大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
第三回・物臭男の犯罪
1
万屋邸は、警察署からほど近い、こんもりとした森の中にあった。開け放たれたままになっている正門をくぐり抜け、並木の中をくぐり抜けていくと、やがて、万屋邸本館の大扉が姿を現す。
中山警部は、大扉に備え付け得られた、これまた大きな呼び鈴を鳴らした。
・・・返事はない。中山警部は、二度、三度と同じ行為を繰り返す。何度目か分からなくなった頃、漸く扉が細く開かれて、中から渋面を作った禿頭の老人が、姿を現した。
老人ー万屋亀之譲ーは、開口一番、不機嫌そうに呟いた。
「なんなんじゃい、あんたら、一度叩けばわかるわい。全く何故その様な無駄な事をするんじゃか。儂には考えもつかんな」
そこまで言って亀之譲は、中山警部の後ろでもじもじしている鏑木に気づいて、目を細めた。
「おやなんだ、さっき来た若者じゃないか、何度言ったら分かるんじゃい、ここには、アンタの探しているような人間は居ないぞ」
「そんなあ、綾ちゃんを、僕の綾ちゃんを帰して下さい!」
鏑木は、涙声で亀之譲に詰め寄る。
「だからそりゃあ、無理な相談じゃと言ってるじゃろ?」
亀之譲はにべもない。おそらく先程も似たような光景が繰り広げられたのであろう。中山警部は、軽く溜息をつくと、二人の間に割って入った。
「なんじゃい?あんたあ」
亀之譲が訝しげな視線を送ってくる。中山警部は懐から警察手帳を出した。
「私は、こういう者です」
「なんじゃい、刑事さんか」
たいして気にした風でもなく、亀之譲はそう言った。中山警部は、少しお話を聞かせてもらってもよろしいですか?と、丁寧に尋ねる。まあかまわんよ、と、亀之譲はたいして気乗りのしない様子で言った。
「確かにこの家に榊原綾女さんは居ないんですね」
「だからそうじゃと言っておろう、全く無駄な質問じゃな」
亀之譲は不機嫌そうにうそぶく。また前に出て何か言おうとした鏑木を、手で押し止めて、中山警部は言った。
「じゃあ、質問を変えましょう。こちらの家に、榊原綾女さんが、訪れませんでしたか?」
亀之譲は感心したように、ほう、と言った。
「・・・最初からそう言えい。来たぞ。確かにその女は滞在しておった」
「ほ、本当ですか!?」
中山警部を押しのけて、鏑木が前に出た。それを見て亀之譲は、
「なんじゃい、本当だと言っておろう。全く無駄な事をいちいち聞く兄ちゃんじゃな」
そう、忌々しそうな口調で言った。
「で、綾ちゃんは今何処にいるんですか?」
その質問には、亀之譲も少し首を捻った。
「そこまでは儂にもわからんぞ。確かなことはな」
「確かじゃなくても良いんです、ど、どうか綾ちゃんの居場所を!」
尚も詰め寄る鏑木に、疲れたように亀之譲は首を振ると、全く難儀な兄ちゃんじゃのう、と呟いて、中山警部の方を向いた。中山警部は、思わずしみじみと頷き返す。老人はそれを見て、小気味よく笑った。そして、鏑木の方に向き直ると言った。
「そうじゃのう・・・少なくとも天国にはおらんじゃろ。地獄のどこか、としか儂にはわからんのう」
その答えに、鏑木だけではなく、中山警部たちまで色めき立った。
「そ、それはどういう意味です?」
亀之譲の胸ぐらを掴まんばかりに、鏑木が詰め寄り、叫ぶ。それとは対照的に、老人は、落ち着き払って答えた。
「やかましい兄ちゃんじゃのう。ま、今のは儂の言い方も回りくどかったか。その女はな、死んだ。もう、この世にはおらん」
「そ、そんな!」
綾ちゃんが!と声にならない声で叫ぶと、鏑木は白目をむいた。慌てて中山警部が支えて、里中に気絶した鏑木を渡す。
「なんじゃ、失神してしもうた。全く手のかかる兄ちゃんじゃな、そう思わんか?」
亀之譲は、やはり落ち着き払って、中山警部にそう尋ねた。
・
取り敢えず中山警部は、気絶した鏑木を里中に送らせて、さらに増援を要請した。
そして自分は、詳しい事情の説明を、亀之譲に求めようとしたのだが・・・
「儂はまだ食事中でな」
物臭男は、そう言って引っ込んでしまった。
「ちょ、一寸待って下さい」
慌てて中山警部は、その後を追いかける。
「榊原さんが死んだ、と言われても、どのようにして死んだんですか。それに、彼女の遺体は何処にあるんですか?」
やかましいのう、と言いながら亀之譲は、椅子を引いた。テーブルの上には、まだ湯気を立てている焼き肉と、どんぶり飯が載っている。
「・・・肉ばっかりですね」
思わずそう呟いた中山警部に、亀之譲は、しょうがないじゃろ、と不機嫌そうに呟いた。
「何せ、儂の秘書だった津島まで死んでしもうたんじゃからな」
なっ、と中山警部は絶句した。
「い、今何とおっしゃいました?」
難儀なことじゃのう、と、どんぶり飯をかっ喰らいながら亀之譲は言う。
「だから、この家で、その女と、津島の二人が死んだ、と言っておるんじゃ」
「そ、そんな!何故二人も死んだんです?ど、どうやって?」
殺されたんじゃよ、と、亀之譲は事も無げに言った。
