物に行きその帰りにどこそこで食事をした、などいう記述がごく普通に見られる。

そんな、死体が日常だった江戸も、ひとくくりに「江戸」ではないのが面白いところだ。戦国の遺風残る初期の江戸から時代が下り、天下泰平な中期以降では、藩の中で処刑を行う必要が生じても、「斬れる」人間が払底し「外注」するしかないという藩も多かったらしい。

その注文を一手に引き受けたのが、「人斬り」浅衛門の弟子たち。本書の後半は「首斬り朝」山田浅衛門についてなのだが、公儀の刀剣お試しを代々承わる浪人山田家の、もう一つの稼業は薬の製造卸。ただの薬ではなく、死体から取り出した肝を加工したという代物なのだが、決して闇で流通していたわけではなく(高価ではあったが)正規の薬種問屋に卸され市販され珍重されていたと聞くと、さすがに驚く。

そんな時代だったら、地獄極楽の話はできても、死体を死体でないなどと言い張れるわけがないのだろうなあ。

著者は「武士道とエロス」など、なかなか刺激的で面白い題材をテーマに書いてくれる歴史学者。

「いくたびもDIARY」  筒井康隆 (中公文庫)

作者の「断筆宣言」直前の日記。ただし純然たる日記ではなく雑誌に連載したもの。

読書案内として最高。

すごい仕事量。特に世界から文字が消えて行くという超トリッキーな小説、あの「残像に口笛」を執筆中なのに、まあ他の仕事もし雑用もこなし、合間に奥さんとデートして食う食う。愛妻家の面目躍如たる超絶的日常。

「魍魎の匣」  京極夏彦 (光文社)

言うことはない。面白い。幻想と現実のめくるめく交錯。クリアな解決。

ネタバレになるので詳述できないが、ラストであきらかになる情景のグロティスクな美しさは特筆もの。乱歩の「押し絵と旅する男」を連想してしまった、と言えば読んだ方はニヤリとするかも。

文庫版でも厚み4cm、千頁を軽く超える長大な物語を一気に読ませるのは文章の巧さももちろんだけど、語り手の視点が複数の人物に移動していく変化が、読み手を飽きさせないということも大きいのだろう。ただし主人公たる「京極堂」の視点には絶対ならない。名探偵役だから当たり前なのだけど、そんなことが気になるのは、私が最近ほとんど「本格推理」を読んでいないからだな。

蛇足だけど「京極堂」というネーミングには、山田風太郎の「笑い陰陽師」の主人公「果心堂」を連想してしまう。両方陰陽師だし、余計なことに関心を示して蘊蓄を傾けるのが好きなとこなど。影響を受けたとまでは思わないが。

「日本語練習帳」  大野晋 (岩波新書)

ベストセラーなので私が紹介するまでもないけれど、私にとっては、読んでよかったと素直に思う。続けて同じ作者の「日本語相談」シリーズも読みだしたくらい刺激的だった。

決して「正しい日本語はこうだ」とか「美しい日本語はどうである」とかいう本ではない。私(たち)が「考える」のに使っている日本語というものを、より正確により精密に使うためのノウハウ満載!などというと軽すぎてちょっと違うけど、日頃意識せずに使ってる日本語がどうできてるのか、というのを「科学的」に解説してくれる。・・・・というのもちょっとちがうな、紹介が難しいけど、日本語を使う人なら読んで損をすることはない、と断言してもいいでしょう。

1999年10月

「むずかしい愛」  柴田元幸編 (朝日新聞社)

本を選ぶのは難しい。時間もお金も無駄にしないため頭を絞り勘を働かせるわけだけど、翻訳書の場合、訳者で選ぶというのもなかなか悪くない手段だ。

三つの小さな王国」を読んで以来信頼している柴田元幸が選んだ「過激な」愛の小説集。

二人がより一層依存しあうために男が眼をつぶし女が耳を焼くカップルの話。想像力だけで理想の恋人を「完全に」作り上げる男。等々。不倫や変態が過激だと思ったら大間違いだと思い知らされる一冊。深すぎる愛の話はあっても興味本位やグロテスクなのは、もちろん一編もない。

「レベッカ・ポールソンのお告げ」   (文春文庫)

スティーブン・キング他のホラーアンソロジー。

副題「13の恐怖とエロスの物語」。恐怖と官能が感覚的に近いのはたしかで、その観点からのツボを押さえた短編ぞろいで面白くないわけがない・・はずだけど、逆に根源的な感覚だけに、善し悪しとは別の「好み」が露骨に出るかもしれない。

私の好みは、官能的で醜悪な獣人と彼を受け入れる女の性が怖い「山に戻った虎男」(T.L.パーキンソン)。グロさエロさ幻想味抜群の「ジャクリーン・エス」(クライブ・バーカー)。そして、アメリカ版人間椅子「建築請負師」(クリストファー・ファウラー)。

「水の眠り灰の夢」  桐野夏生 (文春文庫)

顔に降りかかる雨」の女探偵=村野ミロの父、「村善」こと村野善三の若き日の物語。「顔に・・」で見せた謎めいた顔の奥に隠れた熱い素顔を見せる。したたかなところは変わらず、懐かしき熱き60年代をトップ屋として駆け抜ける。村善はあの伝説の爆弾魔「草加次郎」の正体をつかむのだが・・・・。

ラストで幼き日のミロがちらりと姿を見せるのはお約束。

「サザンクロス」  パトリシア・コーンウェル (講談社文庫)

「スズメバチの巣」に続く警察小説シリーズ第2作。第1作よりだいぶ落ちる。次が出てももう買わない。

1999年9月

はじめてインターネット通販「ジェイブック」で本を買ってみた。

紀伊国屋などと違い会員でなくとも検索サービスが使える。試しに今までなかなか見つからなかった本を検索してみるとあっさり見つかった。クレジットカードが使えるのも手軽。送料320円も書店で費やす時間を考えると適当だろう。店頭をひやかす楽しみは失いたくないが、これから通販を使う機会は増えそうだ。

