大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第九回・吸血石

 その日、野次馬男は、「世界の宝石展」の取材をするために、ここ、眠り谷にある東都美術館を訪れていた。流石に初夏ともなると、もうかなり暑い。よれよれのワイシャツの袖こそ捲り上げているものの、それでも背中を汗が伝っているのを感じる。野次は、ふう、と言いながら額に流れる汗をハンカチで拭った。


 野次は東都で第二位の新聞社、「東都日日新聞」の事件記者である。身長はどちらかというと小男の部類で、さらに猫背になって歩くので、実際の身長よりも更に小さく見える。剽軽な印象を与える顔は、日に焼けて真っ黒で、出っ歯気味の白い歯が口を開く度にこぼれる。


 三面の事件記者である彼は、彼が無意識的に持っている、「事件を嗅ぎつける能力」のお陰で、偶然に事件に遭遇することが多いことから、上司であるデスクの渕上からも、半ば「野放し」にされている。従って、今回の宝石展のように、事前にアポイントメントを取っての取材は、彼にしてみればかなり珍しいことと言えた。その理由はなんと言う事もない、やはり何となく何か起こりそうな気がしたのだ。


 漸く館内に入り込んだ野次は、もう一度ふう、と言ってハンカチで首筋の辺りを拭う。館内は幾分涼しい。愛用しているスイーズ製の腕時計のレプリカを見ると、文字盤は既に二時を回っていた。休息も束の間、野次は二階の大展示ホールへと急ぐ。


 ホールは野次が思っていた程には、報道陣は集まってはいなかった。野次は少しだけ拍子抜けした後で、明日度目樹のコンサアトホールで行われるコンサアトのために、世界的シャンソン歌手の、シャルル・モッテンバーニが今日到着する予定だったことを思い出して、一人納得した。


 丁度その時、場内アナウンスが入り、報道陣はざわざわとざわめき始めた。司会者に紹介された後で、この東都美術館の支配人が出てきて挨拶を始める。
「えー、この度我々が主催します「世界の宝石展」にこれほどまでに大勢の報道陣の皆様が集まっていただいて、誠にありがたく存じます。この度の宝石展の趣旨と致しましては・・・」
 野次は、ワイシャツのポケットから一応、愛用の手帳を取り出して、耳に挟んであった赤鉛筆で、取り敢えず何事か書いているふりだけをした。野次の目的はあくまでも、事件である。こういった催事自体にはさして興味はない。はずれだったかな、と思いながら野次は、出そうになる欠伸を噛み殺した。


 何時の間にか支配人のスピーチは終わっており、出展者だという別の男が汗を拭き拭きマイクロフォンの前に向かっているところだった。その男の顔には、野次も見覚えがあった。確か資産家として知られる春日辺幹彦みきひこである。でっぷりと太って、つるりと禿げ上がった頭に脂汗を光らせているこの男は、確か、「吸血石」という名前の珍しい赤いダイヤを出展したと言う事だったはずだ。
 資産家、と言っても本人が会社経営の危機に陥っているときに、偶々兄が死に、遺産が転がり込んで立て直した、所謂いわゆる成金にすぎない。野次は、もうメモをする振りも面倒臭くなって、赤鉛筆を鼻の下に挟んだ。


「・・・さて、この摩訶不思議なる赤ダイヤ、「吸血石」は、その後、シシールよりユーロパニアはオルスタレア、ザプセンブルーグの一族の手に渡り、そこでもまた、美しき皇女であるアントワーヌの命を奪い去ることになります。ああ、なんたる歴史の生み出す皮肉的結末でありましょう。」
 春日辺の口上は延々と続いていた。何やら資産家と言うよりは、講釈士にでもなった方が良いような名調子である。熱弁を振るえば振るうほど、春日辺の禿げた頭には血が上って、まるで茹で蛸のようである、野次はおかしくなって思わず微笑んだ。


 その時であった。
 突然、ヒュン、と風を切るような音がして、春日辺の頬をかすめるようにして、何かが飛んできた。「吸血石」の入ったケエスの後ろの壁に突き刺さったそれは、真っ白なバラの花だった。そう確認した刹那、バラの花は大きな音を立てると、そこで爆発した。


 ひいい、と言って春日辺は腰を抜かす。野次はいち早く記者席を飛びだし、係員の制止を振り払って、白いバラの刺さっていたはずの壁の方に駆け寄った。


「ああっ!」
 野次は思わず声をあげる。バラの刺さっていたはずの壁には、一枚の予告状が貼られていた。

【明晩十一時の鐘と共に、吸血石を頂きにあがります。    
                               怪盗 魔韻羅銘】



 予告状は、バラの刺繍が入った少々少女趣味ともとれる紙に書かれていた。間違いない、東都を騒がす怪盗魔韻羅銘の予告状である。


「な、何なのだこれは!」
 腰を抜かしたまま、茹で蛸は盛んに吠えている。係員が右往左往して何とか不審な人物を捜そうとしているが、辺りは興奮した記者達が盛んに予告状の写真を撮ったり、主催者にインタビューを試みたりしているために、それも大した成果を上げられずにいる。


 野次は写真を撮った後で、小さく舌なめずりをした。
 その日の「東都日日新聞」の紙面を、野次の書いた、「東都を騒がす怪盗魔韻羅銘、大胆不敵なる挑戦ー獲物は呪われた吸血石ー」と言う見出しが飾ったことは言うまでもないであろう。

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