大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

連載第八回・鈴の音は魔の調べ

 轟々と風の音が聞こえる。いや、音だけではなく、風そのものが、壊れた修道院の窓から雪と共に激しく吹き込んでは、私達の体から体温を奪い去っていく。
 神父様は、私を抱きしめる手にさらに力を込めた。


「お前の所為だぞ」
 私の隣で寒さに体を震わせながら少年が言った。少年は美しい金色の髪の毛をしている。その腕には妹だというやはり金髪の美しい少女を抱きかかえていた。しかし、少女は青白い唇を微かに震わせるだけで、殆ど生気が感じられなかった。


「お前が、お前さえ来なければ」
 少年はもう一度そう言った。恨みのこもった、地を這うような低い声は、しかし、やはり寒さの所為で小さく震えている。周りの沢山の子供達の視線も私に集中する。何も言わないが、彼らも少年と同じ意見であると言うことが、こちらに向けられた敵意ある視線から容易に伺い知れる。


「お止めなさい、スチュアート」
 私をかき抱きながら神父様は言った。
「これは神が我々に与えたもうた試練なのです。それにシャルロットを責めるのはお止しなさい、彼女は今まで辛い試練に耐えてきたのです、どうしてその彼女に優しい言葉をかけてやることが出来ないのですか?」
 スチュアートと呼ばれた少年は、黙りこくると下を向いた。神父様は、そんな彼に、今度は優しい口調で話しかける。


「ドナなら大丈夫です。彼女のような優しい子を、こんなに早く天に召すようなことは、我らが主は、決してなさらないでしょう」
「そうだよ、スチュアート」
 澄んだ声が響いた。声の主は黒髪の少年。この孤児院の子供達のリーダーを勤めているらしい、この少年は、確かヨハネスと言った。


「分かったよ・・・」
 スチュアートは渋々とそう言いながらドナを抱きしめる手に力を込める。神父様は、二人の少年を交互に見た後で、深く頷いた。
「さあ、皆さん。もう一度歌いましょう、歌うことによって、我らの願いは主に届くでしょうし、何より歌うことで体が温まります」


 神父様はそう言うと、率先して歌い始めた。恐る恐る、私もそれに従った。やがて歌声が、そこここからあがり始め、そのハーモニーは、破れた修道院の窓から、灰色の空に向かって流れていった。

 夏祭りが近いためだろうか、窓の外からは時折、遠い笛の音や太鼓の音が聞こえてくる。もしかすると、この五月蠅う る さい蝉の音に混じって聞こえる、ざわざわという音も、どこか遠くの人々の声なのかも知れない。
 ちりん、と、軒先で風鈴がなった。木立の間を駆け抜けてくる風は、思いの外涼しく、薄青い夏特有の空気と共に、藍花らんかを爽快な気持ちにさせた。


 長い渡り廊下をドタドタと走る小さな足音が聞こえてくる。それから少し遅れて、ぱたぱたと上品に走る足音。
「厭だよ、僕、お昼寝したくない」
 言いながら、小さな弟の華隠かいんは、こちらに向かって駆け寄ってくると、藍花を盾にして隠れた。少し遅れて母さんが藍花の前にやって来る。


 母さんは、夏物の袖の短いブラウスを着ている。すらりと伸びた腕のその白さが、少しだけ目に痛い。
「駄目よ、華隠、お昼寝しないとちりんこさんが来るわよ」
 後ろで華隠が少しだけ身震いするのが藍花にも分かった。それでも華隠は、母親に抵抗を試みる。


「ち、ちりんこさんなんて嘘だよ。そんなの本当はいないんだよ、ね、兄様」
「あら、いるわよ。お母さん、昔見たこと有るんだから」
 藍花が何かを言うより先に、母さんはそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。華隠がぎゅっ、と藍花の服の裾を掴む。
「お母さんがまだ藍花ぐらいの歳だったわ。丁度今みたいに夏祭りの時期でね、お母さん、一人でおうちでお留守番していたの。そうしたらね、急にどこからか、チリン、チリン、と言う鈴の音が聞こえてきたの」


