大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第四回・伝えて、マイハート

 冷夢は、個室のドアを小さくノックした。中から返事はない、冷夢はそおっとドアを押し開いた。椅子に腰掛けたまま眠っている婦長が見えた。ベッドで寝ている水穂は、人工呼吸器の力を借りながらも、規則正しい呼吸音を立てて眠っている。冷夢は小さく、婦長の名を呼んだ。びくっとして彼女は目を覚まし、冷夢の方を見た。


「あ、先生」
 冷夢はにっこりと微笑んだ。
「疲れただろう、代わるよ」
「すいません、先生だって疲れているのに」
 かまわないって、と微笑んで、冷夢は椅子に腰掛ける。婦長は、軽く会釈をして、静かにドアを閉めた。室内は、水穂の呼吸音で満たされる。冷夢は、その音に身を任せるように、椅子に深く身を沈めた。


 手術が終わってから、既に三日が過ぎようとしていた。瑞穂の容態は安定しており、特に目立った拒絶反応も見せてはいない。ただ、意識だけが戻ることなく、水穂は昏々と眠り続けていた。


「水穂ちゃん」
 冷夢はゆっくりと語りかける。
「どうか目を覚ましておくれ。君は、生かされているんじゃない、これからは生きていける筈なんだから。生きていけなくなった、君のご両親や・・・瑞穂のためにも、生きておくれ」


 しかし、瑞穂の規則的な呼吸音は変化の兆しを見せることはなかった。
 当然だよな、と、冷夢は苦笑する。世の中全てが、意志の力、想いの力でどうにでもなる訳では当然ない。冷夢は大きく息をつくと、窓の方へと視線を走らせた。窓の側の柱に掛けられたカレンダーが冷夢の目に飛び込んでくる。今日の日付の所に、大きく赤いペンでまるがつけられており、「私の誕生日」、と、その下に同じペンで書かれている。


 冷夢は、少女が誕生日が近いことを嬉しそうに語っていたことを思い出した。そんなに昔のことではない筈なのに、あれからもう随分経ったような気がする。何にせよ、この少女は、何とか十一の誕生日を迎えることが出来た訳か。


 冷夢は、何とはなしに溜息をついた。そして、彼女にプレゼントをしてあげる約束だったことを思い出した。すっかりそのことを失念していた冷夢は、白衣のポケットをまさぐって何か無いかと調べてみる。手に堅い感触。取り出すと、揚羽石の指輪が、冷夢の手の中で、妖しく光っているのが見えた。冷夢は、ふっ、と小さく笑うと、その指輪を、少女の左手の薬指にはめてやった。


 奇跡は、その時起こった。


「冷・・・夢?」
 声に驚いてベッドを見ると、水穂が半目を開いて冷夢の方を見ていた。傷口が痛んだのだろうか、少女は、少し顔を顰めた。
「み、水穂ちゃん!気がついたんだ!傷が痛むの?痛み止め打とうか?」


 畳み掛けるような冷夢の言い方がおかしかったらしく、水穂は吹き出して、傷に響いて、また顔を顰める。そして、奇妙なことを口走った。


「久しぶりだね、冷夢・・・少し、老けたかな?」


 冷夢は、首を傾げた。
「な、何言ってるんだい、水穂ちゃん?老けただなんて、それに、冷夢って・・・」
 そこで冷夢は、はっ、と気がついたように目を見張る。


「そんな・・・まさか?」
 首を横に振る冷夢に、少女は、大人びた微笑みを見せると、言った。
「そのまさかだよ、私、宇都宮瑞穂だよ」
 呆気にとられて何も言えなくなった冷夢に、少女は、もう一度大人びた微笑みを見せると言った。


「ただいま、冷夢」

 一体何が起こったというのだろう。槍下冷夢は困惑していた。これが人から伝え聞いた話だというなら、オカルトと笑い飛ばすことも可能だったろう。しかし、この事象は、冷夢の眼前に、しっかりと存在していた。
 結局、清洲川水穂の体を持ち、宇都宮瑞穂を名乗る身寄りのない少女は、冷夢が引き取って育てることになった。


