大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第五回・群衆

 私は、美しいものが好きだ。それもただ美しいものではない。
 美しさというのは、儚く、切ないもののことだ。人の夢のように捕らえ所が無く、刹那の時しかその形をとどめていることが出来ない。


 日本の四季は、移ろいやすいからこそ価値がある。女性の美しさもまた然りだ。子供のあどけなさと大人の色香、それらが綯い交ぜになった危ういバランスの上に立っているとき、少女は一番輝いている。
 従って、儚ければ儚いほど、切なければ切ないほど、そのものは美しいと言える。


 街に出てみるが良い。
 そこにいるのは群衆達だ。個としての性格づけをされないまま、ただ固まり、頭の悪い台詞を何度も繰り返しているだけの、愚かな存在。しかしそれらの想いが寄り集まったとき、それは思いもよらないほど、強い力となる。さながら、醜い青虫が彩り鮮やかな美しい蝶へと変化するような、胸のすく変容。


 しかしそれは普段、野放図に飛び交ったあとで、何処へともしれず消えてしまう。所詮奴らが群衆に過ぎない所以である。だから後を押してやる必要がある。勝手気ままに飛び交う意志を纏めてやる必要がある。それが出来るのは、祝福された存在である私だけだ。群衆の中にあって、その中でも個を保っていられる私だけなのだ。私は奴らの中にいて、そっとその背中を押してやるだけで良いのだ。
 美しいものを演出するためには。


 さてと、漸く目的地に着いたようだ。軍の払い下げの灯油タンクを、地面に置いて私は、そっと息をついた。休息もそこそこに、私は、ゆっくりとその中身を撒き始める。焦ってはいけない。私は、これから始まる宴のことを思って、自然と頬がゆるむのが分かった。マッチ箱を懐から取り出すと、一本に火を点けて、それを箱の中に入れて、素早く投げる。どうせもう私は使うことがない。炎が赤々と燃え上がる。私は、人が集まるまでの暫くの間、身を隠すためにそこをいそいそと立ち去った。

 その日、迷流藍花は、美鈴に起こされることなく目を覚ました。香ばしい香りが漂ってくる。美鈴の朝御飯の匂いかと思ったが、迷流は寝床で首を振ってその考えを否定した。


 ・・・少し香ばしすぎる。枕元のサングラスを掛けて、身を起こすと、開けっぱなしになった窓が目に入った。迷流は、春にしては珍しく蒸し暑かった昨日の夜、窓を開け放して寝ていたことを思い出した。
 匂いはそこから漂ってくる。いや、匂いだけではなく、薄い煙まで部屋の中に進入しようとしていた。迷流は慌てて窓の下まで駆け寄った。


 辻向かいのビルが燃えていた。消防団が到着して、既に消火活動は始まっているものの、炎の勢いは凄まじく、その赤い舌を天に向かってちろちろと伸ばしている。通りには、もう随分と野次馬が集まっていた。


「迷流様、火事ね!」
 不意に背後の扉が開いて、やはり寝間着姿の美鈴が部屋に駆け込んできた。
「あ、珍し、迷流様もう起きてたね」
 窓に張り付いている迷流を見て、美鈴はそう言って、迷流の隣に来て、窓から身を乗り出した。


「うわー、随分燃えてるの事ね!」
 美鈴は、両足をばたばたさせながら、そう感想を述べる。
「危ないよ、美鈴」
 迷流は苦笑しながらそう言った。


「降りて見に行こうか?」
 迷流の誘いに美鈴は大きくうん!と、頷いた。迷流様、煙入らないように窓閉めるね、と言うや先頭を切って階段を下りていく。もう一度苦笑して迷流は、窓を閉めて後に続いた。


 迷流の探偵事務所は、「伊坂ビルヂング」と言う雑居ビルの二階にあり、三階が迷流と美鈴の住居になっている。元々は何かの会社が入っていたらしく、二階から三階へは、廊下に出て部屋の外の階段を登らなくても、中から登っていけるようになっていた。


 迷流はジャケットを、美鈴はちゃんちゃんこをそれぞれ羽織っただけで、事務所のドアを開けて、階段を下りて外に出る。濃密な木の焼ける匂いがした。野次馬はさっき見たときよりもかなり増えているようで、その殆どが迷流達と同じように、寝間着に何かを羽織っただけの軽装だった。