今回の購入は、「旅人国定龍次」「バーナム博物館」「レベッカ・ポールソンのお告げ」「器官切除」。

「蒲生邸事件」  宮部みゆき (光文社カッパブックス)

現代の受験生が太平洋戦争直前の暗雲ただよう時代、226事件の真っただなかにタイムスリップしてしまうSF。

SFプロパー以外の作家の書いたSFはどこかずれているという先入観を持っていたのだが、この作家も今までプロパーなSFが書かなかった視点から書いてくる。しかし、ずれているどころか、なぜ今までこういうSFが書かれなかったのかという新鮮な驚きを感じさせてくれる。たとえば超能力テーマの「クロスファイア」やこの作品の道具立てであるタイムトラベルがそうだ。

「時間旅行者の歴史への干渉は歴史の持つ巨大な慣性の前には無力だ」というのはSFには良くあるテーマだ。しかし、その事実は時間旅行能力者個人にはどういう意味を持つのだろうか。自らの能力の価値に疑いを持った時間能力者はどういう人生を選ぶのだろうか。

しかしこの小説の主人公自身は時間旅行能力者ではない。まったく無関係なのに突然のホテル火災に巻き込まれタイムスリップの道連れになってしまう。そのまま否応もなく歴史の転回点に居合わせることになる。

作者は主人公が歴史おたくだったりする安易な設定を避け、現代の若者の平均的な(つまりはほとんどゼロの)知識で当時の人間や事件と接触させる。国家主義的時代やその時代に生きる人間へ、現代人なら当然感じるに違いない批判的印象を持つ。

しかし、その時代を生きる人間とより深くつきあっていくにつれ、彼の気持ちも変化していく。もちろん暗いだけだったり小難しかったりする小説ではない。サスペンスフルな展開、魅力的な登場人物、歴史に対峙する人間の姿に素直に感動できる。

主人公はその時代の少女に淡い恋をする。この恋の顛末がラストエピソードになるのだが・・・・泣けますよ。

「近代絵画の暗号」  若林直樹 (文春新書)

「名画」を従来の印象批評ではなく、その絵が発表された時代の中での意味を解析した刺激的な書。全てをズバッと斬れてるという印象ではないが、ドラクロアの「メデュース号の叛乱」の章などはショッキングだ。人肉食まで起きた悲惨な遭難事件を題材にした絵のスキャンダリズム。報道性で写真に押されはじめた当時の絵の置かれた微妙な立場と芸術としての側面のせめぎあい。解説を読むと、この絵を見る目が変わること請け合い。

他では有能な証券マンから画家へ転身したゴーギャンの「事情」を書いた「黄色いキリストのある自画像」も面白い。マグリットの「ピレネーの城」の章はちと牽強付会な印象。

読了すると漫然と知っていた気になっていた「名画」が「歴史的事件」としての相貌を見せてくる。といってそんなことで絵の持つ「芸術性」が損なわれるということはないのだろう。むしろそんなことまで含めての「芸術性」なんだろうが、正直、私のように単純なスキャンダラスな興味だけで読んでも面白い。

「レリック1(上下)」「レリック2地底大戦(上下)」  プレストン&チャイルド (扶桑社文庫)

何年か前に映画になった、良くできた怪物ホラーエンターテインメント。

1は巨大な博物館の地下に潜んで殺人を繰り返す古代の怪物と人々の戦いの物語。ラストの怪物のバイオサイエンス的正体の驚愕。ストーリーは映画的な展開だが、描写は視覚より嗅覚と聴覚に訴える。闇の中、怪物の姿は見えないが、耐えられないような悪臭がただよってくる。怪物の接近の恐怖が迫る。まさに古代人の野獣への恐怖感が蘇るような感覚だ。

2では1のラストで死んだはずの怪物が蘇る。前より小柄になるが数が増える(エイリアン2だね)。舞台も拡がり、マンハッタンの地底の奥深くに怪物たちが蠢く。迷宮のような地下世界とそこに住むホームレスたちの描写が、不思議とダークファンタジーのようなおとぎ話めいた印象を与える。

2のラストはナショナルキッドの海底魔王ネルコンだ。(わかる人はかなりの年齢)

「毒笑小説」  東野圭吾 (集英社文庫)

前作「快笑小説」の方がずっと面白い。ドタバタというとどうしても筒井康隆と比べてしまう。酷だとは思うが。

巻末は京極夏彦との対談。うーむ、作家もヴィジュアルになったものである。

「深夜の弁明」  清水義範 (徳間文庫)

いつもながらパソコンの操作説明書のパロディなどの曲芸的文体小説は面白い。しかし、読み終わって本棚に納めに行くと、なんともうすでにそこには同じ本が!・・・・またやってしまった。しかも読み終わっても気がつかないとは。

1999年8月

八月は実の子を保険金目当てに殺す親あり、親のレジャーに連れていかれて一緒に大雨で溺れ死ぬ子あり、相変わらずパチンコ狂いの親に放置されて熱死する子供もあとを立たない。パチンコとオートキャンプを一緒にするのは乱暴かもしれないが、子供が無力な時期くらい親は遊ばないでいられないものかね。

保険金殺人の被害者の通っていた高校では、「子供たちが動揺するから」始業式でまったく事件について触れなかったそうだ。すでにあれだけ報道されているというのに。生徒子供たちに対して語るべき言葉を持てないことに、自分たちこそ動揺していることを糊塗する言い訳がこれだ。教育者として最低の責任感も誇りもないことを露呈したわけだが、校長たちにはなんの自覚もあるまい。(事件そのものに学校の責任があると思っているわけではない)

柄にもなく世を憂えるようなことを書いたが、本当にまずいことになってきてると思う人も多いのではないかと思う。

今回は偶然だが親、教育にかかわる本が2冊並ぶ。

「永遠の仔(上下)」  天童荒太 (幻冬舎)

親による子への虐待をテーマにした話題作。

学校や家庭に不適応な子供たちが「入院」している施設で、一人の少女と二人の少年が出会う。入所当日に海で自殺しようとした少女を少年二人が助ける。少しずつ心を開きあった三人は、絶対誰にも打ち明けなかったそれぞれの秘密=悲惨な生い立ち境遇を話し、お互いを支えとして生きていく。やがて三人は少女を救うために、ある重大な決意をする。

