大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

連載第十四回・鳥目男の犯罪(後編)

 食堂の高い天井では、欧州で作られたと思われる豪奢なシャンデリアが淡い光を放ち、濃い茶色で統一された室内を幻想的な雰囲気に染め上げている。長机を囲むようにして、ずらりと縁澤の一族が席につき、当の机の上では豪華な料理が暖かな湯気を立てている。
「うわーっ、すごいの事ね!」
 美鈴はそう言って顔の横で両手を合わせてはしゃいだ。
「ああら、こんなの大したことじゃございませんのよ。いつものことですわ。」
 派手な衣装に負けない位派手にに化粧をした女、鶉森隆文の姉にして、縁澤家の当主尚芳の長男である咲間の妻、縁澤乃舞華はそう言って、高らかに笑った。
「姉さん。」
 隆文は乃舞華の袖を引っ張ってそうたしなめたが、美鈴は何時もの事か、すごいの事ね!と言葉に込められた皮肉を意に介した様子もなく、素直にそう言った。乃舞華はその反応に肩すかしを喰らったらしく、一瞬だけアイシャドーの下の細い目を剥いた。
 それを見て、尚芳の隣に腰掛けた、和服を着込んだ妖艶な女性がくすり、と笑う。女は尚芳の後妻に当たり、名前を喜美子と言った。元々は尚芳の会社の部下だった女性だという。彼女の隣では、まだせいぜい四、五歳に見える小さな男の子が盛んに歓声を上げている。男の子は尚芳と喜美子の間の子供で、名前を尚樹と言う。従って咲耶や咲間とは、異母兄弟の関係になる。
 尚芳は、尚樹の一挙一動に目を細めている。それを見て、咲間はつまらなそうに鼻を鳴らし、咲耶は物憂げな表情で俯いた。
 迷流は家族の人々の様子を一通り眺めた後で、少しだけ憮然とした表情で頭を掻いた。その時に一瞬だけ隆文と目があって、目があったことに気づくと彼は、困ったように小さく肩をすくめて見せた。
 そうこうしているうちに、コック長が各々に料理を配り終えて、尚芳の音頭と共に夕食が始まった。
「ふむ、諸君、諸君らも知っての通り、今日咲耶が東都の学校から戻ってきた。更に、咲耶がこちらにおられる探偵の迷流藍花氏を、例の地蔵の事件を解決していただくために連れてきてくれた・・・迷流さん、何もない村だが、まあゆっくりとしていって下さい。」
 恐縮です、と迷流は頭を下げた。
「さあ、では夕食にするとしよう。」
 いただきますを皆で唱和して、夕食が開始された。
「迷流氏はいける口ですかな?」
 咲間は青白い顔に笑みを浮かべながらそう言って、手にしたワインを傾けて見せた。やせぎすのこの男と高価そうなワインは、何故か妙に不釣り合いに映る。
「まあ、少々なら。」
 迷流はそう答えて杯を受け取る。本当は、迷流はかなりの酒好きと言っても過言ではない。普段は美鈴の手前、痛飲することはないのだが、欧州産の麦酒には特に目がなく、たまに高校や大学時代の友人と飲みに出かけることがないわけではない。
「迷流さんの実家は、確かあの迷流財閥でしたな。」
 ゆっくりと杯を傾けている迷流に向かって尚芳がそう言って、いわくありげな微笑みを浮かべた。迷流は苦笑して、ま、半ば勘当されているような身ですがね、と言った。
「へえ、凄いですねえ。財閥の御曹子だなんて。」
 驚いたような声は、不意に迷流の後ろから聞こえてきた。振り返ると、白衣に着替えた還山霧華が、料理を乗せたトレイを持って立っていた。ショオトカットの似合う小振りな顔には、あでやかな微笑みが浮かんでいる。
「霧華、余計なお喋りをしている暇があったら、早いところ芳香の所に夕食を運んで行きなさい。」
 あくまでも厳格な口調を崩さぬまま、尚芳は霧華をたしなめる。
「あら、御免なさい、当主様。」
