大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
連載第八回・鈴の音は魔の調べ
1
度目樹どめきは東都の中でも、特に発展著しい新興住宅街であり、それでいて外国人の人口も多く、商業地に混じって見せ物小屋なども立ち並ぶ、一種ごった煮的な華やかさがある街である。
コンサアト会場は、そんな度目樹の東の方に位置している。会場、と言っても、旧華族のダンスホールだった建物を改造した物で、やや旧造りな感じは否めない。
「もうじき、この度目樹の中心街の方に、新しくオペラハウスが出来るそうですよ」
会場に入る前に静音がそう言った。
彼女は、事務所を出る前に美鈴の部屋を借りて、黒のナイトドレスに着替えていた。一方の美鈴は、少々ロリータ仕様の感がある、白を基調としたイヴニングドレスを身に纏って、珍しく頭に大きな赤いリボンをつけている。その二人に挟まれて、ウエイターの姿をした探偵は、会場に足を踏み入れたのだった。
赤い絨毯の敷かれた渡り廊下を暫く歩くと、思っていた以上に広いホールに出る。ホールは一階部分と、それを取り囲むように広がる二階部分とに別れており、静音の取った席は、貴賓席とまではいかないものの、ステエジを正面に臨む、前から三列目のベストポジションだった。
「・・・良くとれましたね」
迷流が言うと、静音は、父のコネです、と言ってペロリと舌を出した。コンサアトが始まるまでは、まだ時間があるので、迷流は、飲み物を買ってくると言い置いて、一旦席を立った。
迷流は歩きながらぼんやりと天井を見上げる。所々にあるライトの明かりで、ぼんやりと煙って見える高い天井は、音響効果を良くするため、後になってから改造されたらしい。(・・・葉韻はいん住工の仕事だな。)
そう考えて、迷流は一人苦笑する。葉韻住工とは、迷流財閥の子会社に当たる会社の一つである。
二階席の奥に見える幾つかの窓らしいものは、照明やら音響やらを担当する部屋なのだろう。だいぶん高いところにあるから、裏から回って行かないとその部屋には行けそうもない。まあ、一般客がほいほい入ってこれないようにそう言う作りをしているのだろうが。
迷流は何とはなしにそんな事をぼんやり考えた。
売店でオレンジジュースを買って、栓を抜き、こぼさないように注意しながら、席へと持ち帰る。丁度迷流が二人にジュースの瓶を渡し終えたところで、照明が落とされ、ライトアップされたステエジが闇の中に浮かび上がった。
どよめいていた観客達が、急に静まり返る。
「只今より、シャルル・モッテンバーニのコンサアトを執り行います」
妙に機械めいた口調の場内アナウンスが流れた後に、ブザーの音が大きく響いた。
微かなヴァイオリンの音色と共に、奈落からゆっくりと楽団がせり上がってくる。その演奏が一段落したところで、緞帳どんちょうに遮られたステエジの向こうから、ゆっくりとシャルル・モッテンバーニの掠れた、それでいて官能的な歌声が響いてくる。
・・・まいぬぺろってぶろーた わいせっとれんぜだーす・・・
・・・(私の可愛い弟よ 何故闇の中で蹲うずくまっているの?)・・・
アルバム「刻の牢獄」の中の一曲、「腕の中で」でコンサアトは幕を開けた。この曲は、低い音程で統一されたリフレインの中で、まるで誰かに語りかけるかのように、シャルル・モッテンバーニが歌う、アルバムの中でも異色曲と言える作品だった。この選曲は、迷流や、あるいは会場に来ていた大抵の人々の意表を突いた。皆てっきり大ヒット曲である「鈴の音は魔の調べ」をプログラムの冒頭に持ってくるとばかり思っていたのである。
実際迷流が先程読んだ「歎異抄」によると、日本公演に先駆けて行われた欧州公演では、「鈴の音は魔の調べ」でコンサアトの幕が開いていた。
静音もやはり同じ様な違和感を抱いたようで、渋いですね、と迷流に向けて囁いた。迷流は闇の中で小さく頷く。
そうしている間にも、ステエジではゆっくりと緞帳が上に上がり始めており、きらびやかな衣装に身を包んだ、シャルル・モッテンバーニが姿を現しつつあった。
シャルルは、憂いに満ちた青い瞳が印象的な美人である。しかし、輝くブロンドは、まるで男と見間違うぐらいのショートカットにしている。芸名に、男性名である「シャルル」を用いているのもその為だと言われているが、詳しいことは定かではない。
迷流がぼうっとシャルルに見とれている間に、低音のうねりは徐々にフェードアウトしていった。やがて、ステエジの上に、電気楽器を抱えたバックバンドが姿を現し、何時の間にか設えられていたマイクの前には、コオラスらしい太った黒人の女性達が陣取った。 ベースのリードに併せて二曲目が始まる。
「雪の中消えた夢」、やはり「刻の牢獄」の中の一曲で、一見明るいメロディーに乗せて、悲しい恋を歌う、コオラスとの掛け合いも絶妙なポップチューンだ。しかしシャルルは、まるで溢れそうになる情熱を堪えるかのように、この曲でもまだ、落ち着いた態度を崩そうとはしない。
