大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第二回・追跡者

 次の日の朝、迷流藍花の眠りを打ち破ったのは、美鈴の朝御飯の知らせではなかった。ドンドンと激しく叩かれるドアーの音に、迷流は夢の世界から連れ戻されて、う゛ーっ、と不機嫌な唸り声をあげた。


 その音によって眠りを妨げられたのは、迷流だけではなかったようで、
「はーい、朝っぱらから誰ね!」
 不機嫌そうな美鈴の声が階下から響いてきた。ガチャリ、とドアの開く音がして、それと同時に、素っ頓狂な美鈴の声がする。


「あいや、ヨッシー」
「やあ、美鈴ちゃん、寝間着姿も可愛いね。」
 中山警部の声がした、


「探偵君は上だね?失礼するよ。」
 続いて階段を登る音が聞こえてくる。迷流は慌てて、取り敢えず、枕元に置いてあったサングラスだけはかけておくことにした。どうにかベットに半身を起こしたところで、ノックと同時に扉が開かれた。迷流は、なるべく不機嫌そうな声を作って言った。


「何ですか、中山警部、こんな朝っぱらから。署に行くのは確か午後の予定だったでしょう。」
 中山警部は、目を丸く見開いた。
「迷流君、君は帽子を被ったまま寝ているのかね?しかもサングラスまでかけて。」
「これはナイトキャップという欧州の寝間着にセットになっている帽子ですよ。それに、サングラスは今かけたんです。・・・それより、僕の質問への答えはないんですか?」


 今度は、本当に不機嫌になって、迷流は言う。中山警部は、ああ、うっかりしていた、と言ってわざとらしく拳を打ち合わせた。
「そうそう、大変なんだよ。取り敢えずこれを見てくれたまえ。」
 警部は懐から、折り畳まれた新聞を取りだした。
「今日の一番刷りだよ。」
 迷流は、それを見て、思わず目を見張る。そこには、

東都震撼!連続通り魔の大胆不敵なる犯行

−警察官刺され意識不明−

 と言う大見出しが踊っていた。

「先月より連綿と続きしこの通り魔事件は、昨日十三日、つひに官憲に其の被害者を求むる事となつた。
 事件が発生したのは、午後八時を回つたあたりと推測される。被害にあつたのは、東都大警察の巡査、佐藤剛尚(さとうたけひさ)氏(二十三)。


 佐藤巡査は、警邏中に通り魔と接触し、下腹部を刺されたと思はれる。事件の現場は、先日より通り魔が多発している松尾町の三丁目。事件の余波もあつてか人通りは殆どなく、巡査が発見さるるのが遅れた模様である。


 が、幸ひにも巡査は意識不明ながらも、一命は取り留めたやうである。なほ、佐藤巡査の腹部に穿たれた傷跡と、これまでの事件の傷跡とが、ほぼ一致したため、東都大警察では、この事件も一連の事件と同一犯の犯行であると結論付け、佐藤巡査の犠牲を無駄にするなつ、と犯人逮捕へ向けて全力で邁進する心積もりである。


 ・・・ふうん、警察官を殺ろうとするとは、たまげた通り魔ですね。」


 佐藤巡査の入院している東都病院へと向かう道すがら、揺れるジープの上で迷流は新聞を読むと、そう感想を述べた。


「ああ、全く不埒な奴だよ、この通り魔は。」
 紙巻き煙草をくわえながら、ジープのハンドルを握っていた中山警部が苦々しげにそう呟いた。大根極まりないね!と、美鈴が言う。


「大胆だよ、美鈴。・・・ところで警部、何で私たちを呼びつけたんです?こういった普通の事件には、僕らの出る幕は無いんじゃなかったんですか?」
 迷流の言葉に、中山警部は、ああ、それがなあ、と片手で頭を掻いた。


