大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
連載第六回・完全な私の為に
私は、世間一般では、お嬢様と呼ばれているようです。私自身では、あまりそう言ったことを自覚してはいません。ただ、人に言わせると、私の行動は、それ以外に形容する言葉がないのだそうです。
私には、よく分からないことがあります。「愛情」、とは何なのでしょう。「人を好きになる」と、言うのはどう言うことでしょう。友達に言わせれば、それは、とてもドキドキして、自分で自分の気持ちを押さえ込めなくなることなのだそうです。
私がお父様を好きな気持ちと一緒かしら、と言うと、友達は、ころころと笑って言いました。
「ほんとに、
私には何のことだかさっぱり分かりませんでした。
お嬢様という言葉が、もし、何不自由なく暮らしている、と言うことを表すのだとしたら、それは私には当てはまらない言葉です。私には、何時も、何かが足りない、と言う感情がつきまとっています。
それが何かは、本当は私にも分かっているはずです。でも、私は何時もその事と向き合おうとしていないだけなのです。
私には、お母様がいません。
・
「一寸待って下さい、何で私がそんな物に出席しなくてはならないんですか!?」
ここは、東都は草苅、「伊坂ビルヂング」二階の迷流の探偵事務所である。迷流は何時も通り自分のデスクに座っているのだが、来客用のソファーに座っている人物は、事件の依頼人ではなかった。
ダンディーな欧州風のスーツに身を包み、立派な口髭と顎髭を持つ威風堂々たる人物。迷流藍花の父親にして、迷流財閥の会長でもある人物、
「
「あのですねえー。」
迷流は頭の後ろで手を組んで、椅子に寄りかかった。
「父さん、僕は華隠に総裁の座を譲った時点で、迷流財閥とは何の関係もない人間になったはずですよ。そう言ったのは確か、父さんだったじゃないですか。」
藍歳は、うむ、と目を瞑りながら大仰に頷いて見せた。
「言ったな、そう言えば。・・・だが、そこはそれじゃ。」
何がそこはそれですか!と迷流は半ば呆れながら叫ぶ。藍歳は、向かい側に腰掛けながら、彼の持ってきた「ヴェルローゼス」のチーズケーキを頬張っている
「儂は確かにお前が迷流財閥と関係ない、と言った、それは認めよう、しかし、お前が儂の息子であることは否定しとらん、麗しき親子の絆は永遠じゃ、依って、忙しい父の代わりに、息子よ、
迷流は、窓の外を向いたまま、いやですよ、全然知らない相手の葬式に出るなんて、と、文句を言う。
「だいたい、父さんや華隠が駄目なら、
「だってお前人気あるじゃろ。」
藍歳は子供のような口調でそう言った。
「まあ、それは別として、一応長男を出席させた方が、相手に対する礼儀にもかなうしな。」
「・・・たとえそれが勘当された子供でもですか?」
「勘当なんてしておらんと言うてるじゃろうに、頑固じゃのう。」
「都合のいいときだけ、父さんが身内扱いするからですよ!」
口論のレベルはどんどん低下しているようだった。それとはお構いなしに、美鈴は今度はシュークリームを頬張っている。藍歳は、とうとう切り札を出した。
「都合のいいときだけ、か。ふうーん。迷流、お前ロケット一つ打ち上げるのに、幾らかかるか知っておるか?」
後、立方体のお屋敷とかのう、と言いながらニヤニヤしている藍歳を見て、迷流は遂にシャッポを脱いだ。最初から勝てないのは分かっていた。そろそろ潮時か。
「分かりましたよ、出れば良いんでしょう、出れば。その羽馬谷とか言う人の葬式。」
椅子の背もたれに身を預けきりながら、迷流はそう言った。藍歳は、満足げに頷く。
「そうそう、それでいいんじゃ、人の好意はちゃんと受けるもんじゃ。」
「好意?」
迷流は、訝しんで聞き返す。藍歳は慌てたように顔の前で手を振った。
「い、いや、間違えた。人の言う事は素直に聞くもんじゃと言いたかったんじゃ。・・・おっと、もうこんな時間か、儂は行かねば、失礼したな。美鈴ちゃん、うちの馬鹿息子を宜しくな。」
そして慌ただしく出て行ってしまった。その背中を見送った後で美鈴は、迷流に尋ねる。「どうして、すぐに引き受けなかったね。」
迷流は、口元に手をやって渋い顔をした。
「何か、引っかかるんだ。何で私を葬式になんて出席させたがるのか、どう考えても変なんだよ・・・何を企んでるんだ、あの親父は。」
美鈴はそれを聞いて、くすくすと笑った。
「ん?美鈴、何笑ってるの?」
「迷流様、お父様によく似てるね。」
迷流はその言葉を聞いて、複雑な表情で自分の頭を一回叩いた。