何時それが弾けるのか、観客達は知らず知らずのうちに、シャルルにぐいぐいと引き込まれていく。カタストロフィーへの狂騒。人々は、何時膨大なエネルギーがほとばしるのか、手に汗を握りつつ、ステエジの歌姫を見つめ続ける。
成程ね、と、迷流は思った。あえて虎の子を出さずに、大人しいテンションで続けることによって客を自らの世界に引き込んで行くわけか。客は何時虎の子が登場するのか、そして何時この均衡が破れるのかを、知らず知らず期待させられてしまう。面白い演出だな、と迷流は思った。
「雪の中消えた夢」は、ギターの残響を最後に残して終わった。観客達の中で膨れ上がる期待。しかし三曲目に演奏されたのは、「祈り」、一つ前のアルバム「永遠に有罪」に収録されているバラードだった。
観客の緊張の糸は、今にも切れそうなほど張り詰めている。と、その時、聞き覚えのあるフレーズを、黒人女性のコオラス隊が口ずさむ。それから少し遅れるようにして、ギターの演奏が、オーケストラの援護を受けて流れ出す。観客席から、わあっ、と言う歓喜の声が聞こえてくる。
「鈴の音は魔の調べ」だ。
・・・ふぉすてぜんぜわいんず ろばーりんめい・・・
(疾き風より速く 私を奪うもの)
・・・だるくまーぜんぜしゅえーだ こべーらんめい・・・
(深き闇より暗く 私を覆うもの)
・・・いるあるでるおこーる でぃあぶるおこーる・・・
(其は鈴の音 魔の調べ)
・・・いるあるでるおこーる いるあるでぃあぶるおこーる・・・
(其は鈴の音 其は魔の調べ)
観客達は、完全にシャルルの世界に引き込まれている。
「やっぱり生で聞くのは違いますね」
うっとりとした口調で静音は言った。
・・・おんれべっくとぅめい めもれでぃあこんとれあ・・・
(唯返して欲しいのは 生まれた土地の記憶)
・・・うーすーどぅしゅとれんふろーめい?・・・
(誰がそれを奪っていったの?)
切なげに歌い上げられたCメロの後で、曲は、何度も何度もサビの「いるあるでるおこーる・・・」を繰り返す。女性コオラス隊との間で繰り広げられる、幾度ものリフレイン。観客の熱狂も、そしてシャルル自身の熱狂も遂に頂点に達しようとしているようだった。
ひときわ激しい演奏の後の一瞬の静寂をついて、シャルルのハイトーンのシャウトがホール全体に響きわたった。
その刹那、ガシャーン、と言う大きな音が背後から響いてきた。驚いて振り返る人々。楽団も思わずその手を休める。シャルルは・・・表情を凍り付かせたまま、宙、いや、ある一点を見つめている。迷流もゆっくりとそちらの方に向き直った。
「人が・・・ぶら下がってるの事ね!」
いち早く美鈴がその異変に気づいて叫んだ。迷流も美鈴の指さす方に向かって目を凝らす。確かに人がぶら下がっていた。先程見た二階席の奥の部屋の下辺りだ。どう言う訳か、その人影は、ライトの光を受けて、きらきらと輝いている。その光のお陰で遠目にもどうにか見て取れるところでは、首にはしっかりと縄が巻き付いているようだった。
首吊り死体だ。
そこかしこから、絹を切り裂くような悲鳴が響きわたる。パニック状態に陥ったホールを、どうにか鎮めようと警備員が右往左往する。その時、今度は別の方向から悲鳴が上がる。
「探偵さん!」
静音が迷流の服の裾を引っ張った。迷流は促されるままに振り向く。ステエジの上で、シャルル・モッテンバーニが倒れているのが目に飛び込んできた。彼女の周りには、今まさに、心配した楽団員や、舞台袖に待機していた人々が駆け寄っているところだった。
迷流は一瞬逡巡した後で、二階席奥の死体に向かって走り出す。足下で割れたジュースの瓶のガラスが、ちゃりちゃりと音を立てた。統制を失った人混みをかき分けながら、迷流はどうにか死体の真下まで辿り着いた。
異臭が鼻を突く。死体はどうやら失禁しているらしい。近くまで寄ってみて、死体がきらきらと光っていたわけが漸く分かった。
「・・・色硝子?」
死体の足下の床に散乱していたのは、ガラスの破片だった。それも無色透明な物ではなく、着色が施された色硝子だった。迷流はそれをつまみ上げて少し考えた後で、上を見上げた。死体は未だ微かにふらふらと揺れている。
ライトの光に照らされて、死体の体についたガラス片と、見事な金髪がきらきらと輝いている。そこで初めて、迷流は死体が外国人であることに気がついた。
「うわー、酷いの事ね」
漸く追いついてきた美鈴が、口元を押さえながらそう言った。静音は死体を一瞬見た後で、慌てて目をそらした。
「静音さん、警察に連絡をして下さい。美鈴はここで現場を保存して、私は係の人に、出入り口を封鎖して、誰もここから逃げられないようにしてもらうよう頼んできます」
「分かったね!」
かくして、コンサアトの幕は下ろされ、事件は幕を開けた。