大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第五回・群衆

 結局、火事は遅れてきた消防隊によってどうにか消し止められ、野次は、正式な依頼の許可を取り付けるために、いったん新聞社へと帰った。迷流と美鈴も、それぞれ寝間着を着替えて、朝御飯を食べる。食後のコーヒーを飲んでいると、正式な依頼状を携えた野次が、にこにこしながら現れた。


 野次にもコーヒーを振る舞った後で、迷流は、さて始めましょうか、と言って立ち上がった。三人そろって階段を下りて、火事場へと再び舞い戻る。既に警察によってロープが張られており、現場検証が行われていた。迷流は、その中に知った顔を見つけて声を掛ける。


「やあ、里中君。」
 突然声を掛けられた里中は、一瞬びくっと水を掛けられた猫のような反応をした後で、
「あ、迷流さん、おはようございますう〜。」
 と、ずれたハンチングを被り直しながら、嬉しそうに言った。


「美鈴ちゃんもおはよう、今日も可愛いですね。・・・あれ、何で野次さんが一緒にいるんですかあ?」
「行きがかり上、事件を依頼されちゃってね。」
 迷流はそう言って頭を掻く。
「海苔かかった鮒ね!」
「それを言うなら、乗りかかった船、だよ、美鈴。」
 美鈴とお決まりの漫才(?)をした後で、迷流は里中に尋ねる。


「里中君、中山警部はいないの?」
「今日は非番ですぅ〜。」
「そうかあ・・・一寸ノベリングして良いかな?」 
 迷流が尋ねると、里中は、ああ、そうしてくれるとこっちも助かりますう〜、と言った。


「何しろ目撃者は殆ど居ないし、居たら居たで犯人像はまるで違うし、と訳の分からない状況なんですぅ〜。」
 野次の言っていた話とほぼ同じ様な内容のことを里中は言った。迷流は、成程、と頷いて、ロープの内側に入っていく。辺りを見回した後で、振り返って里中に尋ねる。


「里中君、何処が出火元か分かりますか?」
「あ、こっちですぅ〜。」
 里中に案内されて、ビルの裏手の路地に回り込む。美鈴と野次も黙って付き従った。


「どうもこの辺りに灯油を撒いた後で火を点けたらしいんですぅ〜。」
「野次さんの言った通りね!」
 美鈴が言うと、野次は、
「いやあー、それほどでもありますよ、はい。」
 そう言って頭を掻いた。

 迷流は黙ってその場所に近づいていくと、目を瞑って、精神を集中させた後で、再び目を開いた。開かれた目は、遠くを見ているようでいて、今ここに存在している物は何も見ていない。よく見てみると、迷流の瞳は、かすかに水色に光っている。
 ”場所”の”ノベリング”。


 通常、何か重大な事件のあった場所には、”場所”の記憶が残る。それは、犯罪者の情念かもしれなければ、被害者となった人物の無念の記憶かもしれない。迷流は、その様な”場所”に残された人の記憶を”ノベリング”によって読みとることが可能なのだ。しかしそれは、人の記憶から物語を作る通常の”ノベリング”に比べると、かなりつらい作業であった。


 他の三人が固唾をのんで見守る中、迷流は暫くすると、ふう、と、大きく息をついた。そして疲れた顔をしてゆっくりと振り返る。
「どうでした?」
 勢い込んだ野次の言葉に、しかし、迷流は首を横に振った。


「ちょっと・・・、おかしいんです。」
「おかしい?」
「ええ、この場所には確かに、強い情念が残っているような気がするんですが、どうもそれが、意志を持った人間の物とは思えないんです。」


「どう言うことですかあ〜?」
 里中が首を傾げた。迷流は、困ったようにこめかみを何度か指で叩いた。
「ここには確かに、放火を行ったと思える人物の思念が残留しています、しかし、その思念が、普通の人間の物とは違って、ただ一つのことしか考えていない。」


「一つの・・・事?」
 問いかけた美鈴に迷流は大きく頷いて見せた。
「炎は、美しい。美しいものを見たいってね。」
 一瞬訪れる沈黙。やがて美鈴が怖ず怖ずと、しかし拍子抜けしたように言う。


「それ・・・だけ?」
「それなら、まあちょっと変わっていますが、放火の動機としては別におかしくはないですね、はい。」
「そうですぅ〜。」
 野次と里中も口々にそう言った。迷流は、少し考えてから言った。


「うーん、なんて言ったらいいのかなあ、確かに野次さんの言うように動機として、炎を、美しいものを見たい、と言うのは別におかしくはないですね。でも、そこに至るまでの過程、私が普段物語として語る、犯罪に至る過程が欠如しているんです。だから、”ノベリング”が出来なかった・・・というわけです。」


「犯罪に至る・・・過程。」
 呟いた里中に、そうです、と迷流は頷いた。
「このビルに火を点けた犯人は・・・ただ、ビルに火を点けただけなんです。」


「じゃあこの事件の犯人は・・・。」
「ええ、今のところ全く手がかりなしです。」
 あちゃあ、と言って、里中と野次が頭を抱えた。どうするね?と、美鈴が小首を傾げる。迷流もどうしようか?と逆に美鈴に聞き返す。見かねたのか、野次が提案する。


「じゃあ、取り敢えず新聞社に戻って資料を調べてみますか?」
 迷流はそれに賛同した。何か分かったら情報を交換することを里中に約束して、その場を立ち去る。


 野次の勤める東都日日新聞社は、迷流の住む草苅くさかりからそう遠くない、坂本町の一丁目にあった。坂本町は、出版社のビルや、本屋、古本屋の建ち並ぶ、文芸の街として知られている。「歎異抄」を出版している、貴知久出版も、この街の三丁目にある。


