大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
連載第九回・吸血石
賑々しい人々の喧噪が、街を包んでいた。土埃を揚げて、時折人力車や、馬車が往来し、あちこちで交わされている商談も、耳を傾けてみれば、日本語だけではなく、中華語を始めとした、様々な国の言葉だと言う事が伺い知れるだろう。
ここは、東都は
少女は、この町並みにはかなり不釣り合いに映る、仕立ての良い洋装である。時折掛けられる客引きの声に怯えるようにして、少女は、息を荒げながら、さらに狭い路地の方へと足を向けた。
路地に入ると、街は一気に色彩を失う。くすんだ茶色ばかりが建物を彩っている。少女の入った路地は、中華街らしく、土埃にまみれた中華語の看板が、少ない空をさらに遮るようにして乱立している。
少女は、一回深呼吸して息を整えると、ブラウスのポケットから、折り畳まれた紙を取り出した。開くと、紙には地図が書かれている。少女は、不安げな表情のまま、地図を頼りにして、恐る恐る路地を進んでいく。何回か角を曲がり、少女は、一件の古ぼけた店の前で足を止めた。
店の看板には、到底達筆とは言えそうにない筆文字で、「幻夢庵」と書かれており、その横に小さく、「貴方の失せ物ご用立て致します」と書かれている。その看板の文字を読んだ後で、少女は幾度か躊躇い、漸く扉を開けた。
チリンチリン、と扉につけられた鈴が、澄んだ音を立てる。少女はその音に少し驚いて、首を竦めた。
店の中は埃っぽい。しかし、店の商品は、思ったよりも整頓されているようだ。店は、どうやら古道具屋らしい。埃っぽく感じるのは、品物に刻まれた歳月の所為であって、良く近づいてみれば、当の商品は意外にきちんと手入れされているのが分かる。少女は初めて、子供らしい好奇心溢れる表情になると、店の中を眺め回した。
壁に掛けられた多くの時計達が、それぞれ出鱈目に時を刻んでいる。ひときわ目立つ大きな地球儀には、少女が地図で見たことがない大きな大陸が、南半球に広がっているのが見えた。
そこで少女は、漸く店の奥に座っている、店番らしい老人に気がついた。白髪を長く伸ばした、枯れ木のような老人だ。丸いサングラスのような物を掛けて、横縞の帽子を被っている。少女は、そこで本来の目的を思い出して、恐る恐る老人に近づいた。
少女が近づいても、老人は何も言わない。彼女は恐る恐る、あのお、と声を掛けた。
「なんじゃい。」
老人は漸く言葉を発した。
「お嬢ちゃんのような人が欲しい物が、果たしてこんなぼろっちい店に有るとは思えんがの。」
少女は、恐る恐る口を開いた。
「悪魔の作りし韻律と、羅刹の記せし銘文を。」
老人は、恐らくサングラスの向こうの目を剥いた。そしてゆっくりと口を開く。
「あんた、それを、誰に・・・」
「加治木さんと言う男の人から・・・」
少女がそう言うと、老人は、京介か、と言って舌打ちをした。そしておもむろに立ち上がると、表へ出て、「昼寝中」と書かれた看板をぶら下げた。やれやれ、と言いながら少女についてくるように言って、さっさと先に歩き出す。
老人の座っていた場所の、すぐ後ろの戸を開けると、そこには、地下へと続く階段があった。
「足下、きいつけなよ。」
老人は少女にそう言って、自分はすたすたと軽快な足取りで降りてゆく。階段はとても暗く、少女は、壁に手を突きながらゆっくりと下りる。手にヒンヤリとした石壁の感触がする。暫く進んで行くと、漸く前方に明かりが見えてきた。老人が扉を開けたらしい。老人は、少女がどうにか降りてきたのを確認すると、部屋の中に姿を消した。遅れて少女も扉をくぐる。
急に明るい所に出たために、少女の瞳が眩しさを訴える。目が慣れるのを待って、少女はゆっくりと目を開く。少女は、一瞬おのが瞳を疑った。
部屋の内装は、上の店とはうって変わって、お洒落な中華の上流階級風だった。目に鮮やかな、原色を多く使った色使い、天井や、戸口のあちこちには、様々な形の簾が下がっている。そして、部屋の中華趣向にとどめを刺すように、部屋の中には、中華服に身を包んだ、明らかに中華人と分かる顔立ちの女性がいた。彼女は、三つ編みにした髪で、耳の辺りで輪っかを作る、独特の髪型をしている。
