大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
連載第六回・完全な私の為に
1
羽馬谷良澄はまだによしずみの住む屋敷は、緑果りょくかの高級住宅街の、特に広い一角にある。海外からの自動車の輸入によって財をなした羽馬谷は、最近では、国内工場による国産車両の生産にもあたっていた。
妻とはまだ若いうちに死別しており、それ以降は独身を通していた。やり手の実業家としての顔の他に、大変な子煩悩で知られる彼は、妻との死別後、一人娘の仁美を、文字通り目の中に入れても痛くないほど可愛がっていたという。
羽馬谷は、壮健な人物として知られており、今回の訃報は、まさに青天の霹靂と言った具合で、各界に与えた衝撃は、かなり大きな物だったという。
「不審死・・・か。」
屋敷のホールの大きな柱に寄りかかりながら、迷流は誰にともなく、そう呟いた。そしてその後すぐに、職業柄とはいえ、そんな事を考えてしまっている自分に苦笑した。
今日はさすがに迷流も、いつもの服装というわけにはいかないので、舶来品の黒いスーツに、普通の黒いネクタイを締めている。ただ、トレードマークのサングラスだけは何時もと同じように鼻の上に載せているので、迷流と分かる人は近づいてきて握手を求めてきて、迷流を知らない人は、不作法者め、と顔を顰めていた。
何時も一緒にいる美鈴は今日はついてきていない。葬式に連れてくるのも何だし、事務所で留守番させておくのも可哀想なので、今日は休暇を与えてあった。これだけ沢山の人の集まる葬式というのは、迷流にしてみれば、幼い頃実母を亡くしたとき以来だが、ただただ悲しく慌ただしかった思い出しかない、その体験に比べると、今日のこの葬式は、人々がタキシードやドレスの替わりに喪服を着ているだけの、パーティーめいた騒々しさだけが感じられた。
実際読経と、弔辞、長い列の先頭の方に上手いこと居合わせて、大した感慨もないまま焼香を済ませた後では、人々は待合室代わりに使われて、軽食やアルコールが並べられているこのホールで、適当に歓談しているばかりである。迷流は自分は、一体何時まで参加していればいいのだろう、と、帰ることばかり考えていた。と、その時、
「探偵さん!」
嬉しそうな、女性の声がした。振り返ると、喪服を着た丹沢静音にさわしずねが微笑んで立っている。艶やかな黒い髪を、今日はアップにしている。心なしか、この前より顔の輪郭が丸みを帯び、血色が良くなったようだ。
「・・・丹沢さん!どうしてここに?」
迷流は驚いて、そう尋ねる。静音は、困った話なんですよ、と、言いながら苦笑した。「祖父は風邪で寝込んじゃうし、父は抜けられない会合、弟の和葉かずはは、大迫へ出張とか言う事で、無理矢理私が出席させられたんです。」
どこかで聞いたような話だった。
「でも良かったですわ、お陰で探偵さんに会うことが出来たんですもの。探偵さんは、どうして出席なさったの?」
成程そう言うことか、と、迷流は思った。恐らく露倉ろぐら家の社長、露倉屑葉くずはの陰謀だろう。それに迷流藍歳が一枚咬んだのだ。しかし葬式を逢い引きの場所にするとは、何と不謹慎な親父どもだろう。迷流は思わず吹き出しながら言った。
「いえね、父は抜けられない会合、弟の華隠は、大迫へ出張とか言う事で、無理矢理、しかし好意でもって私が出席させられたのです。」
静音は、えっ?と言いながら目をぱちくりとした。そして何かに気がついたような顔をすると、頬を真っ赤に染めた。
「いやだわ・・・お父様ったら・・・」
「ははは、一応粋な計らいだと誉めてあげましょうよ。・・・ただ場所は・・・あれですが。」
それを聞いて、静音も笑った。迷流はその笑顔を見つめながらしみじみと呟く。
「しかし・・・久しぶりですね。あれから・・・二ヶ月ぶりになりますか。元気にしていましたか?」
静音は、はい、おかげさまで、と言って笑った。
「探偵さんこそ、お元気でしたか?松尾町の通り魔事件や、万屋邸の殺人事件を解決したという、ご活躍は耳にしておりましたけど。」
ええ、元気でした、と迷流は微笑む。二人はそれから暫くの間、料理を突っつきながら、世間話に花を咲かせた。
「あら・・・」
静音は、何かに気がついたように声を上げる。
「どうしました?」
迷流が尋ねると、静音は、ほら、あそこ、と言いながら柱の影を指さした。言われるままそちらに目を向けると、黒いドレスを着た少女がお腹の辺りに手をおいて、所在なげに床を見つめながら黙って立っていた。