17年後、三人は優秀な看護婦、新進気鋭の弁護士、狷介な刑事として再会する。そして、その再会を契機に、物語も破局への進行を再開する。連続殺人の犯人は三人とどんな関係があるのか。三人は過去になにをしたのか。

小説は17年前の過去と再会した後の現在が、交互に描写されて進んでいく。

作者の名前のあざとさ、説明的な台詞など文章の練れてなさ、詰め込みすぎと思える題材の多さ、多くの謎やどんでん返しも意外性に欠ける・・・・それなのに、上下各500頁2段組みの重厚長大さを一気に読ませる、この迫力はなんだろう。

大人になりきれないまま親になってしまった者は、いかにしても子供を傷つけ、子供たちは、その傷から決して真の意味で立ち直ることができない。テーマは重くつらい。ラストにも救いはない。登場人物は魅力的だが、もう一つリアリティに欠ける。それでも、後味は悪くないのが不思議だ。

「清水義範の作文教室」  清水義範 (早川文庫)

作者の弟は予備校を経営している。作者はそこの生徒の小学生にFAXを利用して作文を教えている。この本はその作文教室の、ある年の記録である。

パスティーシュの名手として知られる作者の最高傑作は、国語教育の本質を鋭くえぐった「国語入試問題必勝法」だと思う。

そんな作者の教え方はユニークではあるが、実は、今の学校ができないでいる、子供たちに文を書く喜びを教えるという難しいことを実現しているのだ。

作者はまずほめることを最優先にする。本嫌いを産み出す元凶である読書感想文は書かせたくないと思う。

そして、これが一番大切なところだが、内容を「道徳的に」評価することは絶対しない。例えば「いじめは楽しい」という内容の作文でも、その思想?についてはとやかく言わない、ということを作者はちゃんと覚悟している。いわんやSEXにおいてをや。

実際にはそんな過激なのはこないのだがね。

しかし子供たちの作文は面白い。この先生は作文の内容について「道徳的」なことを言わないことがわかると、どんどん面白い作文を書いてくる。男の子の一人が書いた、自分の家族とバイキング料理を食べにいったときのハチャメチャルポなど、腹が痛くなるほど笑える。

作者も高所から「指導」しているばかりではない。

非常に正確な描写をするが、自分の感情についてはほとんど書かない女の子がいる。その子の作文に「この子は心がないのだろうか」と悩む。ラスト近く、その子の作文の成長とともに、作者はこの女の子の内面性格に気付き、自分の思いこみを変えていく。「たかが」作文指導なのに、ちょっと感動的でさえある。

「もののけづくし」  別役実 (早川文庫)

奇才別役実の妖怪魑魅魍魎事典。かの別役版なのだから、水木しげるやラヴクラフトのようなのを期待してはいけない。「のっぺらぼう」や「すなかけばばあ」もいるが、「ふんべつ」や「これくらい」や「どうも」や「うたかた」なんてのがほとんど。

例えば「てもちぶさた」という妖怪がいる(のです。作者によれば)。この妖怪は姿は見えず、われわれはその視線だけを感じる。するとなぜか「手の置き場に」困る。てもちぶさたの視線には暗黙の問いが含まれているからなのだ。著者の考察は手の役割、人間のふるまいにまで及んでいく。

しかし、しかつめらしい文明批評だと思うと、ひょいと足をすくわれるからご用心。いつもながら一筋縄ではいかない作者である。

「怪笑小説」  東野圭吾 (講談社文庫)

この作者には珍しいが、理科系関西人らしいとも言えるドタバタ小説集。

満員電車での悪意とストレスの爆発「鬱積電車」。人気演歌歌手のファンとなった老婦人の末路「おっかけばあさん」。「巨人の星」のパロディ「一徹おやじ」。教師嫌いを標榜する作者の面目躍如たる「逆転同窓会」。超常現象をからかった小気味いい「超たぬき理論」。バブルがはじけて凋落した団地同士が死体をおしつけあう「しかばね台分譲住宅」。

どれも実に面白い。

しかし、ドタバタを書こうとする作家にとって筒井康隆は高い壁だろうな、と本作を読んでもつくづく思う。

1999年7月

「名探偵の掟」  東野圭吾 (講談社文庫)

アクロバティックなトリック。不自然な動機。神の如き明智の名探偵。悪魔の如き狡智の謎の犯人。異常に無能力な警察官。そしてクライマックスでの登場人物を一同に集めての名探偵の謎解き。
=いわゆる「本格推理」は、欧米ではもはや全く見られない。日本でも松本清張の出現により葬り去られたはずである。しかし近年、若い作者による「新本格」として蘇ってきた。トリックの楽しさこそミステリーの醍醐味であるというのはわからなくはないが、まあ退行現象ではある。一部の日本人の幼稚化の現れであるかもしれない。

本書はそのへんを思い切り笑い倒したパロディ連作集である。著者の(もっと先へ進まなければいけないという)新本格への批判でもあるのだろう。

突然探偵と警官が小説をはなれて「今回作者はどの手で来るのだろう」などとしゃべりだすメタフィクションでもある。TVのミステリードラマのパロディもあって、ミステリー好きもミステリー嫌いも笑える。

「カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢」  マックス・エルンスト (河出文庫)

ミスター・シュールレアリスト=エルンストの画文集。悪魔的なイメージと謎めいた文章。コラージロマンというそうだが、呼び名はともかく、厳格な修道院に入ろうとする少女の夢という設定からして、エロティックなイメージの宝庫という感じである。しかし精細な銅版画のようなタッチに文庫版はやはりきびしい。

「緊縛の美、緊縛の悦楽」  濡木痴夢男 (河出文庫)

しかし、凄い筆名だ。

美しい女人の裸形の写真はもちろん好きだけど、いわゆるSMっぽいのは好みではなかった。理由は、汚らしいのが多いから。しかし、団鬼六を読んだのを機にそういう写真も見直してみると、いいの悪いのがあるような気がしてきた。その違いとはなんだろうと思って、本書を読んでみる。

何と言っても著者は「緊縛美研究会」の主宰であり緊縛一筋何十年という人だそうな。外国のボンデージは革や金属による拘束がほとんどで、不器用な西欧人には自分のような見事な縄による縛りはできないといばっている。

緊縛とは縄へのフェティシズムであって、SMとは似て非なるものであるそうな。わかる?わかる人はわかる。わからない人は金輪際わからない。私は?ちょとわかるかな。誤解されやすいが、この場合緊縛される女性の側が縄へのフェティシズムを持っていることが大事なのだそうだ。世にあふれる緊縛写真も、その観点で見ると美しいもの美しくないものがある。決してモデルの美醜ではない?

