大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第二回・追跡者

 子供の頃から、目立たないことで有名な女でした。ですから、その日に、欧州風の、立食パーティーなどと言う物に行ったのも、決して自分の意志などではありませんでした。
 どうしてみんな、あの様にはしゃげるのでしょう。私は、隅の方で、所在なげに料理を突っつきながら、ぼうっと立ちつくしておりました。


「薄野さん、何しているの?」
 そんな私の様子を見かねたのでしょうか、私をこのパーティーに誘った、職場の同僚が話しかけてきました。


「またこんな所でボーっとして、楽しんでいないでしょう?違う?」
「そんなこと・・・楽しいですよ」
「嘘!そう言う風に大人しくしているからダメなの、せっかくこういったパーティーに誘ってあげたんだから、素敵な殿方でも見つけないとダメよ!」


 ・・・どうしたらこのように、傍若無人と言って良いほどに快活でいられるんでしょう。
「さあ、貴方好みの殿方は誰なの?教えてよ」
 彼女は肩を組んできて、私の耳元で囁きました。


「えっ・・・」
 真っ赤になった私の視界に、一人の男性が飛び込んできました。
「あっ・・・」
「おやあ?ふうーん、ああいう人が好きなんだ・・・ちょっと意外かも。ま、頑張って、貴方みたい人は、自分から行かないと何も始まらないよ。ねっ」


 その言葉は魔法でした、私は自分でも分からないうちに、その人の下へと歩み寄っていました。
「あの・・・・」
 視界の隅の方で、同僚が男の人と腕を組みながらやったね、といった合図をしているのが見えました。

 彼と過ごす刻はまるで魔法でした。それは、夕方から夜の早いうちと言う、短い時間だけだから、と言うことの所為だけだとは思えませんでした。時間が来る度に彼は、
「宮仕えだって言うのに、夜の勤務は堪えるなあ、お陰で君と会える時間も限られるしね」
 そんな風に言って、すまなそうに頭を掻くのでした。


 彼と一緒にいるときは、私も何故か饒舌でした。でも、本当に幸せなのは、場末のバーの薄暗い照明に照らされた、印象的な太い眉の下にある、分厚いレンズの下に隠された、彼の細く優しい目を見ている時でした。


 少しずんぐりとしたお腹だけど、基本的に筋肉質な、優しい彼の体、人に抱かれながら幸せを感じるなんて、ちょっと前までは、考えられない事でした。


 少し足を引きずった、独特の歩き方。後ろからそっと近づいてきて、私をそっと抱きしめてくれる。私は、気づかない振りをして、彼が近づいてくるのを待つんです。


 でも、魔法はやがて解けてしまうと言うことを私は思い知らされることになったのです。

(中略)

 私が何をしたというのでしょう?家路を急ぎながら、私は只、ずっとその事ばかりを考えていました。足音は、私の後ろを、巧妙に距離を変えることなく、尾いてきています。


 私は、平凡な、職業婦人です。ごく普通の生活、いいえ、むしろ他の方々よりも、ずっと地味な人生を歩んできたと、自分では思っております。


 愛する人、ですか?それでしたらいます・・・いえ、いました。三ヶ月ほど前に別れてしまいました。どうして、かって?・・・さあ、私の存在が、あまりにも地味だったせいでしょうか。もう・・・忘れてしまいましたね、理由なんか。


 え?何時から尾けられるようになったかって?さあ・・・詳しくは・・・ああ、でもあの人と別れた頃からだったような気がします。


 まあ、とにかく、何時もそんな風にして、尾けてくる足音に怯えて暮らしていたんです。
 毎日でした、雨の日も、風の日も、あのずんぐりした腹、度の強い眼鏡。会社からうちに帰る道は、まるで拷問のようでした。


 でもね、その日は違ったんです。何時までも、私だってやられっぱなしは厭ですから。出刃をね、持ってたんです。それも、家庭に置いてあるようなのじゃなくって、料理人の友達からもらった奴です。


 人気のない裏道にさしかかったところで、私はいきなり走り出しました。急いで角を曲がって、そこで身をかがめてあいつの来るのを待ちます。すごい緊張感でした。心臓の音が、自分の頭で聞こえるぐらいの。


