大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第四回・伝えて、マイハー

 槍下冷夢の朝は早い、六時ぐらいになると起き出して、入院患者達の朝の検診を、夜勤の看護婦と共に行う。それが終わると、朝食を作り、夜勤明けの看護婦達に振る舞った後、彼女たちを送り出す。それと入れ違いになるように、通いの昼勤の看護婦達が訪れる。そのころには、待合室には、ちらほらと患者の姿が見え始めている。


 冷夢は、外科医だが、一応大学では一通りのことを学んでおり、軽い病気なら、それ以外の分野でも見てあげることにしていた。医者の数は少なく、治療費は馬鹿にならない。何より、自分のことを頼って訪れる患者を見捨てておけるほど、冷夢は冷たい人間ではなかった。


 何はともあれ、その様にして、外来の診療は午後三時を回った頃には、一応終了して、入院患者の午後の検診が始まる。個人病院だけに、入院患者の数は、さほど多くない。だから冷夢は、午後の検診の時間は長めにとって、出来るだけ患者とのコミニュケーションを取るようにしていた。大部屋の患者と、一通り言葉を交わした後、冷夢は、個室のドアを小さくノックした。中からハーイ、と言う元気のいい声が帰ってくる。


「失礼するよ、水穂ちゃん」
「わーい、槍下先生だぁ!」
 ベットに寝ていた少女が、その身を起こしながら、にっこりと笑って冷夢の方を見た。


「おいおい、起きあがっても大丈夫なのかい、水穂ちゃん」
 苦笑しながら言った冷夢に、少女は、うん!と、笑顔で答えた。長い療養生活の所為か、少女の膚は抜けるように白い。短く切りそろえた髪の毛は、日の光を受けると、茶色く輝いた。日本人にしては、少し色素が薄い。


 清洲川水穂きよすがわみずほ、宇都宮瑞穂と同じ読みの名前を持つ、この少女と話すとき、冷夢は少しだけ、胸の内側がくすぐったいような、妙な気持ちになる。


「今日はお母さんはもう帰ったのかい?」
「うん、お夕食のお買い物に行ったんだ」
 水穂の親族は、両親しかいない。一人娘の水穂を、両親は文字通り目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。


 水穂は心臓に生まれつき欠陥を持っていた。この病気は、悪くなりこそすれ、良くなることは決してない。優秀な外科医である冷夢は、当然その事を知っていた。治す方法が、ただ一つしかないことも。


「ねえ、先生」
「なんだい、水穂ちゃん」
「もうすぐ私の誕生日なんだよ」
「そうかあ」
 冷夢は目を細める。


「いくつになるの?」
「十一!」
 水穂は、元気良くそう答えた。冷夢は、それを聞いて複雑な気持ちになる。この少女は、果たして後何回誕生日を迎えることが出来るのだろう。・・・医者として、何もしてやれない自分が、酷くもどかしかった。


「じゃあ、先生何かプレゼント用意してあげないとな」
「やったあ、楽しみ!」
 冷夢はその後暫く、少女の話し相手をつとめると、患者の夕食の時間になったので、少女の病室から出た。
「それじゃね、先生、お休みなさい」
「おやすみ、水穂ちゃん」


 こうして、医者としての槍下冷夢の一日は、一応終わりを迎える。冷夢は、軽く溜息をつくと、自宅へと通じる廊下を歩き出す。しかしそのまま直接自宅へは戻らずに、地下室へと向かう階段を、冷夢はゆっくりと下りていった。看護婦達も入ってくることのない通路、それを冷夢はゆっくりと歩いていく。やがて、冷夢の前に、一つのドアが姿を現した。


 腕のいい外科医である冷夢は、過去にも幾たびか、大病院からの誘いがあった。冷夢は、地域に根付いた医療を主張して、引き抜きには応じることはなかったのだが、この扉の中には、その本当の理由が眠っていた。


 冷夢はゆっくりとドアを開けて、部屋の中に入る。
「ただいま、瑞穂」
 何時も口にしている台詞を、そっと呟く。冷夢は、部屋の中央に設えられたベッドへと歩み寄る。・・・そこには、一人の女性が眠っていた。冷夢は、それが二度と覚めることのない眠りだと知っている。セミロングだった黒髪は、もう、肩胛骨の辺りまで伸びていた。人工呼吸器の力を借りた、妙に規則正しい呼吸音が聞こえる。よく見ると、足下の方に、二本のチューブが伸びて、液体のたまった袋へと繋がっていた。


 宇都宮瑞穂である。


 冷夢はベッドの横に置いて会った腰掛けに座ると、瑞穂の髪の毛を撫でた。とりとめもなく、一日の出来事を語りかける。それが一段落すると、冷夢は、バケツにお湯を張り、清潔な手ぬぐいで、瑞穂の体を拭いてあげ始める。人工呼吸器がはずれないように、注意しながら、彼女の半身を起こす。意識のない人の体は、思いのほか重たい。


 ・・・宇都宮瑞穂は、関西に出張した帰りの汽車の事故で頭を強く打ち、脳死状態になった。ブレインデッド。医者としての冷夢は、その事について良く理解していたから、瑞穂の眠りが、永遠に覚めることがないことを知っていた。このまま生かし続けたところで、いつか瑞穂が目を覚まし彼に微笑みかける、などという事はない。しかし人間としての冷夢は、その事実を認められなかった。結果、戸籍上死んだことになっている宇都宮瑞穂は、こうしてここで生かされている。


 例え無駄なことだと知っていても。


 ・・・体を拭き終わると、冷夢はそおっと瑞穂の体を寝かせる。床ずれが出来ないように背中の圧点を少し変えてやる。汚物の入った袋を取り替えた後で、食事代わりの点滴を腕に打つ。点滴が無くなるまでの間、冷夢は瑞穂のベッドに寄りかかって眠る。そうすると、夢の中に瑞穂がでてくることが多かった。暫しの幸せの後、目を覚ました冷夢はつらい現実に直面する。


 点滴を抜いた後で冷夢は、おもむろに席を立つと、ドアの方まで歩み寄り、
「おやすみ、瑞穂」
 そう言った後で振り返る。あり得ないことだが、あり得ないことだと分かっているのだが、瑞穂が言葉を返してくれることを、何時も期待してしまう。冷夢は、暗い気持ちのまま、自宅へ続く通路へと歩き出す。
 こうして、冷夢の一日は本当に終わる。

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