「あの子・・・確か仁美ちゃん。・・・羽馬谷さんの娘さんです。」
静音はそう言うと、迷流のリアクションを待たずに、少女の元に歩み寄った。
「羽馬谷・・・仁美ちゃんよね?」
「お姉さん、だあれ?」
少女は小首を傾げながらそう尋ね返した。緩くウエーブのかかった漆黒の髪、磁器のように白い肌の中に、吸い込まれそうな黒く大きな瞳。これなら羽馬谷氏が目の中に入れても痛くないほどに可愛がっていたのも分かる気がした。
「私は、うーん、貴方のお父様と私のお父様がお友達だったのよ。」
「そして私は、探偵だ。」
静音の後ろからずい、と姿を現しながら、迷流はそう言った。
「探・・・偵?」
仁美は、ただでさえ大きな瞳をさらに見開いた。
「そうよ、すごい探偵さんなんだから。」
「誰を・・・捕まえに来たの?」
捕まえになんて来てないよ、と、迷流は笑った。
「僕の父さんもお嬢ちゃんのお父さんとお友達だったんだよ。」
そう、良かった、と少女は笑った。幼さの中に、大人の色気を潜めた、その気がない迷流でもドキッとしてしまうような微笑みだ。
「仁美ちゃん、今回はお父さんがこんな事になってしまって、大変だったわね。」
静音が心底残念そうな口振りで言った。少女は、少しの間下を向いた後で、顔を上げると、ううん、と首を横に振った。
「大丈夫よ、私。お父様は、私の中でずっと生きていくことが出来るんですもの。お母様だってそう、お父様の中で生きてらっしゃったんだわ。だから、私、平気ですわ。」
「そう・・・強いのね、仁美ちゃんは。」
静音はそう言いながら、仁美の頭を撫でた。
そう、何と強いのだろう、この少女は。迷流は思い、そして想い出す。
延々と何処までも続く長い鯨幕。見たことの無い人々の群。読経の音が何時までもたゆみ無く聞こえ、桜の花びらが舞い散って庭の隅に吹き溜まる。
迷流は幼い華隠の手を引いて、どうにかしてその事態を受け止めようとしていた。白木で出来た棺桶の中には、白百合の花と菖蒲に包まれるようにして、美しさを露ほども損ねることの無いまま、彼の母親が眠っていた。
「母様どうして眠っているの?もうお日様はあんなに高いところにあるのに。」
幼い華隠が袖を引いている。迷流は何も答えずに、華隠の頭を撫でた。
その時、迷流は父親の涙を見た記憶はない。それは、彼の背中しか眺めていなかったからだろうか。それとも、彼は本当に泣いていなかったのだろうか。
「これより出棺します!」
迷流はその声で、現実世界に引き戻された。
奥の間に飾られていた棺桶が、ゆっくりと係員の手で、外へと運ばれようとしている。そこで迷流は、妙なことに気がついた。棺桶には、普通顔のみえる覗き穴がついているはずだが、この棺桶にはそれがない。そう言えば上の空だったから気づかなかったが、焼香の時も死体の顔を拝んでない気がする。
「やあ、迷流君。」
迷流の思考は、突然の呼びかけによって遮られた。
「な、中山警部!何故ここに?」
中山警部は、迷流の横の静音を見て、こりゃお邪魔だったかな、とおどけて見せた。そこで気がついたが、一緒にいた筈の仁美の姿が、いつの間にか無かった。
「いやね、・・・君こそ誰が依頼したんだい。ここにいるって言う事は、羽馬谷氏の死亡原因を突き止めるためだろう?」
中山警部はそう言って首を捻った。
「と、言う事は、やはり羽馬谷氏は不審死だったんですか。・・・中山警部、僕は今日は普通の弔問客ですよ。ただ、一寸気になりますね、その話。」
「警部さん、じゃあ、羽馬谷氏は殺されたのですか?」
迷流の台詞に続いて、静音が中山警部に尋ねる。中山警部は、誰だい、この美しいお嬢さんは、と、逆に迷流に尋ねる。
「丹沢静音さん、過去に僕が事件を解決して差し上げたことがあるんです。」
静音は警部に礼をした。
「ふうん、探偵君も隅に置けないなあ、まあ、それは良いとして、確かに羽馬谷氏の死因には、不審なところがあるんだ。ただ、はっきり他殺と断定できるようなものじゃない、今、吉崎医師が死体の解剖に当たっている。だから、あの棺桶の中は実は空っぽなんだよ。・・・ま、中身が入っていても見せられるような死体じゃないけどね。」
「見せられるような死体じゃない?」
ああ、と中山警部は、白木の棺桶を目で追った。
「死体は、カラカラに干からびていた。多分、衰弱死だろうな。」