 華隠だけではなく、藍花まで固まったようにして、母親の話に耳を傾ける。母さんは、藍花の隣にそっと腰を降ろした。
「そうしたらね、突然うちの玄関の戸をどんどんと叩く音がしたの、お母さん、恐る恐る玄関を覗いてみたの。そうしたらね、いたのよ」
 華隠が唾を飲み込む音が聞こえてきた。藍花は弟の手をそっと握ってやる。


「真っ黒い人が立っていたの。顔は黒い鳥撃ち帽みたいのの所為で良く見えなかったし、服はお坊さんが着ている袈裟みたいなのを着ていたわ。それも、もちろん真っ黒なの。それで、右手には小さな鈴を一つ持っていたわ。さっきまでチリンチリン言っていたのはその鈴の音だったのね。お母さん、怖くなって、慌てて部屋へとって返すと、お布団を被ってがたがた震えていたわ。おばあちゃんが帰ってくるまで生きた心地がしなかったものね」


「それが・・・ちりんこさん?」
 恐る恐る迷流がそう言うと、母さんはそう、と頷いた。
「帰ってきたおばあちゃんに聞いたら、ああ、それはちりんこさんだ、と言ったのよ。・・・ちりんこさんはね、真っ黒な服を着ていて、真っ黒な大きな袋の中に、悪いことばかりする子供を詰め込んでどこかにさらっていってしまうんですって。お母さん、怖くって、それから暫く一人で留守番するのが怖かったわ」


 風鈴が、ちりん、と音を立てた。華隠がびくっと首を竦める。母さんは上品に笑った。
「うふふ、どう?華隠、これでも我がまま言ってお昼寝しない?」
「僕、寝る!でも一人じゃ怖いから兄様と一緒に寝る!」
 華隠はそう言って藍花にしがみついた。藍花は微笑んでいる母さんの、顔を見上げる。そして口を開こうとする。母さんも一緒にお昼寝しよう、と。


 母さんは、ゆっくりと口を開く。
「起きるね」
 えっ?
「起きるね、迷流めいる様」


 体を揺すられる感触がした。迷流の時間は、一息に数十年の歳月を飛び越えて、「伊坂ビルヂング」三階の自分の部屋に戻ってくる。
「母さん・・・?」
 目を擦りながら起きあがると、目の前には、母親の姿はなく、かわりに腰に手を当てながら少し呆れた顔をしている、エプロン姿の中華娘が立っていた。


美鈴メイリン・・・」
「もう、何寝ぼけてるね、迷流様」
 美鈴は、少しふんぞり返るようにしてそう言うと、軽く溜息をついた。
「今日は、コンサアトに行く日の事ね、起きて早く準備するよろし」
 美鈴はそう言うと、軽やかな足取りで階段を下りていった。迷流はナイトキャップを枕元に置くと、よろよろとした足取りで階段を下りていく。


 どうにかキッチンに辿り着くと、何時もの様に美鈴に椅子を引いてもらってそれに腰掛ける。ぼんやりとした目で机の上のオレンジジュースの瓶を眺めた後で、おもむろにそれをコップに注ぐ。
 一息にそれを飲んだところで、迷流は漸く意識がはっきりとしてきた。手探りで今朝の新聞を取ろうとする。


「はい、探偵さん」
 迷流が自分でそれを取るよりも先に、横の席から新聞は差し出された。
「あ、有り難う・・・」
 そう言った後で迷流は、新聞を差し出した人物を見て目を見はった。
「に、丹沢にさわさん!」
「うふふ、おはようございます、探偵さん」
 静音しずねは悪戯っぽく微笑んだ。


「な、ななな何でここへ?」
「だから、今日はコンサアトの日だってさっきも言ったね」
 慌てる迷流に向かって、ポタージュの入った鍋を抱えてきた美鈴が説明してやる。それで漸く迷流は、今日、有名なシャンソン歌手である、シャルル・モッテンバーニのコンサアトに行く約束をしていたことを思い出した。
 静音は御免なさい、と言いながらペロリと舌を出す。