 あいつの姿が、角を曲がるのを確認すると同時に、私は、出刃を持って飛びかかりました。ずしりとした手応えが私の手に伝わって、溢れてきた血が、私の手にかかりました。あいつは何か口走ったようでしたが、私には良く聞き取れませんでした。


 罪悪感?無かったですよ、そんな物は。第一、被害者は、私なんですから。それに、これでもう、後を尾けられることがないんだと思うと、嬉しくてしょうがなかったんです。
 その時は。

 それから一週間程した時です。残業で遅くなった私は、急ぎ足で、うちへの道を歩いていました。


 その日は、満月でした。あまりにも月がきれいだったので、私はふと、足を止めて、夜空を見上げました。考えてみたら、もうあいつは私のことを尾けてこないんですから、ゆっくりと歩いていたって良いんです。私は、伸びをして、何とはなしに後ろを振り向きました。


 背中に氷を直接押し当てられたような気がしました。木陰に、あいつが潜んでいたのです。あいつは、ゆっくりと姿を現しました。足を引きずりながらの、ゆっくりとした歩きです。


 私は、悲鳴を上げることも出来ずに駆け出しました。横に、松尾神宮が見えます。
 私は路地裏に駆け込むと、無我夢中で鞄の中をまさぐりました。手に堅い感触がして、鞄のそこにあった出刃が私の手の中に収まります。急いで刀身に巻き付けて置いた、さらしを解きます。あいつの血が乾いて固まったままになっている刃が姿を現します。


 ああ、どうして、どうしてでしょう?あいつを殺した証として、お守りとして持ち歩いていた、この出刃を、また使う羽目になるなんて。
 私はまた、息を潜めて、あいつがやってくるのを待ちました。心臓の音がはっきりと自分でも分かるくらいに高鳴っています。あいつの姿が見えました。私は、すかさず飛びかかります。血でべったりとしていた包丁は、切れ味が鈍っていて、私は、相手が動かなくなるまで、何回も何回も刺す必要がありました。


 ぐったりとした相手を見つめながら、私は意外と冷静に、出刃はきちんと手入れしておかなければいけないな、などと言うことを考えていました。

(中略)

 昨日もあんなに怖い思いをして、ついに決心して、警察に行ったというのに、応対した警部さんは、どうやら、すべて私の妄想だと思っている様子でした。


 あいつは殺しても殺しても私の前に現れて、私はいい加減嫌気がさしていました。もう五回も殺しているのに、これでは堂々巡りです。
 私が涙ながらにそう訴えたからでしょうか?警部さんは知り合いの探偵さんに調査をお願いしてみる、と約束してくれました。


 複雑な気持ちで、私は家路につきました。これで安心して良いのか悪いのか、結局考えてみても答えはでませんでした。


 松尾町の三丁目まで来た頃だったでしょうか。私は、後をつけてくる足音に気づいて、思わず振り返りました。そして、ああ、見なければ良かったと後悔の念にとらわれました。


 あいつです。太い眉に筋肉質の体。私は、小さく悲鳴を上げて走り出しました。するとどうでしょう、恐ろしいことに後ろのあいつもスピードを上げたのです。それどころか、私の名前を呼んでいるようです。


 あいつも本気になったんだ、と私は思いました。ただ後を尾けるだけではなく、これ以上私に何をするつもりなのでしょうか?私は無我夢中で走りながら、鞄をまさぐって出刃を取り出します。そうこうしているうちにも、後ろの足音はどんどん近づいてきます。追いつかれる!と思った瞬間、私は、振り向きざまに出刃を突き出しました。


 手にもう慣れっこになった、重く、鈍い感触が伝わってきます。今日のは何時にも増して重い感触でした。


 刺されてもなお、私に手を伸ばしたあいつを見て、私は、後ろも見ずに家への道をひた走りました。

「結局蘇る追跡者は存在していた、と、言うことなのかい?」
 中山警部は、”ノベリング”を終えて、ぐったりとした様子で顔を起こした迷流に向かって、そう尋ねた。


「そうとも言い切れません」
 迷流は小さく首を振った。
「私がお話を作ったのは、薄野さんの記憶を元にして、です。だから彼女が実際に体験したことだろうと無かろうと、彼女がそれを覚えてさえいれば、”ノベリング”によって作られた物語の中に、それは現れてきます」