モデルが「縄酔い」してるのが本物で、ビジネスや強要されてのものは偽者であるという。

たしかに掲載されている写真には独特の風情がある。この世は広い。

「顔に降りかかる雨」  桐野夏生 (講談社文庫)

直木賞作家となった作者の、シリーズキャラクター村野ミロの最初の事件。とりたてて美人でもなく強くもなく天才的頭脳もない、まさしく等身大の現代女性の巻き込まれ型ミステリー。唯一の武器は父が腕利きの探偵だったこと。しかしその父もとりたてて助けてくれるわけではない。

ストーリーテリングのうまさは初期のこの作品でも変わらない。男女の関係というかありようが「OUT」と似ているような気がするのも面白い。

「罪と罰」に三度逢う

遅く起きた土曜日の朝。TVは「ウェークアップ」を見たあと「花やしき」の冒頭の本のコーナーまで見ることにしている。その本のコーナーで、いわゆる「世界の名作」を読んだことがあるかというアンケートをやっていた。

名作としてピックアップされたのは

「戦争と平和」 トルストイ

「罪と罰」 ドストエフスキー

「赤と黒」 スタンダール

「老人と海」 ヘミングウェイ

「異邦人」 カミユ
の5冊で、1冊でも読んでいたらOKとする。

その結果は、渋谷の若者では1冊でも読んだことあるのは50人中0人、東大赤門前では50人中9人だった。東大で読んだことあると言った中には「老人と海」の作者を遠藤周作と答えてた人もいるので、ちょっと怪しい結果ではある。昔だったら読んでいなくとも読んだと言ったものだが、正直と言えば正直。読んでなくとも恥ずかしくないという感覚が問題だとも言える。

年配の方をターゲットにした銀座では50人中27人が読んでいた。さすが戦後日本を復興してきた年代は違うというところか。若い時に読んだという方が大半だったので、年齢ではなくて年代の違いなのだろう。全く読んでいなかった若者は、今後も1冊も読むことはあるまいと思う。日本はこのまま薄っぺらな社会となって衰退していくことは必定。

・・・・などとえらそうに言ってる私自身はどうなのか。5冊の中で完読したのは「罪と罰」「異邦人」の2冊だけで、「戦争と平和」は途中で挫折。「老人と海」「赤と黒」は手にとったこともない。前記の銀座のインタビューの読んだことのある方は、5冊中の大半を中学高校の頃に読んでるという人が多かった。私の中学時代はマンガ狂いだったし、高校ではSFばかり読んでいた。大学では映画ばかり観ていた。これでは「世界名作に親し」めるわけがない。日本の衰退、白痴化の一翼を担ってきたことは間違いない。

しかし、しかしである。別に若い時でなく、これから読んだっていいではないか。別に「古典」だから「教養」だから「名作」だから読みたいわけではない。どうやら「いわゆる名作」の中にきわめつけに面白いのがありそうな匂いがするのだ。百年以上読み続けられてきたのだから当たり前と言えば当たり前だが。ただし「古典」を面白がるにはちょっとコツがいることもわかってきた。

当然だが、現代のエンターテインメイントと同じ魅力を求めても駄目だということ。それはアンディ・フグにかめはめ波を使えというようなものだ(ちょっと違うな)。

ということは、主人公(でも脇役でも物語そのものでも)に感情移入するのに現代小説より少し余計にパワーがいる。これはもう慣れの問題以外のなにものでもないと思うけど。

そのためには書かれた時代のありようを少しは知ってた方がいいということ。ただし、雑学的知識を求めるために読むのは本来の興趣を削ぐ。

以上のコツはもちろん私の場合にはということであって、他人にあてはまるかどうかはさっぱりわからない。

「罪と罰」  ドストエフスキー (新潮文庫/岩波文庫)

さて、先に挙げた完読した2冊のうち、「異邦人」はまあ読んだというだけで、さほど感銘は受けなかった。「罪と罰」の方は三回読んでいる。

最初は高校一年生。勢いだけで読んだのだが、覚えているのは貧しい大学生が金貸しの老婆を殺害するシーンのみ。最近の血糊たっぷりが迫力と思ってるようなホラーやミステリーの殺人シーンではないが、その緊張感その迫力その深い恐怖。退屈と思われがちなドストエフスキーだが、実はクライマックスの迫力はたいしたもので、「白痴」でも「未成年」でも凡百のミステリーに決してひけをとらない。

ニ度目に読むきっかけとなったのは手塚治虫の「罪と罰」のマンガ化作品が雑誌「COM」の付録として復刻されたこと。これを読んで「罪と罰」はこういうストーリーだったかと思い、原作を再読した。これは手塚のアレンジだろうと思っていた愉快なシーン滑稽なシーンが原作通りだったのに驚いたのを覚えている。そして手塚が見事にストーリーを単純化してマンガにした腕前にも感心したし、やはり原作の方がはるかに豊富で深みのあるエピソードの数々に彩られてることも再認識する。特に主人公ラスコリニコフの影とも思える怪漢スピドリガイロフが手塚作品では矮小化されてるのが物足りない。

