大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
第四回・伝えて、マイハート
2
槍下冷夢は悩んでいた。一体どうやってこの事実を伝えたらいいものか。そして、槍下冷夢は、恨んでいた。どうしようもならない現実を。
その日、冷夢の元へ、一本の電話が入った。相手は、東都病院の外科部長だった。
「槍下・・・冷夢さんだね」
電話の声は、言い出しにくいことをどう言い出したらいいものか、明らかに迷っている口調だった。
「そうですが・・・何か?」
「そちらに・・・、清洲川水穂というお嬢さんが入院してはいないですかね?」
「おりますが・・・何か?」
言い返しながら、冷夢は、背中を冷たいものが伝うのを感じていた。この感触は・・・以前にも一度感じたことがある。言うな、このまま何も言わないでくれ。
「大変遺憾ですが、先程、お嬢さんのご両親がこちらに運び込まれまして、・・・死亡・・・いたしました」
目の前が真っ暗になった。冷夢は、看護婦達に後を任せ、取る物も取り敢えず、東都病院へと向かった。嘘であれば、何かの間違いであればいい・・・。
しかし、天下の東都病院が、嘘を言うことも、間違いを犯すこともなかった。案内された霊安室では、確かに見覚えのある夫婦が、変わり果てた姿で眠っていた。
「一体、何があったんですか?」
「通り魔です。包丁を持った男が、突然町中で人を刺し殺して回りまして・・・この方達の他にも、四人ほど刺し殺されました」
冷夢の質問に、東都病院の外科部長は、苦々しげな口調でそう答えた。
「通り魔・・・」
冷夢は絶句した。
「ええ、そうです、・・・全く、信じられないことです。この人達も、まさかこんな形で自分が死ぬことになるなんて、考えもつかなかったでしょうね」
瑞穂も自分があんな目に遭うなんて言うことは、全く考えもしなかったんだろうか。
・・・それは、そうだ。冷夢自身も自分にもしもの事があったときのことなど考えてはいない。
そこまで考えて、冷夢は、ハッとあることに思い当たった。
・・・瑞穂。
もし自分が死んだら、今や自分によって生かされている瑞穂はどうなってしまうのだろう。・・・考えていなかった。いや・・・考えないようにしていたのか。果たして瑞穂をあの様な状態のまま生かし続けることに、何の意味があるのか。
心は、脳の中にある。それが死んでしまったという事は、最早宇都宮瑞穂という人格が死んでしまったという事だ。それなのに、抜け殻である体だけを生かし続けることに、何の意味がある?
冷夢は思考を停止した。それは最初に彼女を生かしておこうと思ったときに考えた事だ。そこに納得できるような体系的な理由などはない。その時、冷夢は、ただ生かしておきたかったのだ。
それは冷夢自身のエゴにすぎないのかもしれない。もしかすると、瑞穂について、もう一度考えるべき時が近づいているのかもしれなかった。
「・・・さん」
「槍下さん!」
自分の名を呼ぶ声で、冷夢はふっと我に返る。
「大丈夫ですか、槍下さん」
外科部長が心配そうな顔で冷夢を眺めていた。
「あ、ああ、すいません、大丈夫です」
冷夢は挨拶もそこそこに、槍下医院へと戻った。迎えにでた看護婦達に事情を説明すると、看護婦達は、皆一様に青ざめた。
・・・よりにもよってあの娘の。
・・・神様というのは何と不条理な。
口々に呟く看護婦達をよそに、婦長が深刻そうな顔で冷夢に尋ねた。
「で、誰があの子に伝えるんですか」
瞬間、看護婦達のざわめきが消える。場を包む重苦しい沈黙。誰もが、冷夢から視線を避けるように俯く。
「私が・・・伝えましょうか?」
意を決したように婦長が言う。冷夢はゆるゆると首を振った。
「いや・・・僕が伝えよう」
彼がそう言うと、看護婦達はほっとしたように胸をなで下ろした。一人、また一人と冷夢に会釈をしては仕事場に戻っていく。
「頑張って下さいね」
最後に残された婦長が、冷夢の肩を叩いて去った。後に残された冷夢は、軽く頭を降ると、重い足を病室の方に向けた。
病室の間の廊下は、何時にも増してヒンヤリしているように冷夢には感じられた。やがて見慣れた個室のドアの前に冷夢は立つ。小さく軽いノック。それだけでも、扉の中の少女はハーイと返事を返した。心なしか、元気がない。
「失礼するよ、水穂ちゃん」
少女は、既にベッドの上に起きあがっていた。冷夢の声が、いつもよりも暗いことに気づいたのだろうか、少女は不安気な眼差しで冷夢を見ていた。
「水穂ちゃん・・・」
「先生!お母さんが、お母さんが来ないの!どうしちゃったのかなあ?」
冷夢は、ぐっと拳を握りしめた。なるべく平静を装って少女に語りかける。
「水穂ちゃん・・・落ち着いて聞いて欲しい」
少女の顔がぐっとこわばるのが分かった。ピーンと張りつめる緊張の糸。それは、あと僅か力を加えただけで、儚く切れてしまう。
「お父さんと、お母さんが、通り魔に襲われて・・・殺された」
「嘘・・・嘘でしょ?」
少女の目は限界を越えて見開かれている。その目は、冷夢の方をじっと見ているが、しかし、冷夢のことは目に入っていない。冷夢はゆっくりと首を横に振って、本当なんだ、と絞り出すように言った。
