大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
連載第十三回・鳥目男の犯罪(前編)
朝は日の出と共に起きだして、猫の額ほどの畑を耕します。
そしてあの恐ろしい夜が来るまで、額に汗して働くのです。
物心ついたときからそうでした。両親もその様にして生活していた筈です。筈です、と言うのは、どうもその辺りの記憶が俺は曖昧だからです。
村の人々は、俺のことを鳥目男と呼んで恐れているようでした。
いや、それとも忌み嫌っているのでしょうか。
しかし時々俺への物だと思われる供え物があることも事実です。
少し寂しいような気もしますが、それで村の秩序が守られているというなら、それで良いのでしょう。俺が関わらない事で、村が平穏であるならば。
もし俺が村に無断で侵入することで、村人に石で打たれるようなことが有れば、それは全て俺が悪いのです。
ああ、それよりも。
今日も夜が来ます。恐ろしい暗闇が来ます。俺は夜が恐ろしい、何もかも全てを包み込んでしまう暗闇が怖いのです。俺の意識も記憶も全てを飲み込んでしまう暗闇。
ああ、鳥が来る。
・
ガタン、ガタタン、と列車は心地よいリズムに乗せて走っていく。
「危ないよ、美鈴。」
窓から体を半分乗り出すようにしてはしゃいでいる、助手の美鈴に向かって、迷流はそう言って少し微笑んだ。そして視線を、先程から愁いを帯びた表情で窓越しの風景を眺めている、依頼人の方に向ける。
依頼人は少女である。黒く艶やかなストレートヘアーを腰の辺りまで伸ばしており、前髪を一直線に切り揃えていた。黒く濡れたような瞳、そして生まれが高貴な者のみが持つ、独特の近寄り難さを生み出す凛とした厳しさが、まだ幼さを残した顔の中に見出される。
迷流藍花の職業は探偵である。従って、依頼人である少女は、事件の調査を迷流に依頼してきた事になる。
少女は、名前を縁澤咲耶と名乗った。実家は北陸のとある村の氏子筋だという。
咲耶は一人、東都の緑果にあるお嬢様学校に通うために、家を出て、寮での寄宿生活を送っているのだそうだ。
そんな彼女が迷流の事務所を訪れたのは、今月の初め。依頼の内容は、命の恩人に掛かった嫌疑を晴らして欲しい、と言う物だった。
詳しい説明はまだ出来ないと言う彼女に、一抹の不安を覚えないでもなかったが、少女の口振りが非常に深刻そうな物だったので、迷流は結局引き受けてやることにした。
かくして、迷流達は普通の学校より少しばかり早めの、少女の夏休みが始まるとともに、少女の帰郷に付き従う形で、事件の舞台である影葵と言う村を目指すことになった。
七月上旬は、一年の内でも最も季候の良い時期だと迷流は思う。今日も天気は晴れ渡り、萌え盛る緑に降り注ぐ太陽の光を受けて、車内は薄青い夏の光に満たされている。思わず鼻歌の一つも歌ってしまいそうだ。現に美鈴などはすっかり旅行気分でずっとはしゃぎっぱなしだ。
「縁澤さん。」
迷流は回想を中止して、少女の横顔に向けて声をかけた。一瞬だけ驚いたように身を震わせて、少女は迷流に向き直る。
「そろそろ、事件の依頼内容についてお話ししてくれてもよろしいのではないですか?」
そうですわね、と言いながら咲耶は目を伏せた。
「今まで、お話しせずにいて、どうもすみませんでした。・・・もしお話ししたら引き受けて下さらないのではないかと思ってしまったのです。」
「ほう・・・」
迷流は顎に手を当てて目を細めた。
「それはどうして?」
咲耶は窓の外の風景に目を向けた。
「これから向かう私の故郷、影葵は因習根深い地です。私が助けて欲しいと言った、その人は、彼の地では所謂村八分にされている人なのです。」
「・・・成程、そう言うことですか。問題ありません、私が扱うのはあくまでも事件であって村の因習ではないのですから。それに・・・もし本当にその人が犯人だとしても、私はその事を暴き立てなければいけない。探偵はそう言う物です。」
そうですか、と言いながら咲耶は目を伏せた。迷流は小さく、でも、と続けた。
「貴方がそこまでして守りたいと思う人です、その人がやっていないと言う何か根拠がお有りなのでしょう?」
そして微笑んでみせる。少女は、ハッとしたように迷流の顔を見つめた。
「取り敢えず事件のあらましから語ってみて下さい。」
迷流は微笑んだままそう言った。
少女はぽつりぽつりと話し始める。
少女の出身地である村、影葵に起こっている事件。それを咲耶は従兄の手紙を読んで初めて知ったのだそうだ。そして彼女の恩人にその容疑がかかっていることも。
その『事件』と言う物は大変奇妙な物だった。
影葵と隣の村を結ぶ街道の、五つ地蔵の首が全てもぎ取られていたというのだ。
「ジゾーって何ね?」
窓から顔を出して歓声を上げていた美鈴が、ふいに二人の方に向き直ると尋ねた。
「道祖神のことだよ。」
迷流は言った。
「あるいは塞の神なんて言う名前でも呼ばれている。村境や辻道なんかにあって、村に悪霊や疫病がやってくるのを防いだり、旅人の安全を守ったりする石で出来た菩薩様のことだよ。」
迷流はそうですよね、と咲耶に向かって尋ねた。少女は小さくええ、と言った後で少しだけ笑った。
「お詳しいんですね。」
「ええ、大学時代に一寸だけ民俗学をかじったもんで。」
迷流はそう言って頭を掻いた。
「初耳ね。迷流様欧州かぶれなのに。」
美鈴はそう言って目を丸くする。迷流は苦笑した。
「しかし、妙な事件ですねえ、何だってまた地蔵の首なんかをもぎ取る必要があったんでしょう。」
「ええ、しかも手紙によると、地蔵の首はただもぎ取られたわけではなく、そのまま何処かへと持ち去られてしまったようなんです。」
ふうむ、と迷流は考え込んだ。そして何かに気がついたような表情になると、人差し指を顔の前で立てた。
「・・・ところで、どうしてその人が疑われるような状況になったんですか。」
咲耶は、そっと目を伏せた。
「大して・・・理由なんて無いんだと思います。偶々彼の家と、五つ地蔵が近かっただけ。村人達は、ただ、罪を押しつける犯人が欲しかっただけなんです。」
ふうん、と迷流は呟いた後で押し黙った。代わりに列車の汽笛の音が音高く響く。迷流はハッとして慌てて叫んだ。
「美鈴!急いで窓閉めて!」
美鈴がほえ?と言って一瞬躊躇している間にも、列車はトンネルに突入し、窓からもうもうと真っ黒な煙が侵入してきた。