これで「俺は『罪と罰』読んだぞ」と安心しきっていたのだが、それが勘違いかもしれないと思ったのは、江川卓(耳の大きい野球評論家ではなくロシア文学者)の「謎とき罪と罰」(新潮選書)を読んだとき。まるで推理小説のようにドストエフキーの迷宮世界を読み解いていく傑作で、その後出た「磯野家の謎」などのいわゆる「謎本」は江川卓の諸作にヒントを得ているのではないかと思うくらいだ。もちろんいわゆる謎本のような低劣な内容ではない。当時のロシアの政治・宗教などの社会背景から微妙なロシア語のニュアンスまでを駆使して、テキストの隅々に作者の周到な計算がいきとどいていることを証明していくミステリアスでスリリングな論証の書だ。

といって堅苦しい文学談義ではない。単にロシアの人名だと思っていた登場人物の名前が実は全て意味があり、例えばロジオン・ラスコリニコフは割崎英雄、妹のドーニャは悦子、恋人(?)の聖なる娼婦ソーニャは叡子、その父マルメラードフは甘井聞太と訳せると聞くと、硬直した大文学がにわかに親しみを持った相貌を見せてくる。

主人公の名前には、あの数字「666」が隠されており、彼の悪魔性反キリスト性を暗示している。逆に彼には殉教者たるキリスト自身も投影されている証拠がテキストのそこかしこに見いだされる。さらに当時のロシアのカルト的宗教の落とす影、「罪」の意味、「罰」の意味、なぜ彼は「斧の峰」で殺したのか、ソーニャを愛していたのか、彼とソーニャに肉体関係はあったのか。等々等々、膨大なテキストに隠された謎も答えも膨大であり、にわかに小説の厚みが何倍にも増したような気分になる。

そして「罪と罰」を再々読したとき、退屈するページが一枚も無いことを驚きと喜びをもって発見し、噛み締めるように読むことができた。次に読む時はまた違う美味を味わえることを確信して、今からその時を楽しみにしている。

本を読むとき、時には良き先達の助けを借りることも必要ということを思い知らされた。ドストエフスキーには江川卓。西遊記には中野美代子。

1999年6月

今月は少ない。サイトのお引っ越しでCGI用にPerlの解説書や、仕事絡みでSQLの専門書など読まねばならなくて、読了記の対象にならない本が例月より多かったのが原因。こういう本も嫌いではないのだけど、実用本位で遊びが少ないのが物足りない。翻訳本だと、ユーモアや個性的な理念が巧みに織り込まれてるのに出会うこともあるのだけどな。

「極微機械ボーアメーカー」  リンダ・ナガタ (早川SF文庫)

今月のSFはナノテクもの。ホーガンやソイヤーなら微に入り細にわたった擬似科学的説明と発想を楽しめるのだろうが、残念ながらこの作者はそのへんは得意ではなさそう。むしろナノテクやヴァーチャルリアリティによって改変された人間存在、人間関係が織り成すファンタジックで異様な世界の描写が面白い。それほど人体神経は改変されても、人間性は変わらず、相変わらず権力争いを繰り広げる。権力の象徴たる女警察長官。彼女の愛人にして定められた寿命を乗り越えようと究極のナノマシン「ボーアメーカー」を捜し求めるサイボーグ。ボーアメーカーを偶然体内に取り入れ超人と化す下層階級の美少女。彼女の一族の異相の長。・・・・こう書くといかにもベタなキャラクタだけど、書き分けは繊細。

「今夜は眠れない」  宮部みゆき (中公文庫)

平凡なわが家に突然巨額な遺産が。どうやらその遺贈者と一家の母親の間に昔なにかあったらしい。父親の浮気がばれて険悪な夫婦仲がなおさら悪化して、中学生の息子はどうしていいかわからない。たよりになるのは、異常に中学生ばなれして冷静沈着な(変わり者の)友人のみ。しかもそんな一家にまたまた暗雲らしきものが。

しかし、この作者は男の子を書くのがうまい。リアルというわけではないのに読者が感情移入できる「中学生」を書けるというのは、よく考えるとすごいことだ。

「剣客商売狂乱」  池波正太郎 (新潮文庫)

「剣客商売隠れ蓑」  池波正太郎 (新潮文庫)

うっとうしい梅雨の季節など、江戸の世の雨の匂いなどに想いを馳せるのもまた一興。シリーズも半ばを過ぎ、安定した人間関係、おなじみの物語。しかし飽きることなく気持ちよく読むことができる幸せ。

1999年5月

今ミステリー界で「3つのF」という言葉がよく言われているらしいと妹が教えてくれた。
「探偵がF」「犯人がF」そして「作者がF」。FはFemaleのF=「女性」だ。今回の読了記を読み見返しても首肯せざるをえないですな。

「ファイアボール・ブルース」  桐野夏生 (文春文庫)

一人目のF。「OUT」以来ぞっこんの桐野夏生の「OUT」以前の作品。弱小な女子プロレス団体を舞台にしたハードボイルドミステリーで、ヒロインの火渡抄子はあきらかに元柔道日本一の神取忍がモデルだ。ライバルのヒミコは北斗晶で、敵役のアロウ望月は・・・・ジャッキー佐藤かな。団体のPWPというのも実在したプロレス団体、ジャパン女子を連想させる。

しかし作品そのものは内幕物でもないしオタクなパロディものでもない。凛々しくも寡黙な「思索するレスラー」火渡を探偵役にするハードボイルドミステリーだ。そして物語の語り手でワトソン役の、てんで弱い女子プロレスラーの成長の物語でもある。ラストはありがちだが泣かせるよ。

しかし、「女子プロレス」である。

かつて、あるノンフィクションの重要な賞を若い女性が受賞したことがある。賞の対象となったのは女子プロレスラーたちを取材した作品だ。作者の才能筆力を認めながらも、「題材」に難色を示した選考委員が立花隆だった。世の中には語るべき題材とそうでないものがあり、女子プロレスはそうでない範疇である、というわけだ。当然、プロレス(マスコミ)界は猛反発したが、ちゃんと受賞はしたのだし世間的に盛り上がることもなく終わった。受賞作品の題材が女子マラソンだったら、あるいは女子アマレスであったら、立花隆は同じ意見を言っただろうか。やはり女子「プロレス」ゆえの差別的偏見であることはたしかだろう。

