大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第三回・物臭男の犯罪

 世の中で最も忌むべき事は、無駄なことであると儂は思っておる。この「無駄」、と言う奴は全くやっかいな代物で、これぞ、と言う明確な形が存在しておらん。だからと言って、その本質とは何か、などとうじうじ考え込むと、そのこと自体が既に、無駄である。


 とどのつまり無駄とは何か、儂が独断と偏見で決めよう。無駄なことは、考えること、動くこと、一見無駄と思える物をあっさりと放棄してしまう事じゃろう。
 なるべくその場所より動くことなく、そこにある物で事態を解決しようと試みる。これこそが美しい形と言えるじゃろう。事実、儂自身も、この長すぎる人生の中でその様にして成功を収めてきたのじゃからな。


 そこにある物で事態をどうにかする時は必ず何か考えているじゃろうと?揚げ足を取るでない、儂の独断と偏見じゃと、言ったろうに。そうやって相手に文句を言うことはまさに、無駄の極致じゃ。反省せい。儂の中で理屈が完成しておればいいんじゃ、人に分からせようとするなど、そんな無駄な事をしていられるかい。


 さて何を話そうとしていたのじゃったか?無駄話の所為で忘れてしもうた。・・・、まあ、何はともあれ、かように無駄を省いて生きる儂のことを、世間では、物臭男などと呼んでいるらしいではないか、全く腹立たしい。


 ・・・しかしその日、何事も素早く決断する筈の儂は、どうしたらいいものか決めかねて、そして降って湧いたこの事態に半ば腹を立てながら、呆然と立ち尽くしておった。
 儂の足下には・・・二体の死体が転がっておった。

 その日、東都大警察の中山義之輔警部は、得体の知れない不安に苛まれていた。朝から靴紐は切れるし、書類の上には番茶をこぼす。落ち着かない様子の上司を見て、部下である、里中明良さとなかあきら巡査は、大丈夫ですか、警部?とたいして心配しているようには聞こえない、少々間の抜けた声で尋ねた。


「大丈夫じゃないよ」
 中山警部は、眉根を顰めながら、紙巻き煙草に火を点けた。
「今日は何か、とんでもなく悪い予感がするんだ。私のこういう予感は、迷流君の、”ノベリング”に勝るとも劣らない的中率を誇っているんだぞ。ああ、厭だ。連続通り魔事件も漸く片づいたばっかりだと言うのに、もう新しい事件に巻き込まれるなんて、考えただけで寒気がする。寒気ついでに早退しようかな」
 里中は、ひい、と情けない声を上げた。


「そんなあ、警部。佐藤君もまだ退院してきていないんだから、この上警部にまで去られたら、僕、大変ですぅ〜」
「語尾を伸ばすのはやめろと何時も言ってるだろう」
 すいませんですぅ〜、と言う里中の返答を聞いて、中山警部は、深い溜息をつく。それと示し合わせるかのように、卓上の電話がけたたましく鳴り響いた。中山警部は、ちょっと逡巡した後で、それを取った。


「はい、こちら東都大警察、殺人課」
 電話機の向こうから、一瞬息をのむような音が聞こえてきた。
「もしもし?どちらさん?」
 続けて問いかけると、受話器の向こうの人物は、意を決したように喋りだした。
「ああ、警察ですか、どうもすいません」
 声はいきなり謝った。気の弱そうな、若い男の声だ。
「あのですね、綾ちゃんを、人を捜して欲しいんです」


「はあ?」
 聞き返しながら中山警部は、また厄介事に巻き込まれたらしいことを確信した。

 暫くして警察を訪れた男は、声から想像したのと相違ない、いかにも気弱そうな風貌をしていた。
「あ、あの、僕は、鏑木史彦かぶらぎふみひこといいます。あ、貿易関係の会社に勤めています」
 鏑木は、椅子に座りながら、手を丁度股間のあたりで、もぞもぞさせてそう言った。中山警部は、大きく溜息をつく。


「便所ならあっちですよ」
「はあ?」
「いや・・・こっちの話。で、人を捜して欲しい、と言っていましたが、具体的には、どのような依頼なんです?」


 鏑木は、はあ、と活きの悪い呟きを漏らすと、今度は、手を胸の辺りでもぞもぞさせながら、斜め前方を見上げている。
 蠅でも飛んでいますか、と中山警部は愚痴っぽく呟いた。それは鏑木には聞こえなかったらしい。生っ白い顔をした青年は、漸く決心が付いたらしく、ぽつりぽつりと話し始めた。


「あのですね、僕にはおつき合いさせていただいてるですね、女性がいるんです」
「はあそうですか」
 中山警部は、たいして気が乗らない相槌を打った。
「綾ちゃん・・・、あ、榊原綾女さかきばらあやめっていうのがその人の名前です。綾ちゃん、凄く可愛いから、僕、いっつも会う度ドキドキしているんですね」


