伊佐坂 眠井
連載第一回・強聴者
何時もの様に、俺は隣から聞こえるシャンソンで目を覚ました。欧州特有のねっとりとした歌い方に、俺は胃が悪くなり思わずペッ、と唾を吐いた。その間にも隣では、引き出しを開けて口紅を取り出し、鏡の前で化粧が始まる。それなりに高級らしいファンデーションを塗る音が聞こえる。生意気にもマスカラを使っているようだ。ケッ、俺の頬に微苦笑が浮かぶ。これから何処かへお出かけかぁ?全くいいご身分だぜ。
おっ?立ち上がった、何をする気だ?この方向は・・・冷蔵庫だな。遠ざかっていく足音を聞きながら俺はそう確信した。やがて俺の予想どおりに冷蔵庫のドアの開く音がする。飲み物の瓶を取り出す音がして再び化粧台に腰掛ける。ふぅー、とため息をついて口紅を手に取った・・・
いるあるでるおこーるでぃあぶるおこーる・・・ああ、そろそろ俺は限界だ、何時もの様に怒鳴り込みにいくとするか。
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「迷流様迷流様迷流様っ!!」
ドタドタという音と共に美鈴が階段を駆け下りてくる。
「どうしたんだい、美鈴」
迷流藍花は読んでいた分厚い科学書から目を上げるとサングラス越しの優しい目で、彼の小さな助手に尋ねた。
「どうしたもこうしたもないね!見ましたか?今月の「夢幻歎」?」
興奮してまくし立てる助手を後目に、急に冷めた風にああ、と言うと迷流は、
「迷流財閥の宇宙開発のことだろう?」
そう事も無げに言って、再び何事もなかったように、本に視点を戻した。美鈴は不服そうにブーッと頬を膨らませると、黄色い声を張り上げる。
「えーっ、でも迷流様のとこの会社の事ね。少しは気にしても罰あたらんの事よ!」
迷流は、ふう、とため息をつくと本を閉じ、ゆっくりと美鈴に向き直った。そして少し胡散臭げに言う。
「あのねえ、美鈴。私は別に迷流財閥とは何の関わりもないんだよ、現に総裁の座は華隠の奴が継いでるんだし、私は只の気ままな探偵さ」
でもう・・・と、美鈴は尚も何か言いかけたが、それを遮るようにドアが叩かれた。
「さっ、探偵は探偵らしく依頼人のお話でも聞くことにしようか」
腰に手を当てて迷流は、悪戯っぽく微笑んで見せた。
「はーい、入るの事ね!」
ぶつぶつ言いながらも美鈴は分厚い探偵社のドアを開けると、
「どうしたか?こちらは迷流探偵社ね。殺人誘拐身の上相談何でもござれね」
お決まりの台詞を口に出す。依頼人は面食らったように、何度か目を瞬いた。そしてどうにか、あ、あの・・・と、口を開きかけたが、部屋の奥から迷流が、
「どうぞお入りください。話は中で聞きます」
と、言うと何故か諦めたような表情になって、失礼します、と小さく礼をして、誘われるままに部屋の中に入った。
「コーヒーでよかったの事ね?」
美鈴は、確認もとらずに、台所へと消えた。少々呆気にとられた表情で彼女の消えた方を見ている依頼人に向かって、迷流は笑いながら、
「中華人ですよ、美鈴って言います。訳あって私が引き取っているんですよ」 そう言ったが、依頼人は、はあ、と言ったまま俯いてしまった。迷流は所在無げに足を組み替えながら、依頼人を観察した。
美人、である。細面の顔に黒く長い髪が映えていて、落ち着いたファッションセンスがよく似合っている。しっとりとした日本美人なのだが惜しむべき事に、切れ長の目の下に大きな隈ができていた。迷流は、ヒュウーと口笛を吹くと、続けて流行のシャンソンを口ずさんだ。あら?と、依頼人は顔を上げた。
「”鈴の音は魔の調べ”ですね。お好きなんですか?」
ええ、と迷流が答えると、私もなんです、と依頼人は初めて微笑んだ。ドタドタと言う足音と共に、お盆を抱えた美鈴が、その時丁度姿を現した。親しげに笑いあう二人を見て、彼女はブーッと頬を膨らませる。
「ああーっ、迷流様何鼻の下伸ばしてるね!私怒るよ!」
そう言って荒々しくトレイを置いた。依頼人は、今度は、声を上げて笑った。漸く打ち解けた様子の彼女を見て、迷流は、依頼内容を訪ねることにする。
彼女の名前は、丹沢静音と言った。銀行に勤めるワーキングガールだそうだ。話によると、彼女はどうも監視されているらしい。
「監視?」
ええ、と、静音は頷いた。
「私は、その、集合住宅に住んでいるんですけど、その、隣に住んでる男が・・・」
「覗いてる?」
迷流の言葉に、いいえ、と彼女は首を振る。
「覗かれてる訳はないんです。私、壁とかに穴が無いか調べてみました。でも・・・覗かれてるとしか思えないんです」
迷流は首を捻った。
「その・・覗かれてるとしか思えない、と言うのは具体的にどう言う・・」
あっ、すいません、と静音は自分の額を軽く拳で叩いた。
「その、私の部屋の隣に住んでいるのは、男の人なんです。石田とか言う名前の二十代ぐらいの男です」
「はいはい」
「その男が、家に怒鳴り込んで来るんですね。五月蠅い、静かにしろっ、て・・」
「静かに?」
迷流は、芝居じみた仕草で、額に指を当てる。
「静かにって、覗きの話じゃ無いのか?変ね!」
美鈴は首を傾げる。静音は彼女の方を見て小さく笑う。
「先程言った通り、私、シャンソンが好きなんですよね。それで、最初はレコードの音が大きかったのかな、って思ったんですけど、幾ら音を小さくしても怒鳴り込んで来るんです。それで・・・そのうち変なことを言い始めて・・・」
静音は、小さく身震いをした。迷流は、それで?と、優しい声で先を促した。彼女は、一瞬の逡巡の後に話し出した。
「最初は、それこそレコードの音が五月蠅い、としか言ってなかったんですけど、そのうち、私の行動を逐一言うようになったんです」
「行動を逐一?」
ええ、と、静音は不安げな顔で頷いた。
「私が、料理を作ってる様子から、お風呂で体を洗う順番、果ては、化粧品を変えたことまで知っているんですよ。私、もう怖くって・・」
「お風呂まで見られたか?男の風下にも置けないのね!その男!」
「風上だよ、美鈴。それに、覗き穴みたいな物は無いって言ってたろ?」
美鈴の言葉に、堅かった静音の表情も少し和らいだ。
「ええ、こんな事、警察に行っても相手にしてもらえそうになくって・・先生は信じてくれますか?」
「ええ、もちろん信じますとも」
迷流は力強くそう言うと、立ち上がった。驚く静音を見下ろしながら、迷流は、美鈴にコートと帽子を持ってくるように言った。
「さあ、現場に行きましょう。案内して下さい・・・その猟奇、読み解きましょう」