「関係無くはなくなってしまったんだよ。・・・刺された佐藤って言うのは、俺の部下なんだけどな。佐藤は、昨日言った尾けられて困っているという女を、尾けていたんだけどな、・・・どうもその最中に通り魔に刺されたらしいんだよ。」
「その最中に?」
 迷流の目が、すっと細められた。


「その女性は、松尾町の住人なんですか?」
「ああ、そうだ。そういや名前言い忘れていたな。薄野深舞香すすきのみぶか、松尾一丁目に住む職業婦人だ。・・・おっと、一寸花屋によっていくよ。」


佐藤巡査へのお見舞いの花を買うのだろう、中山警部は、ジープを花屋に着けた。
「美鈴ちゃん、俺はこういうのは苦手なんだ、かわりに選んでくれないかなあ。」
 中山警部がそう言うと、まかせるね!と言って、美鈴は車から飛び降りた。二人が花を選んでいる間、迷流は所在なげにジープの座席で事件について、思いを巡らせた。


 通り魔事件と、蘇る追跡者事件。すぐ近くで発生しているこの二つの事件は、果たして何か関わり合いがあるのだろうか?


 やがて戻ってきた二人を見て、迷流は呟いた。
「美鈴・・・、お見舞いに白百合は拙いよ。」

 東都病院に着いた三人は、外科病棟に案内された。そしてそこで、槍下やりもとと言う名前の、若い外科医に出迎えられた。


「先生、佐藤の具合はどんなもんでしょう。」
 中山警部の問いに、精悍な顔つきの若い外科医は、無精髭の生え始めた顎を掻いた。
「悪くはありません、ただ・・・、正直に言って良いとも言えません。」
「面会は出来そうにないんですか。」
 迷流が尋ねる。槍下医師は、首を横に振った。


「残念ながら。出血が酷かった所為で、まだ意識が戻ってないんです。会って話したりは出来ません、それに当分の間、絶対の安静が必要です。」
 そうですか、と迷流は頭を垂れる。槍下医師は、そこで少し明るい表情を作って言った。


「しかしそれにしても、随分体格のいい人ですね。一命を取り留めたのも、あの凄い腹筋のお陰ですよ。筋肉が、刃の進入を防いだので、思ったより、傷が浅かったんですね。」
 ああ、そりゃあそうだ、と、中山警部もやっと明るい表情を見せた。
「佐藤の奴は、警視庁で開かれる柔道大会の優勝者なんです。一寸やそっとの事ではやられませんよ。」


 その言葉を聞いて、はて、と槍下医師は首を傾げた。
「そんなに強い人に重傷を負わせたんだから、今回の通り魔は、よっぽど強い男なんでしょうかね。」
「あるいは、佐藤の不意を、相当うまくついた、かだな。」
 だから通り魔って言うね!と、美鈴が言った。そりゃあそうだ、と、警部と医師は笑った。


「不意を・・・つく、か。」
 そんな中、迷流は一人考え込む。
 やがて、槍下医師の、回診の時間が来た事が、看護婦によって告げられた。


「じゃあ、すいませんが槍下先生、この花束、佐藤の奴にやって置いて下さい。」
「ええ、分かりました。」
槍下医師は、三人を病棟の出口まで見送ってくれた。


「意識が戻ったら連絡します。そうしたら、今度はちゃんと面会してあげて下さい。」
 三人は、槍下医師に手を振って別れた。病院の外にでると、中山警部は、大きく伸びをする。


「ああ、どうも俺は病院って奴の空気はダメだな。肩が凝ってしまうよ。」
「佐藤さんに会えなかったのは残念でした。”ノベリング”に必要な情報が得られると思ったんですけどね。」
 仕方ないさ、と中山警部は言った。
「それに迷流君に探してもらうのは、通り魔じゃなくて、蘇る追跡者だからな。」
 そう言って紙巻きに火をつける。


「そうですね・・・」
 そう言いながらも、迷流は釈然としない表情だった。

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