「嘘よ!わたし、私、信じない!」
水穂はそう言って、膝の上に置いた枕を叩いた。
「水穂ちゃん・・・」
なだめようとした冷夢に、しかし、水穂は枕を投げつけた。
「出ていって、先生!一人にして!」
あとは声にならない嗚咽が続く。冷夢は、何も言えずに部屋の外に出た。そこには、婦長が待っていて、冷夢にお疲れさま、と、声をかけた。
「あとは我々に任せて、先生はおやすみ下さい」
冷夢は、頼むよ、と、言って力無くそこを立ち去った。
その夜、清洲川水穂の容態は、急変した。
・
次の日、冷夢の元に、清洲川水穂の会社の部下だった男が、向坂さきさかと言う名前の弁護士を連れてやってきた。取り敢えず、冷夢によって応接室に通された二人は、開口一番こう言った。
「実は、本日おじゃましたのは、清洲川社長の遺産の件についてなのですが・・・」
一寸待って下さい、と、冷夢は首を傾げる。
「あの二人は、娘の水穂ちゃん以外には身内はいないのですから、遺産は水穂ちゃんの元へ行くのでしょう?尤も、彼女は今、あんな状態ですが・・・」
ええ、確かにそうです、と、角張った顔をした向坂は頷いた。
「しかし、ちょっと別な条件がありまして・・・」
「別な条件?」
そうです、と、向坂は顎をしきりに撫でた。
「実は、遺産は、暫定的に貴方の元に行くのです」
「はあ?」
青天の霹靂だった。冷夢はぽかんと口を開けながら目を剥いた。
「清洲川さんのご意向では・・・」
向坂は、しきりに瞬きを繰り返しながら、書類のページを繰った。
「遺産は貴方の元に納められ、それによって、貴方は水穂ちゃんに出来うる限りの延命処置、失礼、治療を行い、その代金を遺産から引いた差額が、水穂ちゃんの元に行くことになります」
「はあ・・・」
二人は、その後も、事務的な手続きについて一通り説明した後に、また来る旨を伝えて去った。
冷夢はしばし放心する。水穂の病気に確実な治療法はないに等しい。冷夢が行えるのは、向坂が言いかけたように、治療ではなく、延命措置にすぎない。清洲川氏の遺産は、恐らく全てが冷夢のものになるのは目に見えていた。しかしそれでも清洲川氏は、水穂を、ただ、生かしておきたかったのだ。
何という事だろう。何という切ないことだろう。それは、冷夢が瑞穂にしていることと、形は同じだった。報われない努力。一方通行の愛情。そして・・・清洲川氏がそんなにしてまで生かしてあげたかった少女が、今、死の淵に立っている。
ここにあるのは、二つの生かしておきたい、と、言う悲しい願いだった。それらは、単体では、決して叶えられない願いに過ぎない。しかし、それらのうちの一つを諦めることによって、片方の願いが叶えられると言うことを、多分悲しいことに、医者である冷夢は知っていた。
槍下冷夢は迷っていた。脳死状態の自分の恋人、心臓の移植を待つ少女。槍下冷夢は迷っていた。
冷夢は、立ち上がると、病院へと続く廊下を一歩一歩歩き出す。清洲川水穂の病室の前に、少しやつれた顔をした、婦長が立っていた。婦長は、冷夢の姿を見ると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「先生・・・」
「容態は?」
「決して良いとは言えません。・・・今は、薬で眠っています」
そうか・・・、と頷いた冷夢を見て、婦長はちょっと逡巡する素振りを見せた後で言った。
「先生・・・何とか助けてあげることは出来ないんですか?」
婦長にも、それが無理な質問だと言うことは分かっていたのだろう。しかし、誰かに思いをぶつけずにはいられなかったのだろう。しかし冷夢は、暫く額に指を当てて考え込んだ末に言った。
「・・・一つだけ、ある」
婦長は、驚きに目を見開いた。
「心臓を・・・移植する」
そんな!と婦長は叫んだ。
「移植するって・・・そんなことが可能なのですか?しかも誰から?」
冷夢は、少しの間下を向いた。
「死んだ・・・事になっている、いや、心が死んだ人間からだ。君、助手をしてくれるかい?本当にあの子を助けたいんだな」
婦長は、驚きの色を隠せないままだったが、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、ついてきてくれ」
冷夢は先頭に立って歩き出す。自宅方向へと続く廊下を、しかし自宅には向かわずに地下へと通じる階段を下りる。何時も見慣れた扉を、一人ではなく、二人でくぐる。
「せ、先生。この人は・・・」
ベッドに横たわって眠る瑞穂を見て、婦長は思わず声を上げる。
「宇都宮瑞穂、僕の恋人だった人だ。世間では・・・死んだことになっている。いや、脳は、心は本当に死んでしまっているんだ。僕が、無理矢理生かしているに過ぎない。それが良いことか悪いことかも分からずにね・・・」
絶句している婦長を後目に、冷夢はベッドの側へと歩み寄った。
「でも、それも今日でおしまいだ。人の命を救うためだ、きっと、瑞穂も分かってくれるはずだ」
言いながら、瑞穂の指から、揚羽石の指輪を抜き取った、そして冷夢はそれをぎゅっと握りしめる。
「さよなら、瑞穂」