しかし我らが桐野夏生はそんなことはない。偏見もなく、かといってのめりこみもせず、心地よい距離感で物語を作り上げてくれた。いかにも女子プロファンな風貌ではなく、クールな美貌の作者だけに嬉しいではないか。(これぞ差別的言辞以外の何ものでもないな)

「堪忍箱」  宮部みゆき (新人物往来社)

二人目のF。若くして練達の作者の時代小説短編集。江戸市井が舞台、と言っても、単純な人情ものではない。開けると店に災いが及ぶと老舗の商店に伝えられた文箱、突然ひいきのお坊ちゃんに自分を誘拐してくれと頼まれた職人、逆恨みされた男から身を守るため貧乏浪人を雇った町人に仕掛けられた罠・・・・苦みや酸味の効いた、目配りのいい物語が堪能できる。

「スズメバチの巣」  パトリシア・コーンウェル (講談社文庫)

そして三人目のF。スーパーベストセラー作家のコーンウエルが、検屍官シリーズを離れて書いた新警察シリーズ。地方の警察を舞台に中年の美人警部補と青年記者の恋模様や、スーパーウーマン警察署長の活躍が速いテンポで描かれるが、「検屍官・・・・」と比べてコメディタッチの部分もあるちょっと軽めの仕上がりで、その分読みやすい。

しかし、なにを書いても主人公が作者(も本物の美人だ)の分身に見えるのが、この人の強みであり弱みでもあるなあ。

「ドラゴン・ティアーズ(上下)」  ディーン・R・クーンツ (文春文庫)

神戸の事件の酒鬼薔薇が超能力を持って成長したような、おぞましい敵役に追われる警官カップルの戦い。時を止めるという反則のような超能力で襲われるのだからたまらないが、本当に悪夢の中のような描写はお見事。

この怪物との闘いに大きな役割を果たすのが一匹の犬。この犬の一人称の語りの章がいいリズムではさまるのだが、ここが実にうまい。殺伐おどろおどろとした内容を和らげて、楽しい小説を読んだ、という気にさせてくれる。

「絶景の幾何学」  伴田良輔 (ポーラ文化研究所)

独特の視点で提示される数多くの図版。ちょっとエロっぽかったり、やけに奇妙だったりする写真とクールで知的な文章のハーモニーが何故かいいのだ。
「信じようと信じまいと」「覗く双生児」「アインシュタインの舌」「パブリックな裸体」「ペトフィリアの悶絶」「剥製の館」・・・・これらの章題からどんな図版を想像しますか?

「三つの小さな王国」  スティーブン・ミルハウザー (白水社)

今月の一番。というよりここ何年で読んだベスト3に入るほど気に入ってしまった。タイトル通り三つの中編小説集。

「J・フランクリン・ペインの小さな王国」
アニメーションにセルが導入され工業化されていく時代に、森の中の自分の家の屋根裏部屋で手作りのアニメーションを作り続ける漫画家の物語。彼を支えるのは妻と娘、そして友人。「夢の国のリトルニモ」を描いたウィンザー・マッケイという実在の漫画家がモデルとも言われ、描写されるのは日常的生活なのに、なぜか寓話的幻想的物語のようだ。ラストは・・ラストは、感動のあまり、ひさしぶりに涙腺がゆるんでしまった。

「王妃、小人、土牢」
時代も場所もわからない国の城に住む王と王妃を旅の貴族、辺境伯が訪れる。王のゆえない嫉妬によって辺境伯は幽閉され、王妃は苦悩にさいなまれ、王の下僕たる小人は王妃への秘めた思いを胸に、遥か塔の最上の王妃の居室と、無限の深みの地下牢の辺境伯の間を往復する。閉ざされた城の外の町にも噂だけは流れ、やがて真実は茫洋とし伝説と化していく。

「展覧会のカタログ−エドマンド・ムーラッシュの芸術−」
前世紀末のニューヨーク州の田舎を舞台に独自の絵画世界を作り上げた男の生涯と、彼の妹、二人の唯一の友人の兄妹の物語が、展覧会のカタログという形で語られる。

いずれもアニメーション、絵画、城という具体的芸術的な素材を扱い、作者の芸術論物語論も展開されるが、しかし、これほど映像化が不可能な作品はあるまいと思える。でも、ああ、フランクリン・ペインのアニメは是非是非見てみたいものだ。また、いずれの作品の登場人物も四角関係に陥っていて、緊張感に満ちた人間関係が胸にせまる。

ミルハウザーの別の作品も読みたくて本屋を回ったがなかなか無い(涙)。

1999年4月

「OUT」  桐野夏生 (講談社)

今月の一番。これはすごい。ローレンス・サンダースを越えたと言っても過言ではない。

秘密の死体解体業を始めた主婦たちの話しだが、登場人物の造形を一人もないがしろにしていない。四人の主婦や副主人公のヤクザ佐竹はもとより、脇役の暴力団員や若い金貸しも、ステロタイプなチンピラにしていないところが殺伐とした話に厚みを与えている。そしてリアルに乾いた日常の描写。主人公の主婦香取雅子は実にハードボイルドでクールでかっこいいのだが、職業は安っぽいトレンドなカタカナなやつではなく、過酷な弁当工場の深夜パートというリアルさ。その生活のリアルさが心象のリアルさを支えている。ラストもちょっとないとしか言いようがない素晴らしさ。

映像化するなら雅子は沢田亜矢子で、佐竹は隆大介かな。

「ターミナル・エクスペリメント」  ロバート・J・ソウヤー (早川SF文庫)

月に1冊のSFと言っといてソウヤーばかりだが、面白いのだから仕方がない。SFプロパーなファンもびっくりの斬新なアイデアと、SFはちょっとなというファンにも安心して薦められるミステリー仕立てのストーリーテリング。今ホットな話題である臓器移植が発端なのだが、いつが死の瞬間なのかという根源的疑問を持った主人公が、ハイテク装置を駆使してなんと「魂」を発見する。そこからはじまる大騒動はSFの定番的ストーリーだが、後半は殺人事件と犯人捜しになる。不死や死後の魂をシミュレートしたAI(人工知能)のどれかが犯人なので、ちゃんとミステリーになる必然性はあるからご安心。