「はあはあ。・・・で、その人がどうしたの」
「ええ・・・、実は連絡が付かないんです」
 はあ?と、中山警部は語尾を上げた。
「あのね、君。ここは警察って言って恋愛相談をしに来る場所では無かったと思うんだけどね・・・私の記憶では」


「いえ、そうじゃないんです」
 鏑木は、いやいやをするように首を振った。
「居る筈の場所は、分かっているんです。でも、居ないって言われるんです」
 はあ?と、中山警部はますます混迷の度合いを深くする。 
「それこそ、典型的な断られ方、だよなあ・・・里中」
 ええ、と里中も困惑した様子で頷いた。


「だから違うんです!彼女はそんな事をするような人じゃありません!」
 鏑木は椅子から立ち上がった。中山警部は思わず、椅子に腰掛けたまま、後ずさった。
「わ、分かった分かった。だから落ち着いて、最初から分かりやすく話してみてくれ」


 鏑木は、ああっ、すいませんでした!と青ざめながら言って、再び椅子に腰を落ち着けた。
 鏑木の話によると、行方不明(?)となった彼の恋人(・・・それが本当かどうかは、中山警部のみならず、里中でさえ、怪しいと感じた。)、榊原綾女は、突然、勤めていた会社を辞めて、ある引退した金持ちの家に、住み込み始めた(らしい)ということだった。


 その理由というのがまた、眉に唾をべっとりと付けて考えたくなるような代物で、何でも、倉庫にしまわれていた家系図から、自分が去る身寄りのない金持ちの遠縁に当たると知った綾女は、取る物も取り敢えず、鏑木の言葉を借りると、一人暮らしの老人の寂しさを紛らせてあげるために、老人の家へと行ったのだという。
 それ以来、綾女からの連絡はないのだそうだ。


 心配になった鏑木は、その老人の家に行ったのだという。しかし、応対に出た老人に、そんな人間はここにはおらん!と、追い払われてしまったのだという。かくして鏑木は、泣く泣く警察に電話をかける羽目になったのだ。


「うーん」
 中山警部は思わず唸った。そして横目で、里中の方を見る。里中も困った顔で中山警部の方を見ていた。聞けば聞くほど、その女に鏑木が捨てられたとしか思えない。中山警部は、その家系図の話云々も、その女の作り話としか思えなかった。
 鏑木という男は、こんな調子でも、貿易関係の仕事をしているというからには、かなり羽振りが良いのであろう。事実、鏑木の身につけているスーツは、かなり仕立てのいい上物だった。


(問題はその中身なんだよな・・・)
 中山警部はそう思った。
 しかし幾ら羽振りが良いと言っても、所詮鏑木では、その資産家の老人には、到底かなわなかったのであろう。その榊原とか言う女は、押し掛けの愛人になったのだ。かくして、昔の男である鏑木は女に捨てられたのだろう。しかし、万事このような調子である鏑木には、その事実が理解できなかったのであろう。


 中山警部は、もう一度溜息をついて口を開きかけた。どう言ってこの男に理解させたらいい物か。しかし、中山警部は、そこであることに思い当たって、ふと尋ねてみた。
「そう言えば貴方、追い返されてすぐここに電話をかけたって言っていたけど、そのパトロ・・・いや、金持ちの家はここから近いのかい?誰のことだい、そりゃあ」
「ああ、すみません、言い忘れてました」
 鏑木は何故かまた謝った。


「綾ちゃんが行ったのは、万屋亀之譲よろずやかめのじょうさんの邸宅です」
 その言葉を聞いて、中山警部と里中は、同時にげっ、と叫んだ。
「よりにもよって、物臭万亀の所かよ」
 中山警部はそう言って、首を捻った。


「そうか・・・、そう言うことなら話は少し変わってくるな。あのおっさんは、面倒臭い、とか、無駄だ、とか言って結婚どころか愛人の一人も作らなかった人だからなあ。確かに変かもしれん」
「だから最初っから変だって言っていたじゃないですか!」
「・・・言ってないだろう」
「すいません」
 鏑木は、やはり謝った。中山警部は、思わず苦笑した。


「まあ、ちょっとあのおっさんに会うのは気が引けるんだが、取り敢えず、一緒に行ってやるからもう一度、万亀さんの所に行ってみることにしようぜ・・・、里中、おまえもついてこい」
「ええっ、僕もですかあ〜」
 里中は、情けない声を上げる。・・・かくして中山警部は、頼りにならない男二名を率き連れて、物臭男の家を訪ねることになった。


 尤もこの時、中山警部は、どうせ榊原綾女は、万屋亀之譲に、文字通り追い出されたのだろう、と高をくくっていた。まさかあの様な奇怪な事件に出くわすとは、夢にも思っていなかったのである。

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