大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
第九回・吸血石
2
ここは暗い。そして寒い。
・・・ここは一体何処だろう?僕は一体どうしてこんな所に来ているのだろう?
少し考えた後で、魔韻はこれが夢であることに思い当たった。またこの夢か、と思ってどうにかして目を覚まそうと試みるがいつものようにそれは叶わない。やがて、目覚めようと抵抗する意識さえも、幼い頃の記憶の中に埋もれていってしまう。
そうだ、ここは屋根裏の自分の部屋だ。ここにはじっとしていたくはない、魔韻はどうにかして外に出ようとする。その途端、魔韻は夏の日差しの下にいた。
何処までも延々と続いていく農道に、逃げ水がゆらゆらと揺らめいている。やがて向こうから、麦わら帽子を被った、日焼けした子供達がやってくるのが分かる。
子供達は、その手に石を握りしめている。ああ、逃げなければ。しかし僕は逃げ切れずに捕まってしまう。
「この白お化け。」
「今年の夏に雨が殆ど降らないのも、こいつの所為だって家の母ちゃんが言っていたぞ!」
子供達は口々に言いながら、魔韻の体を石で打つ。
ああ、止めて、止めてくれ、やはり外になんていたくないよ。
そう思った途端、魔韻は再び、屋根裏の自分の部屋にいた。怪我をしていた所には包帯が巻かれ、メイド服を着た少女が、魔韻を膝枕して、優しく彼の白い髪の毛を撫でている。
「もう大丈夫ですからね、魔韻様。私がついていますからね。」
すっかり安心しきった魔韻は、そのままウトウトとうたた寝をする。しかし、その幸せな眠りは、やがて、激しい口論によって打ち破られる。
「本当にあれは、私の息子だというのか!?お前、よもや悪魔と交わったりはしておるまいな?」
「まあ、何と言う事をおっしゃる!貴方こそ、本当に人間なのですか!?この私にあの様な不浄のものを宿らせておいて!」
魔韻は押入の中でじっとしている。口論は延々と続いている。
やがて、場面はまた唐突に切り替わる。
ここは、酷く暑い。いつもの屋根裏部屋の筈なのに、何なのだろう、この暑さは?
人々の怒声が聞こえてくる。そこで血塗れになって死んでいるのは誰だろう。メイド服の少女が必死になって僕を逃がそうとしているのが分かる。
その、彼女の頭に振り下ろされようとしているのは・・・
・
「ぎゃああああああ!」
凄まじい悲鳴で愛鈴は目を覚ました。横に寝ている魔韻を見ると、苦しそうな表情になって、手を天に向かって突き出しているのが見えた。
また、例の夢だろう。愛鈴は突き出されたその両手をしっかりと握ってやる。
「どこ?助けてよ、死んじゃ駄目だよ、果梨菜、果梨菜あ・・・」
まるで子供のように泣きじゃくる魔韻の頭を、愛鈴は裸の胸に掻き抱いた。そして母親のような優しい口調になって言う。
「大丈夫、大丈夫です、魔韻様。私ならここにいますから・・・」
「ううっ、果梨菜、果梨菜・・・ごめんよ。」
魔韻はそのまま愛鈴の胸に顔を埋めて泣き続ける。魔韻の白い背中をそっとさすってやりながら、愛鈴は自分でも解釈不能の不思議な感情に身をゆだねた。
・
「ふう、やれやれだぜ。」
汐原しおばら警部は、くわえていたキャンディーの棒を地面に吐き捨てながら、そうひとりごちた。
「本当に大変ですねえ、はい。」
ひとりごちたつもりだったのに、突然横の方から合いの手を入れられて、警部は思わずうろたえる。
「何だ、野次か。」
いつの間にか警部の横に佇んでいた小男に気がついて、汐原警部は大して興味のない口調でそう言った。野次は、つれないですねえ、と言いながら微笑んで見せる。白い出っ歯がガス灯の火を受けてきらりと光った。
「聞きましたよ、コンサアト会場の方でも殺しがあったんですって?」
「ああ、良く知っているな。・・・お前さんこそ、会場の方に行かなくて良いのか?」
