大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
連載第十四回・鳥目男の犯罪(後編)
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翌日は朝から、雨がしとしと降っていた。小糠雨ではあるのだが、空は何処までも鬱陶しいくらいの灰色で、一向に降り止む気配を見せていなかった。
咲耶は朝食の後に、迷流の部屋を訪れて、今日は鳥巣の家の訪問を中止する旨を伝えた。山道は、雨が降っていると滑りやすく、土砂崩れの危険性もあるのだという。
かくして、探偵は暇になった。
「美鈴・・・」
迷流は、鏡台の前に座って髪の毛をセットしていた美鈴に向かって、ベッドの上から声を投げかけた。
「何か?」
美鈴はくるりと振り向く。外ハネの毛先が小さく揺れた。
「散歩に行かない?」
「散歩って・・・外は雨ね?どうして?」
迷流はうん、と頷きながらベッドの上に身を起こす。
「まあ、一寸散歩がてら事件の予備調査をしておきたくてね。村の人にいろいろ聞き込んでみたいと思うんだ。ここの屋敷の人よりかえってそっちの方が詳しい人がいそうだしね。」
成程ね、と美鈴は言った。
「だったら私も一緒に行くね!」
迷流と美鈴は連れだって玄関に向かった。傘を借りなければいけないな、と思っていたら、丁度玄関に唐花がいた。
「あ、唐花さん。」
唐花は驚いたように振り向くと、ああ、探偵さんに美鈴さん、と言った。今日もやはり目の上に黒い布を巻いている。
「どうしたんですか、こんな所で?」
「いやあ、一寸散歩してこようと思いまして。」
散歩?と唐花は上の方を見上げた。
「こんな雨降りの日にですか?」
そして、物好きですね、と言った。
「うん、まあ、一寸ね。それで出来るなら傘を貸して貰いたいと思ったんですが。」
ああ、と唐花は破顔した。そして傘立てを指さした。
「そこにある黒い蝙蝠傘を使って下さい・・・あ、美鈴さんの分は、そうですね・・・」
「いえ、良いですよ、一緒に入りますから。」
迷流はそう言って唐花の言葉を遮ると、傘を手に取って玄関を出た。
「じゃあ、行って来ます。」
行ってらっしゃい、と唐花の声が後ろから聞こえてくる。
外の空気は湿っぽい。しかし、心地の良い湿っぽさだ。何処からか蛙の鳴く声が聞こえ、それ以外の世界は、しんしんと降る雨の音に濡れて、優しい色合いに染まっていた。
「ほら、美鈴、もっと寄らないと濡れちゃうよ。」
美鈴は小さくうん、と頷いて迷流に体を寄せた。美鈴の髪からふんわりと柔らかい匂いが立ち上って、迷流の鼻腔を擽った。
美鈴は今日はボオダアの七分袖のTシャツの上に、短い黒のベストを羽織っている。同じように短く黒いスカアトをはいて、帽子も今日は黒で統一している。
大きくなったな。
迷流は不意にそんな感慨に襲われた。
美鈴の頭は、身長百七十センチ弱の迷流の肩口より少し上の辺りで揺れている。
・・・確か、初めて会ったときは迷流の胸の辺りだったか。
そう、季節外れの迷流のジャケットを羽織って、迷流に手を引かれて歩いていたのだ。
「迷流様。」
迷流の感慨を知ってか知らぬか、美鈴が上目遣いで迷流の顔を見上げた。ん、なんだい、と迷流が言うと、美鈴はえへへ、と笑った。
「相合い傘だね。」
迷流は一瞬驚いたような表情をした後で、笑って、
「そうだね。」
と、言った。
田んぼの間の畦道を暫く歩いていくと、小さな茶店らしい建物があった。
「美鈴、休んでいこう。」
「うん!」
迷流達は、茶店の店先に腰を降ろして、蕨餅と麦茶を注文した。
「お客さん、見かけない顔ですねェ。」
皺の一本一本まで真っ黒に日焼けした小さな老婆が、お盆に乗せたお茶を持ってきながらそう言った。迷流は小さくええ、と笑った。
「五つ地蔵の事件の解決を、縁澤家のお嬢さんに依頼されまして。」
咲耶様に・・・、と老婆は驚いたように目を見はった。そしてお盆を抱えたままで、迷流達の隣に腰掛けた。
「そうですかァ・・・やはりお嬢さんも鳥目男さんの疑いを晴らしてやりたいんでしょうなァ。」
老婆のその言葉に、迷流は小さく眉根に皺を寄せた。
「え?それはどう言うことです?・・・私は、村中が鳥巣さんを犯人にしたがっている、と聞いてきたんですけど。」
「ふん、村中というのは語弊があるぞい。」
あッ、と言って黙ってしまった老婆に変わって、迷流達の左隣の座席で大福餅を頬張っていた老人が、不意に迷流達に向き直ると言った。
「正しくは、縁澤に連なる者の間では、じゃ。」
どう言うことです?と身を乗り出した迷流に向かって白髪の老人は短く、
「最中。」
