大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

連載第六回・完全な私の為に

 結局、迷流と静音は中山警部に付き合って警察署までやってきた。
 署では、既に解剖を終えて、お茶を啜っていた吉崎医師が、警部の到着を待っていた。中山警部の顔を見ると、吉崎医師は、縁無し眼鏡の奥の小さな目を細めて笑って、椅子から立ち上がって両手を広げた。


「やあ警部、待っていたよ、おや・・・、探偵さんも一緒だったんだね。それにその綺麗なお嬢さんは誰なのかな?」
「こんにちは、吉崎医師。こちらは丹沢静音さん、僕が昔事件を解決して差し上げた事があるんです。」
 迷流がそう言うと、静音は、丹沢です、と言ってお辞儀をした。吉崎です、どうぞ宜しくね、と、吉崎医師はおどけた仕草でそれに応えた。


「で、医師、死体の解剖結果はどんな物だったんです?」
 中山警部は、椅子に腰掛けて、紙巻きに火を点けながら言った。それを見て、迷流と静音も腰を降ろす。吉崎医師は、うんうんと唸りながら腰を降ろした。


「死体の陰茎及び下腹部からは、大量の愛液が検出されている、従って、衰弱の直接的な原因は、おそらくは性行為に依るものだね。」
「性行為・・・、と言うことは腹上死なんですか?」
 中山警部がそう言うと、吉崎医師は、複雑な表情で腕を組んだ。
「うん、腹上死って言うのはね、一般的に言うと、性行為に伴って起きた心臓や、呼吸器系の異常による死なんだよね。まあ、だから例えば、それが自慰行為によってもたらされた物だとしても、それは腹上死として診断される訳。尤も、腹上死の場合普通、死亡診断書上では、直接的な死因である心臓発作などが死亡理由の欄に書かれるけどね。」


「それが・・・どうかしたんですか?」
 中山警部は、思案顔で紫煙を吐いた。吉崎医師は、僅かに顔を顰めた。
「警部、煙草は体に毒だって何度言ったら分かるんだね?・・・まあいい、とにかく腹上死だったら、こんな風に衰弱死することはある訳がないんだよね。羽馬谷さんは、文字通り、精気を搾り取られて死んだ訳だね。」


 そんな・・・と、静音は口元を押さえた。迷流は、顎の辺りを手で押さえて真剣な表情を作った。
「・・・。じゃあ、殺人なんですか?これは。」
 中山警部の言葉に吉崎医師は、多分ね、と頷いた。
「幾ら相手のことを好きだって、ここまですることはないだろうね。・・・何らかの殺意を持った物の仕業としか思えないね。ただ・・・そうなって来るといろいろと疑問が浮かんでくるんだよね。」
「どうやって、羽馬谷氏に抵抗される事無く事を進められたのか・・・。」
「そして、どうしてそんな事をする必要があったのか、ですね、警部。」
 中山警部の後を受けて、迷流がそう言った。うむ、と中山警部は慇懃に頷いた。


「と、なると、ごく普通に考えると、犯人は女か、よし、里中に羽馬谷氏の身辺を洗わせてみることにしよう。」
 そう言って、席から立ち上がる。
「探偵君はどうするんだい?」
「何時も通りですよ、事件が一寸尋常なものじゃなくなったら呼んで下さい。・・・さて、静音さん、行きましょうか。」
 迷流はそう言って立ち上がった。中山警部と吉崎医師に挨拶をした後で、静音と並んで警察署を出る。


「探偵さん・・・この事件、どう思います?」
 歩きながら、静音はそう尋ねてきた。突然の質問に戸惑いながらも、迷流は考え込む。
「・・・うーん、そうですねえ、確かに女の人の犯行に違いはないだろうけど、どうしてそんな事をする必要があったのかがよく分からないですね、やっぱり。相手の精気を全て搾り取るなんて、よっぽど相手を恨んでいたか・・・それとも相手の全てがそれほどまでにも欲しかったのか。」
「そんな・・・。」
 静音は、少しの間絶句した。そして、意を決したように言う。
「そんな理由で、仁美ちゃんは、お父さんを殺されてしまったと言うんですか?そんな理由で・・・。探偵さん、私、この事件の解決を貴方に依頼します。」


「えっ?」
 迷流は戸惑った。
「ほ、本気ですか?静音さん。」
 静音は力強く頷く。
「だって、仁美ちゃんは、これで両親を二人とも亡くしてしまったんですよ。可哀想じゃないですか。」
 ・・・。両親を二人とも亡くす、か。確かにそれはどんなに悲しいことだろうか。いまいち迷流には実感が湧いてこない。果たして、自分は、藍歳が死んだとき、どのような気持ちになるのだろう、妻が死んだとき、藍歳はどんな気持ちだったのだろう。


 迷流は、肩を軽くすくめて、微笑んだ。
「分かりました。それじゃあ、取り敢えず、事務所の方に行きましょうか。」
 しかし静音は、それには反対した。
「一寸お待ちになって、その前にお菓子屋さんに寄っていきますわ。」
「え?」
「手ぶらで行っては、探偵さんの可愛い助手に申し訳ないでしょう?」
 静音は、そう言って迷流にウィンクをして見せた。

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