大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
連載第十回・密航者(前編)
ぼおっ、と何処かで汽笛の鳴る音がする。その音の所為で、少女は、浅い眠りから引き戻された。ザザーン、と言う波の音。それに促されるように、ゆっくりと少女は身を起こした。
少女が寝かされていたのは、暗く狭い船室の一つだった。体を覆っていた薄い肌かけを取ると、白い裸身が姿を現した。
少女はまだ幼い。柔らかそうな胸の膨らみも、まだ手のひらに収まるくらいだろうか。歳にして、十二、三と言った所か。
少女は、夢見るような瞳をしている。丸く、大きな瞳だが、まるで何も見えてはいないかの様に虚ろだ。長い黒髪は、後ろで二つに分けて結ばれている。少女は波の音に誘われるままに、ふらふらと立ち上がった。
そのまま、おぼつかない足取りで、船室を出る。空には月がない。しかしそのかわりに星明かりが、優しく降り注いでいる。
海風が少女の体を擽り去っていく。しかし肝心の海は、真っ暗で茫洋として、まるでその姿がつかめそうにはない。船は、暗黒の中でゆらゆらと揺れる、小さな木の葉のようだ。少女は、そのまま、ゆっくりと船の甲板の方に歩いていき、ぼんやりと海風に吹かれ続けた。
一方その頃、見張り台には、二人の男性が登り、世間話に興じていた。どうせ他に通りかかる船など無い、と頭から決めてかかっているのだろう。二人の脳味噌は、明らかに会話の方により多くその容量を割いているようだ。その所為か、いまだに甲板に出てきた少女に気づかずにいる。
『しかし
青い中華服に身を包んだ男がそう言った。男達の会話は、中華語で行われている。もう一人、赤い中華服を着込んだ男は、その言葉に神妙な顔をして頷いた。
『ああ、全くだな
『それがこの事とどう結びつく?』
青流と呼ばれた青い服の男は、不思議そうな顔で花燃という赤い服の男に尋ね返した。ふん、と言いながら花燃は鼻の辺りを掻いた。
『「
青流は、ああ、と頷いた。
『
そうだ、と花燃は満足そうに頷いた。
『日本の人間達は、どうも我々中華の人間に比べて、この「想」の力が強いと黄老師はお考えなのだ』
『俺はそうは思わないがな』
『ああ、だが、ここ数十年の間の日本の発展の具合を見るに、あながちそれも間違いだとは言い切れまい』
ふむ、それで「想」か、と青流は鼻を鳴らした。花燃は尤もらしく頷いた。
『ああ、この度の
しかしな、花燃、と青流は首を捻った。
『それでは少々おかしくはないか?どうせ実験に使うのだったら、何故わざわざあの様な
うむ、それはな、と花燃は少し考え込む。
『
違いない、と、青流は下卑た笑いを浮かべた。
『どちらにせよ、上の人間のお考えになることは、我々末端の人間には及びもつかないようなことである、と言うことだ』
青流は、そこで再び考え込む素振りをした。
『ところで花燃』
『ん、なんだ』
『あの女、性交媒介者という奴は、みんなあんな風に心ここにあらずなのか』
花燃は首を傾げる。
『さあな、私もそれほど現物を見たことがないから分からないが、恐らく、黄老師が術でも掛けているのだろう。まだ年端も行かぬ子供だしな』
『成程、それで殆ど反応がなかったわけだ』
青流の言葉に、花燃は、一瞬だけ眉をしかめた。
『貴公・・・さては抱いたな?』
青流は笑いながら頭を掻いた。
『ほら、我々はあくまでも、ただ運ぶようにしか言われてないだろう?抱くな、とは言われてはいない、他に何やろうと我々の自由じゃないか』
『言い訳の上手い奴だ』
花燃は苦笑した。
その瞬間どーん、と言う大きな音と共に、船が大きく揺れた。
『な、なんだ!』
花燃は慌てて、辺りを見回す。しかし周りには黒々とした海原が広がっているばかりで、他の船影は認められない。しかし、そのかわりに、花燃は思いもかけない物を甲板の上に見た。
『おい、何やってやがる!ちゃんと見はってろと言ったじゃねえか!』
下の船室からは、船長が出てきて見張り台の二人を叱りとばす。花燃は叫び返した。
『しかし船長!船影らしき物は見当たりません!それより、性交媒介者が、甲板に出ています!連れ戻して・・・』
しかし彼の言葉は、再び起こった大きな音と、船の揺れによってかき消された。慌てて見張り台の手すりに捕まった花燃の目は、ゆっくりと暗い海の中に落下していく、少女の裸身をとらえていた。