「入り口封鎖されちゃって入れないんですよ、はい。だからこっちに。」
とぼけた口調で野次は言った。こっちだって封鎖していることには変わりないぞ、と言いながら汐原警部は苦笑した。
「さっき、中山の奴から連絡が入って、こっちからも少し兵隊を回したんだよ。・・・全く事件って言う奴はどうしてこう連続して起こりやがるんだろうな・・・食うかい?」
そしてそう言いながら、懐からキャンディーの入った袋を出して野次に勧めた。頂きます、はい、と言いながら野次はそれを受け取った。
「警部、煙草は止めたんですか?」
「ああ、家内の奴が五月蠅くてな。」
汐原警部は、少しだけ照れくさそうに言いながら、短い髪の毛に覆われた頭を、ぼりぼりと掻いた。そして使い古された腕時計に目を落とすと、
「十時半か・・・」
そう、ぽつりと呟いた。
「そろそろですねえ、はい。」
野次も幾分緊張した面持ちでそう言った。
・
夜の東都美術館は、辺りの木々の中に埋もれるかの様に、ひっそりと立っている。しかし、それは偽りの静寂にすぎず、よく目を凝らしてみれば、よく心を澄ましてみれば、怪盗が来るのを今か今かと待ち受けている警官達の姿が、息づかいが感じられるだろう。
「じゃ、行って来るよ、愛鈴。」
助手席のドアを閉めながら、魔韻は運転席の愛鈴に向かってそう言った。
「魔韻様・・・」
その背中に向かって愛鈴は、少し躊躇ためらった後で声を掛けた。なんだい、と魔韻は前を向いたまま答えた。
「何時も思うのですが、どうしてわざわざ予告状を出す必要があるのです?そうすることで魔韻様の身に及ぶ危険が増えてしまうじゃないですか。」
「何だそんな事かい、愛鈴。」
愛鈴の方を振り向くことのないまま、魔韻はシルクハットの角度を整える。
「それが怪盗のロマンだからさ。」
そう言いおくと、魔韻は疾風のように走り始めた。愛鈴は、気怠げな表情で、組んだ腕をハンドルの上に乗せると、更にその上に顎を乗せた。
「魔韻様は、わざわざ危険なところに身をおいて、ご自身の力を試しているのかしら・・・」
それとも、と言って愛鈴はフロントガラス越しの星空を見上げた。
「己の贖罪のために、死に場所を探しているだけなのかしらね・・・果梨菜さん。」
・
魔韻は夜の闇の中を、東都美術館目指して走り抜ける。身に纏ったタキシードにシルクハット、そして黒いマントをなびかせて走る様は、まるで、闇夜の凶鳥のようだ。
警官達のいる気配を感じ取った魔韻は、走りながら自らの能力を解放した。建物の中に入るまでが、一番きつい。
やがて、警官二人がじっと闇夜を睨み付けている、美術館の入り口まで辿り着いた。魔韻は、その二人の横を、何事もなかったように通り抜ける。
中に入った魔韻は、手頃な柱を見つけて、その陰に隠れると、座り込んで荒い息を整えた。こめかみの辺りには、白い肌故に余計にくっきりと、青い筋が浮かんでいるのが見て取れる。暴れる心臓を、魔韻はどうにか落ち着けた。
魔韻羅銘の能力。
それは、他人の記憶を操ることである。あるいは、同じ記憶を連続再生させ続けること、と言えるのかも知れない。魔韻の能力を受けた人間は、一瞬の間の記憶だけを失う。即ち、この場合なら、魔韻が通ったという記憶だけを失うのである。その記憶の欠落した部分は、自動的にその前後の記憶によって埋められる。退屈な見張りの時間中、その程度の反故など、気のせいで済まされてしまうのだ。
通常、この能力は、一定の広さの「フィールド」にその効果を及ぼすが、美術館に潜入するまでの間は、何処で誰が見はってるとも知れないため、有る程度人の気配は察知可能な魔韻としても、そのフィールドをより広く取る必要がある。美術館に潜入するまでが一番きつい、と言うのは即ちそう言うことだ。