物語に夫婦の危機がからむのは「スタープレックス」と同じだが、その夫婦愛までもきちんとテーマと融合してるのだから、うまいとしか言いようがない。

「ボクシングバイブル」  ジョー小泉 (アスペクト)

「駄洒落のジョー」として一部で有名なWOWWOWの解説者小泉氏のボクシングエッセイ。蘇るヒーローの勇姿が懐かしい。

そうだ、ガッツ石松も小林弘も輪島公一も強かった。そして巧かった。しかもライト級前後の中量級で世界と戦っていたのだから今は昔だ。今の日本のボクサーがオスカー・デ・ラホーヤに挑戦するのは、サッカーのワールドカップで決勝に出るより可能性は低いだろう。しかし本書は昔は良かったというような低級な内容ではない。技術の進化という流れの中で古今東西の名チャンピォンたちを評価してる名著です。

「黒い鬼火」  団鬼六 (廣済堂文庫)

信用しないむきがいらっしゃるかもしれないが、初めて読んだ団鬼六。責め絵師伊藤晴雨の伝記は読んだことはあるが、本格的なSM小説は始めて。ポルノ小説というより官能小説という呼び方が似合う。解説の「谷崎潤一郎が書いた悪魔小説と言っても」というのは大げさだが、女体の隠微な美しさの描写はさすがで、頭の中が桃色になってくる。ところどころ黄色味がかるのは閉口だが。

「抜け目のない未亡人」  ゴルドーニ (岩波文庫)

18世紀ヴェネチアの古典的喜劇。美貌で富裕な未亡人をめぐる各国の男たちの鞘当て。当時の国民性のステロタイプが察せられて面白い。男たちの国籍がイギリス・イタリア・スペイン・フランスなのは、この四ケ国が当時の最先進国なのだろう。

1999年3月

「クロスファイア」  宮部みゆき (光文社)

あまりにもリアルな超能力もの。自分を装填された武器とみなす孤独な女性が次々と悪人(本当に悪人!)を処刑していく描写は本当にすごい。その孤独な彼女に春らしきものが訪れるのだが・・・・
主役二人の配役は堂本光一、中谷美紀のハルモニアコンビがぴったり。彼女を追いかける刑事たち、特にオバサン刑事のリアリティも半端じゃない。ほんとのキャリアウーマンというのはこういう人だよなあ。
他の「超能力」ものが読みたくなくなるという副作用あり。

「造物主の選択」  ホーガン (創元SF文庫)

月1冊のSF。ひさしぶりのホーガン。ユリ・ゲラーのようなペテン師が、騙しにくさはこれ以上ないであろう超合理的人工知性を見事にペテンにかける意外性。ラストは「宇宙戦争」のパロディ(ウイルス!)だが、ちょっと唐突。

「ミステリアス・エロティクス」   (扶桑社ミステリー)

なかなか垂涎もののエロチックシーンの連続だが「むしられて」の牧歌的セックスに一番そそられる。ミステリーとしてもなかなか傑作ぞろい。

「やんごとなき姫君たちの秘め事」  桐生操 (角川文庫)

二次資料三次資料のごった煮。同じようなエッセイのうまい阿刀田高と比べると文章が格段に落ちる。今話題の「本当はこわいグリム童話」の作者だが、これで読む気がなくなった。どうせなら白水社の完訳本を読もうと思う。

「なぜ人を殺してはいけないのか」  永井均×小泉義之 (河出書房新社)

もちろん「いけないから殺さない」わけではなく「殺したくないから」殺さないのだが、人の親として理論武装しときたいと、ちょっと魔がさした。哲学者二人の対談集とそれぞれの論考。哲学者とはこういう考え方をするのだというのが少しわかったような気がした。読み終わったら、理論武装してもしかたがないという気がしたけどね。

1999年2月

また月に1冊ずつくらいはSFを読もうかと思う。

「スタープレックス」  ロバート・J・ソウヤー (早川SF文庫)

ひさしぶりにSF本来の楽しさを満喫した思いの大宇宙冒険ハードSF。超空間航法を可能にする銀河ネットワークの「駅」の名称が「ショートカット」なのにはWinユーザーとしてはニヤリ。人類とイルカと豚のような宇宙人とゲシュタルト生命体の混成宇宙船という設定は、スタートレックやレンズマンを思い出すが、その後の展開のスケールの大きさは比較しようもない。恒星大の生物・宇宙の発生から死滅まで100億年の時間を飛翔するストーリー。不老不死というテーマも出てくるが、人間の不死どころか宇宙をも不死にする方法なのだ!

「呪術と占星の戦国史」  小和田哲男 (新潮選書)

武田家の史料に残された「弓矢はみな魔法にて候」という言葉に象徴される戦国武将たちのメンタリティ。司馬遼太郎やNHK大河ドラマでおなじみの戦国時代が、やはり「中世」なのだなと思い改まる。まさしく必死に戦勝を神仏に祈る中世人。彼らにひきかえ、命もかかっていないのに「俺は秀吉型かな」などとプレジデントを読んで悦に入っている爺どもに災いあれ。

あの合理主義者信長でさえ例外ではなく、それだけに、仏敵となる覚悟のほどの恐ろしさ、推して知るべし。

しかし「神仏」と一括りにしてしまう日本人のおおらかさ。あくまで「神仏」は自らの戦いに利用するのであって、「神仏」が原因で戦うのでないところに一神教でない良さを感じてしまう。

「メイキングラブ」  テム&ホルダー (創元SF文庫)

かたくなにマジメで知的な一生を送ってきた中年女教師に、アウトサイダーな弟が「理想の恋人」を贈ってくれる。しかし彼には魂がなかった。実に魅力的な出だし。その後の展開は心理小説としてはなかなかだが、エンターテインメントとしてはもう一つ。

「57人の見知らぬ乗客」   (講談社文庫)