「あ、あの。」
少女は思わず大して意味も無くそう呟いた。中華人の女性は、少女を値踏みするように眺めると、少女の問いかけかどうか分からないような呟きは無視して、
「
流暢な日本語でそう言った。
「ああ、そうだよ、
予想外の所から、若く良く通る声が答えた。少女は驚いて、声の出所である老人を見た。老人は、少女の視線に気づくと、口元に笑みを浮かべた。そして一息に、自分の顔の皮をひっぺがした。いや、肌に見えていたのは変装用の人造皮膚だったらしい、剥がされた後から、若くて瑞々しい、しかし随分と白い肌が姿を現した。老人は、驚く少女を余所に、手の皮も同様にして剥がし、くたびれた長い白髪も取り去った。その下からやはり真っ白だが、艶やかに輝く白髪が姿を現す。よく見てみると、その根本は微かなピンク色をしている。
老人、いや、男はそこで一回指をパチン、と鳴らした。すると、どう言うわけか、一瞬で男の服が黒いタキシードに変化する。最後に男は、掛けていた丸いサングラスを外した。あっ、と少女は思わず息を飲む。
男はサングラスの下に、片眼鏡を掛けていた。しかし少女を驚かせたのは、男の瞳だ。男は、透き通る真っ赤な瞳をしていた。
「僕は
男はそう言うと、少しだけ悲しそうに微笑んだ。そして言う。
「悪魔の韻律、羅刹の銘文、怪盗
「・・・
「ああ、あの資産家の。」
稚芙美の言葉に、魔韻は一人納得したように頷いた。ゆっくりと気取った仕草でソファーに腰を降ろし、稚芙美にも座ることを促すと、訝しげに魔韻は尋ねた。
「で、その資産家のお嬢さんが、こんなしがない怪盗に何のご用なんですか?と、愛鈴、お茶ね。」
魔韻の言葉よりも一瞬速く、愛鈴と呼ばれた中華娘は、既に用意してあったお茶を魔韻と稚芙美の前に置いた。ジャスミンの香りが心地よく、稚芙美の鼻腔を刺激した。
「ありがとう、愛鈴。君も下がって休んでいいよ。」
そっとお茶を口元に運びながら魔韻は、愛鈴に向かってそう言った。愛鈴は一礼すると、部屋の少し奥の方にある別のソファーに腰掛けてお茶を飲み始めた。それを横目で見ながら、稚芙美もそっとお茶を口に運ぶ。
「美味しい。」
思わずそんな言葉が口をついた。それはどうも、と魔韻は目を細めながらそう言って微笑た。不思議な微笑みだ、と稚芙美は思った。雪のように白い肌はとても綺麗、細められた赤い目は、何とも言えずエキセントリックだ。
この男の人は、綺麗だ。
「で?」
「え?」
「ご用件は?」
「あ、すいません。」
稚芙美は魔韻に見とれていて、肝心の用件を失念していたことに気づき、赤面した。
「ええっと、魔韻さんは何でも盗み出してくれる、と聞いてきたんですが。」
「そりゃあ、ま、怪盗ですから、それが仕事です。・・・最も僕は基本的には自分が気に入った物しか盗みませんが。」
言いながら魔韻は、カップを鼻に近づけて、ゆったりと香りを堪能している。稚芙美は、何から話して良いものか、一寸悩んだ。間をつなぐようにお茶を啜って、稚芙美はどうにか切り出した。
「今、東都美術館で、世界の宝石展をやっているのはご存じでしょうか?」
「まあ、仕事柄。」
魔韻は素っ気なくそう言った。そして目で先を促す。
「その宝石展に、私の叔父が、「吸血石」という名前の赤いダイヤモンドを出展しているんです。それを・・・盗み出してはもらえないでしょうか?」
稚芙美のその言葉を聞いて、魔韻は初めて興味深そうな表情になると、お茶の入ったカップをテーブルに置いて、腕を組んだ。そして不思議そうな口調で尋ねる。
「はて・・・その吸血石、とやらは貴方の叔父さんが出展した物なんでしょう?一体何でまたわざわざ盗む必要が有るんです?」
「それは・・・」
稚芙美は顔を伏せた。
「私、両親共に早くに亡くして、今の叔父夫婦に引き取られて育ったんです。・・・引き取ったとは名ばかりで、叔父夫婦は、お父様が死んだときに、私の住んでいたお屋敷に越してきて、私の両親の遺産を、総て自分の物にしてしまったんです。件の吸血石、と言うのもその時に奪われた物の一つなのですが・・・」