「こいつは・・・凄いな」
 迷流は思わずそう呟いた。下から見上げると炎はますます大きく見えた。
「ちょっと・・・綺麗ね」
 美鈴の言葉に迷流は、ちょっとそれは不謹慎だよ、と言いながら苦笑した。もし自分のビルが火事になったらこんな風には落ち着いていられないだろう、ある程度余裕を持って炎を眺めていられるのは、あくまでもこれが他人事であり、迷流が群衆の中の一人に過ぎないからである。実際、火の粉を巻き上げて燃え盛る炎は、美しかった。


「おや・・・?」
 迷流は群衆の中に見慣れた顔を発見して、少し背伸びをした。色とりどりの寝間着の中で、きちんとワイシャツにネクタイ姿の小男がいる。
「どうしたか?」
 美鈴が不思議そうに迷流に顔を寄せる。迷流はしっ、と唇に人差し指を当てた。


「野次さんだ、捕まると長い」
 あいや、と言って美鈴は首を竦めた。男は、「東都日日新聞」の事件記者をつとめる、野次馬男やじうまおだった。取材に賭ける執念深さと、機関銃のような喋りに定評のある記者で、過去に迷流も幾たびか取材を受けたことがあった。


(悪い人ではないんだけどね・・・)
 正直言って迷流は取材を終えた後、かなりぐったりとしたのを覚えている。野次は愛用のメモ帳と万年筆を片手に、インタビューの最中だった。耳には赤鉛筆がさしてある。野次がインタビューしている相手も、野次と同じように寝間着姿ではなく、普段着姿だった。カジュアルな服装で、どれも仕立ての良い物らしく、また、着こなし方も決まっている。縁なしの細い眼鏡を掛けており、いかにもインテリと言った線の細い風貌だ。二人の話している声を、迷流は盗み聞く格好となった。


「・・・そうですね、これだけ見事に燃えてくれると、ある意味芸術と言っていいほどの美しさが生まれるとは思いませんか?計算されたものではない、一瞬の芸術。炎というのは見ていて飽きませんね・・・案外犯人の目的もそう言った所にあったのかもしれませんね」


「成程、成程」
 インテリ青年の弁舌に、野次は神妙な顔をして、しきりに頷いていた。野次の顔には無精髭がかなり目立っている。こんな朝早くから出張っているところを見るに、この人は果たして何時休んでいるんだろう、そんな疑問が迷流の頭をもたげた。迷流がそんな感慨に浸っていると、インテリ青年が、不意にこちらを見て笑った。つられて野次もこちらに振り向く。不味い、と、思ったがもう遅かった。野次は爛々と目を輝かせて迷流の方にやってきた。


「いやあー、誰かと思えば東都に名を轟かす名探偵、迷流藍花さんじゃあありませんか。お久しぶりです、東都日日新聞の野次馬男です、はい、いやあ、そう言えば迷流さんの探偵事務所はそこのビルでしたね。丁度良かった、一石二鳥三鳥おまけに四鳥、迷流さんのご意見を拝聴したい次第であります、はい」


 美鈴があいやー、と言いながら顔を覆った。迷流は苦笑しながら取材に応じる決心を固めた。
「全く野次さんにはかないませんね、だいたい何でこんな朝早くから現場に駆けつけているんですか」
 野次は高らかに笑って頭を掻いた。
「いやあっはっはあ、そこはそれ、事件記者の嗅覚、って言う奴ですよ。西に人死にがあると言えば飛んでいき、東に強盗が立て籠もれば即座に参上する、それが完全熱血事件記者、野次馬男ですよ!はい」


 完全、と言うのはなんだろう、と思いながら迷流はひきつった笑いを浮かべる。と、先程まで野次と話していたインテリ青年が野次を押しのけて前に出てきた。インテリ青年は、眼鏡の縁を押さえながら、甲高い声で迷流に話しかけてきた。


「やはり貴方が名探偵の、迷流藍花さんですね、いやあ、雑誌で見たとおりです。是非、お会いしたいと思っていたんですよ」
「貴方は・・・?」
 インテリ青年は、ばつが悪そうな顔になって頭を掻いた。
「ああ、失礼、申し遅れました。私は、藍群清人あいぐんきよひとと申します。迷流さんのご活躍は、雑誌や新聞などで良く拝見させていただいております」


「はあ、それはどうも」
「迷流さんでしたら、この連続放火事件も快刀乱麻の名推理で解き明かすことが出来るのではないのですか?」
 藍群は、すっと目を細めると、囁くような声で言った。迷流の背中を、一瞬だけ寒気が走る。迷流は直接質問には答えずに、野次に向かって尋ねた。