と言った。
「へっ?」
「儂は最中が食いたくなった、しかし少うしばかり持ち合わせが足りん。」
「あ、はいはい、小母ちゃん、こちらのお爺さんに最中を。あ、あと緑茶も。」
老婆はそそくさと店の中に消えた。老人はふん、と言いながら腕を組み、雨しと降る空を見上げた。
「全くどいつもこいつも、縁澤の名にビクビクし過ぎ何じゃあなァ。」
そして、迷流達の方に向き直った。
「あンたも、そう思わんか?」
「そうなんですか?」
迷流は逆に尋ね返した。老人は呵々と笑う。
「何じゃァ、あンたあ、何も知らんのだなァ、鳥目男を犯人にしたがっているのは、縁澤の一族と、その追随者共だけじゃぞ。」
「しかし・・・その、鳥目男、鳥巣さんはいわゆる・・・」
「与太者ね!」
「・・・ヨソモノだよ、美鈴。」
迷流と美鈴の掛け合いに、老人は再び笑った。そして被っていた帽子を脱いでそれを団扇代わりにして仰ぐ。運ばれてきた最中を、老婆の持つ皿の上から奪い取るようにして頬張ると、鋭い目つきになって言った。
「ふふ、良いか、儂に言わせてみればな、ヨソモノは縁澤尚芳の方じゃて。」
「なっ?」
迷流は驚いて身を乗り出した。
「ちょっと佐乃さん、そいつァ言い過ぎじゃないのかい?」
老婆はお盆を抱えたまま、再び迷流達の隣に腰掛けた。言い過ぎなもんか、と佐乃と呼ばれた老人は言い放った。
「どうやらあんたは知らんようだがな、あの縁澤尚芳というのは入り婿じゃよ。先代の蒼紫様の一人娘、美咲様の婿じゃ。咲耶様と咲間様は一応美咲様の血を継いでいらっしゃるから良いが、あの尚芳、美咲様が死んでまだ幾ばくもしないうちに、会社の部下だった女と再婚しよった。そればかりか、その女との間に産まれた子供を自分の跡取りに据えようとしているらしい、ご隠居様も最近姿を見ないがもしかすると、病気とは名ばかりで、あの男に幽閉されているのかもしれんな。」
「おいおい、佐乃さん、ますます言いすぎだよう。」
老婆は眉根に皺を寄せた。ただでさえ皺だらけの顔がますます皺だらけになる。何が言い過ぎなもんか、と老人は言いながら最中を頬張った。
「余所から来たもの・・・ヨソモノ・・・」
迷流は呟きながら、顎の辺りに手を当てる。おおその通りじゃ、と老人は言った。
「しかし・・・、では鳥巣さんのことはどうなるんですか?」
老人はふん、と鼻をならした。
「おおかた、鳥目男は村八分にあっているとでも吹き込まれたのじゃろう?確かに縁澤家、それも尚芳に関係している連中や、若い者達の中には、そう言う扱いをする風潮が無いもんでは無い。だがな、鳥目男とは本来・・・五つ地蔵と同じ様な存在なんじゃ。」
五つ地蔵と?と、迷流は首を傾げる。老人は満足そうに、おおそうじゃ、と目を細めた。
「鳥目男とはな、儂らの代わりに厄を引き受けてくれる存在なんじゃ・・・そうじゃな、婆さん。」
佐乃に話を振られた老婆は、躊躇いがちにええ、と言って頷いた。
「確かに私らの間では、鳥目男さんを一種の生き神さんとして祀る風潮がありますなァ。誰かに不幸が起きたとき、その不幸を鳥目男さんに天高く運んで貰うために、お供えをするんですよう。」
「お供えを?何処にですか?」
山の奥宮ですよう、と老婆は言った。迷流は腕を組んで唸った。そして老人に尋ねる。
「では、佐乃さん。」
「おう、なんじゃい。」
「佐乃さんは誰が五つ地蔵の首をもぎ取ったとお考えですか?」
「さあ、知らん。」
老人は即答した。そして戸惑う迷流に向かって笑ってみせる。
「どうせ罰当たりな若い衆の仕業じゃろうよ。・・・ただ、山狩りを行っても首が一つも見つからなかったのは奇妙な話じゃがな。」
「では、どうやってもぎ取ったのでしょうね。」
それは簡単じゃよ、と老人は言った。そして、婆さん、一寸来い、と茶店の老婆を自分の前に立たせた。
「良いか、見ておれよ。」
老人は言って、どっこらしょうと立ち上がった。そして、後ろから老婆の首に手を回す。
「ひゃあ、何するよ、佐乃さん。」
「良いから黙っとれい。良いか、こうして地蔵さんの首に手を回してな、」
佐乃は言いながら片方の腕で、もう片方の腕を手前に押しつけた。ぱっと見、老婆の頭を胸の中に掻き抱いているように見える。
「苦しいよォ、佐乃さん。」
「良いから一寸我慢せい。な、こうすると梃子の原理で簡単に首は取れるんじゃよ。ま、何故持ち去ったかまでは儂には解らんがな。」
漸く解放された老婆は、大袈裟に荒い息をついた。迷流はその姿に苦笑しながら考え込む。確かに、悪戯であればわざわざ大変な思いをしてまで首を持ち去る必要はない。
何故持ち去ったか。
それがこの事件の最大の謎であることは間違いがないようだった。