「だ、誰にですか?」
中山警部の問いかけに、五月蠅いのお、と亀之譲は、顔を顰めた。
「それを調べるのがあんたたちの仕事じゃろう、死体だったらこの家のどこかにあるぞい、探してきたらどうじゃ」
「し、しかしですねえ・・・」
中山警部は口ごもる。俄には信じられない話だったし、老人の話の通りだとすると、今、目の前にいるこの老人が、、どう考えてみても、最有力の容疑者となってしまう。しかし、それにしては、老人の態度はあまりにも堂々として、とても人を二人も殺した人間には見えなかった。物臭男は、中山警部の逡巡を見て取ったらしく、限りなく真円に近い目を、ギョロリと剥いた。
「おお、そうか、儂の事を疑っているんじゃな。安心せい、儂は二人を殺しておらんし、それに逃げも隠れもせんからのう」
そう言って、笑う。しかしだからと言って、はい、そうですか、と屋敷の探索に赴けるはずも無かった。代わりに、中山警部は尋ねてみる。
「このお屋敷には、他には人は住んでいないのですか?」
「ああ、死んだ二人と儂の他には、誰もおらん」
亀之譲は、即答した。やれやれ、と中山警部は思った。それではますますこの物臭男を一人にしておくことは出来ない。思わず深い溜息をついたとき、玄関の呼び鈴の鳴る音がした。
「今日は随分と忙しないのう・・・あんたあ、代わりにでてくれんか?」
貴方の家でしょう、と中山警部が言うと、亀之譲は、やれ仕方ない、と、大儀そうに立ち上がった。
玄関の大扉を開けると、里中が顔を出した。
「なんだあ、あんたかい」
亀之譲は気のない口振りで言った。
「これならやっぱりあんたがでた方が無駄じゃなかったじゃろう」
中山警部は、老人の愚痴を無視して、おお、里中!と、嬉しそうに叫んだ。
「早かったな、正直おまえの顔を見てこんなに安心したのは、初めてだよ」
「やだなあ、警部、大げさですぅ〜。鏑木さんを東都病院に運んで、そこで電話を借りて、署に連絡をいれたんですぅ〜。それで僕だけ先に帰ってこれたんですぅ〜」
里中の語尾を注意することもせずに、いやあ、助かったよ、と中山警部はしみじみと言った。
「里中ぁ、どうやら死体は一つじゃなくて二つあるらしい。俺はそれを探しに行くからよ・・・、おまえさんは、亀之譲さんの監視・・・じゃなかった、保護を頼む」
ええー、と不満げな声を上げた里中を置いて、中山警部は、館の探索に乗り出した。
館は冗談じゃなしに広い。ここを一人で調べ上げることを考えると、中山警部は頭痛がしてきた。よく見ると廊下には、うっすらと埃が溜まり始めていた。・・・通いのお手伝いとかはいないのだろうか。それとも、亀之譲の秘書をしていた、死んだ津島という人物が全て管理していたのだろうか。
中山警部はそう考えながら、階段を登る。登ったところで中山警部は、ある臭いに気づいて足を止めた。・・・これは、血のにおいだ。中山警部は、においの出所を探して、片っ端から部屋の扉を開け始める。
見つけた。
そこは、亀之譲の書斎のようだった。壁では、頭だけにされた鹿の剥製が、恨めしそうな瞳で中山警部の方を見つめている。中山警部は思わず目をそらした。壁際に並んだガラス張りの棚の上には、亀之譲の収集品らしい骨董品が並べられている。物臭男にも、趣味の一つくらいはあるようだった。中山警部は、床へと視線を落とす。においの出所はそこだった。既に凝固した血溜まりが、高級そうな絨毯を真っ赤に染めていた。
(こいつは・・・ひでえや)
中山警部は、思わず口を覆った。よく見ると、血溜まりの中には、砕け散った磁気の壺の破片が散乱している。そして、その少し横には、猟銃が一つ落ちている。しかしー肝心の死体は、影も形も見えなかった。そのかわりに、大きな鋸が一つ落ちている。
中山警部は、恐る恐るそれに近づいた。そっと屈み込んで鋸の歯を見てみると、予想通りと言うべきか、そこにはべったりと、脂がこびり付いていた。
「うげっ」
中山警部は呟いてそこを離れた。よく見てみると、扉から廊下にかけて、点々と、血の後が続いていた。中山警部は、意を決してその後に沿って歩く。時々途切れているその痕跡を追いかけていくと、それは、一つの扉の前で終点を迎えていた。気の所為だろうか、開ける前から扉の向こうからは、ひしひしと冷気が伝わってくる。
一つ大きな深呼吸をした後で、中山警部は扉を開く。ずしりとした感触が手に伝わってくる。開いた扉の隙間から、冷気が勢い良く吹き出してきた。
そこは氷室のようだった。溶けかけた氷の固まりがあちこちに転がっている。一歩、また一歩と、中山警部は奥へと足を踏み入れる。氷室の一番奥の方に、それは転がっていた。
カッと目を見開いた、凄まじい形相の男の首、凄絶な笑みを浮かべた女の首、彼らの胴体もバラバラにされて、一所に転がっていた。恐らく、男が亀之譲の秘書の津島、女が榊原綾女だろう。中山警部は、酸っぱい物がこみ上げてくるのを感じた。どこかで呼び鈴の鳴る音が聞こえる。中山警部は、その音にすがるかのように、きびすを返して走り出した。