かくして、「神出鬼没の怪盗」として、魔韻羅銘は人々の間に知られるようになった。
呼吸が整うのを待って、魔韻は再び行動を開始する。魔韻の掛けた片眼鏡は、ある高名な科学者が作ったとされる代物で、人の気配や、トラップの有無などを確認することが出来る優れ物だ。また、建物の中に入ってしまえば、能力を使用する際の「フィールド」も最小限の大きさで済む。
いとも容易く、昨日の昼に訪れた、二階のホールにたどり着くと、そこには赤く怪しく輝く宝石がケエスの中で魔韻を待っていた。その脇には警官達と、落ち着かない様子で葉巻をふかしている春日辺幹彦の姿が見えた。もちろん、彼らには魔韻の姿は見えていない。
魔韻は一種凄惨な微笑みを浮かべると、硝子ケエスの前まで歩いて小さく指を鳴らした。すると、どう言うわけか、魔韻の手の中にステッキが現れる。
魔韻はそれをゆっくりと振りかぶった。
・
背筋の辺りに寒気を感じて、野次はびくっと体を痙攣させた後で、天を仰いだ。
「どうしたい、野次。」
もう何本目か分からないキャンディーを口にくわえながら、汐原警部は傍らの小男を見た。
「警部、奴さん、魔韻羅銘はもう来てる様な気がしますよ、はい。」
「何だって?いつもの虫の知らせって言う奴か?」
言いながら、汐原警部は、トランシーバーで二階ホール前の警官を呼びだした。
「おい、俺だ、奴は現れたか?」
いいえ、ネズミ一匹通ってはおりません、と雑音混じりの声が野次にも聞こえた。ふう、と汐原警部が溜息をついた途端、美術館の、十一時を告げる鐘の音が辺りに響き渡った。その刹那、トランシーバーの向こうから、ガシャーン、と何かが割れるような音が聞こえてきた。
「どうした!」
慌ててトランシーバーに向かって叫ぶと、切れ切れに、出ました、奴です、と言う声が聞こえてきた。
「退路を断て!分かったな!」
トランシーバーに向かって叫びながら、警部は美術館の周りを張っていた警官達に入り口を固めさせる。
「公約通りってわけかよ。政治家にも見習わせたいところだぜ・・・」
そして忌々しげにそう呟いた。
・
電流を仕込んだステッキで何人かの警官を気絶させた魔韻は、追いかけてくる警官達を軽くあしらいながら、下ではなく、屋上を目指す。
「しめた、追え、奴を屋上に追い出せ!」
やたらとがたいの良い、厳つい顔をした警官が口から泡を吐きながらそう叫んでいる。魔韻は何となくおかしくなって笑った。
ひらりひらりと舞うように魔韻は逃げると、屋上に通じる扉を開け、夜風吹く屋上に出る。そのまま星明かりの下に出ると、魔韻はステッキを美術館の時計塔に向かって振った。
どういう仕組みなのか、ステッキの先からロ−プが伸びて、時計塔に絡みつく。魔韻が手元のスイッチを押すと、再びロープは縮んで魔韻の体は時計塔の元へと舞い上がった。屋上に詰めかけた警官達が、成す術無くただ騒ぎ立てる。
魔韻は時計塔の上でポーズを決めると、手に持った吸血石を星明かりにかざした。
「悪魔の韻律、羅刹の銘文、怪盗魔韻羅銘、確かに吸血石を頂いていく!」
「何を言っている、そこからどうやって逃げるつもりだ!大人しく下に降りてこい!」
地上では、汐原警部が拡声器でそう叫んでいる。その隣にいる野次は盛んにカメラのシャッターを切っていた。
「降りてこい、と言って・・・」
魔韻は言いながら満面の笑みを浮かべた。
「素直に降りていく怪盗が何処にいるんです!」
そして魔韻は時計台から宙に向かって飛び降りた。
『なっ!!』
驚いた人々の視線が集まる中、魔韻のマントが突然グライダーのように形を変えて、魔韻は夜空の中を飛んでいった。
「またお会いしましょう、警察諸君!」
我に返った汐原警部が、追跡の命令を出した頃には既に、怪盗の姿は夜の闇に紛れて消えてしまっていた。
「・・・良い写真が撮れました。」
ひとり、野次だけが満足そうにそう呟いた。