「と・・・いうことは・・・」
 中山警部は、顎を撫でながら宙を見据えた。
「何も進展がなかったってえ事かい?」
 迷流は苦笑した。
「そんなことはないですよ、蘇る追跡者の正体らしき物は、おぼろげながら見えてきましたよ」
「な、なななっ、本当かね?」
 中山警部は思わず席から立ち上がった。


「ええ、最初に挿入された、彼との思い出。あれは、ノベリングによって抽出された以上、この、”蘇る追跡者事件”と何らかの関わり合いがあると言えます。・・・良いですか、彼女を追いかけている人物の特徴、これは、前の彼の特徴と同じじゃないですか?」
「ああそういえば・・・”ずんぐりした腹、度の強い眼鏡”、”足を引きずった独特の歩き方”、”太い眉に筋肉質の体”・・・確かに、つきあっていたという彼の特徴とそれぞれ一緒だね」
 迷流は、ええ、と頷いた。


「ですから、もし、蘇る追跡者が彼女の妄想だとすると、そのプロトタイプは、その彼と言うことになります」
「成程、その彼との思い出が何らかの形で具現化した、と言うことか」
「よく分からない話ね」
 すっかり取り残されて、地図を弄って遊んでいた美鈴が、つまらなそうに呟いた。迷流は、それを見て、目を細くして笑った。


「ゴメンよ、美鈴。・・・あれ、ところでそれはなんの地図だい?」
「ああ、例の通り魔事件が発生したところの地図だよ」
 知らないね、と言った美鈴に代わって、中山警部がそう答えた。
「ああ・・・、このバッテン印が事件の起こった場所ですね。松尾一丁目に始まって、松尾神宮の側、へえ、この事件だけ、死体は滅多刺しだったんだ・・・、最後の佐藤巡査の刺された松尾三丁目の事件まで・・・」


 そこまで喋って、迷流の顔色が変わった。そんな、まさか・・・、と掠れた声で呟く。
「警部、薄野さんは?」
「あ、ああ。まだ所内にいるはずだが」
「私が帰ってくるまで、彼女を帰さないで下さい!」
 ポカンとした顔の二人を残して、迷流は部屋を飛び出す。


「迷流様!何処行くね!」
「東都病院だ!美鈴はここで警部と待っててくれ!すぐ戻る!」
 後を追って飛び出した美鈴にそう言い置いて、警察署のジープに無断で飛び乗ると、迷流は一路、東都病院へと急ぐ。


 外科病棟に駆け込むと、先程会った槍下医師に出会った。長身の医師は、迷流を見て、怪訝そうな顔をした。
「おや、迷流さん、今度はどうしたんですか」
「佐藤巡査に会わせて下さい!」
 息せき切って迷流は叫ぶ。医師は困った顔をした。
「しかし、佐藤巡査は、とても話せるような状態じゃ・・・」
「話せなくても良いんです!ただ一緒の部屋に入れてくれれば、私の能力が使えますから!」


「・・・・・・」
「槍下先生のように、医療に携わるような人には、信じられない話かもしれないですけど・・・」
「信じますよ」
 意外な言葉を聞いて迷流は、はっと顔を上げた。


「案内しますよ、ついてきて下さい」
 槍下医師はそう言って歩き出す。
「うわさには聞いていたんですけど、迷流さんの能力は、一種のサイコメトリングの様な物なんですね」
「槍下さん、貴方は・・・」
 医師は迷流の言葉を遮った。


「この世には、科学で解明できないような不思議なことが、たくさんあるんです。そう、私は信じています。・・・さあ、ここが佐藤さんの病室です、くれぐれも、お静かに」
「有り難うございます」
 礼を言って中に入ろうとした迷流を、槍下医師は、不意に呼び止めた。


「なんです?」
 医師は少し逡巡した後で尋ねた。
「迷流さんは、人の心は何処にあると思いますか?」
「えっ・・・?ここ・・・じゃないんですか?」
 頭を指さした迷流を見て、しかし医師は首を横に振った。そして自分の心臓のあたりを押さえると、
「心は・・・ここにあるんです」
と、言った。
 迷流は頷きだけを返して病室に入った。

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