大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

連載第一回・強聴者

「さて、まずは私の能力についてお話ししましょう」
 事務所のデスクに腰掛けて豆茶 の香りを楽しみながら、迷流はそう言った。


「能力・・・ですか?」
 静音は不思議そうに首を傾げる。
「迷流様、物語作る、すると事件解決するね、まさに亀技!」
 迷流は笑って、神業だよ、美鈴、と言った。


「そうですね、私は事件現場に出向いたり、事件の参考人に会って話を聞いたりすることによって、事件の真相を物語のような形で語ることが出来るんです。私はこの能力を”ノベリング”、と呼んでいます。信じていただけますか?」
「信じ・・・なければいけないんでしょう?」
 静音の答えを聞いて、迷流は軽く微笑んだ。


「そうですね・・・では、一つ実際にやってみますか」
 続けてそう言うと、迷流は深くシートにもたれかかった。聞こえてくる規則的な呼吸音。やがて、迷流の頭ががっくりと垂れ、迷流の口から、低く、静かな声が漏れ始めた。

 何時もの様に、俺は隣から聞こえるシャンソンで目を覚ました。欧州特有のねっとりとした歌い方に、俺は胃が悪くなり思わずペッ、と唾を吐いた。その間にも隣では、引き出しを開けて口紅を取り出し、鏡の前で化粧が始まる。それなりに高級らしいファンデーションを塗る音が聞こえる。生意気にもマスカラを使っているようだ。ケッ、俺の頬に微苦笑が浮かぶ。これから何処かへお出かけかぁ?全くいいご身分だぜ。


 おっ?立ち上がった、何をする気だ?この方向は・・・冷蔵庫だな。遠ざかっていく足音を聞きながら俺はそう確信した。やがて俺の予想どおりに冷蔵庫のドアの開く音がする。飲み物の瓶を取り出す音がして再び化粧台に腰掛ける。ふぅー、とため息をついて口紅を手に取った・・・


 いるあるでるおこーるでぃあぶるおこーる・・・ああ、そろそろ俺は限界だ、何時もの様に怒鳴り込みにいくとするか。

「このいるある何とかってなんの事ね?」
「”鈴の音は魔の調べ”!シャンソンの歌詞です。探偵さん!これは、私の今朝の行動そのままです!」
 美鈴の質問に、驚きながら静音は答える。


「やはり、そうでしたか」
 トランス状態から解放された迷流がゆっくりと頭を起こしながらそう言った。
「探偵さん!今のはいったい何なんです?」
「今朝の石田の行動ですよ。丹沢さん。・・・どうやら奴は本当に貴方の行動を”聞いていた”らしい」


「聞いて・・・いた?でも、私の部屋の防音は完璧だったじゃないですか」
 ええ、と、迷流は言うとコーヒーを口に運んだ。
「ああ、生き返る。・・・丹沢さん、防音なんて意味がなかった。奴は、石田は、どんな小さな音でも聞くことが出来た。そう言う能力を持っていたんです。化粧品を変えたことまで聞き分けられるくらいの、ね」


「音・・・だけで・・・」
「そう、音だけで。・・・石田は、監視者でも盗聴者でもなかった、強いて言うなら、・・・強聴者だったんです」
「強聴・・・者」
 そうです、と迷流は頷いた。


「いやな能力の事ね」
 美鈴が、ボソリ、と呟く。
「美鈴、能力に良いも悪いもないよ、問題は、その使い方だ。・・・さて、もう少し読み解いてみますか」
 迷流は再び、シートに埋もれ、がっくりと頭を垂れた。



 何時も他人が自分のことをどう思っているのか気になっていた。親しげに近寄ってくるこいつらも、腹の底では何を考えているのか判りゃしない。


 何時も寝るときは一人だった。昼間はあんなに優しい母さんも、夜になれば、茶の間と寝室との間の戸を、堅く閉ざしてしまう。まだ子供だった俺に、その時だけはきつく、絶対に戸を開けるなと言い置いて。俺はおしっこにも行けず、一人寒さに震えて寝た。夜中になって、寝床に戻ってくる母さんは、何故か、何時もと少し違ったにおいがした。


 何時からか、俺は、茶の間の戸の向こうを覗いてみたいと思うようになった。もしかすると、俺は既にそこに何があるのかを知っていたのかもしれない。しかし、覗くことは禁忌だった。覗かない、と言う約束が、夜の間俺と母さんとを繋ぐただ一つの物だったからだ。


 ある日、その日も俺は何時もと同じように、寒さに震えて寝ていた。すると、突然、聞こえてきたのだ、音が、茶の間の音が。耳で聞こえると言うよりは、頭の中に直接響いてくる感じだ。


「アンタ、よく来たね」
 それは明らかに聞き慣れた母さんの声だった。見知らぬ男の声がそれに答える。やがて、二人の会話は、愛の囁きへと変わり、くぐもった喘ぎ声がそれに続いた。


「子供に聞こえちまうぜ」
 男は、そうなって欲しいかのように楽しそうな口振りで、何度もそんなことを言っていた。母さんは、喘ぎ声でそれに答えた。


 俺は、それ以上はどうしても聞きたく無くって布団を頭から引っ被った。しかし、頭の中で響く声は消えなかった。俺には判っていたのかもしれない、すべて自分のせいだと言う事が、タブーを知ろうとした、俺の罪だと言うことが。


 14で俺は家を出た、母さんと再婚した金持ちの男が資金を援助してくれたから、生活には困らなかった。
「苦しくなったらすぐに言いたまえ」
 男は、何時も茶の間の向こうから聞こえてきていた声でそう言った。

(中略)

 隣の部屋のドアが開いた。一人・・二人・・三人。
「これは・・・あまりいい気持ちがしないがどうやら葉韻はいん住工の仕事だね。防音設備も完璧だよ。隣の音が聞こえる筈は無いんだけど・・・」
 男の声だ。落ち着いた、柔らかい声。優男タイプの声だ。・・・何だ?恋人でも連れ込んだのか?


「ええ、そうなんです。ですから私も怖くて・・・探偵さん、どうやって石田は、私の生活を知り得ることが出来たんでしょうか」
 静音の声。探偵・・・ケッ、そんなもんを呼びつけやがったのか。もう一人の変な喋り方をする女は、そいつの助手らしい。三人は、有りもしない壁の穴を捜し始めた。ヘヘッ、笑っちまうぜ、何が探偵だ。俺は聞こえてくる音から、奴らの間抜けな様を想像してひとしきり笑った。


「すいませんね、丹沢さん。うちの助手のためにわざわざ。・・・それにしても、ちょっと失礼かもしれませんが、丹沢さん、独身の女の方にしては、その、随分と暮らし向きがいいような気がするんですが・・・」
「やはり・・・分かりますか・・・実は私、露倉ろぐら家の娘なんです。丹沢と言うのは母の旧姓で・・・」


 んっ?何だ?
「ああ、あの紡績の!・・・しかし、財閥のお嬢さんが何でまた銀行勤めを?」
「私、子供の頃からそれこそ箱に入れられて育てられました。・・・それも、後に結婚の道具として使われるために。私、そう言うの嫌いなんです。自分の生き方ぐらい自分で決めたっていいでしょう?そう言って私、家を出たんです」
「成程・・・」
「でも結局親の手からは逃れられないんでしょうかね、この部屋を見れば分かる通り、なんだかんだ言って、親は援助してくれるんですもの」


 何だ静音の奴、何処の馬の骨ともしれない探偵なんかと親しげに話しやがって。ああ、そろそろ俺は限界だ、何時もの様に怒鳴り込みに行くとするか。

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