 霧華は妙にくすぐったい声でそう言うと、扉の方へと消えた。彼女と入れ替わるように、今度は唐花が食堂にトレイを持って現れると、
「ご隠居様に御食事を置いて参りますね。」
 そう言い置いて霧華の後を追うように扉を開けて去った。その背中を見送った後で、咲耶は言う。
「そう言えばお爺様の具合はどうなのですか?出来れば私も会ってお話したいのですが・・・」
「ならん。」
 尚芳は冷たく拒絶した。その後で幾分柔らかな口調になると、ばつが悪そうに続けた。
「父上は自分が誰なのかも認識していない、目を離すと暴れ出して困って居るんだ。・・・咲耶、お前は見ない方が良い。・・・かつての立派な父上を尊敬しているのならなおさらな。」
 でも、と言いかけた咲耶を無視して、尚芳は隆文に当たり障りのない話題を振った。隆文は慌てたように話に乗った。妙に気まずい空気が流れる。
 その様子を見ながら、喜美子が意味ありげにクスリ、と笑う。
 咲耶はまた俯く。
 迷流は、複雑な表情でワインを飲もうとした。
「ん・・・」
 中身は空だった。
「えへへへへー、迷流様ー♪」
 美鈴がニコニコしながら、突然肩を組んできた。迷流は驚いた後で、助手の頬がピンク色に染まっていることに気がつく。
「美鈴・・・飲んだね。」
「えへへへへー、迷流様、これ美味しいの事ね!」
 訝しげに目を細めながら言った迷流に、美鈴は楽しそうにそう言った。
「おやおや。お嬢ちゃんもいける口かい?」
 咲間は、その様子を見てニヤニヤと微笑むと、迷流の置いたグラスに調子に乗ってワインをついだ。慌てた迷流がグラスを掴もうとするよりも速く、美鈴がそれを奪い取り、一息に飲んだ。
「ああーっ!」
 迷流は思わず声をあげる。
「咲間さん、未成年にお酒飲ませてはいけませんわよ。」
 笑いながら乃舞華がやんわりと注意した。それどころじゃありません、と迷流は言った。
「この子は・・・美鈴は酒乱なんです。」
 迷流が言った先から、美鈴はニコニコと笑いながら、隣の席に座っている咲耶の頬に自分のそれを擦りつけている。咲耶は困ったように笑っていた。
 縁澤家の人々も、尚芳さえも失笑している。
「ああーっ、美鈴!ダメだってば!」
 迷流はそう言いながらも、美鈴のおかげでともすれば沈みがちだった晩餐の席が華やいだので、これはこれで良いか、とも思った。
 例えそれが仮初めの宴だとしても。
 結局美鈴は酔いつぶれて、迷流は彼女を抱えたまま、自分の部屋まで戻った。そして、ベッドに彼女を寝かしつけた後で、一旦遊具室に行って、隆文や咲間とビリヤードの勝負をしてから、再び部屋へと戻った。
 ドアの開いた音に気がついて、もぞもぞと美鈴が起き出す。
「あ、迷流様。」
 迷流は苦笑した。
「あ、じゃないよ、美鈴。あんな事しておいて・・・まだ酔ってる?」
 少しだけね、と美鈴は言った。
「でも、どうもあの雰囲気に飲まれちゃいそうになって、それで、ね。」
 そしてそう言いながら、上体を起こすと、毛布を持ち上げてそれを口元に当て、上目遣いで迷流を見た。
「分かってるよ。」
 迷流はそう言って笑いながら、美鈴の隣に腰を降ろして、美鈴の頭を撫でた。
「それに美鈴がああしてくれたおかげで、咲耶さんも少しは元気が出たようだったしね。」
 美鈴は、そうか、と言って少し満足そうに笑った。そしてその後で、急に真顔になると、自分の着ていたシャツの胸の辺りをぐっと引っ張った。
「あー、何かお酒飲んで寝てたら汗掻いちゃったね。」
「シャワーならこの部屋にもついているよ。」
 迷流がそう言うと、美鈴は小悪魔のような表情になって言った。
「えへへ、迷流様、一緒に入るか?」
「ん?別に構わないけど?」
 迷流は即答する。美鈴は目に見えて慌てた。漸く抜けかけていた頬の赤みが、ぶり返して顔中に広がる。