「あ、冷夢、お帰り!」
 秘密の地下室に寄ることもなく、真っ直ぐ自宅に戻るようになった冷夢を、今日もミズホの声が出迎える。


「今御飯にするからね!」
 ミズホは、女房気取りでそんな台詞を吐くと、台所へと姿を消した。術後の経過は順調そのもので、今や、激しい運動は無理ながら、日常生活は普通に送ることが可能になっている。来年の4月から、女学校に通うことも決定していた。実際、ミズホの学力は非常に高く、まるで、既に大学に行った人間のそれであるかのようだった。


 今日、以前冷夢の元に遺産の話で訪れた向坂という弁護士が、再びやってきた。向坂は、元気になったミズホの姿を見て、溜息をつくと、
「素晴らしい腕です」
 そう感慨深げに言った。そして声を潜めて冷夢に囁く。
「しかし先生は、無欲な人だ。黙っていれば結局遺産は貴方のものになった筈なのに」


 冷夢は俯くと言った。
「そんなことは関係ないんです。私も清洲川氏も、水穂ちゃんを生かしていきたかったんですよ」
 向坂は微笑むと、
「なるほどね」
 と、だけ言って帰った。


 冷夢が感慨に浸っている間にも、ミズホはてきぱきと、料理をテーブルの上に並べていく。和欧折衷の美味しそうな料理が湯気を立てている。
「さ、冷めないうちに食べちゃおう」
 ミズホはそう言って、割烹着を脱ぐと、テーブルについた。冷夢も、その向かい側に腰掛ける。


『いただきまーす。』
 料理を食べながら、冷夢は、向かい側の少女に、既にお馴染みになっている質問をとばす。
「ねえ、水穂ちゃん、君は本当に、宇都宮瑞穂なのかい?」


「やだなあ、冷夢ったら、ホント疑り深いんだから、それとも慎重、って言ってあげた方がいいのかな?昔からそうだったもんね」
 笑いながらそう答える少女。茶色い髪、くりくりとした大きな目、透き通るような白い膚。


「私は、確かに宇都宮瑞穂だよ、でも、同時に清洲川水穂でもあるわけ。二人は一つの体と一つのハートを共有しているわけ」
「共有・・・」
 思わず箸を止めて呟いた冷夢に、ほら、冷めちゃうぞ、と言うミズホの声が飛ぶ。冷夢は料理を突っつきながら質問する。


「しかし・・・共有って言う割には、君は、宇都宮瑞穂の方により近い存在のような気がするんだけど・・・」
 ああ、それね、とミズホは頭を掻いた。
「清洲川、水穂ちゃんの方はね、両親が死んだショックがまだ尾を引いているみたいなのよ。でもだからと言って閉じこもっているわけじゃないのよ、確実に私の人格にも影響を与えている。冷夢、私こんなにきゃぴきゃぴした性格じゃなかったでしょう?」


 確かに、と冷夢は肉の塊を飲み込みながら頷いた。
「君は昔の僕と宇都宮瑞穂のつきあいの一部始終を記憶している、しかし外見は、僕の患者だった清洲川水穂だ。心臓を移植したことによって、宇都宮瑞穂の人格が、清洲川水穂の体の中に収まった、信じるよ、もう尋ねない」


 よろしい、と、ミズホは大人びた仕草で頷いた。
「二人の人格は、時間と共に混ざり合って行くはずだよ、でもね、私もこの子も同じく思っていることがあるんだ。何だと思う?」
 分からないよ、と言って冷夢は複雑な表情でサラダを突っつく。ミズホは席を立って、冷夢の横に歩いていくと言った。


「それはね、冷夢のことが大好きだって言うこと!」
 そして、冷夢の頬にキスをした。
 槍下冷夢は・・・困惑した。

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