 思っていた以上に立派な建物に、美鈴が歓声を上げる。
「高いの事ね!」
「そりゃあ、一応は東都第二位の新聞社ですからね、はい。」
 野次は苦笑しながらそう言った。野次の書いている、いわゆる「三面」記事の部署は、建物の四階にあった。迷流が部屋の中に入ってくると、一瞬の沈黙があり、その後で女性記者の黄色い声が響いた。握手責めに合っている迷流を見て、美鈴が複雑な表情をする。


 社員達の狂乱が終わるのを見計らったように、恰幅の良い、にこやかな表情をした男が迷流に近寄ってきた。男は迷流に握手の手を差し出す。
「どうも、この度はうちの野次君のお願いを聞いて下さったそうで。私はデスクの渕上ふちがみです。どうぞ宜しく。」
「こちらこそ。」
 迷流は、力強くその手を握り返した。渕上の案内で、迷流は新聞社の資料室に通された。


「今回の連続放火事件には、我々も首を捻っているんですよ。セオリーを無視しているってね。」
 渕上は資料を取り出しながらそう言った。
「ええ確かに。どうも発生している場所に納得がいきませんね。」
 迷流はそう相槌を打つ。それだけじゃないんですよ、と、渕上は資料を机の上に並べながら言った。 


「と、言いますと?」
「うむ。場所には規則性がない代わりに、時間には妙に規則正しいんですよ。」
 えっ?と、野次が声を上げた。
「それは僕も気がつきませんでした、はい。」
 それを聞いて、渕上は、野次君らしいなあ、と笑った。


「全ての事件の現場に居合わせたくせに、何とぼけたことを言っているんだい。えーと、ですね。事件はどれも日の出前、それも本当に朝日の出る直前に起きているんですよ。確かにその時間なら人目につかないだろうけど、どうせだったらもっと真夜中にでもやれば良いもんだと私は思いますね。これじゃあまるで、」
 渕上はそこでちょっと息をついた。


「見つかりたいみたいだ。」
「見つかりたい・・・見て欲しい、か。」
 迷流はそう言って、顎に手を当てると考え込んだ。その間に、渕上と野次の二人から、事件のだいたいの概要が伝えられる。放火事件が最初に発生したのは、港にほど近い長谷川町であり、この時燃やされたのは、取り壊しがもう決定していた廃屋だった。その後事件は、神嘉戸かみかど、松尾二丁目、度目樹どめき眠り谷ねむりだにと続いて、今日の草苅に至る。それぞれの事件は、四日と間をおかずに発生していた。最初の事件こそ、死人も怪我人も出なかったが、一般の民家が燃やされた松尾二丁目や、度目樹の事件では、それぞれ死人が出ていた。


「成、程、ねえ。」
 迷流はそう言いながら大きく伸びをする。美鈴は飽きたらしく、並べられた写真を弄っている。
「全く一貫性がない、か。」
 そこで迷流は、美鈴の弄っている写真に目を付けた。


「美鈴、その人だかりの写っている写真は何?」
「ああ、僕が撮った、放火事件の野次馬達の写真です、はい。」
 知らないね、と答えた美鈴に代わって野次がそう答えた。素晴らしい、と迷流は手を打った。


「燃えている建物だけじゃなく、野次馬までみんな撮っていたんですね、さすが野次さん。・・・全部の事件の分があります?」
「ええ、さっきの事件のは、現像がまだですが、はい。」
 よしよし、と迷流は手をたたき合わせる。


「野次さん、探しましょう。」
「え?」
 野次は不思議そうな顔で聞き返す。
「”犯人はもう一度、群衆として現れる”、ですよ、野次さん。」
 そう言って迷流はウィンクをする。野次は、ああ!と、声を上げた。
「でも、いちいち見分けるのは大変じゃないのかね?」
 渕上がそう言うと、迷流は、
「ええ、ですから、寝間着姿じゃない人物をそれぞれの写真から捜すんです。犯行があったのは全て早朝なのですよね?だったら今朝と同じように、寝間着姿の人が多いはずです。私が野次さんに気づいたのも、野次さんが普段着を着ていた所為ですからね。」
 そう説明してみせる。おお!と、渕上は手を打って笑顔を浮かべた。


「さすがは、東都の名探偵だ!」
 それを聞いて、半分は私のお手柄ね、と、美鈴が言う。声を上げてみんな笑った。


 小一時間ほどした所で、六ヶ所全てとは言わないまでも、三カ所の現場に普段着姿で写っている人物が浮かび上がった。
「これは・・・」
「今朝の厭な人ね!」
 それは藍群清人だった。線の細い顔、小さな縁なし眼鏡、間違いがない。


「おいおい、こいつを知っているのか?」
 渕上が驚いた様子で、三人に問いただす。
「ええ、私が今朝インタビューした人です、はい、いやあ、驚きました。」
 渕上は、おいおい、ともう一度言った。
「こいつはどえらいスクープじゃないか。」
 そして満足そうに顎を撫でた。
「じゃあ、後は早速、こいつの居所を・・・」


 渕上がそこまで言いかけたとき、女性社員が資料室に駆け込んできた。彼女は慌てた様子で、迷流に向かって叫ぶ。
「迷流さん!警察の里中という刑事さんからお電話です!」
「里中君から?なんだろう?」
 迷流は首を傾げながら電話を取りに行った。電話に出ると、興奮した様子の里中の声が鼓膜に響いた。


「どうしたの?里中君?」
「ああ、迷流さん、大変なんですう〜!」
 呼吸を整えるために、一瞬の間があった。
「犯人が・・・放火事件の犯人が、自首してきました!」

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