「ふんふん。」
魔韻の相槌は、相変わらず素っ気ない。
「その吸血石をあしらった指輪は、私のお父様が、お母様に結婚指輪として送ったもので、私にとって、お母様のただ一つの形見でした。ですから、それだけでも取り戻したいのです。」
話し終わった稚芙美の目には、涙が浮かんでいる。それとは対照的に、魔韻は再び気のない素振りに戻ると、愛鈴にお茶のおかわりを所望した。
「魔韻様、お受けして差し上げればいいじゃないですか。」
愛鈴は、魔韻のカップにお茶を注ぎながらそう言った。魔韻は、うーん、と言いながら、ソファーにふんぞり返る。愛鈴は、その肩をそっと掴んで魔韻の後ろに控えた。
「・・・そうだねえ、どうしようかな。うん、そうだ春日辺さん、その吸血石とやらについて、もうちょっと詳しく教えてくれないかなあ。」
稚芙美は、顎に手を当てると、宙を見上げて少し考え込んだ。
「はい、私が知っているのはお父様に聞いた話だけですが、それでも良いでしょうか?」
構いませんよ、と妙にうきうきした感じで魔韻は言った。
「吸血石、それは珍しい、赤い色をしたダイヤモンドであることは、先程申し上げた通りです。アフォーリア大陸のダイヤの産出国、ザベージでも非常に珍しいものだそうです。この吸血石には、少々恐ろしい伝説が有るんだそうです。何でも、その持ち主に災いをもたらし、当の石自身は、より大きく美しい結晶に成長する、と。」
「ほほう!」
言いながら魔韻は、興味深そうに身を乗り出した。
「それはお父さんも随分と洒落た物を結婚指輪として送ったもんだ!」
多分、信じていなかったのでしょう、と言って稚芙美は寂しそうな顔で微笑んだ。魔韻様、と言って愛鈴が魔韻の肩を咎めるように揺する。魔韻はばつが悪そうに微笑んだ。
「これは失礼・・・しかし、伝説は嘘ではなかったのでしょう?」
ええ、と稚芙美は寂しそうな顔のままで答えた。
「本当に、その吸血石の所為かどうかは分かりませんが、お母様は確かに死んでしまいました。それも、体から、血液を殆ど失ってしまうと言う奇病で。伝説に依れば、「吸血石」の持ち主となった者は、皆同じ様な病気で死んでしまうのだそうです。・・・お母様が死んだ後、お母様の指にはまっていた吸血石の指輪は、確かに、少し大きくなっているように私には見えました。・・・それが、吸血石の名前の由来です。」
「ふーん、成程。」
魔韻は満足そうにそう言うと、膝を打った。
「面白い、その仕事引き受けても良いですよ、しかし・・・お嬢さん、私に仕事を頼む際の代償について、京介の奴・・・加治木から何か聞いていますか?」
「いいえ、詳しくは・・・」
稚芙美は不安そうな表情で、胸の辺りに手を置いた。
「ですが、お金でしたら私の出来得る範囲でなら何とか・・・」
「お金は要りません。」
そう言って魔韻は、少しばかりサディスティックな微笑みを浮かべた。
「僕が貰いたいのは、貴方の”感情”です。」
「感情・・・?」
稚芙美は虚を突かれたような表情になった。そう、感情です、と言って魔韻は微笑む。
「喜びや悲しみ、怒りや憎しみ、と言った感情です。その感情の内の一つを、僕に譲って貰いたいんです。」
「譲るって、どうやって?」
魔韻は、まあ、それはやってみれば分かりますよ、と言って笑った。
「報酬は成功してからで構いません、さあ、どうします?」
「お願いします。」
稚芙美は即答した。魔韻は、ほう、と小さく声をあげた。そしてゆっくりとソファーから立ち上がる。
「了解しました。明後日には盗み出しておきますから、もう一度尋ねていらしてください。・・・それまでに、どの感情を渡すのか考えておくと良いでしょう。愛鈴、春日辺さんを玄関までお送りして。」
稚芙美は、どうか宜しくお願いします、と礼をすると、愛鈴に連れられて姿を消した。後に残された魔韻は、一人、部屋の奥にある鉄の扉の方を眺めやり、呟いた。
「吸血石か・・・一寸面白そうだね、