大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
連載第八回・鈴の音は魔の調べ
2
「首吊り死体だって?迷流君」
中山義之輔警部は、迷流を見るなり、自慢の口髭を弄びながらそう言った。そうなんですよ、と言いながら、迷流は会場の封鎖を駆けつけた警官達に任せ、自らは中山警部達を、死体発見現場まで案内する。
「まったく・・・」
白手袋をはめながら、中山警部はぼやく。
「よりにもよって、人手が足りないときに限って、事件と言う奴は連続して起こりやがるからな」
「あれ、他にも何か事件が起きてるんですか?」
迷流が尋ねると、紙巻きに火を点けていた中山警部は、ああ、と頷いて見せた。
「ほら、世間を騒がせている怪盗の魔韻羅銘まいん・らめいだよ。何でも東都美術館に展示されている。「吸血石」とか言う宝石を盗む予告をしてきたんだそうだ」
「迷流さん、捕まえてくれませんかあ〜」
ハンチングの角度を直しながら、中山警部の部下の里中が言う。迷流は苦笑した。
「ははは、里中さん、残念ながら、私の能力じゃ、怪盗退治には何の役にも立たないですよ。私は、欧州の探偵小説の探偵と違いますからね、残念ながら」
魔韻羅銘、と言う名前には、迷流も聞き覚えがあった。高価な美術品、と言うよりは自分の気に入った獲物しか狙わずに、また、小説の怪盗じゃあるまいに、わざわざ犯行の予告状を出すことで有名だった。そしてこの怪盗は不思議なことに、現場に何時も忽然と現れては消えていく、のだそうだ。
迷流はそこまで考えたところで、里中の後ろを、太い眉に精悍な顔つきをした、屈強な男が歩いているのに気がついた。
「あ、あれ?佐藤さんじゃないですか!」
迷流は驚いて声を上げる。男は、五月の連続通り魔事件で犯人に刺されて入院していたはずの佐藤剛尚巡査だった。佐藤は、急に名前を呼ばれて、一瞬だけ身じろぎをすると、黙って会釈をした。
「もういいんですか?」
迷流の質問に佐藤に代わって中山警部が答える。
「ああ、例の槍下って言う医者も驚いていたそうだよ、こいつの回復力にはな」
佐藤はもう一度会釈をした。
「迷流様遅いの事ね」
現場に戻ると、美鈴がそう言いながら駆け寄ってきた。静音は少し離れたところに腰掛けている。どうやら、死体を見ていたくないらしい。美鈴は、中山警部を見て、あいやヨッシー久しぶりね、と言って笑った。中山警部も微笑みを浮かべて、
「やあ、美鈴ちゃん、今日も可愛いね」
と言った。
「そのドレス似合ってますよ」
里中も追随するようにそう言った。佐藤は何も言わずに、少し顔を赤らめると、会釈をした。
「ふんふん、こいつが仏さんか」
中山警部は死体を見上げながら、感慨深げに頷いている。そして迷流に向かって、あの上の部屋は何か分かるかい?と尋ねる。迷流が首を横に振ると、中山警部は、周りを取り囲む野次馬に向かって、この会場の関係者はいるかと呼びかけた。はい、と言うテノールと共に手が上がって、壮年の紳士がゆっくりと群衆を分けて警部の前にやってきた。
「あんたは?」
「私は、この”度目樹コンサアトホール”の支配人をしております、神崎かんざきと申します」
中山警部の問いかけに、神崎は慇懃に答えた。そうか、と中山警部は頷いた。
「じゃあ、神崎さん。仏さんがぶら下がっているこの上の部屋はなんだい?」
「隣の部屋が、活動写真の映写室になっておりまして、この部屋は、物置のようになっております」
へえ、活動写真があるんですか、と迷流がサングラスの奥で瞳を輝かせる。迷流様すぐ脱線するね、と言いながら美鈴が迷流の耳たぶを軽く引っ張る。
「事件当時そこに人は?鍵とかはかかるのかい、その部屋は」
神崎は少しだけ考え込んだ。そして慎重な口振りで話す。
「あの部屋は倉庫になっておりますから、何か必要なものがあれば、誰でも取りに行くことが出来るように、本日のコンサアトの関係者の方々に、数本の鍵をお渡ししてございます。事件当時そこに人がいたかどうかは存じませんが、このコンサアトホールの職員を含めて、誰しもが、あの部屋に入る機会は充分にあったと私は考える所存です」
「成程ね」
中山警部はゆっくりと頷いた。そして小さく、一応鍵が掛かるなら観客の線は薄いか、と呟いた。
「じゃあ、取り敢えずあの部屋に登って調べてみるか、後は関係者のアリバイ調査だな。会場の一般客の方は、住所を控えて帰らせてもいいだろう。・・・と、忘れるところだった、神崎さん、この死体に見覚えはあるかね?」
神崎は、恐らくは、と小さく頷くと言った。
「恐らくは、シャルル・モッテンバーニ様のマネエジャーであられるリベイラ様ではないかと・・・」
ええーっ?と静音が驚いて席を立った。
「マネエジャーがコンサアトも見ないで何やっていたんでしょうね」
迷流はのんびりとした口調でそう言った。中山警部は、全くだな、と言って苦笑した。そして、くわえた紙巻き煙草の始末に困って、きょろきょろと辺りを見回す。それを見て神崎が少しだけ眉を顰める。
「出来ればお煙草はご遠慮いただきたいのですが・・・」
迷流は、苦笑して言った。
「しょうがないなあ、警部、私が飲んでいたジュースの空き瓶持ってきますからそれに入れて下さい」
走り出した迷流の背中に、ああ、済まない、とお礼を言った後で中山警部は、はたと気がついて言った。
「おいおい、コンサアト中にジュース飲んでいるのもよっぽど不謹慎じゃないのか?」
美鈴が、細かいこと言わないね、と言って、その肩を叩く。
迷流はどうにか自分の座っていた席に辿り着くと、足下に置いておいた筈のジュースの空き瓶を探す。
「あれ・・・?」
ジュースの瓶は、割れて粉々になっていた。隣の席の美鈴や静音の分もそうだ。
(群衆に踏みつぶされたのかな?)