「野次さん、と、言うことはこの火事も付け火なのかい?」
 野次は、うん、と頷く。
「恐らく・・・そうですね、はい。このビルは飲食店ビルじゃあないから火の気はないし、こんな朝早くに従業員も来てはいないでしょう。それに、木の匂いに混じって、燃える水の匂いが最初のうちしていましたからねえ、はい」


「と、言うことは・・・」
「これでもう六件目になりますね、はい」
 この連続放火事件は今月の中旬頃から発生していたもので、この前の薄野深舞香による連続通り魔事件と丁度入れ替わるように始まっている。また連続かよ・・・、と中山警部が頭を抱えていたのを迷流は思い出した。


 そもそも放火事件という奴は、目撃者が現れにくい、その上、今回の事件では、放火の発生する地域はてんでバラバラの上、数少ない目撃証言にもいまいち共通性が見出せない状況だった。


 うーん、と、迷流は唸った。 
「普通放火事件って言う奴には、一貫したパターンって言うのがあって、それは大抵自分の家から離れたある付近一帯を同心円上に狙ったりする物なんだけどねえ、・・・今回の事件には、どうも一貫性がないねえ」
「成程、成程」
 野次は一心不乱にメモ帳にペンを走らせている。それを覗き込んで美鈴が、すごい早いね、と呟く。迷流は何度かその中身を見たことがあるが・・・それは読めたものではない。


「でも、だからこそ犯人像が見えてこない、とも考えられますよね」
 藍群はにこにこと笑いながらそう言う。迷流は、そうですね、と、笑った。
「まあ、後一つ言えるとしたら・・・」
「はい、言えるとしたら!」
 あれだね、と迷流は被っていたナイトキャップを弄った。
「あまりにも有名なセオリー、犯人はもう一度現場に戻って来るって言うやつ。自分の作品を鑑賞するため群衆の一人としてね。ま、私は探偵だから、依頼を受けた仕事以外には、大したことを言えませんね」
 そう言って笑う。野次は、うーん、と考え込んだ。


「どしたね?」
 と、美鈴が尋ねた。野次は、ええ、と答えながらさらに唸る。
「依頼・・・しましょう」
「はあ?」
「我々、東都日日新聞が貴方にこの連続放火事件の解決を依頼しましょう、はい」
 野次は妙にさばさばした顔で言った。迷流は少し慌てる。


「野次さん、依頼するって、どう言うことです?」
「ええ、我が新聞社で貴方に事件を依頼すれば、事件解決の暁には、うちが独占で報道できますからね、はい」
 野次はあっさりとそう言いきった。
「ちょっ、そんなこと野次さんの一存で決めちゃって良いんですか?」
「ええ、うちの編集長、結構遊び心のある人ですから。それにもし駄目と言われても、依頼料はちゃあんと僕のポケットマネーから出しますから、ご心配なく」


 それを聞いて、高らかに藍群は笑った。
「ははははははは!これは面白い事になってきましたね、貴方の所の新聞はこれから毎日チェックしなくては・・・、おっと、もうこんな時間ですか、そろそろ私は行かなければなりません、それでは、探偵さん、頑張って下さい」


 言いたいことだけを言って笑いながら去っていく。その姿が小さくなってから美鈴がボソリ、と、私なんかあの人厭ね、と言った。
「知り合いですか?」
「いや、偶々インタビューしていただけですよ、はい」
 迷流が聞くと、野次はあっさりそう答えた。
「そうですか・・・」


 立ち去る藍群の背中を眺めながら、迷流は何かが胸の中にわだかまっているのを感じた。この感じは、能力者に相対するときの物に似ていた。実は、野次馬男は、自分で気づいているかどうかは分からないが、能力者である。野次が事件の起きる現場にしょっちゅう居合わせるのは、実は偶然ではない。事件を嗅ぎつける能力、それが野次の持つ能力だ。迷流の”ノベリング”は、能力を持つ物に対して、胸騒ぎという形で、良く反応するという性質を持っている。


 尤も、当の本人が能力を隠蔽している場合は、詳しいことまでは分からないのだが。
 てっきり先程から感じていた悪寒は、野次の持つ能力に”ノベリング”が反応しているとばかり思っていたが、どうやら、藍群も何らかの能力を持っているらしい。
 それがこの事件と関係あるかどうかは全く分からないのだが。


 迷流は取り敢えず、そこで考えるのを止めて、野次に向き直ると言った。
「取り敢えず、その猟奇、読み解くことにしましょうか」

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