ショートミステリー集。斎藤哲夫「女樹」。半村良「赤い斜線」。山田風太郎「鳥の死なんとするや」。横溝正史「飾り窓の中の恋人」。あとは駄作多し。

「剣客商売白い男」  池波正太郎 (新潮文庫)

「剣客商売天魔」  池波正太郎 (新潮文庫)

「剣客商売陽炎の男」  池波正太郎 (新潮文庫)

「剣客商売新妻」  池波正太郎 (新潮文庫)

大治郎と三冬めでたく結婚。

人間どもが行く

祭日の木曜日、TVで映画「遊星からの物体X」をやっていた。以前見たのですぐ消したが、解説の木村奈保子嬢のすごいヘアスタイルにおどろいて、1950年代の「遊星よりの物体X」のリメークであると言う冒頭だけ聞いてしまった。このハワード・ホークス版の方も昔TVで見ている。原題は「THE THING FRON ANOTHER WORLD」。82年のジョン・カーペンター監督版の原題は「THE THING」だから、ただの「物体X」だ。

映画はどちらもたいしたことないが原作はすばらしい。なつかしくなって本棚からポケットブック版のハヤカワを引っ張り出して再読してしまう。原題は「WHO GOES THERE?」邦題は「影が行く」。映画に比べて題名もはるかにこちらがいい。

「影が行く」  John W.Campbell (ハヤカワSFシリーズ)

短編集だが、表題作に尽きる。内容は映画で知ってる方も多いだろうが、南極基地を舞台にした異星人と人間の戦い。

はるかな過去に地球に不時着し凍ったまま発見された1匹の怪物。この異星人がよみがえるシーンの怖いこと。異星人はまるで伝染病のように人間や犬に化け増えていく。限られた器材と環境の中で如何にその正体を暴く方法を人間たちが見つけるかというドラマなのだが、誰が怪物やらわからないサスペンスは強烈。

驚くのは書かれたのが1937年だということだ。なんと戦前も戦前、60年以上昔の小説なのに少しも古びたところがない。もちろん今はやりの遺伝子工学などは出てこないが、もし舞台を現代に移したとしても、隔絶された南極基地、DNA分析ができなくても不自然ではない。当時の最新の医学化学知識にのっとった解決は見事である。

マンガ「寄生獣」はあきらかにこの小説の影響を受けている。
隠れた名作だと思うが、はたして今手に入るのだろうか。

「人間ども集まれ」  手塚治虫 (実業之日本社)

雑誌連載時と単行本収録時で大きな異動がある本作を、単行本版に雑誌連載時のラスト170頁を復刻して追加した労作。

なにしろハッピーエンドがアンハッピーエンドに変わった上、削られたエピソード、時事ネタお遊びネタ数知れず。しかも本作に限らない。これが黒沢明の映画のように会社や検閲によって切られたならともかく、作者本人が描き直したのだから言葉がない。いたしかたなくという場合もあるだろうが、半分は好きでやってるとしか思えない。
「人間ども集まれ」の場合は描き直した版の方がたしかにスマートだが、雑誌オリジナルの猥雑で素朴な味わいも捨てがたい。読者としては両方読みたいのが本音だ。

これからは手塚治虫に関してはこういう出版が増えるだろう。読者の欲求だけでなく、なぜ描き直したのかという作品研究の上でも重要であることは間違いない。キャラクター図鑑なんてどうでもいいものを出してる場合ではないのだ。

しかし、ジャングル大帝の場合はあきらかに改悪ばかりだと思うけど、なぜ描き直したのだろう。

1999年1月

今月は軽いもの及び慣れてるもの中心。ヒーリング読書とでもいいましょうか。

「ぼくたちのSEX」  橋本治 (集英社文庫)

子供たちに「おとーさん、SEXってなんだよ」と聞かれたときにあわてて買った本の1冊だ(^^;

今頃読了なのは橋本治は嫌いではないのだが、実は少し苦手なのだ。ねちっこい論理展開に賛成しつつ疲れてしまうことが多い。本書も少しずつ読んだのだが、元々は中学高校生向け。同性愛やエイズや売春にまでちゃんと踏みこんで自分を大切にすることを解きながら説教くさくないイイ本です。

「地下街の雨」  宮部みゆき (集英社文庫)

直木賞を受賞したが、そんなことと関係なく、この作家この若さでこのうまさ。昔の大家のミステリーが山田風太郎や松本清張を除いてつまらなく感じるほどだ。どれも面白いけど、突然普通の家庭に現れた自称宇宙人が家中の「音」を消してしまい一家をパニックに陥れる「さよなら、キリハラさん」のラストなんて絶品。合理的に感動をもって解決するのだから脱帽だ。

「鳩笛草」  宮部みゆき (光文社カッパブックス)

実はこの作者のなかでは「超能力もの」はどちらかというと好きではない。話題の「クロスファイア」につながる短編が載っているので読んだのだが、面白いのはたしか。「超能力」という架空の現象をここまで日常性をそこなわずに書いてしまっていいのかと思うが、書ける事自体すごい筆力ではある。

表題作のヒロインの顔が頭の中で松嶋菜々子になってしまうのはなぜだ。

「魔性の子」  小野不由美 (新潮文庫)

見事なサスペンスと心理描写。透明な美しさのある人物造形。主人公の二人の若者の間がなんとなく同性愛的なのは、女性作家ならではと思うが、女性はほとんど登場しない。ラストを疑問視する声が多いが諸星大二郎のようで私には違和感はなかった。

掲示板を読んでる方がこの作品に連なるシリーズを教えてくれた。嬉しいことである。

「剣客商売」  池波正太郎 (新潮文庫)

「剣客商売辻斬り」  池波正太郎 (新潮文庫)

再読。練達の文章をすいすいと読む心地よさは何物にも変えがたい。ヒーローは洒脱で食えない老剣客、生真面目で豪傑の息子、その息子より若い妻、田沼意次の娘である女剣士。良き人々の良き生活と人生が描かれる良き小説。

うまいものも沢山出てくるが「グルメ」などではなくまさしく「良き食事」である。

短編連作だが、きちんと時間軸に沿った端正な構成が嬉しい。

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