「じょ、じょじょじょ冗談ね!」
 そう言って美鈴は素早く立ち上がると、いそいそとシャワー室に消えた。迷流はその後ろ姿を見送って、微笑ましい気持ちになって頭を掻く。そのまま美鈴のベッドに寝っ転がる。頭上に逆さまになった窓が見えた。
 外は真っ暗闇だ。夜なお明るい東都の町とはまるで違って、夜の間この村は完全に暗闇に支配されている。こうして電灯の明かりがついているのも、せいぜいこの縁澤家だけだ。それは真っ暗な海の中の小さな光の孤島のようだ。
 外の世界は暗闇の、夜の理によって支配されている。其処に人間の入り込む余地はないのだ。そう考えて、迷流は少し怖くなった。その時、
 コンコン。
 突然ノックの音が響いて、迷流は文字通り跳び上がった。
「探偵さん・・・もう寝てしまいましたか?」
 しかし続けて聞こえた咲耶の声で、迷流は我に返る。
「起きてますよ、どうぞ。」
 迷流は起き上がると、そう言いながらドアを開けて、咲耶を招き入れた。
「失礼します・・・あら、美鈴ちゃんは?」
 部屋の中を見渡して、咲耶は不思議そうな顔をした。
「ああ、美鈴でしたら今、シャワーを浴びてます。」
 迷流がそう言うと、咲耶は何を勘違いしたのか真っ赤になって、え、シャワー、と言った。そして怖ず怖ずと迷流に向かって言う。
「あのう、私お邪魔でしたか?」
「いえ、どうして?」
「な、何でもありません!」
 迷流は首を傾げながら、で、一体何のご用なんですか、と尋ねた。
「あ・・・はい。出来れば明日、鳥巣さんの所に行ってみようと思うのですが、探偵さんのご都合はどうかと・・・」
「ああ、構いませんよ。どうせ私は暇ですし、依頼人の要望に応えるのは探偵として当然のつとめですしね。」
 咲耶は立ち上がると、良かった、と言って部屋を出ようとした。しかし、ドアを開けた所で立ち止まり、探偵さん、と振り向かないまま言った。
「どうしました?」
「あの・・・探偵さんは恋愛に年の差って関係有ると思いますか?」
 思ってもみなかった質問だったので、迷流は少し悩んだ。
「そうですね・・・結局の所本人達の気持ち次第。何事も妨げる要素は、実は自分で作り出してしまっている物です、自分の行動を信じることですね。」
「ありがとうございます!」
 咲耶は振り向いてぺこりとお辞儀をすると、足早にでていった。
 閉ざされたドアの方を見ながら、迷流は少し困ったような表情で頬を掻く。
「偉そうなこと言っちゃったかな・・・自分自身でそれが信じられないくせに・・・」
 呟いたその刹那、不意にシャワー室のドアが開いて、隙間から美鈴の顔が覗いた。
「誰か来てたか?」
「うん、一寸咲耶さんがね、明日の予定の確認に。それより美鈴・・・どうしたの?」
「・・・」
 美鈴は顔を真っ赤にしながら何事か言った。
「え?何?聞こえないよ。」
「・・・んつ。」
「え?」
「パンツ取って!」
 美鈴はやけになって声を張り上げた。どうやら、慌ててシャワー室に入った所為で、着替えを持っていくのを忘れたらしい。迷流は美鈴のバッグから下着を取り出すと、
「バスタオルはあるの?」
 その問いに首を横に振った美鈴に、クローゼットを開けてバスタオルを取り出して、それと一緒に渡してやった。
「ありがとう・・・」
 照れたように言う美鈴を見て、迷流は苦笑する。
「ふふ、美鈴もいっちょまえに恥ずかしがるようになったんだね。」
 言った迷流の目に、美鈴のつやつやした濡れ髪と、火照って少しだけ赤みを帯びた白い項が飛び込んできた。
 迷流は一瞬だけ・・・息を飲んだ。

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