そう考えた後で迷流は、ハッと気づく。
いや・・・違う。先程死体の元に駆けつけたときから、確かにジュースの瓶は割れていたのだ。迷流が踏んだ硝子は、ジュースの瓶が割れたものだったはずだ。迷流はゆっくりと屈んで、ガラスの破片を摘み上げる。
薄緑色をした、オレンジジュースの瓶の欠片。
死体の下に大量に落ちていた、色硝子。
迷流の頭の中に、盛んに何かが明滅する。しかしそれが何なのかは、当の迷流本人にも分かりかねずにいた。
・
その後、迷流は、中山警部達と共に、死体のあった物置を捜査した。その間に、吉崎医師が到着して、別室で死体の簡単な検屍が行われた。
死体のあった物置は、一応施錠されていたものの、鍵は内側からも外側からも掛けることが出来る形状をしており、かつ、関係者の殆
どが鍵を持っていたため、大してその事に意味はない。事実、被害者である、リベイラのズボンのポケットからも、倉庫の鍵は発見されている。
死体の首に掛かっていたロープは、部屋の中にあったものらしく、また、ロープの先は、部屋の中にあった大きな石像に結びつけられていた。
死体は、窓から突き出すように固定された、色硝子の板の上に乗せられていた、あるいは乗っていたようで、その色硝子の板が割れた拍子に、首に巻き付けられたロープが食い込んで死亡したらしい。
「ふうん・・・?」
中山警部は口元に手をやりながら考え込む。そして言った。
「何なんだ?これは?他殺にしろ、自殺にしろ、奇妙な状況としか言えないじゃあ無いか。・・・迷流君、君はどう思う?」
「えっ!?」
考え事をしていたらしい迷流は、急に名前を呼ばれて慌てた。取り繕うようにサングラスを軽く押し上げる。
「迷流様、しっかりするね」
そう言って美鈴が迷流の肩を軽く叩く。あ、ああ、と迷流は軽く微笑む。静音がそっと歩み寄って、美鈴と反対の肩をそっと掴んだ。
「おやおや、お邪魔でしたかねえ」
扉が開いて、白衣をたなびかせながら、吉崎医師が登場する。
「やあ、医師」
苦笑しながら中山警部が挨拶する。
「検屍の結果はどうでしたかあ〜?」
例によって緊張感のない声で里中がそう尋ねる。吉崎医師は待ってましたとばかりにうんうんと頷くと、積んであった段ボールに腰を降ろした。
「死因はね、やっぱり頸椎の圧迫骨折、まあ首吊りだね。それに関しては不審な点はないよ、索条痕も絞殺による物ではなかったしね、だから死亡したのは、コンサアトの真っ最中、間違いはないね」
「そうか・・・」
中山警部は呟いた。
「じゃあ自殺の線が濃くなってきたというわけか」
ちっちっち、と吉崎医師は、顔の前で指を立てると振って見せた。気のせいか、縁なしの眼鏡がきらりと光った様に見えた。
「そうは問屋が降ろさないのよ、これが。死体はね、睡眠薬を服用していた。つまり事件のあった時刻に被害者はおねんねしていたわけ。ま、つまり眠っていたらいつの間にか、そのまま本当におねんねしてしまったって言うわけだね」
笑えないね、と言いながら吉崎医師は笑った。対照的に中山警部は眉根を顰める。
「おいおい、じゃあ自殺じゃなくて他殺だって言うのか?」
そうとは限りませんよ、と迷流が言う。
「死の恐怖から自殺前に、睡眠薬を飲んでいたのかも知れませんからね。でも、自殺にせよ他殺にせよ・・・」
「どうしてガラス板の上に乗っていたのか、か・・・」
そう言うことです、と迷流は頷いた。やれやれ、と中山警部は額の辺りを一回叩いた。ちょっと待って下さい、と静音が口を挟んだ。
「ええと、では、もし他殺ならその時間に被害者の乗っていた硝子板を割ればいいだけですけど、自殺だとすると、どうやって硝子板を割ったのかも問題になってくると言うことですか?」
「85点」
迷流は言った。
「他殺だとしても、何故犯人はわざわざこんな面倒臭い方法を採って被害者を殺す必要があったのか?何しろコンサート中だというのにあれだけ目立ったんですからね、犯人にしてみれば、見つかってしまうと言うリスクが大きすぎます」
「ま、取り敢えず仕掛け探しと、関係者のアリバイの調査だな」
言った中山警部に向かって迷流は微笑み返した。そして、吉崎医師の方に向き直る。
「で、先生、後他に死体に変わった点は?」
うん、そうだね、と言って吉崎医師は口を開こうとした。その刹那、ドタドタと廊下を走る足音がして、警官が部屋に飛び込んできた。警官は、中山警部を部屋の中に見いだして、慌てて敬礼をする。
「どうしたんだ?」
「は、警部のお申しつけられた通り、下の階の楽屋の方に関係者の皆さんを集めたのですが・・・」
「おおそうか、ご苦労さん、そういや、倒れたって言うシャルルさんは大丈夫なのかい?」 は、それが、と警官は口ごもる。
「どうしたい?」
「実はシャルルさんが、私が犯人だ、私が殺した、と・・・」