「一寸早く起きすぎちゃって、・・・お邪魔でしたか?」
「い、いえ、そんな事はありません」
 迷流はしどろもどろになりながらも、取り敢えず格好だけでも何とかしようと無駄な努力を試みる。静音はそんな迷流を見ながら言う。
「うふふ、探偵さんって、普段は颯爽としているけど、朝には弱いんですね。サングラスを外しているところも見れたし、やっぱり早起きして良かったかな?」
 そうね、と美鈴は大仰に頷いてみせる。
「早起きは山門の徳ね!」
「・・・何か違うけど、一寸ありがたく聞こえるね、美鈴」
「ま、何にせよ食べるね」
 美鈴の言葉と共に食事が開始される。


「あ、これ美味しい。美鈴ちゃんお料理上手ね」
 静音が歓声を上げる。見ると美鈴に倣ったのか、トーストの上に酢豚を載せて食べている。美味しいと言っている以上訂正することも出来ず、迷流は黙々とトーストを頬張った。
『ごちそうさま』
「おそまつさまね」
 言った後で片づけを始めた美鈴を見て、静音が立ち上がる。
「あ、美鈴ちゃん、私も手伝うわ」
「いいね、お客はお客らしく大人しくしているね」
「そう言うわけにも行かないわ、美味しいお料理のお礼よ」


 なんやかんや言いながら、女性二人は流しの方に消えていった。何となく取り残された形になった迷流は、洗面所の方へと足を向ける。ボサボサになった髪の毛をどうにか落ち着かせた後で、階段を登って自分の部屋に着替えをしに戻った。


 タンスを開けて今日着ていく服を選び出す。コンサアトに行くのだから、少しは正装っぽく見える物がいいだろうと考えて、ベストとスラックスの色を黒にした。何時もの様に蝶ネクタイを締めた後で、姿見を見ると、なにやらウエイターのようだった。自分の姿に苦笑した後で、トレードマークのサングラスを掛けると、迷流は不意に思い立って部屋の窓を開けた。


 さすがに六月下旬にもなると、午前中でも吹き渡る風は微かに熱を帯びている。その点では、迷流の服装は、季節はずれと言っても過言ではないどころか、季節はずれそのものなのであるが、この探偵は、血圧が低いだけではなく、極度の寒がりであるため、自分ではその服装の違和感などを覚えることは、全くないのだった。
 ともあれ迷流は窓枠に手を置いて、ぼんやりと町並みを眺めた。この前の放火事件で燃えた、辻向かいのビルは、もうだいぶん復旧作業が進んでいるようだった。


 窓の側に吊り下げっぱなしになっている風鈴が、不意にチリン、と音を立てた。その風鈴を眺めやりながら迷流は、不意に今朝見た夢のことを思い出す。あれは、母さんと過ごした最後の夏の記憶だったか。
「ちりんこさん・・・か」
 呟いた後で迷流は、少しだけ隙間を残して窓を閉めた。そして一回伸びをした後で、今度はしっかりとした足取りで階段を下りた。


 事務所に戻ると、丁度静音と出くわした。
「探偵さん、なんだか今日はウエイターみたいですね」
 静音はそう言って微笑んだ。やっぱりそう見えます?と言って迷流は自分のデスクに腰掛ける。
「今コーヒーが入りますね」
 そう言って静音は台所に消えた。迷流は机の上に置いてあった、「歎異抄たんにしょう」を手にとってパラパラと流し読みをする。”シャルル・モッテンバーニ来日”の記事は、この雑誌でもでかでかと取り上げられていた。


「フロラン出身の実力派シャンソン歌手、「鈴の音は魔の調べ」は、日本でも三十五万枚を突破、か」
「楽しみですよね、今日のコンサアト」
 コーヒーセットを運んできながら、静音はそう言った。
「居る有る出る怒るね!」
 と、その後ろから現れた美鈴が言った。それを聞いて迷流と静音は笑う。美鈴は、きょとん、とした表情をした。
 結局その日迷流達は、お昼過ぎに探偵事務所を閉めて街で昼食を取り、夕方には、度目樹のコンサアト会場に到着した。

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